リベル

Scroll to left

未進化な心の混乱

現代のコミュニティ生活のあり方を考える

文量:新書の約32ページ分(約16000字)

はじめに

やすらぎは頑張る気持ちをくれると、そう感じたことはないでしょうか。信頼している人との何気ない会話や、日常の喧騒から離れる旅行などは、頑張る気持ちを与えてくることがあります。他方で、やすらぎを求めるということは、日々の会社や学校、地域社会などで、精神的な負担や未充足感を感じている裏返しであるとも言えそうです。

 

こうしたことを感じる私たちの心は、人類が生きてきた長い歴史の中で進化し、形成されてきたものだと考えられています。人類の歴史を振り返ると、狩猟採集をしていた期間の方が圧倒的に長く、農耕革命以降の文明社会で生きてきた期間はかなり短いと言えます。

したがって私たちの心は、狩猟採集社会に適した遺伝的特性を持っていると考えられます。そして、その心が形成された狩猟採集の環境と、今を生きる私たちの社会環境の違いが、心に関するさまざまな問題を生み出しているとも考えられています。

では私たちの心は、どのような環境で形成され、その結果どのような遺伝的特性を有しているのでしょうか。また、狩猟採集時代と現代との環境の違いとはどのようなもので、その結果どのような問題を生み出しているのでしょうか。

 

今回は、明治大学・情報コミュニケーション学部教授の石川幹人先生にお話を伺いながら、このようなテーマについて考えてみることにしました。

 

石川幹人いしかわまさと先生

1959年東京生まれ。東京工業大学理学部卒業。同大学院物理情報工学専攻、松下電器産業㈱研究開発部門、通産省の国家プロジェクトなどを経て、現在、明治大学情報コミュニケーション学部教授。大学・大学院では、生物物理学・心理物理学を学び、企業では人工知能の開発に従事。遺伝子情報処理の研究で博士号(工学)を取得。専門は認知情報論および科学基礎論。

 

〈著書〉

  • 『だまされ上手が生き残る~入門!進化心理学』(光文社・2010年)
  • 『心と認知の情報学~ロボットをつくる・人間を知る』(勁草書房・2006年)
  • 『入門・マインドサイエンスの思想~心の科学をめぐる現代哲学の論争』(共著・新曜社・2004年) など

 

 

第一章 環境が築く遺伝的特性

進化の論理では、環境に適した遺伝的特性を有する個体は生き残り、そうでない個体は生き残ることが困難であると考えます。これは、自然淘汰とうたや自然選択と言われるものです。“自然が”生き残る個体を淘汰する、あるいは選択するという考え方で、主語は生物種ではなく、その生物をとりまく自然や環境になります。そして自然淘汰の結果として、ある環境に存在する生物には、その環境に適した遺伝的特性が備わっていくことになります。

別の言い方をすると、生物が自分の意思によって遺伝的特性を選択したり変えたりするわけではないということです。例えば、キリンの長い首も、キリン自身がより高い木の葉っぱを食べようという意思をもって伸ばしたのではなく、キリンの祖先の中で長い首を有した個体が環境に適していたために生き残り、今日の遺伝的特性を有しているということです。

 

私たち人類の祖先も同じように、自然淘汰の歴史をたどってきました。

しかし、一点だけ考慮しなければいけないことがあります。それは、進化の速度は、とてつもなくゆっくりであるということです。

私たちの遺伝情報は、両親の遺伝情報が複製されて、次の子ども世代へと受け継がれていきます。したがって、複製元である親と複製先である子は、その特徴が類似しています。

しかし、その受け継がれる過程で、遺伝情報が何らかの原因で書き換わる複製のエラーがしばしば生じます。このエラーは突然変異と呼ばれますが、そのほとんどは元の特徴を損なう方向の変化なので、自然淘汰の対象になり残存しません。ただごく稀に、元の特徴を改善する方向の変化が起き、遺伝的特性として残っていくことがあります。

突然変異を考慮すると、環境に対してポジティブな突然変異が繰り返されていけば、環境に適応した進化が円滑に進むようにも考えられます。しかし、環境に適応するとはもう少し複雑な変化が必要とされるのです。

例えば、キリンの長い首の進化について考えてみます。首が長くなっても生きていくためには、高い位置の脳に血液を送るための、心臓のポンプを強くしなければなりません。また、ポンプが強くなると血圧が上昇するので、血管がそれに耐えられるように皮膚を固く強くしなければなりません。さらに、頭が高い位置になるとそのままでは重心が高くなってしまうので、胴体を重くして重心を安定させなければなりません。そしてさらに、首を曲げて地面の水を飲むためには、足もある程度長く強靭にしなければならなかったと考えられます。

