文量:新書の約32ページ分(約16000字)
はじめに
「変化の時」や「過渡期」には、既存の慣習やシステムが崩れ実力者が躍動できる一方で、その力の拠り所は不安定でもあります。いかに実力があってもそれを定量的に測ることは難しく、また人は実力以外の面で人を判断し従うことも少なくありません。しかし、定まっていない中でも自立し物事を進めていかなければいけない時もあるはずです。
古墳時代(3世紀半ば〜6世紀末頃)の日本列島には、列島内諸国を加盟国とした政治的連合体が存在していました。奈良盆地や大阪平野を中心地としていたと考えられるその連合体は、中国の諸王朝からは「倭国」と呼ばれていました。倭国は国家と呼べるほどの支配力も支配システムもまだ有していませんでした。王位の継承もその都度実力本位で決められており、現代のような順位が定められた天皇継承システムに比べる不安定なものでした。また、国境も現代のように明確に定められていたわけではなく、倭国としての内と外の境界もあいまいでした。この時代を生きた倭国の王は自身の地位も国の境界も不安定な中で統治をしなければならなかったのです。
5世紀に入ると、邪馬台国による中国外交から150年の時を経て、時の倭国王が中国へ使節を派遣しました。中国との外交を再開したのです。そして、そこから約半世紀の間に5人の王が中国へ遣使を続けることになります。これら5人の王は、中国史書『宋書』倭国伝にそれぞれ記されており、「倭の五王」として知られています。
しかし、列島社会の発展に必要な鉄資源や稲作などの大陸に由来する知識や技術は朝鮮半島を経由して得ることができていました。中国由来の知識や技術、文物を得る手段は中国外交を再開せずとも既にあったのです。
では、倭の五王は何を求めて中国との直接外交を始めたのでしょうか。
今回は関東学院大学・経済学部准教授の河内春人先生にお話を伺いながらこのようなテーマについて考えてみました。
河内春人先生
1970(昭和45)年東京都生れ。93年明治大学文学部卒業、2000年明治大学大学院中退。日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、18年4月より関東学院大学経済学部准教授。専攻・日本古代史、東アジア国際交流史。
〈著書〉
- 『倭の五王――王位継承と五世紀の東アジア』(中公新書)
- 『日本古代君主号の研究――倭国王・天子・天皇』(八木書店)
- 『東アジア交流史のなかの遣唐使』(汲古書院) など
目次
目次
第一章 5世紀の日本列島の様相
国家 -連合体が列島を縦断-
古墳時代の日本列島には、現代のように統一された国家と呼べるものはまだ成立していませんでした。
力をもった豪族が列島内各地を半独立的に治めていました。その範囲は、現代でいう市区町村や都府県のような単位をイメージしてもらえればいいと思います。それら地方諸国が加盟するかたちで、倭国と呼ばれる政治的連合体が形成されていました。倭国の中心地は奈良盆地や大阪平野などの近畿地方中央部(以下、ヤマト地域)に存在していたと考えられ、この時代の列島の中心もここにあったと考えられています。
地方豪族が倭国の連合体に加盟するメリットは、朝鮮半島を経由して大陸から伝来するヒト・モノ・情報についての、ヤマト地域を中心としたネットワークに参加できることでした。鉄資源、稲作や治水の知識・技術などを地域社会の発展につなげることができたのです。つまり倭国は、地方豪族へその参加メリットを提供することで政治的連合体を維持・形成していた側面があると考えられます。中央集権的な強い支配力はまだ有してませんでしたが、連合への参加メリットの提供を一つの足がかりとして列島諸国に影響力を持ち始めていたのです。
したがって、倭の五王が中国と外交を再開した5世紀・古墳時代は、倭国が列島諸国を巻き込む形で、国家統一へ向けて動き出す直前の時代と言えると考えられます。
国境 -あいまいな内と外-
中央の支配力が地方豪族に強く及んでいなかったため、地方の豪族には、中央との関係にメリットを感じなければ関係を切るという選択肢もありました。弥生時代以降、朝鮮半島との人や物、情報の往来が活発に行われていたため、倭国とだけではなく朝鮮半島の諸国と関係を深めるという選択肢も可能性としてはあったのです。
