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古代人の内面とデザイン

人間の心を動かしてきたもの

文量:新書の約27ページ分(約13500字)

はじめに

荘厳な建築物を見た時や、心的にフィットする製品に出会った時など、モノによって心を動かされることが、確かにあります。感覚的な「良い」という心の判断は、人の行動や日々の生活に影響を与えていると言えそうです。

機能性だけでは説明できない、人の心に影響を与える行為がデザインだとするならば、古代においても、デザインはモノに施されていました。縄文時代中期の複雑な文様の土器や、弥生時代の青銅器、古墳時代の古墳など、衣食住にとって必要性が薄いと思われる行為が、物や建造物に施され、モノのデザインを構成していました。デザインは、いつの時代でも、物理的にではなく、人の心理を動かすことによって世界を造り出していたのです。

デザインが造る世界は、時代ごとに姿を変えていきます。たとえば土器(飲食具や調理具)を見ても、縄文、弥生、古墳時代と、盛り込まれるデザインの量や方向性が大きく変化していきます。

デザインの変化は、どんな要因やメカニズムで生じるのでしょうか。その時代ごとに人々が受け入れ、人々を動かした強いデザインとは、どのような特徴を備えたものなのでしょうか。

 

今回は、国立歴史民俗博物館教授の松木武彦先生にお話を伺いながら、このようなテーマについて考えてみることにしました。

 

松木武彦まつぎたけひこ先生

1961年、愛媛県生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。岡山大学文学部教授を経て、現在、国立歴史民俗博物館教授。専攻は日本考古学。モノの分析を通してヒトの心の現象と進化を解明し、科学としての歴史学の再構築を目指している。2008年、『全集 日本の歴史1 列島創世記』(小学館)でサントリー学芸賞受賞。

 

〈著書〉

  • 『美の考古学 古代人は何に魅せられてきたか』(新潮選書)
  • 『進化考古学の大冒険』(新潮選書)
  • 『古墳とはなにか 認知考古学からみる古代』(角川選書) など

 

 

第一章 古代人のデザイン

現代に比べて、衣食住が十分に行き届いていなかった古代においても、人はモノにデザインを施していました。ここでは、古代人が、どのようなモノにどのようなデザインを施していたのか、あるいはどのようなデザインと共に生活していたのかを紹介していきます。

普遍的な「良いデザイン」

旧石器時代の終わり頃、今から一万五千〜二万年ほど前、過剰とも思えるほどの薄さと左右対称さを追求した石ヤリが、さかんに作られていました。

物理的機能で言えば、薄い石ヤリは、まっすぐ当たれば深く突き刺さりますが、軽すぎて使うときのバランスも悪く、衝撃に対しては脆弱で、狩りに最適とは言えないと考えられます。また、石ヤリの整形には、細かい剥離はくりの繰り返しが求められ、精度を追求するほどに時間や労力がかかることになります。実用的な消耗品としてはコストパフォーマンスが良くありません。

このような精度の追求は、矢じりにおいても見られます。縄文時代でも後期以降は、作りが粗いものが量産され、獲物に突き刺すという物理的機能を優先した実用品の大量需要に応えたようです。現代につながる合理的な思想での物作りといえます。しかし、早期以前の古い時代には、鏃は薄く精緻に作られました。前述の石ヤリと同様、そうでなければならない理由があったのです。古い時代には、狩りという日常の行為さえ、深い祈りや精神性と無縁ではなく、そこで用いる矢じりにも心理的機能が求められたのでしょう。それを実現するデザインは、社会にとってきわめて重要なものであったと考えられます。

また前述した形状の石ヤリは、同時期に作られたと考えられるものが、日本列島だけではなく、現在のフランスを中心とする西ヨーロッパでもたくさん見つかっています。ユーラシア大陸の両端で発見されたこれらの石やりは、どちらかがどちらかに伝わったとは考えにくいものです。

