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縄文から弥生への社会変革

社会が変わるとは何が変わることなのか、その一事例として

文量:新書の約18ページ分(約9000字)

はじめに

社会が変わるとは、何が変わることなのでしょうか。言い換えると、人々の何が変わった時、その社会が変わったと言えるのでしょうか。

紀元前10世紀、九州北部の人々が水田稲作を取り入れ始め、弥生時代が始まりました。この時代には、食料獲得の方法が狩猟採集から稲作に変化しただけではなく、水田という資産や環濠集落というむらが生まれ、同時に格差が生じ世襲という考え方も始まりました。また、稲作を行うためには労働を組織する必要もありました。

つまり、現代に通じるような社会システムが、弥生期の日本に誕生しました。縄文から弥生への変化は、人々にとって大きな変革であったことは想像に難くありません。

では具体的には、人々の何がどの程度変わったのでしょうか。社会が変わるとは、どのようなことなのでしょうか。

 

今回は、国立歴史民俗博物館(以下、歴博)・総合研究大学院大学教授の藤尾慎一郎先生にお話を伺いながら、このようなテーマについて考えてみることにしました。

 

藤尾慎一郎ふじおしんいちろう先生

1959年福岡県生まれ。広島大学文学部史学科卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授。専門は先史考古学。AMS炭素14年代測定に基づいて、弥生時代の開始を500年さかのぼらせて大きな話題となった国立歴史民俗博物館の研究において、主導的な役割を担った。

〈著書〉

  • 『弥生時代の歴史』(講談社現代新書)
  • 『〈新〉弥生時代 500年早かった水田稲作』(吉川弘文館)
  • 『縄文論争』(講談社選書メチエ) など

 

目次

 

前段 弥生時代に関する定義

本書では、九州北部で本格的な水田稲作が始まった紀元前10世紀から、定型化した前方後円墳が近畿に造られて古墳時代が始まる後3世紀までの約1200年間を弥生時代とします。そして、その水田稲作中心の生活によって生み出された文化を、弥生文化とします。

ここで「紀元前10世紀から」という点に、違和感を覚える方もいるかもしれません。実は、2003年の歴博の研究発表までは、水田稲作は紀元前5世紀頃に始まったと考えられていました。それが、その研究発表により、約500年さかのぼることになったのです。

また、後述しますが、九州北部で稲作が開始されてから日本列島各地に伝わるまでには時間差があります。つまり、ある同じ時期の日本列島に、弥生文化で生活していた人々もいれば、縄文文化のままで生活していた人々もいたのです。

そこで本書では、弥生時代・縄文時代ごとに弥生人・縄文人と区切るのではなく、水田稲作の開始以降に弥生文化を取り入れた人々を弥生人、縄文文化のまま生活をしていた人々を縄文人と呼ぶことにします。

第一章 弥生期に起きた変化

水田稲作を行うとは、どういうことなのか

日本列島で最初に水田稲作が始まったのは、九州北部の佐賀から福岡までの玄界灘げんかいなだ沿岸地域でした。それは、すでに青銅器時代に入っていた朝鮮半島から、海を渡ってきた人々によって伝えられました。水田稲作を行っていたと考えられるこの地域の遺跡では、地元の縄文晩期系の土器が最も多く、その他に朝鮮半島青銅器時代後期の土器もわずかに見つかっています。

このことから、遺跡の人々は地元出身者が中心であり、朝鮮半島の人々との交流があったこともうかがえます。あるいは、朝鮮半島の出身者も一緒に生活していたのかもしれません。

水田の造作は、大規模な土木事業です。最も古い水田は、川や谷筋などに沿った平野の下流域で見つかりました。その水田一区画の面積は、300〜500平方メートルほどの大規模なものでした。水田は水平でないと水を溜めることができないので、水平を保つための土木技術が必要でした。加えて、河川から水路を通して水を引き込み、取排水を調節する井堰いせきが設置されました。さらに、そうして作った区画や水路を、大量のくい、矢板、横木によって補強する必要がありました。

注目すべきは、その求められる土木技術だけではなく、食料を作るために自然を大規模に改変するという考え方です。縄文人も自然を大規模に改変する技術を持っていましたが、それはおまつりなどの施設を造る場合に用いられていました。縄文人は、動物の狩猟や木の実の採集などで食料を確保しており、自然の摂理に従う生活をしていたのです。

