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明治期の趣味消費

人がモノに求めることを考える

文量:新書の約14ページ分(約7000字)

はじめに

近年のエシカル消費やミニマルライフのように、時代の変化と共に様々な消費テーマが生まれてきました。しかし、人間が本質的に求めることは、そこまで変化するものなのでしょうか。

さかのぼること明治40年頃(1907年頃)、「趣味」という語が人々の間で日常的に語られるようになっていました。日露戦争後の好景気に乗って、百貨店を中心舞台として消費型の都市文化が生まれた頃です。

しかし、当時の「趣味」にまつわる人々の消費行動を知ると、趣味を嗜むたしなむというよりも、モノとして取得することに重きを置いているようにも見てとれるのです。一部の知識人からは、それを悪趣味と批評されることもあったようでした。

明治期の人々は、モノに何を求めていたのでしょうか。それは、現代とは違った欲求を満たすものだったのでしょうか。それとも、同じだったのでしょうか。

 

今回は、関東学院大学・人間環境学部教授の神野由紀先生にお話を伺いながら、このようなテーマについて考えてみることにしました。

 

神野由紀じんのゆき先生

1994年、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程修了(デザイン学)。現在、関東学院大学人間共生学部教授。研究テーマは、「デザインの考察を通した近代文化研究」「日本の初期消費社会における商品デザインと消費者の意識変容について」。

〈著書〉

  • 『趣味の誕生』(勁草書房)
  • 『百貨店で〈趣味〉を買う』(吉川弘文館)
  • 『子どもをめぐるデザインと近代』(世界思想社) など

 

目次

第一章 「趣味」需要を生んだ社会背景

明治維新後の廃藩置県は、人々から藩という所属を奪うことになりました。また、日清・日露戦争を経て進行した日本の産業発展に伴い、人々は工場労働者や会社員として地方から都市部へ流入しました。

所属を失い都市部では匿名的である彼らには、自分らしさを表し、他人と差異化する手段が必要でした。しかし、元々は地方の下級武士である彼らは、都市部の上流階級のように教養を持っていません。

一方で、賃金労働者であった彼らは、際限ない贅沢はできないまでも経済的な安定は得ていました。彼らは、新中間層として消費の担い手となっていったのです。

 

そんな彼らにとって「趣味としてのモノ」は、自身が何者であるかを示す有効な手段でした。教養を備えていなくても、あるいは身につける手間を省いて、消費によって手に入れることが出来たからです。

彼らがまず目指したのは、維新後に移植された西洋的理想モデルとしての「紳士」であり、その紳士となるためのファッションを求めました。その後、自らの社会的地位を示すために、様々な身の回りのものへの消費に関心を広げていきました。

その関心は、次第に絵画や美術品へも広がっていきました。それらは彼らにとって、自らの地位を示す重要なモノとして認識され、新中間層の趣味として需要が高まっていったのです。

ちなみに、「趣味」という語は、明治初期から用いられていましたが、座談や雑誌などにおいて一般の人々が使うようになるのは明治40年頃です。明治40年頃の「趣味」という語は、芸術に対する個人の美的感覚という高次のレベルの意味から、日常におけるものの好き嫌いという表層的なレベルまで、様々に用いられていたようです。

 

同時にこの頃、知識人を中心に近代日本の文化・教養の向上を求める声が高まる中で、趣味の重要性が指摘されるようになっていました。これは、明治初期の文明開化が、個人の内面に西洋の文化を受け入れる素養がなく失敗に終わったことに対する反省から出てきた発想でした。

知識人は、日本の地位向上のための西洋文明の消化や吸収という、明治の日本が抱えていた課題解決の手段として、「趣味」の啓蒙や教育の必要性を訴えたのです。

 

このように、趣味に対する需要には、個人的な必要性と社会的な必要性が紐付いていました。個人は自己表現の手段として趣味を求め、社会的視座に立つ知識人は大衆の文化的素養の向上の啓蒙や教育の手段として、趣味を求めたのです。

では、実際に人々は、どのような趣味としてのモノを、どのように消費・消化していったのでしょうか。

第二章 中間層の趣味との接点

中間層の趣味との接点を作り出したのは、百貨店でした。特に、百貨店「三越呉服店」は、その中心的役割を担っていきました。

 