遠く離れた日本列島とヨーロッパという地で、薄さと左右対称を追求した同様のデザインが見出されたことは、人間にとっての普遍的な「良いデザイン」が存在するのではないかということも示唆しています。

縄文土器のデザイン

次に、縄文時代から古墳時代へと変遷するデザインを、その時代の代表的な遺産となっている土器を中心に見ていくことにします。

縄文時代の土器としては、燃え上がる炎を思わせる形状の、「火焔かえん土器」が印象的なのではないでしょうか。このような複雑なデザインは、一万五千年前頃の初期の土器には、まだ施されていません。物理的な機能が優先され、私たち現代人には「素朴」「粗野」といった印象を持たせるもので、心理的なデザイン性に乏しいものでした。しかしその後、複雑なデザインが土器に盛り込まれるようになり、今から5000〜5500年前頃の縄文中期にはそれがピークに達します。

土器は、機能としては物を入れる器なので、上が開いて下が閉じた筒であり、筒なので真横から見れば左右対称の形を基本とします。また、筒の面が一周して元のところに戻ってく「回転体」ですので、それに沿った水平方向の文様もんようがより自然な付け方となるはずです。しかし、縄文中期の「火焔土器」などは、水平方向を逸脱して上下方向にダイナミックに動き回る文様が付けられています。自然に逆らうかのようなもの文様の背後には、それを付ける人と見る人とに共有された、何らかの強い意図があったと考えられます。

驚くべきことに、この複雑なデザインを施された土器は、煮炊きに実際に使われていました。ススや焦げが残った例が少なくないことから、そう判断できます。

つまり、縄文中期には、物理的機能を実現する形と、心理的機能を満たすデザインとを、別々の器具に分離することなく、それらを一つに融合させた器具を、あえて利用していたということなのです。私たち現代人は、複雑なデザインが利便性に差支えただろうに、といぶかしく思ってしまうのですが、当時の人々にはそうでなくてはならなかったのです。そういう意味で、縄文中期の人々は、私たちとはまったく異なる価値観や世界観の中で生きていたのです。

弥生土器のデザイン

ところが、この土器の複雑なデザインは、縄文後期から晩期にかけて、徐々に薄れていきます。文様を持たない簡素な土器が、徐々に当たり前になってくるのです。紀元前十世紀に朝鮮半島から水田稲作が伝わって弥生時代が始まり、これ以降の土器を弥生土器と言います。文様がきわめて少なく、定められた形に端正たんせいに仕上げることに、最大の注力が払われたものでした。複雑なデザインをもたない土器ですが、その原型はすでに縄文後期から晩期にかけて生み出されていたのです。

端正な弥生土器の典型は、九州北部のものです。中四国・近畿・中部・関東・東北と、東へ行くほど、つまり縄文の文化の伝統が強く残ったところほど、文様は、壺を中心に長く残りました。しかし、弥生時代の終わりに近い紀元後一世紀になると、壺からも文様が消え始めます。古墳時代前夜の二世紀には、文様は、葬儀に用いる壺や器台きだいのみに見られるようになります。

とくに、今日の岡山県や広島県東部を中心とした吉備地域では、著しく飾られた「特殊器台」と呼ばれる円筒形の土器が登場するようになります。これは、特定の人々のために、大きく土を盛ったり溝や斜面で区画したりした墳丘墓の、祭りや供養に用いられたものでした。その大きさは、高さ112cm、最大径46.5cmに及ぶものもあり、現代のやきもの技術でも容易に作れるものではないそうです。

つまり、土器の複雑なデザイン性は、弥生時代以降に完全に失われたわけではなく、複雑なデザインを施す土器と、機能のみにとどめた土器との、分離が起きたと考えることができます。

青銅器と古墳のデザイン

弥生時代になって初めて現れた素材に、金属があります。中でも鋳物細工によって自由な形を作りやすい青銅は、弥生時代の人がこぞって求め、新しいデザインを盛り込んだ画期的な新素材でした。