実際に6世紀の出来事ですが、九州北部の豪族・筑紫君磐井が、朝鮮半島の新羅から賄賂を受け倭国の朝鮮進軍を阻む「磐井の反乱」(527年)を起こしました[2]。磐井が進軍を阻止したのは、倭国王の指示を受けた近江(現在の滋賀県あたり)毛野の6万の兵でした。朝鮮半島への進軍の際には九州北部を経由するため、現地の豪族にも何らかの協力が求められ、その負担は小さくなかったと考えられます。この反乱はその負担への不満でもあり、使者である毛野への対抗心でもあったと考えられています。中央に仕えていた磐井は、使者の毛野とは対等であるという意識が強く、その何らかの協力要請に従うことに抵抗を覚えたのです。しかし私情が介在していたと考えられるとはいえ、列島内の地方豪族が倭国王の政治的意思へ反したことには変わりありませんでした。倭国連合を裏切り、朝鮮半島・新羅の利益ある行為をとったのです。
このように、中央の支配が地方までそれほど強く及んでおらず、日本列島と大陸との間に明確な国境が引かれていなかったこの時代には、地方豪族の意思で倭国連合から外れ倭国の反対勢力となることもあり得ました。味方と敵、内と外という境界は非常にあいまいであったと考えられるのです。
それにしても、磐井の反乱は、磐井の毛野に対する対抗心によるところもありました。この反乱は一年以上にも及び、中央のヤマト政権が将軍を派遣し、交戦の末磐井を惨殺し鎮圧しましたが、ここに費やした時間と労力、代償は決して小さなものではありませんでした。対抗心は人を動かす原動力にもなりますが、注意深く配慮もしていかないと、大きな代償を払う結果にもなりえると言えそうです。ちなみに磐井は毛野に対して、以下のように発して戦いに入ったのだそうです[2]。
「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩擦り肘触りつつ、共器にして同食ひき。安ぞ率爾に使となりて、余をして儞が前に白状はしめむ」
なにか磐井の人間らしい寂しさのようなものを感じないでしょうか。
王位 -盤石ではない地盤-
王位の継承についても現代のように継承順位があらかじめ定まったような安定的なものではなかったと考えられています。
倭王権の墓と見られる巨大な前方後円墳群は、奈良盆地と大阪平野の5つの地域に分散していました。1つの地域に集中するのではなく墓域の変動が見られることから、権力を有していた王族や政策意図の変化が示唆されるのです。大まかには、内陸地域である奈良盆地から、4世紀末頃には沿岸に近い大阪平野の古市古墳群が台頭するようになってきました。そして5世紀半ばになるとさらに沿岸部に位置する百舌鳥古墳群も強大化していきました。5世紀にはこれら古市古墳群と百舌鳥古墳群が並行的に存在していたと考えられています。つまり、この時期には王墓級の古墳を造営できる勢力が二つ存在していたと考えられるのです。
中国と外交を行った「倭の五王」が生きた時代もこの二つの巨大古墳群が並存する時期に重なります。「倭の五王」とは中国史書『宋書』倭国伝に記された、「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」の5人の王を指します。尚、これら5人が当時のどの天皇に該当するかは諸説あるため、本書ではその言及は控えることとします。讃と珍は、宋書内の記述より、兄弟であったと考えられています。二つのうち一つの巨大古墳群を築造した勢力は、この讃系の王族集団であると考えられています。もう一つの勢力は、珍のもとで高い地位を与えられていた倭隋系の王族集団であったのではないかと考えられています。隋は、珍の家臣にあたるような身分でありながら、讃・珍に匹敵するほどの巨大古墳群を築造できるだけの王族集団に属していたのです。
倭の五王が生きた古墳時代中期では、王位の継承は周辺豪族の承認をもって成されていたと考えられています。その人物が倭国連合をまとめる存在としてふさわしいのか、自分たちに利益をもたらす存在であるのかを、シビアに見定められていたはずです。まとめる力が弱ければ磐井の反乱のように列島内に反対勢力が発現し、利益をもたらすことが出来なければ豪族に連合を離脱されることも十分にあり得ました。倭の五王はそのような緊迫感のある情況の中で王位を継承したのだと考えられます。その権力の地盤は決して盤石ではなかったのです。
このような実力本位の継承は世襲などに比べて合理的なシステムであると考えられることがあります。しかし、その後古墳時代後半には世襲化し、現代の日本でも政治的権限は大幅に縮小されましたが天皇制が残存します。本書のテーマからは逸れますが、緊迫感のある実力本位での地位継承が本当に良いシステムなのかどうかは興味深いテーマです。
このように、倭の五王が生きた時代は国家や国境が定まっておらず王位の継承も血筋等で約束されたものではありませんでした。現代の日本のように統一的な法律やシステムが定められた一つの国家として運営されていたわけではなかったのです。国家統一に向かう過渡期や未成熟期と見ることもできますし、現代のEUや、または州ごとの独立性が高いアメリカ合衆国などのような、一つの共同体や国家のかたちであると見ることもできます。