つまり、その生物種の膨大にある遺伝的特性の一つが変わろうとすると、それに連関して他の遺伝的特性も変わらないと、環境に適応した強い生物とはならないのです。しかも生物は、一つの遺伝的特性とそれに連関する特性を、論理的に考えて変化させるわけではありません。あくまでも、複製の過程で、膨大にある遺伝的特性のうちのごく一部で、微小な変化が偶発的に起き、その変化の掛け合わせや連なりが環境に適応した場合にのみ、その個体の特徴が世代を越えて受け継がれていくのです。

こうして考えると生物の進化は、ある日突然に起きるものではなく、非常にゆっくりと、不確実に起きていくことが想像できます。

 

私たちの祖先のホモ属は、およそ200万年〜300万年前に現れたとされています。それ以来、農耕革命が起きる約1万年前まで、狩猟採集を生業なりわいとして生きていました。農耕革命以降の約1万年、また産業革命以降の約250年は、狩猟採集で生きてきた歴史からすると、それぞれわずか0.5%と0.01%の長さにすぎません。

これまで述べてきたように、生物の遺伝的特性は環境によって淘汰あるいは選択され、またその進化の速度は非常にゆっくりです。

したがって、現代に生きる私たちの遺伝的特性は、狩猟採集の環境に適応したものがほとんどを占めていると考えることが妥当なのです。仮に進化のスピードが一定だとするならば、私たちの遺伝的特性のうち、約99.5%が狩猟採集時代に備わったものだと言えます。

では、私たちに備わっていると考えられる狩猟採集の環境に適した遺伝的特性とは、どのようなものなのでしょうか。

第二章 狩猟採集の環境が築いた私たちの心

狩猟採集時代における人類の生活

約200万年前、人類が狩猟採集生活を送り始めた舞台は、アフリカの草原でした。そこには、人類より身体的強さで勝る猛獣が棲息していました。そのような環境で人類がとった生存戦略は、「協力すること」でした。

例えば、マンモス狩りでは、大声で追い立てる人、待ち伏せして槍を投げる人、罠を仕掛ける人が必要だったと考えられます。さらに、しとめた後に獲物を切り分けて居住地まで運ぶ必要がありました。このような協力によって、人類よりも身体能力の高い猛獣の狩りを成功させ、食料を獲得していたと考えられます。また、マンモスのように獲物が大きければ、仮に一人で仕留められたとしても食べきる前に腐ってしまいます。したがって、協力して獲物をしとめてさらに分配することは、一つの効率的な食料確保の方法だったと考えられます。

また、狩猟採集時代、人類は100人程度の集団で生活していたと考えられていますが、集団内で複数のグループを形成し別々の場所へ狩りに出かけていたと考えられます。それによって、あるグループが獲物を見つけられなくても他のグループが獲物を見つけてくれる、というリスク分散ができたからです。

このように、自然の中においては弱い存在である人類にとって協力するということは、食料を安定的に確保する上では妥当な戦略でした。

 

狩りは男性の仕事でしたが、女性は居住地に残り、子守りや、果実や木の実の採集を行っていました。男性が外に出て狩りをするのに対して女性は主に家を守る、というのが当時の役割であったと言えます。

集団で生きるということは食料確保だけではなく、子育ての面でも有益でした。もし狩りで父親が死んでしまっても、集団の協力を得ることで子どもを育てていくことができたからです。

このように、集団での協力生活は、子孫を残すことへもプラスの影響を与えていたと考えられます。

 

ここまで述べてきたように、狩猟採集の環境において集団で協力して生きていくということは、食料確保や子孫繁栄などの面において有効な生存戦略でした。

逆に言うと、集団で協力することを選択しなかった個体は、生存することが困難であったと考えられます。つまり、自然淘汰されていった可能性が高いのです。

協力することを選び自然淘汰されなかった人類の末裔が、今日の私たちなのです。

狩猟採集の環境は、私たちのどのような心を築いたのか

協力することが長期的には生存の可能性を高めても短期的には独り占めした方が、個体にとって利益となる場合もあったはずです。例えば、狩りでは危険をおかすような貢献はせずに分け前だけをもらったり、燻製くんせいなどの保存技術が発達していた場合には、自分だけその保存食を持ち逃げしてしまうことなどです。しかし、そのような短期的な視点で選択していては、争いが頻発し、集団の協力体制が崩れ、人類の長期的な生存の可能性を下げてしまいます。したがって、そのような非協力的な行動をとる特性をもつ個体は、自然淘汰の対象となってきたのだと考えられます。