青銅器の光沢はスズの量で決まりますが、その量からして、当時の青銅器は新品の5円玉のような金色に近い色調で光り輝くものでした。現代の私たちが目にする青銅器は青さびがついてくすんだ緑色をしていますが、当時の人々が目にしたのは、それまでに見たこともない輝きを放つ途方もない代物で、そこに神を見て取ったとしても不思議はありません。金属の輝きを毎日見慣れている私たちには想像もつかないような心理的機能を、青銅器は一身に集めたものだったのです。

また、厳格な円や直線も、金属器の登場によって実現されました。旧石器時代に、石ヤリで左右対称が追求されていましたが、真に厳格な円や直線、ひいては左右対称などの幾何学的造形が実現されたのは青銅器でした。

青銅器は、中国を経て朝鮮半島から伝来しました。以前から青銅器を見慣れ、使いこなしている中国では、青銅器は器や刀剣など、物理的機能をもっぱらとする日用品として使っていました。しかし、貴重品として青銅器が伝わった日本列島では、その見たこともない輝きや幾何学的造形に心を奪われ、デザイン面に価値がある心理的器物として受け入れたのです。物が生み出される中心と周辺で、デザインの比重に違いが生じるという良い例です。

古墳時代になって、たくさんの人々が労働を集中できる社会になると、土器や青銅器のように手で動かせる器物だけではなく、大地に造りつけられた構造物にも、デザインが盛んに盛り込まれるようになりました。有力者の墓である古墳は、その典型です。

日本最大の古墳である大仙陵古墳は、本体の長さが525m、周りの濠や堤を含めた総長が840mあり、立て並べられた埴輪は二万とも三万とも言われています。

古墳がかもし出す心理的機能は、弥生時代の青銅器のような一点一点の輝きや造形の質ではなく、量や規模に主眼があります。円筒埴輪など、1本1本は文様も失ってそっけなく、心理的機能に乏しいものですが、それが何十本、何百本と立ち並んで集合している量のすごさが、見る人の心を惹きつけるのです。

青銅器も古墳も、心理的機能でもって人々に訴えるという、大きく見れば同様の役割を持つものでしたが、そのデザインの方向性は違います。一つ一つにこだわることからたくさん集めることへと、人を動かすデザインの要素は変化したのです。

 

ここまで見てきたように、土器のデザインは、素朴から複雑へ、そして単純へと変化していきました。弥生時代後期の特殊器台のように複雑なデザインを盛り込まれた土器も残りますが、それは、単純で機能的な土器とは別に作られました。つまり、縄文時代にはあいまいだった機能とデザインの分離が、弥生時代になるとはっきりしてくるということです。また、弥生時代には、青銅器のように1点ごとにデザインを集中して盛り込むことで心理的機能を発揮する器物が多かったのに対して、古墳時代には、大きく造ったり、あるいはたくさん集めたり並べたりする、いうなれば量的なすごさをデザインの戦略として心理的効果をねらうことが行われるようになりました。

では、これらの時代ごとのデザインに影響を与えたものは、何だったのでしょうか。とくに、縄文中期の土器のように、心理が機能に優先するなどという、現代人の感覚とはちょっと異なる器物のあり方がどんな時代的背景のもとに実現したのでしょうか。またそれがどのようにして下火となり、現代の感覚に近づいて行ったのでしょうか。

第二章 社会とデザイン

縄文中期の複雑なデザインの土器は、その前の素朴な土器、その後の弥生や古墳時代の端正な土器、さらには現代の日常食器とも大きく異なります。現代の日常食器は、左右対称やシンプルな回転体の形状を基本とし、機能が優先されています。

つまり、縄文中期は、デザインと機能との関係において、きわめて特殊な段階だったといえます。だからこそ、芸術家の岡本太郎が中期の縄文土器の「爆発」的な美に圧倒されたように、縄文中期の土器は、他のどの時代の土器とも異なったインパクトで、私たちを惹きつけるのです。

