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人々が仰いだ古墳

認められるリーダーになるために

文量:新書の約28ページ分(約14000字)

はじめに

人々から認められるリーダーとは、どのようなリーダーなのでしょうか。何を成し、何をもたらすことで、リーダーのもとに人々がまとまり、豊かな社会が築かれていくのでしょうか。

今からおよそ1500年前、現在の群馬県のあたり上毛野かみつけのと呼ばれる地域に、墳丘長100mを超える巨大古墳が複数築造されました。

古墳といえば、奴隷的な労働によって造られたことを想像してしまいますが、そうではなかったと考えられています。地域へ大きな貢献を果たす首長の墓築造へ、地域活動に参加するように、前向きに参加していたのではないかと考えられているのです。つまり人々は、首長の働きや存在を認め、また巨大な墓である古墳を造ること自体にも、意味を感じていたと考えられるのです。

では、古墳にまつられている首長とは、どのような事を成したリーダーだったのでしょうか。また、人々や社会にとって、古墳とはどのような意味を持つものだったのでしょうか。当時の社会背景を概観しながら、巨大建造物である古墳に祀られるほどのリーダー像やその果たした役割について、考えていきたいと思います。

尚、古墳時代の政治の中心は、奈良盆地や大阪平野などの近畿地方中央部(以下、ヤマト地域)であると考えられていますが、本書ではその時代の地方にあたる、上毛野の古墳とその社会を取り上げます。中央から離れた地方社会では、国家統一などの政治活動よりも、自身が属する共同体の発展へ注力した、リーダーシップを学ぶことができると考えています。

 

今回は、明治大学文学部准教授の若狭徹先生にお話を伺いながら、このようなテーマについて考えてみました。

 

若狭徹わかさとおる先生

1962年長野県に生まれ、群馬県で育つ。1985年明治大学文学部史学地理学科卒業。高崎市教育委員会文化財保護課長などを経て、現在、明治大学・文学部准教授。博士(史学)。浜田青陵賞・藤森栄一賞受賞。

〈著書〉

  • 『東国から読み解く古墳時代』(2015年、吉川弘文館)
  • 『前方後円墳と東国社会』(2017年、吉川弘文館)
  • 『ビジュアル版 古墳時代ガイドブック』(2013年、新泉社) など

 

 

第一章 古墳時代

古墳時代の位置づけ -「国家」形成への過渡期-

古墳時代は、土を高く盛り上げた墳丘ふんきゅうを持つ墓である古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代として区切られています。年代は、3世紀半ば過ぎから6世紀末までの、約350年間を指すことが多いようです。

その前の時代は弥生時代(紀元前10世紀〜後3世紀半ば)であり、その後の時代は飛鳥時代(592年〜710年)です。

 

弥生時代には、稲作と、青銅器や鉄器などの技術や文物が、朝鮮半島を経由して大陸から伝来し、狩猟採集社会から農耕社会へと変化していきました。移動型生活から定住型生活へと変化し、また稲作には水田の開拓が伴うため、人々は資産を持つようになりました。自分たちの資産や領地を意識するようなったということは、すなわち自集団とそれ以外の他集団を意識するようになったということを意味します。このような社会変化に伴い、弥生社会には「争い」がみられるようになっていきました。「争い」は、様々な技術や文物ぶんぶつと共に朝鮮半島からもたらされた問題解決の手段で、弥生時代前の縄文時代にはその痕跡が見られなかったことです。

そのような争いの増加を経て、1世紀末から2世紀初頭にかけて、日本列島には「倭国わこく」としてまとまる政治的連合が形成されていきました[2]。この頃の列島の内部には、奴国なこくをはじめ、対馬国つしまこく一支国いきこくなどの諸国が存在しており、それら諸国の連合というかたちで、倭国が形成されていたと考えられています。例えるならこの政治的連合体は、現代のEUのようなものでした。その政治的中心は、1世期末の段階では九州にありましたが、2世紀後半になると近畿地方に移行していったと考えられています。これは、中国・漢の鏡(漢鏡かんきょう)の年代ごとの出土数分布の重心が、九州から近畿へ移行していることなどから推定されています。