そのような生存の歴史の過程で、人類の長期的な生存可能性を高めるために生まれたのが、協力を促すための「感情」です。感情を働かす遺伝的特性を備えることで協力することが促され、生存可能性を高めてきたということです。

ここでは、どのような感情が協力に適したものとして人類に備わってきたのか、その一部を紹介していきたいと思います。

裏切りに対する強い嫌悪

前述したように狩猟採集の集団生活においては、個体の自己中心的な行為が集団にとって不利益になる場合がありました。例えば、狩りに十分な貢献をせずに分け前だけをもらったり、採集において果実が十分に成熟する前に採って自分のものにしてしまうなどの行為です。食料が決して十分ではなかったこの時代においてこのような行為は、集団の生存を脅かすものであったと考えられます。

狩猟採集の環境では、人類が長期的に生存していくことは集団が生存することとイコールでした。したがって、集団の不利益になるようなことを禁止する掟やルールが作られていたと考えられます。現代の私たち自身を振り返った時も、掟やルールは守るべきものである、という強い感情を持っている実感があるのではないでしょうか。

そして反対に、ルールを破る人がいるとその人に対してネガティブな感情を抱き、時には裏切り者のレッテルを貼ります。さらに私たちは、裏切り者のことを忘れにくい、という性質を有していると言われています。詳細は割愛しますが、進化心理学者が行った実験では、ある問題を解く場合に、「社会制度(掟)に対する違反を見つける」という文脈に乗せた方が、被験者は問題を簡単に解けるという結果が出ています。つまり、人類は、裏切り者を見つけたり覚えておく能力に長けているということです。

したがって私たち人類は、集団のルールを破る裏切り行為に、強い嫌悪感を抱く遺伝的特性を有していると言えます。反対に、そのような特性を有しなかった人類は、集団の協力がうまく機能せず、自然淘汰された可能性が高いと言えます。

承認の欲求

前述したように狩猟採集時代の集団の人数は、100人程度であったと言われています。これは、人間関係(誰と誰の仲がいいなど)や顔の記憶が一致する人数範囲であると考えられています。

では、人間関係や顔を把握することは、狩猟採集時代の人類にとってどのような意味があったのでしょうか。

 

人類は、集団のサイズを人間関係や顔を記憶できる程度に抑えることで、その集団内のお互いの行動を把握していたと考えられます。そのような監視に近い体制によって、裏切り行為はさらに抑制されていたことでしょう。反対に、利他的な行為や集団に貢献的な行動をとる人は集団内で認められるという、承認が適切に得られやすい環境であったと考えられます。

狩猟採集時代において、承認は重要なものでした。この時代、集団と集団の間で人の移動はほとんどなかったと考えられています。つまり、閉じた一つの集団の中で、生涯を全うした可能性が高いのです。

このような状況では、その集団から認められなかった場合、生存すること自体に問題が生じることを意味します。他の集団へ移ることも容易ではなく、一人で狩りをして生きていくことも身体能力的に困難であったからです。

つまり、集団内の他の人から認められ、それによって集団の中で居場所を確保したいという欲求は、人類にとって生存のために必要なものでした。現代では、このような承認の欲求がSNSなどによって個人のストレスにつながっていると言われていますが、その欲求はこのような背景から生まれたものだと考えられています。反対に、承認の欲求に乏しい個体は、集団内で生きていけず、自然淘汰された可能性が高いと言えます。

一貫性のあるアイデンティティの意識

さらに、自分がどういうことを得意とするのか、あるいはどういう人間であるのかということも、集団で承認を得るためには必要なことでした。つまりアイデンティティの意識も、集団で生きていくために必要なものとして人類の心に備わっていったと考えられます。

しかも、そのアイデンティティは一貫性があった方が、好ましかったと考えられます。100人という集団では、そのほとんどの言動が皆に共有されています。したがって、相対あいたいする人によって、あるいは時や場合によって言動が異なれば、集団内でその人に対する認識があいまいになり、承認が得られにくくなると考えられるためです。

現代でも、一貫性のある言動は好意的に受け取られる傾向があるのではないでしょうか。それは、狩猟採集時代に築かれた人類としての感情的性質であると考えられます。

私たちの心を築いた狩猟採集の環境

ここで、次章以降で狩猟採集時代と現代の環境とのギャップを考えるために、ここまで紹介した心の進化を振り返りながら、その心が築かれた狩猟採集の環境についても紹介し、本章のまとめとしたいと思います。

 

狩猟採集時代の人類は、集団で生きていくという前提のもと、ルールを破る裏切り行為に対して強い嫌悪の感情を抱くように進化してきました。また、その集団内で居場所を失えば生存が困難であったため、承認の欲求を有するようになりました。