社会がデザインを作り、デザインが社会を作る

縄文中期の土器デザインの複雑化の背景

複雑なデザインの土器が出現する前の、今から約6000〜7000年前頃、地球の平均気温は上昇し、植物の生育に適した環境となっていました。それによって、日本列島では、森林や海洋の資源に頼り、定住するという新しい時代を迎えていたのです。

地球環境の変化と、そのために可能となった定住は、安定的且つ栄養価の高い食をもたらし、寿命が延び、出産数が増え、人口が増加していくことにつながりました。同時に、一箇所に多くの人が集まった村での生活により、人間関係は複雑化していきました。血筋や能力に応じた役割分担や序列が生まれ、また、少しでも有利な立場を得るために、技能や資質の誇示をしたり、複雑な習わしや特定の服飾(身だしなみ)を守ったりなど、衣食住にかかわる行為だけでなく、社会的な行為の比重が急速に高まっていきました。

さらに、定住により、森林や漁場など、共同体が不動産を持つことになり、外の共同体を意識することで、逆に自身が属する共同体への帰属意識を高めていきました。

 

そのような社会背景において、土器は一つの社会的メディアとなっていたと考えられます。土器は、単なる煮炊きの道具から、そこに盛り込まれたデザインを媒介にして、同じ世界観、同じ神話、同じ価値観、同じ規範を分かち合うことを確認し合う社会的道具になったと考えられます。だからこそ、使いにくくても、これで料理を作り、これをみんなで囲んで食事をしなければならない、そんな重要な役割を土器が持たされることになったのです。

最近の研究では、縄文土器にも巧拙こうせつ(上手い下手)があり、下手なものは子供が作っている可能性があることがわかってきました。土器は、共同体の結束を、世代を超えて伝えていくための教育や訓練の場でもあったようです。また、大人とみられる作品にも、見事なものとやや劣るものとがあります。みんなの尊敬や威信を集める土器づくりの名人がいたに違いありません。土器づくりは、そういう立場を目ざして個々人が社会的な競争をするための「競技」だったとも考えられます。

現代の私たちの感覚からすると不思議な感じがしますが、実用の土器のデザインを媒介として、それを作ったり見たりする人が、今見たようなさまざまな心の交換、つまりコミュニケーションをとっていました。それだからこそ、縄文中期の土器は今も私たちの視線や心を強くとらえるのです。実用もしながら、その機能とは関係のないコミュニケーションの媒介にもなるような道具は、現代社会にはありません。物理的な機能を発揮する道具と、心理的な機能を満たす道具とは、日用品と、奢侈品しゃしひんあるいは芸術作品として、今は分離されてしまっているからです。

採集・漁労・狩猟が生活の基盤であった縄文時代には、自然の恵みをありのまま享受するという意味で、人間は他の動物と同じであり、自然の生態系の一部に組み込まれたものでした。

生活空間に関しても、大きな集落は、住居や建物が環のように円く配置されるプランをもっていました。円は、格差も隔ても、始まりも終わりもない形状であり、その円周のどこにいても対等です。また、住居や建物が作る円の内側には、しばしば集落の先祖代々の墓域となっています。生きている者と死んだ者とが同じ円を作っているのであり、生と死の区別も現代ほどはなされていなかったと考えられます。

したがって、縄文時代の人々は、自然と人、人と人、生と死などを分離しない傾向にあったのです。機能とデザイン、物理的用途と心理的働きとを分けずに一つの土器に託するという、今日の私たちには想像しにくい物質世界を築いていました。

 

以上より、縄文中期の複雑な土器のデザインは、複雑化する社会関係の中に生きる人々のコニュニケーションの媒体になっていたと考えられます。文字も、新聞や雑誌も、ラジオも、テレビも、ましてインターネットもない社会では、多数の人々の意志や心をまとめあげるメディアとして、道具のデザインが最大限に動員されるのです。また、物事を切り分けない世界観や価値観の中で、道具の物理的な機能とメディアとしての心理的機能は分けられず、一つの土器の中に混然と託されました。