政治的連合体・倭国では、元来男子が王位を継承していましたが、内乱が起こったために、女子が共立されて王となったことがありました。それが、かの有名な卑弥呼ひみこです。中国の歴史書『魏志倭人伝ぎしわじんでん』には、この時の事が「その国、もとまた男子を以て王となし、とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年、すなわち一女子を共立して王となす」と記述されています。

 

このように、古墳時代が始まる前夜である弥生時代後期には、日本列島内に国と呼ばれる共同体ができ、それらがまとまった政治的連合体が形成されることが試みられていました。しかしながら、その中心が九州から近畿に移ったり、内乱によって非慣例的だった女王を共立するなど、混乱が多く、統一された国家と呼べるものはまだ出来上がっていない時代であったと言えます。

他方で、古墳時代の後の飛鳥時代には、律令りつりょう制を取り入れた中央集権的な国家が成立していきます。律令の律は刑法、令は行政法などを意味し、近代国家では一般的な法律を備えた国家が、飛鳥時代に誕生したことを意味します。聖徳太子が登場する時代であり、冠位十二階や十七条憲法が定められた時代です。

 

それら、弥生時代と飛鳥時代の間に位置する古墳時代は、中央集権的な国家が形成される過渡期であったと考えることができます。列島各地で力を持つ豪族が誕生しながらも、中央と地方という主従の関係性の輪郭が見え始める時代です。ヤマト地域(近畿地方中央部)に政治的中心が存在しながらも、列島内諸国に対する絶対的な支配力を有しているわけではなく、地方では独立したかたちで地域の開発や運営が行われていたのです。

倭国の国際化 -新たなヒト・モノ・情報の流入-

加えて古墳時代は、倭国の国際化が急速に進んだ時代でした。

 

4世紀頃、朝鮮半島北部に位置していた高句麗こうくりが南下政策をとり、半島南西部の百済くだらは、これに脅かされていました。他方で倭は、日本列島内では鉄資源を手に入れることが出来なかったため、その入手を朝鮮半島南端部の加耶かや地域に頼り、密接な関係を築いていました。その伽耶地域も、高句麗に従属する半島南東部の新羅しらぎによって、脅かされるようになっていきました。つまり、百済だけではなく倭国も、高句麗の南下政策が自国にとっての脅威となっていたのです。そこで倭は、百済と連携し、朝鮮半島へ軍事進出することを選択しました。

この連携によって、百済は倭に政治的な見返りとして、学者や技術者の派遣などを行いました。同時に、中国の混乱で朝鮮半島へ亡命していた、中国系知識人の倭への渡来もあったと考えられ、それら渡来人と共にもたらされた情報や知識、技術が倭国を文明化へと導きました。こうした国際化の中でもたらされた渡来文物は、大陸からの玄関口にあたる九州北部や、倭王権中枢のヤマト地域に集中しました。他方で、渡来文物の出土分布から、吉備きび(岡山県)や近江おうみ(滋賀県)、紀伊きい(和歌山県)などの地方にも、渡来人が一定数居住したと考えられています。

このように、古墳時代は倭国の国際化に伴い、朝鮮半島を経由して、新たなヒト・モノ・情報が活発に流入した時代でした。それらは、倭国中央だけで独占されるわけではなく、地方の首長や人々も、それらを地域の発展に活かすチャンスを得ていたのです。

 

古墳時代は、国家形成への過渡期であったため、中央の統制は強くはありませんでした。あるいは、中央に列島を統制する力がまだなく、やむを得なく連合体のかたちをとっていたとも言えます。そのような地方共同体の自律性が高い状況下に、新たなネットワークが築かれ、ヒト・モノ・情報が流入してきました。変化を阻む規制などがない環境に、変化をもたらす可能性を秘めたものを手に入れることができたのです。大型古墳に祀られた有力者は、そのような時代を生きた人たちだったのです。

 

古墳は、そのような列島各地の鼓動が感じられる時代にあって、どのような意味を持つものなのでしょうか。一つには、その大きさ、威容から、人々の心に影響を及ぼすものであったと考えられます。その人々に対しての影響や意味は後述することとし、次章ではもう少し合理的な、政治的意味合いについて紹介します。