このような時代背景の中、邪馬台国の中国との外交から150年の時を経て、倭の五王は中国との外交を再開しました。それは何をきっかけとして再開されたものだったのでしょうか。
第二章 中国外交再開のきっかけ
国家体制が十分に整っておらず国境も不明瞭で王位も絶対的なものではなかった倭国でしたが、目を向けるべきは国内情勢だけではなく、国外情勢も注視すべき対象でした。
朝鮮半島諸国との関係
5世紀頃日本列島内ではまだ鉄資源が発見されていなかったため、朝鮮半島南端の伽耶から鉄資源を調達していました。また中国などの大陸の技術や文物も朝鮮半島を経由して得ていたため、倭国及び列島内諸国にとって、朝鮮半島の情勢は注視すべき対象だったのです。
4世紀末頃、朝鮮半島北部に位置する高句麗が、南下政策をとり百済をおびやかしていました。百済は高句麗と伽耶の間に位置しており、高句麗の進軍が伽耶に直接的な脅威を及ぼすこともあり、百済が敗れれば伽耶への脅威がさらに増します。つまり、高句麗の南下は鉄資源の安定的確保という面において倭国にとっても間接的な脅威であったのです。
そのような情況下で、百済は倭国へ同盟を持ちかけ、高句麗の脅威が強まるに連れその同盟関係は強化されました。倭国は百済からの同盟強化の働きかけに応え、軍事的支援を行いました。高句麗という共通敵に対抗するという点で、倭国と百済は良好な関係を築いていたのです。
しかしながら、倭国にとって、同盟を結んでいる百済は対等な関係であるという意識が強かったと考えられます。対等であるがゆえに同盟と言えるのであって、百済の力が強まれば同盟関係が崩れてしまう可能性がありました。また、倭国は伽耶を通じて朝鮮半島に一定の影響力を有しており、その影響力を強めたいと考えていました。したがって、百済はライバルと言える存在でもあったのです。
宋の建国 -動き出す国際情勢-
5世紀になると、中国南部を治めていた東晋はクーデターなどにより内政が不安定になっていました。将軍・劉裕はそのクーデターの首謀者から東晋を奪い返し、軍事的才覚を認められ東晋の実権を握っていました。その劉裕が周囲からの後押しもあって帝位への野望を明らかにし、自ら即位させた東晋最後の皇帝から禅譲を受け、420年宋が建国されました。皇帝を劉裕として、中国南部に宋という新たな国が誕生したのです。
劉裕には向き合わなければいけない二つの問題がありました。一つ目は中国北部の王朝との対峙です。そして二つ目は自国の貴族との対峙です。宋は貴族制社会であり、彼らが強い政治力を持っていました。その中にあって劉裕は貴族の出自ではなく、軍事的才能は認められながらも軍人上がりとして侮られることもあったのです。劉裕はその国の皇帝でありながら貴族たちの特権意識と向き合わなければならなかったのです。
そのような情況下で劉裕は即位翌月に人事を行いました。その中には朝鮮半島に関わるものもあり、高句麗王を征東“将軍”から征東“大将軍”へ、百済王を鎮東“将軍”から鎮東“大将軍”へ昇格させたのです。この時代の中国の王朝では周辺諸国と名目的な君臣関係を結ぶ「冊封」と呼ばれる外交の慣習がありました。「君(主)」は中国王朝で、「臣(従)」は朝鮮半島などの周辺諸国になりますが、冊封関係を結んだからといって中国の支配下に入るわけではありません。君臣関係は形式的な意味合いが強く、冊封関係になることで軍事的に双方の不可侵に配慮がなされることや貿易ルートが開けることなどを意味し、双方にメリットがあるものでした。つまり、現代の軍事や貿易に関する条約に近いものであったと言えます。
他方で、冊封には「君」の立場をとる中国側の思想も込められていました。それは「中華思想」と呼ばれるもので、中国の天子が世界の中心とする考え方であり、中国中心主義とも呼ばれる考え方です。そのような思想を持つ王朝にとって、冊封国の多さは、皇帝の徳が高いことを示す一つの指標でした。
宋の劉裕が高句麗と百済の王に人事権を有していたのはこの冊封関係を結んでいたからでした。そして、皇帝に即位して抱えていた二つの課題もこの冊封関係を利用して解決しようとしていたのです。すなわち、対峙している中国北部の王朝の周辺に位置する高句麗と百済に軍事的な力を期待し、大将軍に昇格させることで、北部王朝への対抗策としました。また、高句麗や百済に、早くに自国へ遣使させることで、自らの皇帝としての立場が正当であることを貴族らに対して示すという意図もあったのです。
倭国王・讃の外交開始
倭国の王・讃が宋へ使節を派遣したのは、宋が建国された翌年の421年でした。『宋書』倭国伝には、宋の皇帝が倭国に対して以下のような詔を発した記録があります。