三越呉服店の前身である「越後屋えちごや」は、延宝元年(1673年)に開店しました。江戸期を通じて揺るぎない地位を保っていましたが、明治維新後の幕藩体制の崩壊後、得意先の没落、幕末からの急激な物価高などに伴い、経営不振に陥りました。

明治28年(1895年)、諸改革を担う高橋義雄が理事として就任します。高橋の改革の結果、明治37年(1904年)百貨店「三越呉服店」として生まれ変わりました。さらに同年、高橋に代わって経営者になった日比翁助ひびおうすけによって「デパートメントストア宣言」が出されました。「デパートメントストア宣言」は、翌明治38年には、全国の新聞・雑誌の広告に大きく掲載され、人々に認知されていきました。

高橋の改革の一つに、「見せる」ディスプレイの採用があります。当時の呉服店は、店内は薄暗く、店の者は奥に座って客を待ち客の求めに応じて商品を取り出して見せていました。高橋は、明治33年全館を陳列場とし、さらに各階に洋風の豪華な休憩室を設けました。これらの改革は、高橋がアメリカの商学校で学んだ経験と、その後の継続的な調査や視察に基づくものでした。

日比は、欧米の百貨店の視察により、百貨店の利益は社会貢献のために用いる、という欧米百貨店の考え方に共鳴しました。彼の文化活動への熱意は高まり、「国民外交」「学俗がくぞく協同」という理念を確立していきました。

「国民外交」の活動としては、明治38年に米陸軍タフトきょうが来店した時、屋上に「WELCOME」の電光掲示を取り付けました。また、明治39年に英国コンノート親王が訪れた際には、建物の屋上に「空中庵」を新築しもてなしました。それによって、「三越は第二の国賓接伴所こくひんせっぱんじょなり」と評されるようになっていくのです。

「学俗協同」の活動としては、各界の著名人を集め、流行について論じ合ってもらう「流行会」という研究活動を行っていました。これらの研究会をはじめとするあらゆる文化事業は、文化の向上という名目のもとで行われていました。

人々は、このようにして創られた百貨店で、趣味としてのモノに触れていったのです。

 

三越のPRの施策は多彩でした。明治32年、三井呉服店では日本初の商業PR誌である『花ごろも』を発行しました。口絵くちえ32ページ、本文350ページのかなり厚い冊子で、営業案内の他に、呉服の新柄や流行柄に関する記事や、一流作家による小説などが掲載されていました。

店自体も、デザインメディアとして機能させていきました。百貨店建築は、人々に別世界を提供していく空間でなければならないという考えのもと、明治41年には木造ルネッサンス式三階建の仮営業所を、そして大正3年(1914年)には鉄筋コンクリート造ルネッサンス式五階建の新館を完成させました。三越の入口にある二頭のライオン像も、その空間演出の一つです。

店内には、休憩室や食堂、空中庭園などがありました。特に休憩室は、西洋風の豪華な家具が置かれており、西洋と接する数少ない機会であったはずです。こうした場が、休憩室や食堂に加え、大正に入るとモデル・ルーム形式の家具売り場となって現れました。イギリス風、フランス風、ウィーン風、クラシックからモダンにいたるまで、様々な様式が提供されていきました。

 

しかし、このような提供の仕方は、趣味の“羅列”とも見て取れます。知識人が啓蒙したかった趣味は、本来個人の内面における美意識であったはずでした。知識人も、雑誌『趣味』の創刊などにより啓蒙活動は行っていました。

ただ、実際にモノを用意し、消費によって趣味を身につけられるという解決策を提供したのは、三越をはじめとした百貨店でした。また、雑誌は興味がある人しか手に取りませんが、三越はその多彩なメディア活動によって、興味がない人々も無意識的に取り込むことができたのだと考えられます。

第三章 百貨店の売り方の裏に見る、人々の素顔

当時の人々の消費者ニーズを把握することは困難ですが、百貨店が消費者ニーズを掴んでいたとするならば、その売り方の裏側に、消費者としての人々の素顔が透かし見えるはずです。人々は、どのような趣味としてのモノを、どのように手に入れることを望んでいたのでしょうか。

 

明治40年(1907年)、三越呉服店に「新美術部」が設置されました。「新美術」とは、「古美術」ではなく同時代の作家の作品を扱うという意味です。

中間層は、地方から上京してきて、会社員となり、結婚して新居を構えるようになっていました。当時の中間層の一般的な住まいは和風の住宅であり、玄関や客間といった接客空間が重視された封建的な色彩の強い住まいでした。床の間には主人のステータスを表す調度品が、洋風生活が取り入れられた家の応接間には洋画が求められました。