第二章 古墳の政治的意味合い

古墳と言われて頭に浮かべるのは、大山だいせん古墳(仁徳陵にんとくりょう古墳)ではないでしょうか。大阪平野の湾岸部に位置する古墳は、現状で長さ486m、高さ36mにもなる日本最大の前方後円墳です。前方後円墳とは、円形の主丘しゅきゅうに方形の突出部が接続した、鍵穴型の古墳を指します。古墳の形状は他にも、円形部だけの円墳えんふん、方形部だけの方墳ほうふん、方形部があまり発達していないホタテ貝に似た形状の帆立貝ほたてがい式古墳など、様々あります。

古墳時代には、大山古墳を筆頭に大小5000基もの前方後円墳が造られ、円墳などを含めるとその数百倍もの古墳が造られました。大山古墳ほどの巨大古墳は、古墳時代の政治の中心であるヤマト地域に多く見られますが、それ以下の大型・中型の前方後円墳は岩手県から鹿児島県まで、列島の広い範囲で造られました。

では、なぜこれほど大量の古墳が、全国で、しかも形状が統一されたかたちで造られたのでしょうか。

 

第一章で紹介したように、古墳時代は強い支配力を持った国家は形成されていなかったものの、ヤマト地域に列島の政治の中心が置かれていました。大陸からもたらされたヒト・モノ・情報も、ヤマト地域を基点として地方へ流通していたのです。

そのような列島の中央が定まり始めた時代において、古墳は、地方豪族がの政治的連合体に所属することを示す、会員カードのような意味を持つものであったと考えられています。地方豪族は、その政治的連合に参加することで、地方あるいは列島では手に入らない鉄資源などを入手することができました。つまり、政治的連合への参加や古墳の築造は、中央が地方に一方的に強要したのではなく、地方がそのメリットを理解した上でのことであったと考えられます。

古墳は、そのような政治的連合への所属の証という意味があったため、倭国中央からの承認によって、地方は古墳を築造することが出来ていたと考えられています。その許可を得るために地方豪族は、地元で採れる産物や人的資源を中央に貢納こうのうしていたと考えられています。そして、その許可の内容は、築造の可否だけではなく、その大きさや形状にも及んでいました。地方豪族の貢献度やその力が認められるほど、大きな古墳を、そして形状の最上位クラスである前方後円墳の築造を許可されたのです。古墳の形状のランクとしては、前方後円墳が最も権威ある形状であったと考えられています。つまり、地方豪族の倭国連合内における地位は、その古墳の大きさと形状で伺い知ることができたのです。

大型の前方後円墳は、その地域の首長のものであった可能性が高く、現在の市町村長あるいは知事並の広域な指揮権を担っていた可能性があります。その首長の選任は、古墳時代の半ばごろまでは世襲や血族本位ではなく、実力本位で行われていたと考えられています。地域に発展をもたらす実力を持つと期待された人が、首長として選ばれていたのです。また、その首長の墓としての古墳は、存命のうちから築造されていた可能性があると考えられています。つまり古墳は、そこに祀られる予定の首長の力の大きさだけではなく、選任以後に期待する役割や責任の大きさを含意するものであったとも考えられるのです。

 

そのような意味合いを持つ地方豪族の古墳の中で、現在の群馬県地域、上毛野かみつけのには100mを超える古墳が複数築造されました。他地域の古墳と比べて、その規模は際立つものであると言えます。群馬県の東部に位置する太田市には、墳長210mの太田天神山おおたてんじんやま古墳があり、これは東日本最大です。また、活火山である榛名山はるなさんの麓、井野川の上流域には、約500m四方に三つの古墳が並ぶ、保渡田ほどた古墳群があります。三つの古墳はいずれも墳長が100mを超える前方後円墳で、井出子山いでふたごやま古墳、保渡田八幡塚ほどたはちまんづか古墳、保渡田薬師塚ほどたやくしづか古墳から成り、五世紀後半から六世紀初頭にかけて相次いで造られたものとされています。

 

図1 保渡田古墳群空撮、手前は井出二子山古墳(高崎市教育委員会・かみつけの里博物館提供)

図1 保渡田古墳群空撮、手前は井出二子山古墳(高崎市教育委員会・かみつけの里博物館提供)

 

このような大型古墳が造られた上毛野地域には、有力な首長が存在し、中央からも地域の人々からも、その力を認められ、期待されていたと考えられます。では、この地域の首長は、実際にどのようなことを成したのでしょうか。