「倭讃は万里の遠くから貢物を修めた。その真心を褒めたたえるべきである。よって官爵を授ける」(『宋書』倭国伝)
この頃、倭国と朝鮮諸国との関係に主だった変化は見られません。したがって約150年ぶりの中国との外交再開は宋の建国がきっかけであったと考えられます。では、それまで中国との外交を行っていなかったにも関わらず宋との中国外交を再開したのにはどのような理由があるのでしょうか。
それは、倭国の東アジアでの地位の維持、特に百済との対等な関係の維持を画策したものであると考えられます。前述したように、倭国は朝鮮半島の伽耶から鉄資源を入手しており、また百済とも軍事同盟を結んでいました。極東にいながら、東アジアでの一定の存在感を示していたのです。しかし、新たに建国された宋に高句麗と百済は朝貢し、宋の皇帝・劉裕から大将軍の称号を与えられました。これは、対等な関係を維持しておきたい百済の地位が東アジアにおいて上昇したことを意味しました。倭国は宋の建国によって動いた東アジアの国際情勢に乗り遅れたことを痛感したことでしょう。
それを痛感した倭国の動きは早いものでした。宋建国の翌年には使節を派遣したのです。『宋書』倭国伝に「官爵を授けた」とあるように、「讃」は宋から何らかの称号を授かったと考えられます。その明確な記録は残されていませんが、讃以降が授かった将軍号から考えて、讃が授かったのは安東“将軍”であったと考えられます。安東将軍とは、中国の東方を鎮護する将軍の一人であることを意味するものでした。
しかし、高句麗の征東大将軍や百済の鎮東大将軍と比べた場合に、征東>鎮東>安東という序列がありました。また、高句麗や百済は“大将軍”を与えられましたが、倭国が与えられたのは“将軍”でした。これらの官爵の差は、宋にとっての政治的利用価値の差であったと考えられます。つまり、中国北部王朝の脅威に対して、その隣接する位置にある高句麗や百済は宋にとって重要な国であったのです。対して、朝鮮半島の海を隔ててさらに東に位置する倭国はそれほど重要視されていませんでした。いずれにしても倭国は高句麗や百済に遅れをとるかたちとなってしまいました。これは東アジアにおける地位という面だけではなく、内政が不安定な中で国内を取り仕切らなければならない倭国にとっては小さくない問題であったと考えられます。
このように、倭国の対中国外交の再開は、朝鮮半島での鉄資源の安定確保に端を発し、そのために東アジアでの地位の維持・向上を目指す中で行われたものでした。讃は、宋への遣使の結果、安東将軍・倭国王の官爵を授かることができました。ただ、この将軍号は高句麗や百済に劣後するものでした。
しかしながら、極東に位置し宋にとってはそれほど重要ではない倭国が官爵を受けられたことは、外交として成功であったと言えるのかもしれません。これは中華思想と新皇帝・劉裕が抱える課題にその成功要因があると考えられます。すなわち、極東の倭国がわざわざ朝貢するということは、宋の影響力が広範に及んでいるということを意味します。劉裕は、自らの影響力や地位の正当性を示す証として倭国の朝貢を歓迎したのです。新たに外との関係を築く時は、相手の文化や思想と、抱えている課題を把握しておくと、円滑に事が運ぶのだと言えるのかもしれません。
讃の以後、4人の倭国の王が宋との冊封関係を継続しました。それぞれの倭国王の宋への朝貢の仕方や要求は少しずつ異なるものであり、それらを概観することで、倭国王が中国外交へ何を求めていたのかが見えてきます。それは百済へのライバル心だけではなく、大国である中国へ付き従うためでもなく、もう少し現実的な意図も込められたものだったのです。
第三章 倭国王の中国外交の意図
珍に見る中国外交の意図
421年の讃の中国への遣使を始まりとして、珍、済、興、武の四王が中国外交を継続しました。
「珍」は438年に宋に遣使し、兄である讃が死んだことを伝えました。そして同時に、安東“大将軍”・倭国王に任じられたい旨を要求したのです。加えて「使持節・都督倭百済新羅任那辰韓慕韓六国諸軍事」の官爵も要求しました。これは、百済、新羅、任那、辰韓、慕韓の軍事指揮権を倭国に授けることを要求するものでした。珍はなぜそのような地位を要求したのでしょうか。
それは讃が対宋外交において高句麗や百済から遅れをとっており、それを挽回したいという意図があったからだと考えられます。讃が授けられた安東“将軍”ではなく、安東“大将軍”を要求したのも、高句麗や百済が大将軍を授けられたことに対抗するためであったからだと考えられます。しかし結局宋が珍に授けたのは、讃と同じ安東“将軍”・倭国王でした。