集団の環境としては、人間関係と顔を記憶できる100人程度の集団であり、集団間の出入りのない閉じた一つの集団で生涯を全うすることが多かったと考えられます。集団を分類する用語として、個人が自らをそれと同一視し所属感を抱いている集団を「内集団」ないしゅうだんと言います。それに対して、競争心、対立感、敵意などが差し向けられる対象の集団を「外集団」がいしゅうだんと言います。この用語を用いれば、狩猟採集の時代は、一つの閉じた内集団で生涯を過ごしていたと言えます。

集団の構造としては、他集団と交わることも少なく、内集団が離散的に存在していたと考えられます。そのため、アイデンティティは、その内集団だけで共有される閉じたものであったと考えられます。現代は、生涯でいくつもの集団に属することが一般的なので、これは大きな違いと言えます。

そのような閉じた内集団であり人数も100人程度であったため、集団内の他の人は皆、知っている人でした。そして、その知っている人(=集団内の他の人)は皆、一蓮托生の仲間として認識されていたと考えられます。なぜなら、集団で協力して生きることが個体が生存するための前提条件であったためです。集団が生き残らなければ長期的には個体も生き残れないため、知っている人は皆、裏切る可能性の低い一蓮托生の仲間であると認識することが出来たのです。

集団は閉じた小集団であったため、直接的に目で見たり話を聞いたりしてその記憶が積み重なる中で、他者の信頼を判断することができました。また、集団内の人々は一蓮托生の仲間であり、命を共有する仲間でした。したがって、他者への信頼の判断は、日々の集団への貢献などによるその人自身の誠実さで見定められていたと考えられます。

 

ここまで紹介した狩猟採集の環境の特徴と、それによって築かれた心の特徴を以下の表にまとめます。また、狩猟採集の環境を、次章で紹介する「外に開いた文明特有の環境=外側」と比較して、「内側=進化的適応環境」として分類しておきます。

 

 

 

第三章 現代社会が生み出す心の混乱

ここまでまとめてきたように、私たちの心は、狩猟採集の環境に適応するかたちで進化してきました。また、進化の速度は非常にゆっくりであるため、農耕革命後のわずか1万年、産業革命後のわずか250年で、それぞれの環境に適応した進化が成されることは不可能に近いと考えられます。

したがって現代に生きる私たちは、狩猟採集に適応した未進化な心のままで、現代の高度な文明社会を生きていることになります。そして、その進化的適応環境と文明特有の環境のギャップが、私たちの心にストレスや混乱を生み出しているのです。

狩猟採集社会と現代社会の違い

協力集団の規模と構造

農耕革命以降、協力集団の規模は飛躍的に大きくなっていきました。水田の造作や維持は大規模な土木工事であったため、労働の組織が必要でした。そのような労働組織の必要性や、大きな集団を養えるだけの食料確保が可能になったことなどが相まって、集住が進んでいきました。その後、時を経て国家と呼ばれるものができ、また近年ではインターネットの普及に伴って、生活集団の規模は飛躍的に伸びてきました。

集団の大きさに加えてもう一つ狩猟採集時代との大きな違いが生じました。それは、一人の人間が過ごす集団が、生涯で一つではなく複数になったということです。それまでは100人程度の閉じた内集団だけで生活していたのが、国家のような中央組織によって、集団同士の協力が要請されたり、集団自体の組み換えを強いられるようになっていったと考えられます。また、集団の人数が増えていけば、人間関係や顔の記憶があいまいになり、必然的に集団の境界もあいまいになっていきました。

このようにして文明社会以降では、閉じていた内集団同士が重なり合い、その境界は不明瞭になっていきました。これは、外集団との接点が増えたということではありません。外集団は、対立する別の集団のことを言います。ここで意味することは、決して対立するわけではなく一応は協力するような内集団が、複数重なり合うことで拡がっていったということです。

知っている人

協力集団の規模や構造の変化は、知っている人への認識や信頼の判断方法へ変化を強いました。

知っている人が一蓮托生の仲間として成立するためには、出入りのない閉じた集団であることと、集団の人数が100人程度の小規模であることが条件になります。これらの条件がなぜ必要とされるのかについて、順に説明していきます。

まず前提として、狩猟採集の環境では人類は生存するために、集団で“くり返しの協力活動”をしていました。例えば、マンモスの狩りをしてその分配を得たとしても、その一回きりの分配で一生に十分な食料とはなり得ません。その食料がなくなる頃に再び協力して狩りをして分配を得る、ということをくり返す必要があるのです。このくり返しの協力の必要性は、裏切りを抑制することにつながります。なぜなら、目先の利益にとらわれて持ち逃げをするなどの裏切り行為をしてしまえば集団から排斥はいせきされ、その後の食料獲得が困難になるからです。