第三章 リーダーが成した事

地域の経済発展

地域開発 -既存事業の維持・発展-

古墳時代の主産業は、稲作でした。そして稲作では、川から水を引き、その引いた水を管理する、治水ちすいが必要とされました。

稲を生育するためには多くの水が必要であり、川やため池から引いた水路を通して、水田に供給する必要があります。また、古墳時代にどこまで精緻せいちに管理されていたかは定かではありませんが、気温が低い時は稲を寒さから守るために水を深くしたり、根の張りを良くするために、時々水を干して土の中へ空気を供給する必要もあります。また、水田は必然的に川の近くに開墾かいこんされるため、川の氾濫によるリスクが大きくなり、そのような被害を防ぐための手立ても必要でした。このように、稲作を行うということは、水と対峙するということでもありました。

 

上毛野かみつけのでは、榛名山はるなさん赤城山あかぎさん山麓さんろくから湧く豊かな水を、農業経営に利用することができました。そしてその治水の範囲は、時間をかけて徐々に大規模化していくのです。

3世紀後半頃の遺跡からは、幅0.5〜1m、深さ50cmほどの方格状の小溝が見つかっており、これによって水はけの悪い低湿地の滞留水を排水し、半乾燥化をはかっていたと考えられます。さらにその次の段階として、幅5m、深さ1.5mほどの大溝が開削され、半乾燥化した土地に基幹用水路をもうけ、給排水系を整備した形跡がみられています。また、同時期の他の遺跡には、全く同じ構造の大水路が発見されました。これらの遺跡の水路がつながっていたかまでは定かではありませんが、3〜4世紀頃には、数kmにも及ぶ広域水路が整備されていた可能性が高いと考えられています。このような大規模な水稲すいとう産業を基盤とした経済力を裏付けとして、大型前方後円墳である高崎市元島名将軍塚もとしまなしょうぐんづかこふん古墳(墳長95m)や、前橋八幡山はちまんやま古墳(墳長130m)が築造されたのだと考えられます。

 

首長たちの開拓精神は、さらに旺盛でした。5世紀中頃、集落の遺跡が川の上流へ向けて、つまり水源地により近い場所へ移動した形跡がみられるのです。それに伴い、古墳の築造地も川の上流の方へ移動していきました。先に紹介した保渡田ほどた遺跡群は、この頃に上流に遡上して築造された古墳です。古墳の移動は、単なる墓の移動という意味だけではなく、そこに社会の中心が移動したことを示し、古墳のもとに人心を結集させる意味合いがありました。開拓は多くの労働力を結集させる必要があり、古墳は、そこで開拓事業を興す意を示すものだったのです。

これら川の上流・水源地への移動は、同じ水源を利用する他の共同体を阻害することにもつながります。しかし、これらの上流へ遡上そじょうした開発は、複数の共同体から共立された代表首長のもと、協力しあって成されたものだと考えられています。より大規模な水域を掌握し、農業水利を刷新する意図のもとに、協調関係を結んだのです。つまり、争うように上流に進出したのではなく、協力し合うことで大規模な労働力を組織し、治水の発展と安定的維持を図ったのだと考えられます。したがって、保渡田古墳群のような大型前方後円墳に祀られている首長は、その共立きょうりつされた大首長であると考えられるのです。地域の首長は、時には自分たちの領域を越えて、協力しあって地域開発にあたっていたのです。それは、地域の経済発展という意味において、合理的な考え方と行動であったと考えられます。

渡来人に学び、興した新産業 -新規事業への挑戦-

大陸から文物や情報、技術をもたらす渡来人は、ヤマト地域や九州北部を中心に往来・居住し、交流が成されていたと考えられますが、地方にもその存在がみとめられています。地方の遺跡からは、外来系文物が濃密に分布する集落や、石だけを積み上げた、古墳とは異なる形態の積石塚つみいしづかと呼ばれる墳墓も発見されているのです。渡来人は、倭国・地方の人々に求められてその地に住み、その地で人生を全うしたのだと考えられます。

 

渡来人が持つ知識や技術によって、様々な新産業が地方にもたらされました。

その一つが馬の生産です。馬は、もともと日本列島に自生していないことが、『魏志倭人伝ぎしわじんでん』の「倭に馬なし」の記載や、その時期まで馬具や馬骨の出土がないことから明らかになっています。しかしその後古墳時代には、馬骨と馬具が共に埋葬された馬の墓が発見されています。上毛野地域では、遅くとも5世紀後半に馬生産が始まり、6世紀前半までには大いに定着したと考えられています。