珍が官爵を要求したのは、自らに対してだけではありませんでした。直属する豪族に珍が仮授した将軍号を承認するよう宋に要求したのです。中国官爵は中国皇帝に任命権があるため、いかに自らに直属する豪族に対してといえど、倭国王が中国官爵を任命することはできません。そこでとられていた方法が、倭国王が直属する豪族に仮の将軍号をあらかじめ授け(これを仮授という)、皇帝に朝貢した際に事後承諾を受けるというものでした。これは、倭国だけではなく、百済などでもとられていた方法です。
珍の要求により13人の豪族たちに将軍号が認められました。その中でもとりわけ高い地位を与えられたのが、ヤマト地域の古墳群から、珍と同等の勢力を誇っていたと考えられる倭隋です。倭隋には平西将軍が与えられ、これは他の豪族に比べて格別の地位であり、珍の安東将軍と比べても遜色のないものでした。本来であれば、珍とその他豪族の間の地位の差が大きいほど珍は優位に立てたはずです。しかし、同等の地位を与えなければいけないほど、倭隋の力は大きなものであったと考えられるのです。
そもそも、倭国王・珍が、自らの官爵だけではなく、直属する豪族にも官爵を要求したのはなぜなのでしょうか。そこには自身を有益な存在であるとして周辺豪族から認めてもらうという意図がありました。王が自身の官爵に加えて、直属の豪族に対しても中国官爵が得られるよう取り計らうことで、倭国王は豪族に利益をもたらす存在であるとして認められることとなったのです。倭国王の地位が既定路線として定まっていたわけではなかったこの時代においては、自身の地位だけを高めるような外交は特に軋轢を生む可能性をはらんでいたのだと考えられます。
このように、倭国王の中国外交には大きく二つの意図がありました。一つ目は朝鮮半島における地位の維持・向上です。珍は獲得するには至りませんでしたが、朝鮮半島諸国の軍事指揮権という具体的な権限も、宋に対して要求しました。二つ目は倭国内における権威の定着です。中国皇帝から、自身だけではなく周辺豪族にも官爵が授けられるよう取り計らうことで、国内における地位を安定化させました。地位を維持する対象は異なりますが、いずれも中国・宋から権威をいただくことで、自身の力としていたのです。
その後の済、興、武も、同様の意図をもって外交を行っていました。しかし、時代ごとの国内・国際情勢の変化が倭国王の外交に少しずつ影響を与えていきます。歴代の倭国王の外交から垣間見える奔走ぶりから、当時の政治における中国外交の必要性の高さが見て取れるのです。
済、興、武の奔走
珍に続いた済は、443年に宋に遣使しました。要求した官爵に関する記録は見つかっていませんが、珍ほどの大胆な要求はしなかったと考えられます。他方で、済は一つ大きな問題を抱えていたと考えられます。それは、讃と珍は兄弟でしたが、珍と済の間にはそのような近親の関係はなかったと考えられるのです。『宋書』倭国伝には珍との関係性の明記がなかったため、済は宋にその続柄を名乗らなかったのだと考えられます。前の王である珍と近親であったのであれば、そう名乗った方が倭国王としての正当性を認められやすいため、済は珍との続柄を名乗ったはずです。したがって、済と、前王である珍は正当性を示せるほど近親ではなかったと考えられるのです。ここから想像されることは、済は歴代の王である讃・珍とは系統を異にする王であったため、宋からの官爵をより切望していたのではないかということです。
続く興にも、また少し複雑な事情が見え隠れしていました。462年に宋にやってきた倭国の使者は済の「世子」と称し、済の死去を伝えました。珍も済も、派遣時点で倭国の王であると名乗っていました。しかし、「世子」とは元来、諸侯の後継ぎという意味です。諸侯とは、君主の下で一定の権力を与えられた臣下を意味し、王とは異なる立場の人を指します。自らを世子として名乗った背景には、どのような事情があったのでしょうか。信頼できる史料は見つかっていませんが、想像するに興は国内で即位が容易に認められない政治的事情を抱えこんでおり、そのような情況を打破するために宋に遣使したのではないかと考えられます。宋に官爵を授かることで既成事実を作ってしまおうと画策し、奔走していたのではないかということです。
この頃朝鮮半島の情況はまた大きく動き始めていました。高句麗が自国西方に位置する北魏に遣使し、その関係を安定化させた上で朝鮮半島への南下政策を推し進めていました。北魏は宋の宿敵とも言える中国北部の王朝です。高句麗は初めは宋に遣使し官爵を受けていましたが、宋が北魏に対して劣勢であると見るや北魏への遣使を活発化させたのです。南下政策によって、新羅と百済は攻撃を受け、475年ついに百済の漢城は落城しました。これは百済と同盟を結んでいた倭国にとっては大きな出来事であり、このまま朝鮮半島が高句麗に支配されてしまえば鉄資源の確保も困難になるという脅威を感じさせるものでした。