弥生以降の土器デザインの単純化と世界観の転換

弥生時代になると、農耕という新しい世界観のもとで、人々の組織の質が縄文時代とは大きく異なったものとなり、そのことが道具のデザインの新しい展開につながりました。

農耕が、採集・漁労・狩猟と大きく異なる点は、自然の恵みをありのままに頂くことではなく、自然そのものを人間の都合の良いように作り替えて農地を営み、そこで植物を徹底管理して利用するという点です。自然を支配し、コントロールするという、人間中心の利己的な世界観が農耕とともに生まれます。農耕のもとで戦争が始まることが多いのですが、これも、まわりの人々をコントロールしていこうという新しい世界観、それに根ざした人間観の形成によるものです。そして、農耕で植物の生育をコントロールし、戦争で周囲の人間をコントロールすることをうまくやり抜くためには、それにまつわる事象を冷静に観察し、分析し、因果関係を理解し、収穫や勝利のために何をするべきかという対応策を考えていく必要がありました。言い換えると、論理的に思考し、合理的に判断するということであり、その過程で、情報や物事の一定のやり方で切り分けていく、分類していくという思考法が発生しました。その先に科学があるのであり、現代人に近い考え方へ変化したということです。これは、自然と一体で物事の切り分けもしない縄文時代とは、はっきりと異なる世界観であり、価値観であるといえます。

このような新しい価値観や世界観の下で、生活様式も変化していきました。まず、生活空間としては、住居群の周りを、境界を意味するような堀で囲む環濠集落が誕生します。また、自集団と他集団の切り分けをはっきりと行うようになり、他集団を敵としてコントロールすることで生き延びるための、集落同士の戦も起きるようになりました。さらには、それまでは共同体で共有されていた資産が、個人の資産に切り分けられ、共同体に貧富の格差や世襲が生まれるようになりました。

こうして、弥生以降の人々は、物事を切り分け、分類して体系的に配置するという世界観の中で生きるようになりました。それが物に反映され、物理的な機能を果たすだけの実用品と、複雑なデザインに心理的機能を託した特別な品とを、分けて作るようになりました。土器は実用品、青銅器は特別な品というように、物の種類と役割との切り分けが進み、縄文中期の土器のようにそれが混然一体となった器物は見られなくなっていきます。

個人資産の形成をもとに貧富の差が生まれ、それが世襲されて有力者の階層が出来上がってくると、特別な品を一部の有力者が独占し、自分たちの権威を示すために使うようになっていきました。それまでは、人々の中からボトムアップ的に生み出され、みんなに共有されていたデザインが、しだいに一部の有力者に独占され、人々の心をコントロールするために利用される、いわばトップダウン的な性格を帯びるようになってきます。有力者が鏡・武器・埴輪など、デザインが集約された器物をたくさん独占し、自分の墓に集めてディスプレイするようになったのが古墳です。

第三章 本能とデザイン

縄文土器のようにボトムアップで共有されるデザインも、古墳のようにトップダウンで押し付けられたデザインも、心を動かし、人々に受け入れられるためには、共通の条件があります。それは「美」です。

本能という言葉は、今では科学の世界では使いません。代わりに「情動」とか「生得的せいとくてきな心のモジュール」などと言います。要するに、ヒトが長い進化の末に身に付け、どの個体も共通にもっている心のメカニズムのことです。ただ、そのようにいうとまどろっこしいので、ここでは仕方なく「本能」と言っておきましょう。また、生物学的な種としての人間を指すとき、ヒューマン・サイエンスの世界では「ヒト」と言います。違和感があるかもしれませんが、人間を生物の一種とみることで初めてその本質に迫ることができ、そうすることによって、人間が紡いできた歴史という現象を客観的に理解できるのです。