弥生人は、食料を作るために森林を切り拓きました。木の実がなる木を伐採し、鹿や猪がいる森を切り拓き、水田を造作していったのです。

このことから、縄文から弥生への変化は、精神的は転換が必要であったことがうかがえます。

社会の質的変化

水田稲作開始から100年ほど経つと、社会の質的な変化が見られるようになっていきました。

最古の環壕集落は、前9世紀に福岡・那珂なか遺跡群に現れました。防御の性質を持つ直径が約150メートルの壕を二重にめぐらせており、そこで約150年間生活が営まれていました。

那珂遺跡の上流1kmほどに位置する板付いたづけ遺跡では、階層差が生まれていた痕跡が見つかっています。そこでは、たまが副葬された子供の墓はむらの中心に近い内壕の外側に位置し、何も副葬されていない子供の墓は中心から離れた外壕と内壕の間に位置しています。また、他の遺跡からは、小壺や磨製石鏃、磨製石剣が副葬された有力者の墓も見つかっています。

つまり、この時期には、有力者とその子供が一般の人々とは区別されて葬られていたことから、階層差や世襲制が存在し、身分が固定化されていた可能性があります。

この時期、集団と集団の抗争である戦いも起き始めていました。糸島市新町しんまち遺跡では、長さ16cmもある石の矢じりが左大腿骨に突き刺さった男性の遺体が葬られていました。日本最古の戦死者です。縄文人は武器を持っていませんでした。また、縄文人と弥生人は、食料獲得の方法の違いなどにより生活地域が異なっていました。

したがって、この戦死者は、土地や水をめぐる弥生人同士の争いによるものであると考えられています。

 

このように、紀元前10世紀に九州北部で始まった水田稲作は、人々に食料獲得の方法だけではなく、精神的な転換をもたらしました。そして、その100年後には社会に質的な変化が起こりました。そのような変化が伴う水田稲作を、人々はどのように受け入れていったのでしょうか。

水田稲作は、現代の私たちからすると安定的な生産性という意味で、狩猟採集よりも望ましい手段であると思えます。しかし、水田稲作は、九州の他の地域や本州で開始されるまで数百年という単位の時間がかかりました。つまり、縄文人は、水田稲作をなかなか受け入れようとしなかったのです。

次章では、その時間軸について概説しながら、水田稲作の受け入れが人々にとって何を意味していたのかを考えていこうと思います。

第二章 水田稲作の受け入れを躊躇した縄文人

2003年に、歴博の研究により九州北部の水田稲作の開始が約500年遡るまでは、水田稲作は、九州北部から近畿まで約30〜50年で広まったと考えられていました。現代のように情報伝達の手段が整っていない時代の出来事なので、この広まりは「一気に」「瞬く間に」という言葉で形容されていました。

一気に広まったのは、食料不足に悩まされていた西日本の縄文人が水田稲作によって豊かな生活ができるようになると考え、急速に稲作を取り入れたためと考えられていました。しかし歴博の研究によって、その「食料への渇望」という動機に疑問が持たれるようになったのです。なぜなら、開始時期が約500年遡ったことで、一気には広まっていないということになったからです。

では、現在はどのような時間軸で、広まっていったと考えられているのでしょうか。

 

水田稲作は、約250年間、九州北部の玄界灘沿岸地域から外の地域へは広まりませんでした。

前10世紀にこの地域で始まった水田稲作が、九州東部や中部で本格的に始まるのが、前8世紀の終わり頃です。その後、瀬戸内海沿いや日本海側のルートで、前7世紀には近畿に、前4世紀代に青森、仙台などの東北へ広まっていきました。また、太平洋側のルートでは、前3世紀になってから中部や関東南部へ到達しました。

九州北部から近畿に伝わるまでに約350年、関東南部までには約650年かかっており、かつての約30〜50年で一気に広まったという見解に比べると非常にゆったりとした広まり方です。

情報の伝達手段が限られていたとは言え、九州北部の遺跡から東北系の土器が発見されているなど、地域を越えた交流は行われていました。また、徐々に食料の比率を稲作に寄せていくという手順も考えられますが、そうした形跡も見られませんでした。つまり、縄文人は、稲作という食料獲得の手段は知ってはいたものの、なかなか受け入れようとしなかったと考えられます。