このような大きな国際情勢の変化の中で、倭国は477年と478年に続けて遣使しています。478年は史料より倭の五王の5人目、武であることが確認されています。では、477年は誰の遣使だったのでしょうか。さまざまな状況を踏まえると、それは興の遣使であったのではないかと考えられるのです。興は官爵を受けた462年から15年も遣使しておらず、その間は倭国内で何らかの問題が生じていたと考えられます。しかしそのような情況でも、百済・漢城の落城は大きな衝撃であり、宋への遣使を促したのです。
そして翌年の478年、武が遣使しました。この立て続けの遣使には、どのような背景があったのでしょうか。武が宋に送った上表文などを踏まえると、興が477年の遣使の後死去したため、その後王位を継承した武が間髪をいれず遣使したのだと考えられます。上表文とは君主に送る文書のことを言います。武の上表文は倭国を取り巻く情況を示す内容であり、高句麗を討つべきであると主張されていました。同時に自身への官爵と、周辺豪族の仮授の承認も要求していました。宋が武に認めた官爵は、「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」でした。武は百済に対しての軍事指揮権も要求していましが、それは認められませんでした。ただその一方で、大将軍の称号を得て、倭“国王”ではなく倭“王”の称号も得ました。倭王は倭国王よりも上位の官爵であり、宋にとっての利用価値が高いと認められたことを示すものでした。
武は、百済が凋落する中で倭国が中心となって朝鮮半島諸国をまとめあげ、高句麗の南下侵攻を阻止する必要があると考えていました。宋から官爵を授かることでその指揮権や求心力を手に入れたいと考え、実際に得ることが出来たのです。他方で歴代の王と同様に、官爵により朝鮮半島での地位向上と、権威による国内統治も求めるところであったと考えられます。武はそれら地位や権威の向上を高句麗の南下に乗じて成し遂げることができました。それも武の意図するところだったのでしょうか、どうなのでしょうか。
第四章 外の力の意味
小まとめ:朝鮮半島と中国、2種類の外交
5世紀の倭国は中央集権的な国家というよりは、地方諸国を加盟国とした連合体として存在していました。現代のような明確な国境はなく、特に朝鮮半島に近い九州は、朝鮮半島諸国側に付き反旗を翻す可能性も十分にありました。そのような支配力や支配システムが整っていない時代において、王位継承も実力本位の側面が大きかったと考えられています。この時代の王は、統一前の列島諸国が瓦解しないようまとめ上げ、さらに東アジアの国際社会でも勝ち抜いていく力が求められました。決して従属しているわけではない周辺豪族は、シビアな目で王位継承者を見定めていたと想像されます。
倭国の中国外交は、邪馬台国によるものから約150年間途絶えていましたが、421年の倭国王・讃の宋への遣使から再開されることとなりました。その背景には420年に建国した宋が朝鮮半島の百済と高句麗に対して官爵を授けたことがあったと考えられます。朝鮮半島南端の伽耶から鉄資源を入手していた倭国は、朝鮮半島における地位を維持・向上させたいという思惑がありました。特に当時軍事同盟を結んでいた百済とは、同盟という協力関係にあると同時に、対等以上でありたいというライバル関係にもありました。その百済が宋から官爵を受け、東アジアにおける地位を向上させたことに焦りを覚えたのだと考えられるのです。
讃以降およそ半世紀の間に5人の倭国王が宋に遣使し、官爵を授かりました。その意図するところは高句麗や百済に朝鮮半島での地位の遅れをとらないこと、あるいは機会があれば上回ることを画策してのことでした。また、決して盤石とは言えない自身の国内での地位の維持・向上も目指すところでした。そのために自身の官爵に加えて直属の豪族への官爵授与も取り計らうことで、自身が有益な存在であることを示したのです。
このように、倭の五王の外交を概観するとまず朝鮮半島との外交ルートを確保することに第一義が置かれていたと考えられます。農作業をはじめ仕事や生活の利便性を大きく高める鉄資源と、その他大陸に由来するヒト・モノ・情報は、倭王権や地方諸国にとってもはや必要不可欠なものでした。
その朝鮮半島との外交ルートの維持のための、中国・宋との外交でした。こうして考えると一見、中国外交は「手段」であり、朝鮮外交に比べて重要性や優先度が低いように思われます。しかし、現代と比べて海を渡り大陸を移動するリスクもコストもケタ違いに大きかった5世紀に、5人の倭国王が立て続けに遣使していたのです。また、済、興、武はそれぞれに複雑な事情を抱えており、忙しくすがるように宋に遣使しているようにも見受けられました。宋との外交は、決して重要性や優先度が低いものではなかったのです。
