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民主主義社会の君主

権限を有さない代表の役割

文量:新書の約30ページ分(約15000字)

はじめに

共同体を代表する人は、その言動で、共同体のイメージを創り上げ、人々に所属や貢献の意欲を生み出します。あるいは、そういった一体感を生み出す人が、共同体の代表として認識されていくとも言えます。例えば、企業の創業者、または元巨人軍の長嶋茂雄氏なども、共同体を代表する人と言えるのではないでしょうか。ちなみに、ここで言う共同体の構成員は、従業員や選手だけではなく、顧客やファンまでも含んでいます。

そのような人たちの影響力を思い起こしてみると、共同体をまとめて一体感を生み出すためには、権限のような定量的な力だけではなく、定性的な力あるいは存在そのものが必要であると言えそうです。

国という大きな共同体においても、国王陛下や天皇陛下といった、君主と呼ばれる代表が存在します。イギリスや日本のような議院内閣制を採用する民主主義国家においては、首相が行政を取り仕切るため、君主は明確な権限を持たない定性的な存在と言えます。

では、民主主義社会における君主は、国という共同体の統治において、どのような役割を果たしているのでしょうか。それは、首相とは違う、どのような働きや特徴をもって成されているものなのでしょうか。そのような定性的な力を持つ存在は、私たちが属する会社や地域などの共同体においても、必要性をもつものなのでしょうか。

 

今回は、関東学院大学・国際文化学部教授の君塚直隆先生にお話を伺いながら、このようなテーマについて考えてみました。

 

君塚直隆きみづかなおたか先生

1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・カレッジ留学。上智大学大学院・文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。

〈著書〉

  • 『立憲君主制の現在』(新潮選書)
  • 『ヴィクトリア女王』(中公新書)
  • 『物語 イギリスの歴史(上・下)』(中公新書) など

 

 

第一章 民主主義と君主制

君主制と聞くと、一人の支配者が国を統治するような、独裁的なイメージを抱くのではないでしょうか。しかしながら、民主主義国家であるイギリスや日本でも君主をおいており、現代においては、君主制イコール独裁的とは言えなそうです。ここでは、君主制への理解を深めるために、現代における君主制の分類や、君主制と対比される共和制について触れながら、民主主義社会における君主制について整理していきたいと思います。

 

ドイツ出身でのちにアメリカで活躍した、憲法学者のカール・レーヴェンシュタイン(1891〜1973年)は、君主制を、統治形態や君主の力の持ち方によって三つに分類しました。

一つ目は、「絶対君主制」です。これは、その言葉の通り、君主は絶対的な支配者として君臨し、統治する形態です。ただし、君主は自分の意のままに統治するのではなく、神の命じた権利によって思うがままに統治でき、神に対してのみ責任を負うものとされています。このような考え方を「王権神授説おうけんしんじゅせつ」と言います。

二つ目は、「立憲君主制」です。立憲とは、憲法のもとに君主の権利が制限されることを意味するため、王権と議会の連携のもとで、君主が君臨し、統治することになります。「国王は君臨しかつ統治する」と言われる形態です。しかし、この形態では、国王の背後に軍隊・警察・行政がついているため、国王と議会に対立が生じた場合、国王側に権利が傾くことが多くなります。つまり、絶対君主制の性質を帯びた統治形態と言え、例えば19世紀のプロイセン王国(現在のドイツ北東部)はその典型であったとされています。

三つ目が、「議会主義的君主制」です。19世紀のイギリスで確立され、「国王は君臨すれども統治せず」と言われる形態です。現代の日本もこの形態です。立法は議会に委ねられ、行政は議会内で多数派を形成している政党の信任を得た内閣によって担われ、内閣の首相や大臣の責任は議会に対して問われます。このような、議会の信任を得た上で内閣が成立し、行政が執り行われていく制度を、議院内閣制と言います。議会の議員が選挙によって選出される仕組みが整えられていれば、政治は、間接的にではありますが、国民の監視のもと民意が反映された形で行われることになります。別の見方をすると、君主が政治に介入する権限がほとんど与えられていない形態であると言えます。