馬生産は、多様な仕事や周辺産業を生み出します。仕事としては、馬を産ませ、放牧し、飼養し、調教することなどが必要とされます。付随して馬具生産も必要とされ、木工、皮革ひかく、冶金、紡織などの手工業が興りました。このように、馬生産を始めるということは、地域に一つの大きな産業を生み出すことを意味したのです。

このように生み出された良馬は、きらびやかな馬具と共に豪族たちの権威の象徴になりました。埴輪はにわには馬形のものがよく見られますが、これはその豪族の威勢や権威を表すものであったと考えられます。馬は次第に、軍事利用されるようになったり、俊足を活かした交通手段や、情報の交換手段にもなっていきました。そして当然のことながら、その生産地には富がもたらされ、その供給体制を整えた首長の力も認められることとなりました。また、良馬だけではなく駄馬も多く生産され、農耕や運輸に大きな力を発揮しました。このように馬の生産は、その地に富と権威をもたらし、また根幹的な産業である農耕の発展にも寄与したのです。

 

渡来人から得た知識や技術を用いて始めた新産業は、馬の生産だけではありませんでした。他にも鉄器の生産や、布の生産、また高温で硬質な土器を焼く須恵器すえきもその一つです。

保渡田古墳群の一つである、井出二子山いでふたごやま古墳からは、少し変わったかたちで須恵器が発見されました。それは、歪んで正立しない高杯たかつきや、粘土が発泡した小壺などが、埋葬儀礼のステージから一部発見されたのです。通常、このような儀礼的な場所では、きれいに出来上がった完成品が用いられるはずです。そこに、失敗作とも見られる須恵器が、用いられていたのです。

その謎を解くヒントは、この古墳が当時渡来人を招いて産業振興を行っていた、首長の墓であった点から得られます。つまりこの首長は、新産業として須恵器の生産を主導しており、その葬礼にあたって、産業の始まりの頃に生産された初期製品が供じられたのではないかと考えられるのです。その首長の功績を象徴として、果敢に産業を興したことを表す、初期の未完成須恵器が掲げられたのです。このことからも、地域に経済発展をもたらすことが、首長が人々に期待され、認められるところの一つであったのだと考えられます。

 

これら新産業は、渡来人の知識や技術がベースとなっておこされました。また、地域開発に必要な治水技術なども、渡来人に学んだものであると考えられています。そのような、外来の人や技術を取り入れることを、首長はいといませんでした。それによって、地域にはよりよい暮らしや経済発展がもたらされたのです。

 

このように上毛野の首長は、主産業である稲作の発展に奔走し、加えて新規産業へも積極的に挑戦しました。それによって、経済発展と共に中央や他の地方からも認められることになり、地域にも活気や誇りがもたらされたのではないかと想像されます。

他方で、首長の地域に対する貢献、あるいは人々から求められたことは、経済的な面だけではありませんでした。

人々の精神的支柱

2012年、榛名山の東のふもとに位置する5世紀末ごろの火山灰の地層から、甲冑かっちゅうを着たまま火砕流に倒れた男性骨が発見されました。浅い溝に膝をつくように前のめりに倒れ、その先には鉄のやじりが散っていました。

注目すべきは、推定されるその男性の地位です。着装したこう(鎧)は、多量の鉄の小札こふだを革や紐でじて作った小札甲こふだこうでした。これは、それまで主流だった大ぶりの鉄板を革やびょうで留める短甲たんこうよりも手間のかかる作りで、五世紀中頃に大陸から伝来した最新式の武具です。短甲はひとつの古墳から複数出土することもありますが、小札甲は基本的に地域で最上層の首長墓から出土するのが基本です。したがって、この男性は、この地域の首長であると推測され、その首長が、火砕流に飲み込まれたのだと考えられます。

自然災害を前に武装して、何を成そうとしていたのでしょうか。

 

古墳時代の首長像は、小札甲で武装した武人埴輪から想像することができます。重厚な鎧を身にまとい、弓をもった姿や、大刀を抜刀しようとしている姿が形作られており、これが当時の首長を象徴する姿の一つだったのではないでしょうか。つまり、地域や人々にとっての脅威に、勇猛果敢に挑んでいく姿です。現代でこそ自然現象の多くは科学的に理解されていますが、古代においては自然現象を擬人化して、自然に神の存在をみとめていました。つまり、人や国だけではなく自然災害も、時には武器をとって対峙すべき相手であったと考えられるのです。