ヒトが本能的に美しいと感じる要素を紹介し、それらの要素が、これまで紹介してきたデザインに、どのように組み込まれているのかを考えていきます。ここで美というのは、気持ちの良い心の動きだけではなく、ダリやピカソの絵を見たときのような、不安や不快も通じて心を打つ力のことも含みます。

光彩の美

光が反射し輝くもの、色彩が鮮やかなものは、最も原始的且つ普遍的に、人が美しいと感じる要素です。東アジアで発達した鏡や、多くの地域で用いられている赤い顔料は、この要素が備わっていると言えます。

青銅器は、日本列島の人々にとっての、初めての金属器でした。縄文時代にも、「玉(たま)」は重宝されていましたが、それとは異次元の輝きや色彩をもって、人々を圧倒したのではないでしょうか。

古墳は、現代では草木で覆われ、輪郭もはっきりとはしませんが、当時は、角や折れ目など、幾何学的に洗練された立体建造物でした。そして、その墳丘の各面には石がぎっしりと並べられており、それが緑の野山の中でまぶしい光彩を放っていたと考えられます。晴れた日には反射して光り輝き、明るい面と影による暗い面が、時間と共に移り変わっていったことでしょう。さらに、赤っぽい色味の埴輪が、面を縁取ったり横切ったりすることで、色彩のアクセントになっていたはずです。

古墳は、その巨大さが注目されがちですが、光彩の面でも美しく、人々を魅了していたと考えられます。

身体感覚を通じた美

ヒトは、地球上という物理的空間の中で進化してきたので、それに適応して、空間における上・下・内・外などの物理的関係を体得的につかむ脳の機能を持っています。

これによって、高いところに立った時の恐怖感、巨大な物体に直面した時の威圧感、大きくて重たそうなものが上方にある時の不安感などを感じます。高いところから落ちる、大きなものに圧迫される、重たいものにつぶされる、という死につながる危険を避けて生き残るために、これらの恐怖・威圧・不安といった感覚が進化したのです。こういう感覚が強い個体ほど、危険を避けてたくさん生き残って子孫を残すことができたために、ヒトという種の中でこういう感覚が進化したのです。

古墳は、見た人の心にこのような感覚を呼び起こすという、心理的機能のために造り出されたものです。物理的機能としては亡き主の遺体を収容するというくらいで、心理的機能がきわめて大きな比重を占めている点では、縄文土器と同じです。ただし、それがかもし出す感覚が圧倒的な威圧感であったり、それが、そこに葬られた有力者個人の権威を演出するという、上下や優劣をはらんだ社会的関係のメディアになっていたりする点は、縄文土器と大きく違います。

リベル:現代は、そもそも民主主義社会であり、中央集権的な価値観がより薄れ、フラットな関係性や価値観が好まれるようなってきていると感じる。それは、例えば、オフィスにおける机の配置の、シマ形式から円卓のような形式への変化や、そもそも席を定めないという変化に映し出されているのではないだろうか。そのような、現代の価値観が反映されて変化したデザイン、あるいは変化せずに過去の価値観を引きずっているデザインなど、探してみたい。

脳が喜ぶ「良い形」の美

ヒトには、直線や四角形などの規則的なパターンなどを、「良い形」と認識し、落ち着きや安定を感じる心の働きがあります。

ヒトは、他の動物に比べて、きわめて大きくて複雑な脳を進化させてきました。その働きの特徴の一つは、カテゴリー化の能力です。カテゴリー化とは、森羅万象にかかわるさまざまな事象や現象を、似たものはまとめて脳の引き出しにラベルを付けてしまっておき(このラベルが「概念」に当たります)、必要に応じて取り出すことです。たとえば、黄色と黒の縞がある恐ろしい四足の動物を「トラ」として一つの概念にまとめ、その性質を知っておけば、次にトラに襲われそうになったときに最適な行動がとれ、危険を最小限に抑えられます。しかし、その動物が出てくるたびに、その場その場で判断していると、襲われる危険は高くなってしまいます。万象のこのような整理(まとめてラベルを付けて引き出しにしまうこと)を、「情報の縮減しゅくげん」と言います。原理や法則は、もっとも徹底した情報の縮減です。情報の縮減は、このように高い生存確率につながるので、それが脳の中で起こると、一種の快楽物質が出ると言われています。情報が整理されるので、脳の容量も有効に使えます。