今日に至るまでに、二つ目に挙げたような、絶対君主制の性質をおびた立憲君主制をとる国家は、軍部や民衆によって倒壊させられてきました。現代では議会主義的であることが一般的であることを前提に、議会主義的君主制をとる国家も、立憲君主制の国家として分類されるようになってきています。したがって、本書では君塚先生の考えにも則り、イギリスや日本のように議会主義的君主制である国家も、広義の立憲君主制の国家であるとして分類することとします。

 

君主制の対比としては、君主をもたない共和制という政体があります。共和制をしく代表的な国家は、アメリカ合衆国です。共和制では、政府の長となる大統領は、国民による直接選挙により選出されます。そして、その大統領が、対外的な国家の代表である、国家元首という役割も同時に担います。つまり、共和制国家では、大統領が政府の長であり、国家元首でもあるのです。他方で、君主制の国家では、政府の長は首相ですが、国家元首は国王や天皇といった君主とされています。

政府の長と国家元首が選挙によって選出される共和制と、政府の長は選挙によって選ばれるが、国家元首は世襲によって決まっている君主制では、共和制の方が民主主義社会と親和性の高い制度であると感じられます。

しかしながら、共和制をしく国家の中には、中華人民“共和国”や、アサド政権による民衆への弾圧が長年続くシリアも含まれます。つまり、共和制国家イコール民主主義国家ではなく、他方では、イギリスや日本のように君主制を採用しながら民主主義的である国家も存在します。したがって、民主主義国家として成立するか否かは、その制度に依存するのではなく、「民主政治と人権」を尊重する思想や制度が、成熟度高く確立されているかどうかに依存すると言えます。

 

ここまで整理してきたように、共和制か君主制かという違いは、政府の長と国家元首に、同一人物をおくか異なる人物をおくかという点にあると言えます。民主主義か専制主義かという違いを、直接的に規定するものではありません。しかしながら、民主主義社会においては、君主制よりも共和制のほうが、親和性が高い制度であるとも思えます。

では、民主主義社会において君主制をとり、君主をおき続けるのは、どのような理由や効用があるからなのでしょうか。国家元首としての君主の役割とは、どのようなものなのでしょうか。あるいは、民主主義社会に移行する中で、君主は自らの存在を、どのようなものとして捉え直していったのでしょうか。その存在の意義や役割を想像しながら考えるために、次章では、民主主義と君主制が共存するまでの流れを、イギリスを例として振り返りたいと思います。イギリスは、議院内閣制が確立された最初の国であり、現代でも国王をおく立憲君主制の国家であるため、例として取り上げることとしました。

第二章 民主主義的君主制の成立まで

議会の成立

イギリスで議院内閣制が確立されたのは19世紀頃ですが、議会に通じるような機関は、10世紀頃から存在していました。

イングランド王国では、924〜939年に在位したアゼルスタン王によって、各方面の有力者を召集した「賢人会議」と呼ばれるものが開かれていました。召集されたのは、大司教や大修道院長といった高位聖職者の諸侯しょこうや、地方長官や豪族などの世俗の諸侯でした。多い時には100名程度の有力者が集められた賢人会議では、立法の討議や、王権の表象ともいうべき貨幣鋳造などについて話し合われていました。このように、国王が積極的に有力者である諸侯を頼ることで、両者には緊密な互恵的ごけいてき関係が築かれていたと考えられています。

その後も、歴代の国王は、議会の意見を聞きながら政治を執り行っていました。しかし、1199〜1216年に在位したジョン王が、フランス国王に奪われた土地を奪い返そうと、独善的な挙兵や課税を執り行ったことにより、国王と議会との関係が変化していきます。1214年には、有力諸侯から「王国のすべての自由民が、国王から意見を徴されてから」課税や政策決定を行わなければいけないとする、大憲章(マグナ・カルタ)と呼ばれる契約書がジョンに突きつけられたのです。つまり、国王は政策を独断で決めてはいけない、ということを契約で明確にすることを求められたのです。ジョンはこの大憲章の受け入れに反対し、その内乱のさなかに急死します。しかし、その後を継いだジョンの長子ヘンリ三世がそれを受け入れました。ここに、本格的なイギリス議会が誕生したのです。

13世紀半ばには、議会の構成員は大きく三つに分類されていました。①国王の大臣・顧問官たち、②聖職と世俗(伯・諸侯)の有力者たち、③各州からの騎士、各都市からの市民、各司教管区からの下層聖職者たちです。