 

こうした事実を踏まえると、縄文人は、水田稲作の受け入れ自体を、何らかの理由で躊躇ちゅうちょしていたか、あるいは食料としての米への渇望がそれほど大きくなかったとも考えられます。

最終的には、北海道や南西諸島を除く列島各地で水田稲作が始まりますが、その躊躇する理由は何だったのでしょうか。人々にとって、水田稲作を受け入れることは、何を意味したのでしょうか。あるいは、食料としての米への魅力が低かったとした場合、他の何に魅力を感じて水田稲作を始めたのでしょうか。

第三章 水田稲作を受け入れることの、人々にとっての意味合い

水田稲作とセットで導入されたこと

結論から言うと、縄文文化で生活する人々にとって水田稲作を受け入れるということは、水田稲作に必要な新たな社会システム全体を受け入れるということでした。そして、それに伴う生活様式や文化、価値観の変容を受け入れるということをも意味しました。水田稲作開始後の社会の質的変化は前述しましたが、これらは稲作を行うために必要なシステムでした。

人々が水田稲作を始めるには大規模な土木工事が伴うため、小規模な集団が結束し、労働力を集約する必要がありました。そのため、大規模な環壕集落に集住し、相互のつながりを再確認することを目的とした祭祀さいしも導入されました。戦いも、土地や水をめぐる争いを政治的に解決する手段として朝鮮半島南部で生み出されたものです。

これらの仕組みは、水田稲作の技術と共に朝鮮半島から伝えられたと考えられます。水田稲作を始めるということは、これら全てのシステムと、それに伴う生活様式や文化の変容を受け入れるということを意味したのです。

さらに、自然改変という行為も行う必要があります。自然と共生してきた縄文人にとって、この価値観の変化が大きなものであったことは想像に難くありません。

稲作の導入にあたって、どのような質的変化が伴うか教えられていたであろう縄文人は、その変化の大きさに躊躇したのかもしれません。そして、水田稲作を始めるという決心は、大きなものであったことに違いありません。

 

その質的変化を受け入れた人々は、どんな困難があっても水田稲作をやめることは基本的にはありませんでした。しかし例外的に、一度は水田稲作を始めたものの途中でやめた地域もありました。

では、後戻りすることがないほどの変化、つまり社会が変わりきる基準とは、どのようなものなのでしょうか。

社会が変わりきる基準

水田稲作による質的変化を受け入れた人々は、自然災害や生活上の大きなトラブルがあっても水田稲作をやめることはありませんでした。

仙台平野では前2世紀に、3.11クラスの大地震に伴う大津波で壊滅的な打撃を受けましたが、水田稲作を止めることはありませんでした。場所を移して稲作を続け、古墳前期には、脱塩が済んだ土地に戻って再び水田稲作を行っているのです。那珂遺跡群で見つかった最古の環壕集落も洪水の危険にさらされ、取排水が十分でない水田でした。しかし、そこで水田稲作自体をやめることはなく、北に500mほど離れたところにより良い土地を見つけ、水田稲作を続けました。

稲作の受け入れに伴う社会の変容は、人々にとってマイナスな面もありました。集住は不衛生を生み、縄文時代にはなかった新たな病気である結核が人々を蝕みました。戦いによる戦死も、縄文文化では体験しなかったことです。また、様々な動植物を狩猟採集する場合に比べて、米という特定の作物に依存することは不作のリスクと隣合わせでした。

 

しかし例外として、水田稲作をやめた人々もいました。青森・垂柳たれやなぎ遺跡の人々です。

垂柳の人々は約300年間水田稲作を続けましたが、前1世紀に起きた大洪水で水田が埋没したのを契機に、水田稲作を止めてしまいました。別の地域で続けることもなく、青森全体で水田稲作を行わなくなったのです。

寒冷化による影響も考えられますが、稲の生育期である夏の寒冷化の影響は、やませが吹く仙台の方が大きいと考えられています。寒冷化の影響が大きかった仙台で稲作が続いたことを考えると、寒冷化によって稲作をやめたとは考えにくいと言えるでしょう。