宋の滅亡、ぱたりと止んだ遣使
そのような重要性が高かったと考えられる中国との外交も478年の武の遣使を最後に行われなくなりました。その遣使の終わりは、何をきっかけとするものだったのでしょうか。
遣使の停止には様々な説がありますが、最も支持を得ている説の一つは、支配体制の成熟化に伴って中国からの冊封を必要としなくなったというものです。しかし、支配体制が成熟した周辺国や、日本でも室町時代の足利義満が冊封を受けており、成熟したら冊封を受けなくなるかというと必ずしもそうではありません。また武の遣使の停止後、継体天皇が登場するまでの約20年間は倭国内の政治はむしろ混乱していた可能性が高く、この説が該当する可能性は低いと考えられます。
この遣使の停止と合わせて考えなければならないのが479年の宋の滅亡です。宋は北魏との対峙だけではなく、内紛が続いたことで衰退していき、ついには滅亡しました。そして、宋の皇帝からの禅譲を受けて新たに南斉が建国されたのです。宋の最後の皇帝は自らの末路を予見して、次の生まれ変わりの際には皇帝の家にだけは生まれたくないともらしたと言われています。そして、一ヶ月後に殺されました。
武による最後の遣使は宋の滅亡の約1年前であり、倭国は宋国内の混乱を感じ取っていたと考えられます。そしてその次の王朝、南斉とは外交を行いませんでした。このような背景から考えられる仮説は、倭国は中国からではなく、宋から冊封を受けることに意味を感じるようになっていたのではないかということです。朝鮮半島諸国への対抗から、讃が宋に遣使し、安東将軍・倭国王の官爵を受けました。それは、朝鮮半島での地位を高めるだけではなく、不安定な自身の国内の地位向上にも好影響を与えました。その後の倭国王も、百済や先代の倭国王よりも高い地位を要求し、それぞれに妥当な官爵を授かり、直属の豪族へもその権威を還元しました。そのような遣使が続く中で、宋から冊封を受けることが、国を治める手段として必須化していったのではないかと考えられるのです。宋から官爵を受けることがその王の正当性を測る根拠として定着し、歴代の倭国王の一つの重大目標となっていったのではないでしょうか。
しかし、宋の滅亡は冊封関係を見直すきっかけを与えました。南斉には1回だけ遣使した可能性があると考えられています。しかし、その1回で倭国の権威の拠り所となるような正当性が南斉には認められず、遣使を停止したのではないかと考えられるのです。
また、475年には百済も滅亡しており、これも遣使停止の大きな要因であったと考えられます。宋への遣使は、宋が百済へ官爵を授けたことによる、東アジアにおける百済の地位向上に遅れをとらないためでした。しかしその百済が滅亡したことで一番の競合相手がいなくなりました。これによって宋からの官爵で東アジアの地位を測るという競争のルールが意味を持たなくなった、あるいはリセットされたと考えられます。つまり、倭国王の権威形成に関わるルールが変わったのです。
権威を求める中国外交の停止後も、鉄資源などのモノを求める朝鮮外交は続きます。これは、権威の必要性はそれほど高くないがために、中国外交をやめることができたのだとも捉えることができます。しかしその後の列島の国家作りを見ていくと、外に求められなくなった権威を内に創り出すことに腐心していたようにも見受けられるのです。
外に求める権威、内に創る権威
6世紀初頭、第26代天皇として継体天皇が即位しました。継体天皇は第15代天皇の応神天皇の5世も離れた孫とされており、本来であれば皇位を継ぐ立場にはありませんでした。しかし、先代の王位継承で問題が生じ、大豪族の要請により天皇に即位することとなりました。ただ、継体天皇がヤマト地域に拠点を移すことができたのは、即位20年目のことであったと言われています。
このように即位後の地位確立に苦労した継体天皇は、王位の世襲化を図りました。大兄制度という王位継承システムをつくり、この制度は7世紀後半まで機能しました。この制度により、実力本位の王位継承から近親が引き継ぐ方式に変わり、王位継承が安定化したのです。血筋という、皆が理解しやすい情報をもとにした王位継承システムが確立されたのです。
7世紀後半、天武天皇の統治の頃には、日本の歴史書の編纂機運が高まり、712年に『古事記』が、720年に『日本書紀』が撰上されました。これらは、中国史書のような歴史の正確な記録というよりも、歴史を踏まえて生み出された「国づくり神話」であると考えられています[2]。律令制国家の形成期に、その国家のルーツを語るストーリーに必要性が感じられ始めていたと考えられるのです。