1327〜77年に在位したエドワード三世の治世には、イングランド全土から寄せられる「請願」の数が急増していきました。その急増する請願に対応する中で、請願や訴訟に裁決を与える聖職諸侯と、請願や訴訟を提出した側を代表する騎士と市民の側とに立場が分かれていきました。これが、前者を貴族院とし、後者を庶民院とする、二院制の議会が生まれたきっかけでした。

二院制という議会の仕組みが整えられていったとはいえ、まだ絶対君主制が崩れたわけではありません。1603〜25年に在位したジェームズ一世(1567年からスコットランド国王)は、イングランド国王につく5年前に、自らの著作の中で、王権は神の権威に直接由来し、王は神に対してのみ責任を持つという「王権神授説」を唱えていました。王権神授説は、絶対君主制の君主がもつ考え方です。

しかし、ジェームズ一世は、他方で議会の協力の必要性も理解していました。実際に、戴冠式の宣誓では「この国の基本的な法を守り、法に則った統治を行い、法を変更するのは議会による助言によってのみであり、あらゆる種類の法を制定する際に、国王と彼の議会とが絶対的な存在である」と明言したとされています[2]。つまり、この時代には、絶対君主であっても議会の力を無視できない、あるいは議会の力によって安定的な国家運営ができるという認識がされていたと考えられます。

絶対君主制の終焉

議会を尊重しながらも君主としての絶対的な権力は有する、という国王のあり方は、1625〜49年に在位したチャールズ一世の時代に急変します。チャールズ一世は、当初は議会を尊重していましたが、様々な問題により議会と対立するようになり、1629年から11年間、議会を開きませんでした。当時は、議会は制度ではなく行事的な側面があったため、開催頻度などに規定はありませんでした。

しかし、1640年頃に事態は急変し、「清教徒革命」と呼ばれる内乱に突入していきます。この内乱は、官僚組織や軍を十分に整えていない中で、絶対君主を目指そうとしたチャールズ一世の失策が一つの要因で起きたものでした。チャールズ一世は、君主制の終わりの見せしめとして首を切り落とされます。その後、一時的に共和制に移行しますが、王政復古が起こり再び君主制に立ち戻りました。この頃のイギリスでは、「国王、貴族院、庶民院」の三つの連携が、安定した政治をもたらすという認識が定着していたのです。

そこで即位したチャールズ二世(在位1660〜85年)は、議会を尊重した政治を行います。しかし、次代のジェームズ二世(在位1685〜88年)は、議会を軽視した政治姿勢をとりました。そして、ジェームズ二世は、「名誉革命」により追放されました。もはやこの時代、議会を軽視することは、追放につながることを意味していました。

名誉革命の後、国王の権限は大きく変わっていきました。次代の君主の戴冠式では、「イングランド諸王により与えられた法と慣習を人民に与えることを確認する」という国王主体の文言が、「議会の同意により制定された法と、同様に定められた慣習に基づき、人民を統治する」と議会主体の文言に改められました。これは、君主が法の創造者であるという考えを放棄したことを示す、大きな出来事でした。また、この後に定められた権利の章典けんりのしょうてんでは、「議会の合意のない法律の停止は違法である」という条項が盛り込まれました。さらには、「王室費」という国王の歳費が導入され、国王は自らの資金も議会の決定に従うことになりました。また、当然の帰結して、1689年以降には議会は定例化し、行事ではなく制度としての議会へと変化しました。ここに、政治における議会の主体性が高まり、絶対君主制は終焉していきました。

議院内閣制の成立と大衆の時代

1702〜14年に在位したアン女王の治世には、大臣たちの集まりである「内閣評議会」が、独立的な機関となり、権限が強くなっていきました。これは、のちの内閣の原型となる機関です。内閣を構成する大臣たちは、貴族院と庶民院の議員であり、政府(内閣、中央官庁)は国王に責任を負うのではなく、議会に責任を負う時代になっていました。ここに、議院内閣制が成立したのです。そしてその後、内閣を構成する大臣の中から、首相の役割を果たす者が出てくるようになっていきました。