情報の縮減は、図形についても働きます。普通の三角形→二等辺三角形→正三角形、の順に図形を構成する要素は整理されて(同じ角度、同じ長さの辺)、単純になりますが、それだけ情報が縮減されているので脳は喜びます。脳が喜ぶこういう形を、心理学では「良い形」というのです。

ですので、人が作り出すモノのデザインとして、「良い形」はしばしば採用されます。旧石器時代の石ヤリに、物理的必要以上の左右対称が追求されたのもそのためです。左右対称は、非対象に比べて「良い形」なのです。

弥生時代の青銅器も、先に述べた光彩の美の加えて、それまでの石器や土器ではできなかった、厳格な円や直線という究極の良い形が盛り込まれています。正しい円形や完全な直線が織りなす世界の中で育った私たちに現代人には想像もできませんが、弥生時代の人々が金色に光る円や直線を初めて見たときの感銘は強烈だったはずです。神そのものだ、と思ったとしても不思議ではありません。

人々がこれまでに作り出してきたデザインのベースは、上記3要素です。実際には、3要素を複雑に組み合わせ、心地よいポジティヴなものから、不安や威圧を感じるネガティヴなものまで、さまざまな感情を喚起する広い意味での「美」を盛り込んだものを作り出したのです。そして、そのときどきの世界観、価値観、社会の形に応じて、それを盛り立てる感覚や感情を、社会関係の形成に利用したのです。デザインがなければ、大きく複雑なヒトの社会を作ったり、保ったりすることは、むずかしかったでしょう。

ヒトだけがもつ美の3要素の応用形

美の3要素は、複雑に組み合わされることもあれば、わざと不完全な形で表されることで、ヒトが美を求める心の動きそのものを強く呼び起こさせることもあります。

たとえば、正しい円形や左右対称に少し足りない図形、一部が切れている円やわずかな非対称を見たときに、脳が一種のフラストレーションを感じることで、心が刺激されます。また、見ようによっていろいろなものに見えるあいまいな形をみたときも、脳はそれが何かを特定しようとして、やはり心は刺激を受けます。心を刺激することで見る人を惹きつける形があるのです。

縄文中期の複雑な土器は、その典型です。縄文土器の文様には、一見対称に見えて対称でなかったり、繰り返しに見えてそうではなかったりするパターンがたくさん含まれています。植物のツルのようにも、人間の顔のようにも、蛇の頭のようにも見える、あいまいな具象表現もしばしば見られます。縄文人は、写実能力が低かったわけではなく、作られた物の中には高い写実性をもつものもありました。したがって、このようなあいまいな具象は、意図的に表現されたものであると考えられます。

あいまいな具象には、別の働きもあります。英国の脳科学者セミール・ゼキは、フェルメールの絵が心を惹きつける要因の一つに、あいまいさをあげています。フェルメールの絵に描かれた場面には、背中を向けて何かをしている人物や、はっきりとは描かれないために見る人が「何だろう」と詮索したくなるようなあいまいさがたくさん含まれています。そして、このあいまいさが、「こうかもしれない」「ああかもしれない」という、広い解釈可能性につながります。つまり、フェルメールの絵を見た人は、描かれた場面や人物を、自分の体験や記憶に重ねたり、家族や知人の姿とつなげたりすることによって、心を惹きつけられます。こうして、細部まではっきりした絵よりも深い感興を、フェルメールの絵のあいまいさは呼び起こすのです。