しかし、その裏切り者が、なにくわぬ顔で別の集団で生きていくという選択が出来る場合はどうでしょうか。その場合、裏切り行為へのハードルは低くなり、裏切りが生じる可能性が高くなってしまいます。そのような裏切りの可能性が高い環境では、集団内の他の人を信じきることは難しくなります。したがって、他の集団で生きていくという選択肢がないということが、裏切りの可能性を下げ、一蓮托生の仲間という意識を成立させるのです。

また他の可能性として、仮に集団が1万人を超えるような大規模なものであった場合、全員がお互いを記憶することは困難です。そのような環境では、あるグループを裏切った人が、同じ集団内の自分を知らない人で構成される他のグループへ加わって、狩りに参加することもできます。この場合も裏切りのハードルを下げるため、他の人を信じきることが難しくなります。したがって、内集団の規模が人間関係や顔を記憶できる100人程度であることも、知っている人を一蓮托生の仲間として意識するための条件になるのです。

 

現代社会においても、くり返しの協力活動によって私たちの生活は成立しています。会社では同僚や上司と協力して仕事を行い、地域の安全や衛生などのために地域活動も行います。

しかし、集団の出入りは可能になりました。例えば、転職によって会社をかえたり引っ越しによって地域をかえることは一般的になり、また同時に複数の集団に属することも一般的になりました。さらに、どこまでを集団とするかの定義は難しいですが、大きな企業や地域であれば集団の規模は100人を超え、ネット社会ではさらに大きなつながりを持つことが出来ます。

このように、狩猟採集の時代からの大きな環境変化に伴い、知っている人が一蓮托生の仲間として成立しにくくなりました。他集団に移ることが容易になり集団規模が大きくなることで、個々に対する記憶や認識があいまいになり、知っている人が、協力しても裏切られる可能性がある存在へと変化したのです。

信頼の判断

信頼の判断も、100人程度の小集団の時には一人ひとりの顔と行為を紐付けて記憶できたため、その人の誠実さを推し量ることができました。しかし、集団規模が大きくなるにつれて、そのような判断方法は困難になっていきました。人数が増えれば一人ひとりと接する時間が短くなり、その人の行為から誠実さを推し量ることが困難になります。

また、前述したように、規模が大きくなり集団が開いていくほど、知っている人が一蓮托生の仲間であるという前提も崩れ、協力しても裏切られる可能性がある存在へと変化しました。さらには、初対面の人との協力や取引も必要となる機会も増えていったでしょう。このように、文明社会以降の集団では、その人の誠実さだけで信頼を判断することは困難であり、非効率なものになっていきました。

そこで生み出された信頼の判断の方法が、法や契約、ブランド、お金などの記号でした。人間自身に置いていた信頼を、他の記号へと転嫁していったのです。法や契約があれば、裏切りのリスクを心配することなく協力活動を行うことができます。また、相手のお金の有無や多寡が、協力や取引をする際の判断の助けとなっていきました。

このようにして、信頼の判断の方法として、その人自身の誠実さだけではなく、法や契約、ブランド、お金などの記号も付加されることになったのです。

アイデンティティ

さらに、アイデンティティを示す対象も変化していきました。狩猟採集時代では内集団に閉じていましたが、文明社会では複数の集団に同時に属することも一般的になっていきました。例えば、現代では会社に属しながら、地域コミュニティのつながりもあり、また学生時代の友人などとの関係の継続もあります。さらに最近では、複業などにより、複数の会社に属するということも増えてきました。

このように、文明社会以降の内集団のかたちは、自分を基点にすると星形に拡がっているようなイメージとなります。そして、その人自身のアイデンティティも、その星形内集団ほしがたないしゅうだんで拡がっているということになります。

狩猟採集社会では、属する集団は一つであったため、必然的に個人とアイデンティは1対1で紐付いていました。それが、文明社会以降では複数の集団に属することになり、個人とアイデンティティは必ずしも1対1では紐付かなくなったのです。

 

ここで、これまでまとめてきた狩猟採集社会と文明社会の環境の違いや、人類にもたらされた心的変化を以下にまとめます。

 

 

私たちの心の混乱

狩猟採集の環境で築かれた心のままで、私たち人類は文明社会を生きてきました。私たちの心が、小規模の閉じた協力生活にせっかく適応したにも関わらず、1万年前の農耕革命以降加速度的に変化していき、その心の進化は置き去りにされてしまいました。現代の心のストレスは、その心と環境変化のギャップから生じる未進化な心の混乱であると言うことができるのではないでしょうか。ここでは、具体的にどのような心の混乱が生じているのかを、考えていきたいと思います。