1700年代中頃からは、産業革命が始まりました。イギリスの上流階級の構成員には、ビジネスで成功をおさめた商人や工場主などが加わっていきました。封建的な階層は崩れはじめ、地方から都市部への人々の流入が起きたことで、庶民が不満と共に、情報や結束の機会を持つようになっていきました。それに伴い、議会はより国民を向いた政治を行わなければいけなくなっていきます。かつて国王は、議会を尊重するよう姿勢の変化を求められましたが、今度は議会が国民を尊重するよう姿勢の変化を求められたのです。

1830年代後半からは、男子普通選挙権などを求めた、チャーチスト運動が起こりました。また同じころ、貿易規制により地主貴族層の利益保護に寄与していた「穀物法」の廃止を訴える組織も、工業都市マンチェスターを拠点に立ち上げられました。このような市民運動や地方からの請願が増えるにつれて、その要求に応じる政治活動が、貴族院ではなく特に庶民院に求められました。

1906年には、労働者階級が自ら立ち上げた「労働党」が結成され、その時の選挙で30人の議員を庶民院へ送り込みました。庶民院の二大政党であった保守党と自由党も、労働者の求めに応じた政策を打ち出していましたが、ついに労働者自らが政界へ進出してきたのです。労働者階級の支持基盤は労働組合でしたが、その労働組合員の数は、1901年の約200万人から、1913年には約410万人へと急激に増加していました。これは、既存政党にとっては大きな脅威でした。

そして、中世貴族政治の時代の終わりを印象づける出来事が起こります。1909年、自由党政権の蔵相は、軍艦の建造と、労働者向けの老齢年金制度を導入するために、財源を必要としていました。その財源確保のために、一般所得税の増税とともに、高額所得者への累進課税と、印紙税・相続税の大幅な増額を、予算案として起案しました。これは、当時「人民予算」と呼ばれていました。当然のことながら、これには、地方貴族階級が猛烈に反対しました。

この人民予算案は、庶民院を通過します。しかし、貴族院では大差で否決されてしまったのです。選挙という洗礼を受けた議員で構成される庶民院の合意案を、世襲貴族による貴族院が否決したことは、大きな波紋を呼びました。その後、国王の調整や、指導者間の密約もあり、貴族院も通過します。しかし、この貴族院での否決が問題視され、貴族院の権限を大幅に縮小する「議会法」の制定が検討されます。具体的には、①予算案や課税などの金銭に関わる法案は、貴族院で否決されたとしても、庶民院を通過すれば成立する、②金銭以外に関連する法案については、貴族院で否決されたとしても、庶民院を三会期通過すれば成立する、といったような内容でした。これによって、貴族院の力は、明確に大きく削がれたのです。

 

このように、中世から近代にかけての大きな民主化の流れの中で、国王から議会へ、議会から大衆へと主権は移っていきました。その流れに抗うものは、チャールズ一世やジェームズ二世のように処刑や追放をされたり、貴族院のように権力を削がれてしまいました。貴族政治のもとでその威厳を保っていた王室は、その時代の変化の中で、世襲によって拝命した君主という地位だけでは、その威厳や力を保つことは困難になっていきました。

しかし、議院内閣制の成立から約300年、議会法の成立から約100年を経た今でも、イギリスに国王は君主として存立します。では、国王は、どのようにしてその役割を再定義し、国民に認められ、求められるようになっていったのでしょうか。次章では、議会法成立と同時期に国王に即位したジョージ五世と、現在の君主として存立するエリザベス二世について紹介し、その存在が求められるに至った働きや役割について考えていきたいと思います。

第三章 民主主義社会以後の君主の働き

公正中立を選択したジョージ五世

ジョージ五世は、父王・エドワード七世の急死をうけて、1910年に即位しました(〜1936年)。その即位直後から、人民予算や議会法に関する対立の調整役をジョージ五世が務めました。その時に貫いた立場は、「公正中立」でした。

ジョージは、オックスフォードやケンブリッジで学ぶという典型的なイギリス上流階級の教育を経験せず、王立海軍兵学校を出ただけの生粋の軍人でした。それが、兄の突然の死をうけて、父エドワードに次ぐ王位継承者第二位となったことで、立憲君主制・民主主義の時代における君主のあり方について、真剣に考えるようになります。ジョージは、王位継承者第二位となった年から、ケンブリッジ大学で国制史を講じていた先生に、個人授業を受けていました。その時にジョージがとった講義ノートの中で、特に強調されていたのが次の一文です。「君主は諸政党から離れており、それゆえ彼の助言がきちんと受入れられるだけの公正な立場を保証してくれる。彼はこの国で政治的な経験を長く保てる唯一の政治家なのである」。[3]