第四章 心を動かすデザインとは

旧石器時代の石ヤリ、縄文中期の複雑な土器、弥生時代の青銅器、そして古墳と、各時代の社会を代表するもののデザインを見てきました。人間の道具や構築物は、単に物理的機能を満たすためだけに形が定まっているのではなく、デザインを通じて人々の心を動かし、それを通じて社会のまとまりや区分けに寄与するように作り出されているのです。ヒトは、作り出すものに必ずデザインを盛り込まずにはいられないという、他の動物にはない特徴を持っているのです。

そのデザインには、光彩や身体感覚や良い形のようにヒトの本能に近い基本形の美によるものもあれば、良い形の一歩手前を見せることでフラストレーションを起こさせるパターンとか、わざとあいまいな具象をみせることによって万人の想像力を集めるパターンとか、ヒト独自の複雑な脳の働きを利用した応用形の美によるもあるということを説いてきました。

また、先にも何度か述べたように、ここでいう広い意味での美とは、ポジティヴな心地よさを誘うものばかりではなく、不安、恐れ、威圧感などのネガティヴな感覚を喚起するものも含まれています。実際に人間が歴史上生み出した美とそれに基づくデザインは、本当にさまざまな感覚や感情を呼び起こすものです。

基本形から応用形まで、ポジティヴからネカティヴまで、人間はそれぞれの時代や地域でさまざまなデザインを生み出し、モノに表現され、そのときどきの社会や風潮にマッチしたデザインのモノが生き残って、その世界をヴィジュアルに演出していくのです。たとえば巨大な前方後円墳やピラミッドは、一人の王の権威をみんなで演出するという、平等な民主主義をよしとする思想の中で育った私たち現代人のモラルに照らせばとんでもない代物です。しかし、前方後円墳やピラミッドがかもし出す威圧感と荘厳さは、知覚と感覚のレベルでは、当時の人の心も今の私たちの心も同じように揺り動かします。それによって、当時の人たちが心底から畏敬していた王の墓づくりに心と力を合わせたこと自体には、私たちも共鳴できるのです。

美とデザインに同じように共鳴するヒトの心の普遍性が、時や思想を隔てて過去の人々と私たちを、または言葉や国を超えて世界の人々を結びつけるのです。

 

最後に、松木先生にこんな問いを投げかけてみました。

「現代社会において、人々にとってのデザインの役割や存在意義は、どのように変化してきているのでしょうか?」

松木先生:現代は、フラットで網目状のコミュニケーションがとれる時代です。インターネットにより、人の心を動かす美やデザインを、誰でも発信・交換することができるようになりました。しかも、手段は文字だけではなく、画像や動画など多様です。

語弊を恐れずに言えば、縄文時代は、人々は総芸術家であったのではないかと考えています。暮らしとか祈りとか、場面を切り分けない世界の中で、すべての人々が自分の作り出すものに、意識することなく、ごく自然にふんだんに美を盛り込み、デザインを加えていたと考えられるからです。

その後、弥生時代から古墳時代には、物事や人々の間にいろんな切り分けが出来ていき、たくさんの美をデザインとして盛り込んだ道具とそうでない道具の差、美にあふれた物を持てる人と持てない人の区別など、美を盛り込んだ道具が、特別なものとして社会の一部に閉じ込められるようになっていきます。美を盛り込んだ道具を専門的に作る職業も生まれ、やがてはそれが近代的な工芸家や芸術家に、あるいは今日のプロのデザイナーにつながっていくのです。

それが大きく変わろうとしているのが、今です。デジタルの技術が普及し、ソフトを使って誰もがいろいろなデザインを生み出します。図案や絵だけでなく、写真や動画まで、見た人の心を動かすものをみんなが競うように作り出し、インターネットを通じて世界に発信・交換しているではありませんか。美やデザインがみんなをフラットにつなぐという、人々が総芸術家だった縄文時代をちょっと思わせるような状態、それでいて、みんながつながれる範囲は縄文時代のように狭くなくて地球全体に広がっているという、そんな新しい世界が到来しているのではないでしょうか。

 

〈参考文献〉

  1. 松木武彦著(2016)『美の考古学』(新潮選書)

 

 

 

 

 

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