 

狩猟採集時代、集団は内に閉じており、知っている人は一蓮托生の仲間でした。そして、集団の生存が個体の生存と同義であったため、裏切りへの強い嫌悪を感じる心へと進化しました。しかし現代は、集団の出入りや複数の集団へ属することが一般的になりました。それによって、一つの集団内でのくり返しの協力が前提ではなくなり、信頼が浅い人とも協力活動をすることが増えてきました。このような変化によって、知っている人が、一蓮托生の仲間から、協力しても裏切られる可能性がある存在へと変化したのです。

これは裏切りを嫌悪する心にとっては、強いストレスとなります。現代社会は、たとえ相手に裏切りの意思がなくても集団の乗り換えのハードルが低くなったことで、裏切りと感じられるような行為が起きやすくなったのではないでしょうか。例えば、相手が自集団とは異なる他集団へも所属していたり集団を異動したりする場合に、ネガティブな感情を抱くことがあるはずです。一蓮托生の仲間を前提としている心は、現代社会の頻繁に起きやすくなった裏切りに、不安やストレスを感じていると考えられます。

 

また、集団の拡大や複雑化に伴い、信頼の判断の手段として、法や契約、お金などが発明され社会に浸透しました。しかし、これも人間関係の毀損につながるリスクとなり、心のストレスにつながる可能性をはらんでいます。

内に閉じた集団では、なにか助けてもらった時、別の機会にその恩返しをすることを前提としています。ですので、助けてもらった時には感謝の気持ちを示すだけで良いのです。その気持ちの交換がそれ以降の協力関係の継続を暗に示し、安心感などを与えていると考えられます。

他方で、何らかの助けや協力に対してお金でお返しするという行為は、くり返しの協力関係を否定し、その場で清算することを意味します。つまり、相手を内集団の仲間としてではなく、外集団の対象としてみなすことを意味するのです。だから私たちは、「お金はきたない」という負の印象を持っているのかもしれません。

 

現代は、内集団の重なりや境界の不明瞭化がさらに進んでいます。例えば、特に日本の会社の場合は、雇用契約を結びながらも社員は家族であるとみなす傾向があります。このように、外集団である会社に内集団の論理が混在することによって、会社との関係性に悩むこともあるのではないでしょうか。自分のキャリアアップや自己実現のために別の集団(会社)へ移りたくても、それに対して裏切りに近い感情を抱いてしまう、あるいは抱かれてしまうこともあるはずです。

反対に、内集団に外集団の論理が紛れ込んでくることもあります。例えば、知人や友人から何らかの商売品の購入を促された時、少し寂しい気持ちになることはないでしょうか。その知人や友人は決して悪意があるわけはなく、それは自分でも理解しているはずです。ただ、そうした折り合いをつけられないほど閉じた内集団で育った私たちの心は、外集団との境界に敏感であると言えます。

 

また、インターネットをきっかけとして急激に拡大する集団規模に、承認を求める心も混乱しているのではないでしょうか。狩猟採集時代は、閉じた100人程度の集団内で承認され、居場所を感じられれば問題ありませんでした。しかし現代は、SNSなどによって承認を求める集団の規模は、自分次第で、あるいは外的な誘引でいかようにでも広がります。

ただ集団の規模が拡大すれば関係は希薄化し、自分を認識してもらったり理解してもらうことは難しくなります。したがって、そもそも承認が得られにくく、また得られた承認もちょっとしたことで覆るなど不安定的であると考えられます。

このように、集団の規模や質が変化したにも関わらず、狩猟採集の小規模集団と同じように私たちの心は承認を求めていると考えられます。本来得たいはずの承認に比べて深さや安定性が低いことに、不安やストレスを感じているのではないでしょうか。

仕事においても終身雇用が崩れ雇用の流動性が高まることで、一つの会社からではなく、採用の市場から承認を得る必要が出てきました。また、都会への人口集中や核家族化が進むことで、一番頼りにできる家族や親しい友人の協力も得られにくくなってきています。したがって近年はさらに、適切な承認を感じられる集団を失いつつあると言えると考えられます。

 

このような複雑化する社会において、アイデンティティの意識も混乱していると考えられます。狩猟採集社会においては所属するのは閉じた内集団であったため、個人とアイデンティティの関係は1対1でした。しかし現代は、複数の会社や地域を渡り歩き、ネット上では複数のSNSやアカウントを持つようになったため、個人とアイデンティティは必然的に1対多となる時代であると言えます。