ジョージは、君主が主体的に政治を動かす時代ではないことを受け止めた上で、デメリットだけではなく、その立場のメリットは何かを正確に認識、理解したのだと考えられます。対立する政党同士では、互いの意見は敵からの意見であるため、聞き入れてもらうことは困難です。しかし、どの政党にも属していない君主であれば、その意見や言葉にも耳を傾けてくれます。また、政党の代表のように、任期や選挙によって数年単位で交代することも原則的にはありません。存命である限り在位する君主は、政党代表よりも長くその国の政治に身を置くことになり、必然的に経験が蓄積されていきます。ジョージは、権限を持たなくなった君主のメリットを認識し、公正中立な立場で政治に貢献することを選んだのです。

 

ジョージが、民主主義社会における君主であることを意識した行動や姿勢は、政治以外にも表れていました。

1914年、第一次世界大戦が勃発しました。16年からは徴兵制度が導入され、成年男性の大半は出兵し、残された女性は生活や家庭を守ることの負担が増しました。ジョージ五世は、国民に負担を強いなければいけない状況に、自ら模範となろうと努力しました。軍服以外の新調は控え、晩餐会でも酒類はいっさい出さないことに決めました。暖房や照明の使用も最小限に抑え、風呂もお湯は5〜6cmだけであとは水で済ませました。国民は、国王と王室のこの姿勢に感銘を受けると共に、心強さや一体感も感じたのではないでしょうか。

他にも、国民への顕彰も積極的に行いました。それまでの褒章は、一部の英雄や将軍・提督たちにしか与えられていませんでした。ジョージは、その枠組みを広げました。一兵卒や勤労動員の女性など、国民全てを対象にした「ブリティッシュ・エンパイア勲章」を創設したのです。この創設からわずか2年の間に、25000人が受章し、その中には、労働組合員や君主制に否定的であった人までもが含まれていました。ジョージは、ここでも公正中立の姿勢を貫いたのです。

さらにジョージは、君主として国家にできることを、自らの足を使って実行しました。大戦中の4年間で、450の連隊と300の病院の慰問に訪れ、軍需工場や港湾で働く人々を激励した数も300を超えました。第一次大戦で命を落とした帝国臣民は88万人を超えましたが、戦後に国王は国民と帝国にとっての「喪主もしゅ」となりました。これは、国家を代表する存在であり、自らも国民とともに節制や慰問などの負担や働きを共有し、それを国民から認識されているからこそ、できる役割であったと考えられます。

 

このように、ジョージ五世は、王室や貴族の力が大きく削がれていく中で即位しましたが、そこでは公正中立な立場で、国家が抱える問題に向き合いしました。政治の調整役として働き、国民と共に節制をし、褒章の見直しを図り、国中を駆け巡りしました。これが民主主義化した社会において、君主自らが見出した役割や存在のあり方であったと言えます。

では、民主主義という価値観がさらに一般的になった現代では、君主はどのような働きや役割を担っているのでしょうか。イギリスの現在の君主である、エリザベス二世についても触れてみたいと思います。

社会問題の解決に奔走するエリザベス二世と王室

エリザベス二世は、1952年に女王として即位しました。1926年生まれである彼女は、2019年現在93歳を迎え、女王として即位して67年を迎えます。

政治的な活動としては、首相と毎週1,2時間程度接見し、意見交換の機会をもっています。主体的に政治を動かす立場ではないとはいえ、歴代の首相の回顧録から読み解くと、深く入り込んだ意見交換もされているようです。そして、場合によっては意見交換に終わるだけではなく、もう少し強い働きかけを首相にする場合もあるようです。

ここで、次の話を円滑に進めるために、コモンウェルスと呼ばれる、複数国家で形成される政治的共同体について触れておきます。コモンウェルスの加盟国は、主にイギリスのかつての植民地で構成されていますが、現在は各国、独立した国家です。コモンウェルスは、その加盟国が国際的な理解や世界平和の促進のために、協議し協力していく、緩やかな国家連合であるとされています。コモンウェルスの首長は、加盟国の選出により決められますが、現在はエリザベス二世が務めています。