そのような背景から甲冑の男性骨に想像しうるのは、地域の首長・リーダーとして、最後まで自然と対峙する姿です。普段は神として敬う対象である自然の異変に、最初はにえや品物を供えて祭祀を重ねたはずです。しかし、その山の神の荒ぶりが治まらず、ついに集落や人々に猛威をふるい始めた時、首長は最終手段として武器をとり対峙したのではないでしょうか。甲冑を着装し、弓矢を帯びて武威を示し、しかしついに火砕流の猛威の前に倒れることとなったのです。首長は、そのような圧倒的脅威の前にも、逃げずに立ち向かうことが求められる存在だったのです。

 

もちろん首長が対峙するのは、このような自然だけではありません。朝鮮半島の情勢変化に伴って、中央の奈良盆地などからだけではなく、上毛野からも出兵したことが、神功紀じんこうき応神紀おうじんき仁徳紀にんとくきに記されているのです。朝鮮半島では、高句麗こうくりが南下政策をとったことに伴い、倭国にとって重要な鉄資源などの輸入元である伽耶かやなどが、脅威にさらされていました。そのまま高句麗に半島を支配されることによって、上毛野でも重宝されていた大陸の資源や文物が、安定的に入手できなくなる可能性がありました。

前方後円墳が大型化するのは、このような国際情勢の変化と、それに伴う対外出兵に時期を同じくしています。前述したようにこのような大型古墳は、各地域の首長の中から共立された大首長のものであると考えられています。また古墳は、首長が亡くなった後に造り始められるのではなく、首長が存命のうちから造られていたと考えられています。したがって、海の向こうの他国へ出兵するにあたって、統率力を高める必要があり、そのための首長の共立であり、古墳の大型化であったと考えられるのです。

渡来人を受け入れ、その知識や技術、文物に触れていた人々にとって、半島への出兵は少なからず共感できるものであったと考えられます。渡来したヒト・モノ・情報によって、経済が発展し富がもたらされ、その発展によって中央からも認められ、地域への誇りも感じられていたことでしょう。それを奪い去られかねない問題へ、首長は先頭に立って、陣頭指揮をとり対峙していたのです。

 

このような経済発展を脅かす問題や、先に述べた生存自体を脅かす自然の問題へ、首長は人々の先頭に立って解決にあたっていたと考えられます。そのような姿勢は、人々に、地域社会の持続的な安寧と、生きていく上での安心を、感じさせていたのではないかと考えられます。「この人がいれば大丈夫だ」という安心感です。

第四章 人々が仰いだ古墳

「経済と宗教」の両輪

古墳時代は、日本列島を支配できる中央国家はまだ成立しておらず、地方がある程度独立した形で、政治や経済の活動を行っていました。古墳は、ヤマト地域を中心に形成される政治的連合への参加を承認された証であり、その大きさや形状は、その地位の高さを示していました。地方首長は、中央への貢納などによって承認を得ることで、大陸から伝来するヒト・モノ・情報の流通ネットワークに参加することができたのです。

地方首長は、そのような渡来人によってもたらされた知識や技術を利用して、地域開発を行いました。当時の主要産業は稲作であり、そのために必要な治水には特に注力していたと考えられます。その治水のための土木工事は、次第に大規模化し、共同体を跨いだ規模の開発が行われるようになっていきました。このような、時には地域を越えた協力関係を結ぶことで、安定的な水稲すいとう産業の維持・発展を成し遂げていたと考えられます。水稲産業に加えて、馬や須恵器の生産などの、新規産業も首長が中心となって興されていきました。これら新規産業や、稲作や治水の知識・技術は、渡来人からもたらされたものです。首長は、外国からもたらされる新しいヒト・モノ・情報を積極的に求め、取り入れていったのです。首長の、このような地域間協力や外来物の積極的受入れ、新規産業への挑戦の姿勢は、地域経済の発展をもたらし、それが人々が首長を認めるところの一つになっていたと考えられます。

 