狩猟採集時代に築かれた一貫性のあるアイデンティティを求める心と、現代のアイデンティティが1対多となってしまう社会の間で、葛藤が起きているのではないでしょうか。集団が異なれば自分の何を認めてもらうか、あるいは認めてほしいかが異なります。必然的に、アイデンティティは集団によって違ってくるはずです。しかし、例えば、αさんがAとBという異なる集団に属しており、それぞれの集団で異なる言動や振る舞いをしていた時、AとBそれぞれの集団の人はαさんに対して良い気持ちを抱かないことの方が多いのではないでしょうか。それは、一貫性がない人として、信頼を損なう原因として捉えられる場合が多いように思います。加えて、現代のネット社会では、その言動の違いを隠すことも困難になってきています。

したがって現代の私たちは、1対多のアイデンティティが生じる必然性の中で、一貫性を求め・求められる心に、自分自身も周囲の人も混乱しているのではないでしょうか。

第四章 心の混乱の解消へ向けて

ここまで見てきたように、私たちの心は、狩猟採集の環境に適応するかたちで進化してきました。その後、1万年前の農耕革命以降、協力集団の規模が拡大するなど環境は大きく加速度的に変化してきました。それに対して進化のスピードは非常にゆっくりであるため、人類の遺伝的特性は環境変化に随時適応することが困難であり、現代の私たちの心は、狩猟採集の環境に適応したままであると言えます。

その未進化な心のままで現代社会を生きていることで、さまざまなストレスや混乱を心にきたしていると考えられます。閉じた内集団で満たされるように築かれた感情や欲求が、複雑化した集団や社会環境の影響で阻害されたり充分に満たされなくなってしまったのです。

 

では、未進化な私たちの心のままで、どのようにすればストレスや混乱を軽減することができるのでしょうか。

その解決の糸口の一つとなるのは、内側と外側を混在させないことであると考えられます。

狩猟採集社会においては、100人程度の閉じた一つの集団で人生が完結していました。しかし農耕革命以降、食料獲得の手段の変化や急激な人口増加に伴い、協力集団が拡大し複雑化していきました。別の見方をすると、目的ごとに合理的に集団が分けられていき、それぞれの集団で目的を果たすような人生を、私たちは送っていると言えます。

狩猟採集社会では、食料獲得や居住地の安全や衛生の確保、子育て、教育、まつりや娯楽などを、一つの集団内で完結させていました。そのあらゆる活動において協力する人々は同一であり、一蓮托生の仲間であり、裏切りが少なく、適切な承認が得られ、一貫したアイデンティティで過ごすことができました。

他方で現代は、目的ごとに、会社、地域、家族、学校、相談や遊び相手としての友達などと、過ごす集団や人々が異なります。そして、集団の規模や目的によっては、裏切りが少なく、適切な承認が得られ、知っている人は一蓮托生の仲間であるとみなす感情や心を満たすことは困難となりました。狩猟採集時代に築かれたこれらの心を、内側の心と呼ぶとするならば、多様化した社会の集団の全てにおいて内側の心を満たそうとすることが、心の混乱やストレスの原因の一つとなっていると考えられます。集団の規模や目的によっては、内側の心を満たすことは困難であると考えられるからです。

したがって、個々が属する集団のどこで内側の心を満たすのかを意識しておくことは、現代に必要な生き方の一つであると言えるのではないでしょうか。

ただし、外側の環境が必要なく悪いものであるということではありません。外側の環境は、大規模になった人類が間接的に協力し合うためには有効です。現代社会の仕事は、社会という大規模な集団と協力・分業する行為であると言えます。したがって、仕事を行う環境である会社においては、外側の環境の論理が必要であり有効であると考えられます。会社をはじめとした外側の環境では、その環境の意義や論理を理解した上で振る舞う、ということも心のストレスを軽減する方法であると言えるのかもしれません。

ここで改めて注意しなければいけないのは、内側と外側の環境では、はたらく論理が異なるということです。例えば、内側の環境で契約やお金を用いすぎては、その関係に悪影響を及ぼします。他方で、外側の環境で人間の誠実さだけで信頼を判断し物事を進めようとすると、非効率を招きます。このような論理を理解し、内側と外側の環境にそれぞれ他の側の論理を持ち込みすぎない、ということも重要になってくると考えられます。

 

このような内側と外側の分離は、一個人の意識で行うには限界があると考えられます。社会に存在するさまざまな集団には、内側と外側の論理が仕組みや文化として入り混じっていると考えられるからです。