1979年、コモンウェルス加盟国であるザンビアで、アフリカ大陸で初となるコモンウェルス諸国首脳会議が開かれました。この会議では、南ローデシア(1965年にコモンウェルスから脱退)の黒人差別政策を終わらせることが、最大の争点となっていました。しかし、当時のイギリスの首相であるマーガレット・サッチャーは、この問題に対して関心を示していませんでした。主催国ザンビアの大統領や他の黒人首脳との間には距離があり、初日の晩餐会でサッチャーは、一人部屋の隅にたたずんでいました。その間をとりもったのが、エリザベス女王だったのです。女王陛下はサッチャーを、旧知の仲である黒人首脳たちが会話する場に連れ出し、サッチャーはその場に加わることで、南ローデシア問題の深刻さを認識しました。翌日の会議からは、サッチャーはまるで別人になったかのように積極的に発言し、翌月にはロンドンで南ローデシア各派の指導者を集めて交渉を開始させたのです。このような女王陛下の働きは、国家の代表を長く務めていることによる人脈の広さと、自国だけではなくコモンウェルス全体に対して、公平中立な立場で問題に向き合うという姿勢によって成されたことであると言えるのではないでしょうか。

 

エリザベス女王がそのような働きをするのは、国家間の交渉や政治の場面だけではありません。現在、約600の慈善団体の会長や総裁などとして関係を持ち、活動を支援しています。また、このような慈善的な活動をしているのは、女王陛下だけではありません。イギリスは、約20人の王族がいますが、その20人でおよそ3000の団体の会長や総裁を務めています。例えば、子どもの権利の保護を目的としたNGO団体、セーブ・ザ・チルドレンは、現在約30の国々で連携し活動しています。その総裁をエリザベス二世の第一王女であるアン王女が、1970年以来務めているのです。

王族の人々は、国民から社会の問題を聞く機会を設けています。王室が年4回主催する園遊会には、市井の人を中心に1回あたり約8000人、年間30000人を超える人々が招待され、王族と人々はコミュニケーションをとっています。招待されるのは、市町村長から推薦を受けた、ボランティア活動などをする一般市民であるため、接した王族は社会の問題を直接聞くことができるのです。

現代は、地球環境問題や、女性や子どもの人権の問題、LGBTなどの性差別の問題など、複雑な問題が多数存在します。その多様な問題を、一国の君主という権威を存分に活かし、資金集めなどの面で貢献し、奔走しているのが現代の国王であり王室です。民主主義社会への移行により、君主は権限を失うことである意味で身軽になったと考えられます。その身軽さも、このような活動に存分に活かされていると言えるのではないでしょうか。立憲君主は、議会を通すことを必要とされず、直接的な国益だけを厳密に求められるわけでもありません。また、ビジネスとしての金銭的利益の追求も求められません。国民との接見や各国の周遊により、直接的に知り得た社会問題に、スピード感をもって真正面から対応することができるのです。

他方で、これは君主としての権威が維持されているからこそ、出来ることであるとも言えます。君主は、その代々続く血統に加えて、容易には真似できないその活動の量や、慈善的で道徳的な精神があるからこそ、国民からの信頼を得て、権威を保ち続けられていると考えられます。そして、そのような君主が自国の代表であることで、国民は誇りや一体感を感じ、必要とされているのではないでしょうか。

第四章 権限を有さない代表の役割

民主主義社会における君主の役割

国家における君主の権限は、絶対的な権限を持つ絶対君主制から、憲法や議会によってその権限を制限される立憲君主制へという制度の変遷を経て、縮小されていきました。身分が固定的な封建社会では、君主は政府の長と国家元首を兼ねていましたが、民主主義以後の社会では、国家の代表である国家元首としての地位のみが残されました。民主化の大きな流れの中で、絶対的な権力を維持しようとする君主は追放され、権限が制限されていったのです。

その民主主義以後の社会にいても、イギリスの君主である国王は、その存在感を示し続けています。それは、君主が、社会は民主主義に変革したのだという現実を見据え、その上でどのような役割を担うべきかという存在のあり方を、柔軟性をもって考え、実行した結果であると考えられます。立憲君主制以後の代表的な国王であるジョージ五世は、その変化を受け止めた上で、公正中立という立憲君主のあるべき姿勢を学び、それを実践しました。