 

では、何があっても水田稲作を続けた地域と、途中でやめるという選択をした青森の人々の間には、どのような違いがあったのでしょうか。

それは、祭祀の面で、縄文文化を棄て弥生文化を受け入れきったのか、縄文文化も残したのか、という点にあります。

青森・垂柳では、縄文文化の祭祀の道具である土偶が出土していることから、土偶の祭祀が行われていた可能性があります。一方で仙台では、土偶をはじめ縄文の伝統を残す祭祀の道具は残っていませんでした。実は、仙台に限らず東北地方は、多くの人が集住する環濠集落が見つかっておらず、弥生文化へ完全に変容したわけではありません。

ただ、何かあっても稲作を続けた仙台と途中でやめた青森の違いは、縄文の祭祀を文化の中に残さなかったか否かでした。自分たちの文化の中に縄文の祭祀を残さなかった仙台は、何があっても水田稲作を続け、狩猟採集中心の生活に戻ることはなかったのです。

これらを踏まえると、精神面に影響を与える祭祀のようなものが、社会が変わりきるか否かに影響を与えているのかもしれません。

水田稲作が食料以外の目的のために導入された可能性

ここまで、社会が変わるとは人々の何が変わるということなのか、またその社会が変わりきる基準とは何なのかについて考えてきました。ここでは最後に、なぜ人々が水田稲作を始めたのか、その目的に関する仮説について考えたいと思います。

前述したように、水田稲作を始めるということは、生活様式や文化の質的な変化を伴い、価値観にまで変化を強いることでした。また、水田稲作がもたらすことは決して良いことだけではなく、気候や水害などの影響で食料獲得の安定性という面でも決してプラスなことだけではありませんでした。実際に、水田稲作の開始期には、どんぐりの貯蔵穴が見つかっており、これは不作のリスク回避としての救荒きゅうこう作物であったと考えられています。

つまり当時の人々は、水田稲作に踏み切った場合の、食料確保に関するリスクを認識していたと考えられます。また、列島各地の人々が、比較的ゆったりと稲作を取り入れていったことから、縄文人にとって食料の不足問題はあまり逼迫したものではなかった可能性も考えられます。

 

これらを踏まえると人々は、水田稲作とそれに伴う変容を、食料獲得自体のためではなく何か他の目的のために受け入れたのではないか、ということも考えられます。あるいは、稲作による食料の獲得以外に、他にも何か付随する魅力があったのではないかと考えられます。

では、人々は何を求めて、水田稲作を始めたのでしょうか。もう少し掘り下げると、縄文時代の九州北部にはなかったが朝鮮半島には存在し、且つ縄文人が欲しがったものは何だったのでしょうか。

一つの可能性は、米を交換財として、必需財である鉄を手に入れたかったということが考えられます。石器で木の伐採や切断、加工などを行っていた当時の人々にとって、鉄器の威力は魅力的であったことは想像に難くありません。しかし、日本最古の鉄は、前5世紀頃に中国東北部で作られたものが愛媛県で見つかったものだとされています。したがって、前10世紀に水田稲作を始めた人々が鉄器を求めた、という可能性は考えられません。

 

そこで浮上する仮説が、米や鉄のような必需品を求めたのではなく、銅剣などの青銅器を至高の祭器として崇め社会統合の象徴とする青銅器文化自体を求めたのではないか、ということです。

青銅器文化を求めた理由は、小難しい理屈を抜きにすると、自分たちが見たこともない金色に輝く青銅器に心を奪われたという可能性があります。現代人が見る青銅器は青錆あおさびがついたものですが、本来は青銅色ではなく、金色に輝くものです。青銅器の光沢はスズの量で決まりますが、その量からして新品の10円玉よりもさらに光り輝く金色のものでした。

あるいは朝鮮半島の人から、「世界で通用するためには、青銅器文化を取り入れるべきだ。現在、東アジアは青銅器文化という仕組みで動いているのだ。」というようなことを言われたのかもしれません。実際に中国や朝鮮などの東洋では、青銅器は、社会を統合・維持していくための礼器や祭器として扱われていました。