首長が果たした役割は、経済の面だけではありませんでした。産業や生活を大きく左右する、自然への対峙も必要とされたのです。現代のような科学が発展していなかった古墳時代においては、首長は祭祀を行うなど、宗教的な対峙を行いました。また、100mを超えるような大型の前方後円墳は、地域を越えた開発や、朝鮮半島への出兵などの際の、人心の掌握しょうあくのために築造された側面もあると考えられています。首長は、宗教的な力によって、人々に安心や社会の安寧あんねいを感じさせ、人々の協調をも引き出していたのです。

 

このように、古墳時代の地方首長は、人々に豊かな生活をもたらすために、「経済と宗教」の両輪で奔走しました。開拓精神をもって産業を振興し、宗教的儀礼によって社会の安寧を人々に示し、時には鼓舞し、物質的にも精神的にも人々の幸福のために尽力したのです。その首長がまつられる墓である古墳は、政治的連合の会員カードというだけではなく、人々にとってはもっと様々な意味合いをはらんでいました。

リベル:「経済と宗教」が、共同体や組織をまとめるにあたって必要なのであれば、現代の宗教にあたるものは何なのだろうか。古墳時代には、古墳や祭祀など人心を惹き付ける機会が明確にあった。しかし、現代の地方自治体や会社ではそのような明確な機会はないように感じる。別の何かで代替されているのだろうか、あるいは薄れていってしまっているのだろうか。薄れているのなら、それによって何か問題は生じていないのだろうか。
リベル:現代の宗教にあたるものは何なのかnoteで追考してみました。その一つが「会社」であるという結論のもと、バブル崩壊後、会社から宗教的要素が失われてきているという方向性の考えとなっています。『バランスが崩れる「経済と“宗教”」 〜「会社」に代わる拠り所の必要性について〜』

人々にとっての古墳の意味

古墳は、その地域と人々にとっての、モニュメントでありランドマークでした。

 

古墳には、その時代、その地域社会の背景が投影されていました。大型の前方後円墳は、中央ヤマトから認められた証であり、それを建造できるだけの巨大な経済的基盤があることも示していました。治水の大規模開発の際には、その前線に共立された大首長の古墳が築造されました。また、地域開発の他に、朝鮮半島への軍事派遣も、共立や古墳の大型化の大きな要因であると考えられています。古墳は、確定的な資料はありませんが、首長の死後ではなく、首長がその地位に就いた時から築造が始められたと考えられています。したがって、その古墳が造られている背景を共有しながら、古墳築造に参加することで、人々は心を一つにしていったのではないかと想像されます。古墳は、人々がどのような首長のもとで、どのような社会に生き、どのような問題に向き合っているかを共有する、現在進行系の記念物であったと考えられるのです。また、そのような意味をもった巨大建造物を、自分たちの地域に造ることができるということに、誇らしさも感じていたのではないでしょうか。

 

そのようなモニュメントしての古墳は、その築造場所にも意味がありました。港近くに造れば、船でその地を訪れた人にその威容を示すことができます。あるいは、その地域の人々のよく目につくところに造れば、首長の統治する地に居ることを日々確認でき、安全と安心を感じられたはずです。また、地域開発の最前線に造ることで、人々の士気を高めることもできたと考えられます。つまり、古墳は、その首長の存在感やこれから成すことを示すにあたっての、最も効果的で演出的な場所に築造されたのです。

そのような意味をもつ古墳を通して人々が見ていたのは、経済と宗教の力で地域の発展・維持を成している首長の姿であり、自分たちが生きる共同体の姿であったと想像されます。反対に、地域の外の人にとっては、もっと緊張感のある感情が湧くものであったでしょう。人々が仰いだ古墳は、その社会が目指す先の未来を、人々の心に映すものであったのだと考えられます。リーダーである首長は、そこに映る社会の実現へ向けて先頭にたって奔走することで、より深く人々に認められていったのではないでしょうか。

 

図2 築造時の姿を再現した八幡塚古墳(高崎市教育委員会・かみつけの里博物館提供)

図2 築造時の姿を再現した八幡塚古墳(高崎市教育委員会・かみつけの里博物館提供)

 

そして飛鳥時代へ

こうして列島各地で、その地域の象徴として威容を放っていた前方後円墳は、飛鳥時代の成立前夜である6世紀に入ると、徐々に造られなくなっていきました。その背景には、国造こくぞう制と呼ばれる倭王権の地域支配システムや、氏姓しせい制度の成立などが関わっていると考えられています。ヤマト中央の国家としての支配力や支配システムが蓄えられていくにつれて、地域の独立性は失われていったと考えられるのです。