その公正中立という姿勢は、何に対して公正中立だったのでしょうか。それは、抽象的ですが、イギリスが良い国家として維持・発展することを目的として、その目的に対して公正中立であったのだと思われます。決して保身のためではなく、国民のための目的を掲げ、行動していたからこそ、直接的な権限を持たなくなって以後も、国家や国民から必要とされたのではないでしょうか。

反対に、そのような公正中立な姿勢や行動は、権限を持っていないからこそ貫けたことであるとも言えます。政党に属していれば、中立を貫くことも、中立であると受け取られることも難しいと考えられます。共和国では、政府の長が国家元首も務めますが、政府の長として政党との関係を持っている限り、中立な立場でいることは困難です。また、他政党や国外政治家などからも批判や攻撃をされる対象となり、公正中立的な言動を保つことや、また長く務めることも困難となると考えられます。

君主は、民主主義の社会において、政治を直接的に執り行う権限は失いましたが、逆にそれをメリットに転換し、公正中立的な立場から、国家の代表として自国や他国から求められる存在に自らを変化させていきました。それは、通常の階層的な組織の延長線上にはない、新たな枠組みの存在が生まれる契機であったと言えるのかもしれません。

最後に、まとめとして、民主主義社会において権限と切り離された君主の役割を、4つに区分して以下にまとめます[1]。

 

  1. 国民統合の象徴
  2. 連続性と安定性の象徴
  3. 国民の功績の顕彰
  4. 社会奉仕への援助

 

1つ目の国民統合の象徴は、国家の偉業や悲しみに対するメッセージ、あるいはジョージ五世が行った慰問などにより成されていることです。また、エリザベス二世は、即位した翌年のクリスマスメッセージで、国民にこのように語りかけました。「私は君主というものが、我々の団結にとって単に抽象的な象徴であるだけではなく、あなたと私の間を結ぶ、個人的な生きた紐帯ちゅうたいであることを示したいのです」[4]。これは、高いところで君臨するのではなく、国民と等しい立ち位置で国家や国民と向き合っていたいという、女王陛下の意思が表れているメッセージであると考えられます。

2つ目の連続性と安定性の象徴は、王族という血統を受け継ぎ、原則的には存命する間の長きにわたって、国家の代表として存在し続けられることによって成されます。首相のように任期や辞任がなく、また公正中立的な立場から、一貫性のある言動が期待できます。また、他国の要人との人脈も広く長く築くことができ、それが政治的にプラスな働きかけにもつながります。このような、君主がもつ特徴は、特に世の中が急速に変化していく現代においては、国民に安心や、国家の継続的で安定的な発展をもたらすものと考えられます。

3つ目の国民の功績の顕彰は、ジョージ五世以後、その授与の対象が広げられた褒章制度のことです。慈善活動への貢献や、芸術・学術の分野で優れた功績を残した場合や、その他にも100歳の誕生日や結婚70周年には、女王陛下から直接カードが届くようになっています。

4つ目の社会奉仕への援助は、エリザベス二世が行っているような、時代の変化とともに生じる様々な社会問題に、団体を立ち上げたり、その活動を支援すること成していることです。前述したように、エリザベス二世は、より国民と近い立ち位置での存在を望みましたが、それでも権威を保っていられるのは、このような圧倒的な量の国民や国家、あるいは世界のための活動を行っているからではないでしょうか。

現代の共同体における君主的役割の必要性について

ここでは、君塚先生の話をうけて、国家以外の共同体での君主的存在・役割の必要性について、少し考えてみたいと思います。

日本でも、明治維新以降、士農工商という封建的な身分階層が廃止され、急速に民主主義的な社会へ変化してきました。そして現代は、そういった社会的階層の撤廃による民主化にとどまらず、より一層個人の選択肢や選択する権利が増大してきています。雇用においては、転職サービスやクラウドソーシングの発達、さらには生産年齢人口の減少・希少化に伴って、個人の意思が尊重されやすくなりました。情報の取得に関しても、取得元を個人で選択できるようになり、発信も個人で行うことができるようになり、影響力を持てるようになりました。このようなあらゆる状況における個人の権利の拡大・民主化は、その行動だけではなく、価値観についても変化をもたらしているものと考えられます。個人が自由に選択できることが当たり前であると考え、個人の自由を阻害するものに対しては嫌悪感を示すように、価値観が変化してきているのではないでしょうか。