しかし、都市へ流入してきたばかりの地方出身者には、画家に直接依頼できるほど財力も芸術家との人脈もありませんでした。また、美術品に対する鑑識眼も備わっていなかったため、贋作がんさくを売りつけられてしまうという危険もありました。

このような状況から、信頼できる美術品購入の場として、百貨店美術部が誕生しました。現存作家の美術品を扱うことで、作家に直接本人確認ができるため、美術品の信用を担保しました。また、美術品は全て表装・額装された「既成品」として店内に陳列され、客はそれを自由に見て選ぶだけで手に入れることが出来ました。

中間層にとって、特に初期百貨店の周辺に集まっていた好事家こうずかの趣味は、分かりやすい目指すべきモデルでした。それに代わるモノを、面倒なことを取り除き、手軽な商品として提供していたのが百貨店だったのです。

 

百貨店美術部が、初期から販売に力を入れていたのが、半折画はんせつがでした。半折画とは、掛け軸の全紙を縦に二つ折りにした画で、サイズが小さい分安価に購入でき、中間層の住まい程度の床の間にも合っていました。

価格の安さは、中間層にとって大きな魅力でした。明治40年代の銀行員の初任給は四十円でした。それに対して。実業家などが購入した古画は数千円〜一万円以上と、中間層にとっては法外な価格でした。それに対して半折画は、十円台で購入することが出来ました。

また、半折画を売るための展示では、実際に書院風の違い棚付きの床の間を用意し、住まいに飾った様子をより具体的に想起させました。その現代作家の作品は、一つずつ桐箱に入れられ、作家自身による箱書が付けられました。

このようにして売られた半折画は、「夢にも見られません安値」として話題になり地方から含め注文が絶えず、初日に展示したほとんどが同日に販売するという盛況ぶりでした。

 

半折画がハイカルチャーな世界の大衆化だったことに対して、もう一つ特徴的な趣味のモデルが人形玩具がんぐ愛好でした。一部の好事家たちによる人形玩具趣味は、百貨店という消費の場を通して、「おもむきのあるもの」と見なされていました。また、書画に比べて財力を必要とせず、権威からは遠い子どものものであるということから、鑑賞も気軽にできるものだったのです。

明治半ば頃から、「家族」が強く意識されるようになりました。日本の封建的な家父長かふちょう制度に対して、西洋近代的な家族のイメージが伝えられ、民主的な家族像としての「家族」が説かれるようになりました。雑誌も、女性と子どもをテーマにした「家族」と名の付くものが数多く刊行されました。

三越などの百貨店も、早くから子ども用品部門を設置し、精力的に市場開拓を行っていました。特に、ひな祭り、端午の節句、七五三、新入学、クリスマス、お年玉などの通過儀礼を、消費イベント化していきました。

三越のPR雑誌では、女児を持つ一般家庭向けの雛人形として、親王飾りや段飾り、さらに大正後半になると豪華な紫宸殿ししんでん飾りなどが紹介され、雛人形の記事や陳列会の様子が、大量に掲載されました。

このような動きが、一般消費者に雛人形の購入が必須であると意識させた可能性は、十分に考えられます。また、人形はあたかも流行商品であるかのように、毎年の主流の形が紹介されるようにもなりました。

百貨店では、一般家庭向けの雛人形商品に混じり、大人の趣味的な人形販売も行われていました。「雛遊会ひなゆうかい」という陳列会では、好事家のコレクションが大々的に披露され、中間層に広まっていきました。

雛人形も、大人の趣味化に伴い、多様化していきました。寛永雛かんえいびな享保雛きょうほうびな次郎左衛門雛じろうざえもんびななど江戸時代流行した雛の新製品のほか、高砂雛たかさごびな勧進帳雛かんじんちょうびな能人形雛のうにんぎょうびななどがその一例です。そのような製品を掲載したPR雑誌からは、子どものいる家庭の趣味嗜好からずれていったことが読み取れます。また、それらの雛人形が良い趣味と言えるのか、疑問が残るものでした。

 