古墳時代は、その地域のことは、その地域のリーダーと人々が考え、問題解決にあたっていました。古墳のもとに広がる社会は、シンプルで分かりやすい構造のもとに、成り立っていたのだと考えられます。

 

最後に、若狭わかさ先生にこんな問いを投げかけてみました。

「古墳時代の首長は、上から押さえつけるような権力ではなく、人々から認められるような権威によって、共同体を導いていたように感じられました。そのようなリーダーシップを発揮できたのには、どのような秘密があったのでしょうか?」

 

若狭先生:まず、経済システムが地域の中で完結していたということは大きいと考えられます。朝鮮半島の技術を取り入れながら、農本主義で地域経済を維持・発展させていました。軍事的に他地域を制圧するような流れもあまり見られず、経済本位の地域発展を志していたと考えられます。

他方で、首長は、祭祀さいし王でもありました。自然に対する科学的知見がなく、また自然の影響をダイレクトに受ける水稲産業主体の経済では、自然を敬う祭祀は首長の重要な責務でした。そのような価値観をもつ社会においては、古墳のようなモニュメントも必要性が高い建造物だったのです。

つまり、古墳時代の首長が、経済は当然として宗教を重んじることも、また古墳の築造に労働力をあてることも、地域経済発展のための一貫的且つ合理的な考え方だったのです。他にも、この時代の首長の選任が、世襲ではなく実力本位であったことなども、人々が納得感を持てるシステムでした。このような、首長が行うことに辻褄がとれていたことや、地域の人々が納得感をもてる政策が執り行われたことが、権威的なリーダーシップを発揮できた要因の一つなのではないでしょうか。」

コラム:人々にとっての古墳づくり

保渡田ほどた古墳群の1つ、八幡塚はちまんづか古墳は1500年の時を経て、復元整備されました。この復元整備の過程で行われた発掘調査では、当時の人々の古墳づくりの様子を垣間見ることができました。

八幡塚古墳の墳丘ふんきゅうは、土を盛り上げて三段に仕上げられ、斜面には拳大から人頭大の石がびっしりとかれています。その葺石ふきいしは、詳細なルールや管理体制のもと並べられたというより、参加者各人がある程度の自由度をもって並べられたように見受けられるのです。

 

図3 八幡塚古墳の葺石(高崎市教育委員会・かみつけの里博物館提供)

図3 八幡塚古墳の葺石(高崎市教育委員会・かみつけの里博物館提供)

 

図3では、縦石列を境にして並べ方が異なります。これは、縦石列を区切りとして担当が割り振られていたことを表していると考えられます。その並べ方は石の大きさや間隔がランダムであり、その担当者の性格や感性そのままに、並べられたように感じさせられます。左側は小さな多数の石が敷き詰められており、几帳面で真面目な人かもしれません。真ん中は、範囲が狭いので、子どもが割り当てられた領域でしょうか。右側は大きな石が大胆に並べられているので、少し大雑把な性格の人かもしれません。

古墳は、ピラミッドのように、奴隷的な強制労働によって造られたとイメージされることもありますが、そうではなかったのではないかと考えられています。そもそも、古墳づくりの参加者は、その地域の一員である農民であり、奴隷ではありません。その農民が、農閑のうかん期に古墳づくりに参加し、さらにはある程度の労働報酬も得ていたと考えられています。古墳築造は、富を再分配する機会にもなっていたのです。つまり、古墳築造は、農閑期の雇用を生み出す、公共事業のような一面もあったのだと考えられます。また、その築造が奴隷ではなく地域の人々のよって成されたのであれば、現代のお祭りや地域清掃などのように、なごやかな雰囲気の中で造られていたのではないでしょうか。人々が仰いだ古墳は、その築造過程も、人々にとって意味のあるものだったのです。

 

〈参考文献〉

  1. 若狭徹著(2015)『東国から読み解く古墳時代』(吉川弘文館)
  2. 吉村武彦著(2010)『ヤマト王権』(岩波新書)

 

 

 

 

 

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古墳にまつられるのには、それ相応の理由と苦労があったのだ。 #リベル

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