倭の五王は権威の拠り所を、中国の王朝と冊封関係を結ぶことで外に求めました。それに対して継体天皇は権威の拠り所を血筋に定め、それに基づく継承システムを作りました。また、古事記や日本書紀も、歴史ストーリーを創ることで天皇や国家の正当性を示し、求心力を高めたと見ることもできます。つまり、継体天皇や天武天皇は、権威の拠り所を内に創り出したと考えることができるのです。
一つ言えることは、激動の時代、社会をまとめるために、王たちは権威を求めました。求心力を得ることに必死だったのです。
自身の地位が確立されていない時、古事記のような歴史ストーリーの編纂や、あるいは巨大建造物を造ることなどは困難であると考えられます。それらは大きな労力を必要としますが、それに積極的に協力してくれる人がそもそも少ないからです。倭の五王は、そのような不安定な情況の中で、宋から官爵を受け自らに権威を纏わせるという方法にたどりつき、その後継続的に行うようになったのではないでしょうか。血筋のような遺伝に由来する説得力や、その組織や共同体での長く積み重ねた実績などがあれば別ですが、それらがまだなくて、それでも求心力が必要な時は、外の大きな権威に当たってみるというのも一つの有効な方法なのかもしれません。
ただ、自分が生きる世界において、どのような権威が優位に働くのか、そのルールは見定める必要があると言えそうです。倭の五王の時代には、宋の官爵が倭国内でも東アジア社会でも有効に作用しました。しかしその後、宋と百済の滅亡でそのルールは意味を成さなくなりました。自分がリーダーシップをとる立場になったとき、その世界の人々が何に権威を感じているのかを見定めた上での外交は、意味のある方法であると言えそうです。約1600年前、倭の五王はそのような方法を用いて、不安定な情況の中でも倭国をまとめ上げていたのですから。
最後に、河内先生に改めてこんな問いを投げかけてみました。
「倭の五王が、中国・宋との外交において、欲しかったものは何だったのでしょうか。」
河内先生:あの時代は中国と倭国の文明の格差が激しい時代なので、中国文明の物や官爵を手に入れるということは、必需品である鉄などを手に入れるのとはまた別の意味がありました。中国文明には権威が付随するので、それを倭国王が独占して、国内同盟に分け与えるということをやっていたのです。中国の権威が非常に高いので、倭国王が中国から官爵をもらうと、王のバックに中国がついたということになりますから、それは豪族に対する睨みにもなったでしょう。さらに、そういったものの一部を豪族たちに分け与えてあげれば、豪族たちの権威付けにもなるので、王とつながる動機づけも働きやすくなります。
5世紀頃は、後の時代の天皇とは即位の仕方が違うと考えられています。後の時代の天皇というのは、継承システムが出来上がり、存在そのものに価値が置かれ、実働的な部分は他の役職を設けて担当することも可能になっていきます。しかし、飛鳥時代くらいまでは支配システムが未成熟で、政治的に豪族のリードをとれる人間でないと、連合体がバラバラになっていってしまう恐れがあったのです。
そのような時代においては上から押さえつけるだけの支配は長続きしません。お互いに認め合うことで長続きするのです。古墳時代、前方後円墳は地方豪族が連合体に加盟していた証でもありました。その前方後円墳が造られた時代は、3世紀から6世紀頃までと、比較的長く続きました。その関係性は流動的であったと考えられますが、古墳を作り、倭王権とつながりを続けるという関係は長期で継続するのです。これは不安定ながらも、中央倭王権を、周辺豪族が認めていたということの表れなのではないでしょうか。そのような周囲からの承認やつながりを保つ手段の一つとして、宋と冊封関係を結んでいたのだと考えられるのです。
(2020年1月18日掲載)
〈参考文献〉
- 河内春人著(2018)『倭の五王――王位継承と五世紀の東アジア』(中公新書)
- 吉村武彦著(2010)『ヤマト王権』(岩波新書)
筆者:吉田大樹
人の内発性により生み出される、プロダクトや活動に魅力を感じています。自分自身様々なサービスを模索する中で、何かを生み出そうと考えるほどに視野が狭まっていく感覚を覚えたことを一つのきっかけとして、リベルを始めることにしました。1986年岩手県盛岡市生まれ。2005年、東北大学工学部・機械知能航空工学科へ入学。2009年、東北大学大学院工学研究科・ナノメカニクス専攻へ入学。2011年、株式会社ザイマックスへ入社。2016年7月、高校時代からの友人と株式会社タイムラグを創業。
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国内も国外(朝鮮半島)も不安定であった時代、頼りにしたのは大権威だった。 #リベル