そして、三越のPR雑誌には、三越的な趣味の意味として「三越好み」という言葉が現れるようになります。

雑誌では、「三越好み」とは、派手、意気、ハイカラといった言葉で規定されるものではなく、独自の位置を占めているということが強調されています。つまり、個々の商品や催事といった単体ではなく、三越という総体として認識されるべきものであるとされました。

逆の見方をすると三越は、店自体や商品そのものの価値を高めるという方法ではなく、「三越趣味」というイメージを築くというデザイン活動を行ったと言えます。

 

中間層は、このようにデザインされた百貨店という場を通して、趣味としてのモノを消費していきました。ここまで紹介してきた当時の様子からは、彼らは趣味を、能動的に消化・吸収するのではなく、受動的に消費しているように見て取れます。

第四章 人がモノに求めることは何なのか

地方から都市部に流入してきた中間層は、都市で生きていくための手段として趣味を求めました。趣味は、自分らしさを表現し、他者との差異化を図るための記号となりうるものでした。一方で知識人は、文明開化の失敗を経て、西洋文明を受け入れるための教養の向上を目的として趣味の必要性を訴え啓蒙しました。

両者が趣味に求めたことは、自己表現のために自己を高めるという意味においては、相反しないようにも感じられます。

しかし、結果としては、知識人が求めたような教養の向上につながったのかは疑問であり、大衆である中間層は、もっと即物的に趣味を受容したように見て取れました。

リベル:知識人の、啓蒙や教育という目的は果たせなかった。お膳立てして消費を促すのではなく、啓蒙や教育の先に消費を促したという実例はないのだろうか?

 

三越は、様々な施策によって趣味としてのモノの消費を促し、中間層はそれを受け入れました。その結果が、この時代の大多数の人々の精神を代弁しているとも言えます。

都市で生きていく上での記号を求めた中間層が趣味を通して求めたものは、普遍的な何かではなく流動的な価値観であり、その時々に魅力的に見える流行に他ならなかったのかもしれません。

 

最後に、神野先生に改めてこんな問いを投げかけてみました。

「人がモノに求めることは何なのですか?近年の消費者行動なども交えて教えてください。」

 

神野先生:近年は、島宇宙化しまうちゅうかが進んでいると感じます。絶対的な意味での良い趣味というものがなく、自分の社会集団でだけ評価されれば良いというように、ここ数十年くらいで変化してきました。

モノが売れないと言われていますが、決して人々がモノを買わなくなったわけではないと思います。例えば、「丁寧な暮らし」というテーマが生まれても、その暮らしをするためのモノは必要なわけです。最近は、ハンドメイドの調査もしていますが、ハンドメイドのマーケットに行くと、そのための材料を買うわけです。ハンドメイドは、モノを買わずに自分で作るということですが、それを作るためのモノは買うわけです。

つまり、自分の共感できる世界の中で消費はしているわけです。ハンドメイドも、自分と趣味が合う人のところにしか出店したくない、その中で評価されたいという欲求があるようです。セグメントやコミュニティは細分化されていますが、モノの意味は失っていないように思います。

趣味の島宇宙化は、同時に排他性も生み出しています。音楽社会学者の小泉恭子さんが述べているように、最近は、カラオケでみんなで歌うための音楽と、自分だけで聞く本当に好きな音楽は違うそうです。自分の趣味を周囲に公表しないようなんですよ。

明治期に比べると、外見上の分かりやすい記号は求められなくなっていますが、「わかる人」だけが集まったコミュニティの中で、モノは消費されています。一方で、汎用性のあるようなモノは求められにくくなっているのかもしれませんね。

 

(2019年9月16日掲載)

 

〈参考文献〉

  1. 神野由紀著(1994)『趣味の誕生』(勁草書房)
  2. 神野由紀著(2015)『百貨店で〈趣味〉を買う』(吉川弘文館)

 

筆者:吉田大樹

人の内発性により生み出される、プロダクトや活動に魅力を感じています。自分自身様々なサービスを模索する中で、何かを生み出そうと考えるほどに視野が狭まっていく感覚を覚えたことを一つのきっかけとして、リベルを始めることにしました。1986年岩手県盛岡市生まれ。2005年、東北大学工学部・機械知能航空工学科へ入学。2009年、東北大学大学院工学研究科・ナノメカニクス専攻へ入学。2011年、株式会社ザイマックスへ入社。2016年7月、高校時代からの友人と株式会社タイムラグを創業。

 

 

 

 

 

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