このように個人の権利がより拡大し、価値観も個人志向へ変化してきている社会において、企業をはじめとした共同体は、権限をもって個人を強くつなぎとめることが困難になってきていると考えられます。雇用という側面だけではなく、サービス供給者としての企業が消費者を縛り付けるような契約や囲い込み戦略は、嫌悪感を持たれ、離れていくことになるでしょう。

他方で、つながりや共同体自体を完全に嫌悪しているのではなく、居心地の良いことを前提に、所属やつながりを求めることは人間の本性ではないでしょうか。SNSの流行や、最近では消費する物にも背景にある思想や価値観を求め始めたのも、人間の所属への欲求の表れではないでしょうか。

しかしながら、近代以降、東京一極集中により地域社会のつながりは薄れ、終身雇用の終焉や雇用の流動性の高まりによって企業への所属意識も薄れました。現代を生きる個人は、自由を得た一方で、共同体を失っていることも事実であると考えられます。

したがって、これからのより民主化が進んでいく社会においては、自由を阻害しない程度のつなりがりで形成された共同体が必要となると考えられます。それは掟や制度、権限で縛ることはできないと考えられますが、共同体を規定したり紐帯の役割を果たす、何らかの存在は必要です。それが、君主のような存在に求められることではないでしょうか。自らは明確な権限は持たず、共同体を良くするという目的に対して公正中立な立場であるために、人々から受入れられるような存在です。その働きによって共同体に良いイメージがもたらされ、それに属する人々に誇らしさや一体感をもたらすような役割を担う存在です。これからのより自由でより民主的な社会においては、共同体の権力的な維持が困難になったからこそ、権威的な存在がより必要とされていくのではないでしょうか。

リベル:今回は、民主主義社会においても君主が存在する事実から、その必要性を考えた結果、共同体の紐帯としての役割を果たしていると結論づけられた。しかし、紐帯の役割を果たすのは、必ずしも人だけではなく、例えば「場」もそのような役割を果たしているのではないだろうか。どのような場がどのような働き(機能)をもって、共同体のつながりを生み出しているのかを考え、君主との違いを比較してみたい。
リベル:追考してみました。現代の私たちの価値観を「所属は求めるけど、縛られるのは嫌だ」として、現代に適した場とは何かを考えてみました。『進歩的自由空間 〜縛られず所属できる場に関する考察〜』

 

最後に、君塚先生にこんな問いを投げかけてみました。

「立憲君主制の民主主義国家において、首相と君主は、どのように協同しているのでしょうか。」

 

君塚先生:首相は、政府間の交渉や条約締結などにつながる「ハードの外交」を担っています。他方で君主は、訪れた先々の国家元首から一般の国民に至るまで多くの人と接し、より長いスパンで二国間の関係を維持するような「ソフトの外交」を担っています。

ハードの外交では、どうしても国家間の衝突や対立が起きてしまいがちですし、首相は日々の政治的な意思決定などに追われがちです。そこを補うのが、君主のソフトの外交であると言えます。エリザベス二世がサッチャー首相に、コモンウェルスの黒人首脳を紹介したように、利害を超えた関係性を築いているからこそ、貢献できることがあります。また、複雑化する社会においては様々な問題が生じますが、多少の非合理性は無視してでも、解決に動くことができます。

君主は、通常は存命の間は在位し続けるケースが多いため、首相よりも任期が長くなります。そこで培われた経験や人脈をもって、首相とは違うかたちで国家や世界の発展に貢献したり、時には首相の言動を補うような役割を担っているのです。

 

〈引用・参考文献〉

  1. 君塚直隆著(2018年)『立憲君主制の現在』(新潮選書)
  2. Graham E. Seel & David L. Smith, Crown and Parliaments 1558-1689(Cambridge University Press, 2001),pp.39-40.
  3. George V Papers, The Royal Archives, Windsor Castle, RA GV/PRIV/AA3: George’s note, Mar. 1894.
  4. https://www.royal.uk/christmas-broadcast-1953.

 

 

 

 

 

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君臨することを人々から求められた存在が、民主主義社会における真の君主と言えるのだろう。 #リベル

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