弥生文化が始まる前の前11世紀頃、朝鮮半島の文物が、ある程度の時間幅をもって九州東部などに影響を与えていたことが示されています。これは、それまでよりも、より親密的な交流があったことを示しています。朝鮮から渡ってきた人々と時間を共にしながら、青銅器文化導入の必要性と、それによってもたらされる世界観を教えてもらい、また金色に輝く祭器の存在も知ったというのが当時の状況ではないでしょうか。

そのような状況で、米という食料が手に入る水田稲作自体にだけではなく、青銅器文化自体に魅力を感じてしまってもおかしくはないのかもしれません。

第四章 社会が変わるとは、何が変わることなのか

縄文から弥生への変化は、社会システム全体の変容が伴う大きなものでした。それは、集住のための環壕集落の組成や労働の組織化が成されると共に格差や戦いが生じるなど、現代社会の負の遺産のルーツを見ているような変化でした。

水田稲作の導入による社会の変化は、精神的な変化も伴うものでした。特に、祭祀の変化を受け入れるか否かが、水田稲作を何があっても続けるのか、やめて後戻りするのかの分岐点であると考えられました。

したがって、本当の意味で社会が変わるとは、生産手段などが変わった時にではなく、精神面や価値観が変わった時に言えるのかもしれません。逆の見方をすると、社会を変えるとは、精神面や価値観の変化を人々に受け入れてもらう、ということを意味するのかもしれません。

リベル:では、何を動機づけとして受入れてもらうのか、という難問が頭に浮かんでくる。弥生文化受入れの場合は、稲作により腹いっぱいのご飯が食べられるという理性的な動機づけという仮説もあるが、大陸の青銅器文化への畏敬や憧れという感情的な動機づけというのが今回の先生の仮説だった。人が動くのは、理性なのか感情なのか、二元論ではないのかもしれないけど、もう少し深く考えてみたいことだ。

 

今回の弥生時代の事例は、水田稲作に伴う社会の変化でした。しかし、何らかの根幹的な手段が変わるということは、その影響が生活様式や価値観に及ぶということは、今回の事例からも想像できます。

今後も社会には大きな変化が起き続け、その速度は速まると考えられます。したがって、今後の社会を生きる私たちにも、価値観の変容が伴うような変化が求められると想像されます。人間は変化することが苦手だと言われますが、他方で縄文・弥生の人々が受け入れた変化を踏まえると、変化を受け入れる素地もあると言えるのかもしれません。

 

最後に、藤尾先生に改めてこんな問いを投げかけてみました。

「縄文から弥生への変化は、価値観も含めてあらゆるものが変わったと言っても過言ではありません。弥生文化を受け入れた人々は、なぜそこまで変われたのでしょうか?」

 

藤尾先生:私たちの間では半分冗談で、弥生スイッチが入った、という表現をしています。弥生スイッチが入った人たちは、社会システム全体を受け入れて青森のように後戻りすることはできない、という意味合いです。

水田稲作中心の社会への変容は、水田の造作だけでも大変なわけですから、それを目で見ただけで、完成させ維持していくことは難しいと思います。当時は文字がない時代ですし。

それよりも、考え方やイデオロギーなどの、頭の中が変わる必要があると思うのです。

稲作をすることによってこういう社会ができる、そのために必要なシステムはこうだということを知る。そして、そういう社会に憧れて、理解して受け入れていく。その結果、価値観を含めたシステム全体をセットとして受け入れることになるので、稲作などの一部分だけを欠くということはできなくなるのです。そうして、社会全体が変わっていったのではないでしょうか。

 

(2019年9月16日掲載)

 

〈参考文献〉

  1. 藤尾慎一郎著(2015)『弥生時代の歴史』(講談社現代新書)

 

筆者:吉田大樹

人の内発性により生み出される、プロダクトや活動に魅力を感じています。自分自身様々なサービスを模索する中で、何かを生み出そうと考えるほどに視野が狭まっていく感覚を覚えたことを一つのきっかけとして、リベルを始めることにしました。1986年岩手県盛岡市生まれ。2005年、東北大学工学部・機械知能航空工学科へ入学。2009年、東北大学大学院工学研究科・ナノメカニクス専攻へ入学。2011年、株式会社ザイマックスへ入社。2016年7月、高校時代からの友人と株式会社タイムラグを創業。

 

 

 

 

 

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