リベル:この内と外の論理の入り混じりは、年功序列や終身雇用、労働組合などの日本企業に特徴的な制度を表しているようにも感じる。近年では、それらは制度疲労しており再構築が必要だと言われているが、なかなか刷新されないのは、人間の内側の心が働いているからではないだろうか。他方で、数十年前までは内側の論理が混在していた大企業が活躍しており、働く人も決して不幸せというわけではなかったのだと思う。内側の論理が会社内に持ち込まれることは、必ずしも悪というわけではなさそうだ。内側の論理が混在した日本企業の制度が、ネガティブな印象をもたれるようになったのは、どのような背景や前提の変化があるのか、改めて考えてみたいと思った。

したがって、これからの社会でより満たされた生き方ができるようにするためには、内側と外側の論理を意識したコミュニティの再構築や創造が必要とされるのだと考えられます。実際に行うのは決して容易なことではないと考えられますし、その分離の程度もどれくらいが良いのか検討の余地があると考えられます。あまりにも明確に切り分けすぎた時に、本当によい社会と言えるのか疑問に感じる点もあります。しかしながら、今後も複雑化していくであろう社会において、私たちの心や内側と外側の環境の特性を理解しておくことは、よりよい生き方の選択や、よりよいコミュニティを作る上での示唆を与えてくれると言えそうです。

別ページ「協力集団の二重構造」(本書の最後にリンク掲載)に、今回紹介しきれなかった内側と外側の違いを記載しています。すこし雑な紹介となってしまいますが、もしよければご参照ください。

 

最後に、石川先生に改めてこんな問いを投げかけてみました。

「これからの社会において、私たちの心がより満たされより幸せを感じるためには、どのようなことが必要とされるのでしょうか。」

 

石川先生:現代は、社会の環境が全体的に外側に移っていっている、あるいは外側の論理が内側に浸透してきていると言えます。地域における関係性の希薄化や核家族化や共働きの一般化がその一例です。つまり、人類が幸福を感じる内側の環境が、不足してきているということです。

アメリカは個人主義で会社でも物怖じせずに合理的な意思決定が成されていると言われますが、その秘密は教会にあると私は考えています。休日に教会に行って地域の人あるいは神様とふれあうことで、人間的なつながりを感じ、自信を持って会社では合理的に振る舞えるのだと考えています。

内側と外側では論理が異なるので、それを混在させないことが重要です。例えば、日本人は失敗を恐れると言われますが、失敗して意気消沈するのは内側の論理です。失敗というのは、内側では社会の掟を阻害したということを意味し、集団から排斥される恐れを想起させるからです。しかしながら、特にこれからの仕事においては失敗は許容されなければなりません。ですので、外側である会社では、失敗は良いことだとして鼓舞していくような文化や仕組みが求められます。

内側だけでは生活を維持するのが困難ですし、外側に寄り過ぎると幸福度に影響します。これからは、内側と外側のバランスや、どのような論理をもって振る舞うか、あるいは設計していくかが重要であると考えています。

 

(2019年10月12日掲載)

 

〈参考文献〉

  1. 石川幹人著(2010)『だまされ上手が生き残る〜入門!進化心理学』(光文社新書)
  2. 石川幹人著(2012)『生きづらさはどこから来るのか〜進化心理学から考える』(ちくまプリマー新書)
  3. 石川幹人著(2012)『人間とはどういう生物か〜心・脳・意識のふしぎを解く』(ちくま新書)

〈参考資料〉

 

筆者:吉田大樹

人の内発性により生み出される、プロダクトや活動に魅力を感じています。自分自身様々なサービスを模索する中で、何かを生み出そうと考えるほどに視野が狭まっていく感覚を覚えたことを一つのきっかけとして、リベルを始めることにしました。1986年岩手県盛岡市生まれ。2005年、東北大学工学部・機械知能航空工学科へ入学。2009年、東北大学大学院工学研究科・ナノメカニクス専攻へ入学。2011年、株式会社ザイマックスへ入社。2016年7月、高校時代からの友人と株式会社タイムラグを創業。

 

 

 

 

 

〈お知らせ:リベルの読書会〉

リベルでは休日の朝10時からオンライン読書会を開いています。今のところは、各自の本を持ち寄る形式とリベルの短編本を使う形式の2つのパターンで行っています。

 

読書会の情報については、Facebookページやpeatixをご覧ください。申込みをせずに直接訪れていただいても結構です。ただ、たまに休むこともありますので、日程だけはご確認いただければと思います。

Facebookページ(イベントページ欄)

peatix

 

また、リベルの読書会のスタンスはこちらに表しています。

読書会のスタンス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時代は変わるけど私たちの根本は変わらない。環境をつくり変え続けるのだ、頑張ろう。 #リベル

Twitter