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定住の起源

ライフスタイル再考の起点として

文量:新書の約27ページ分(約13500字)

はじめに

海外や地方へ移住した人や旅をするように生きている人を見て、その生活に憧れを抱くことがあります。あるいは、定期的に非日常を求めて旅行に出かけるのも、同じような欲求によるものかもしれません。

一ヶ所にとどまることが一般的な現代のライフスタイルは、本当に私たちにとってベストな選択なのでしょうか。

 

約1万年前に農耕革命が起きるまで、人類は狩猟採集を生業として移動型の生活をしていました。最近では、サヘラントロプス・チャデンシスが最古の人類であるとも言われており、その誕生は約700〜650万年前にさかのぼるそうです。

つまり、私たち人類は、その誕生以来ほとんどの時間を移動しながら生活しており、遺伝的特性もその生活環境に適応していると考えられます。また、他の霊長類や動物は、現在でも移動型の生活をしています。

では、なぜ人類は定住をはじめたのでしょうか。その定住の背景や、必要性やメリットは、現代にも当てはまるのでしょうか。定住が一般的な私たちのライフスタイルは、これからも続いていくのでしょうか。

 

今回は、国立歴史民俗博物館教授の山田康弘先生にお話を伺いながら、このようなテーマについて考えてみました。日本列島で定住生活がはじまった縄文時代から、私たちの定住の起源にせまっていきます。

 

山田康弘やまだやすひろ先生

1967年東京都生まれ。筑波大学第一学群人文学卒業、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科中退。博士(文学)。現在、国立歴史民俗博物館教授・総合研究大学院大学教授。専門は先史学。縄文時代の墓制を中心に当時の社会構造・精神文化について研究を行う一方で、考古学と人類学を融合した研究分野の開拓を進めている。

〈著書〉

  • 『縄文時代の歴史』(講談社現代新書)
  • 『人骨出土例にみる縄文の墓制と社会』(同成社)
  • 『縄文人がぼくの家にやってきたら!?』(実業之日本社) など

 

目次

 

第一章 縄文期の気候変動

地球上の気候は、およそ4万年から10万年の周期で温暖化と寒冷化をくり返していると考えられています。今からおよそ1万年前に最後の氷期が終わり、現在は氷期と氷期の間の間氷期かんひょうき・かんぴょうきと呼ばれる期間とされています。

縄文時代の始まりは、土器の出現をもって定義されることが一般的ですが、その出現は今からおよそ16500年前でした。つまり、縄文時代は、氷期の終わりから間氷期の始まりにかけて起こった時代であったと言えます。

氷期は、現在よりも寒冷であり、地球上の水が氷河や雪として陸上に固定されていたため、海水面は現在よりも100mほども低かったとされています。そのため、北海道はサハリンや千島列島とともにユーラシア大陸とつながっており、大きな半島となっていました。また、瀬戸内海は陸地化して、本州・四国・九州は一つの大きな島になっていました。植物相は針葉樹が主体であったため、食料として利用できる植物資源は少なく、動物の狩猟が主な食料獲得の手段でした。また、その動物も、マンモスやナウマンゾウ、オオツノジカなど、間氷期の現在とは異なる動物相でした。このように、縄文時代以前と縄文時代の始まりの頃は、寒冷な気候により、その後の間氷期とは必然的に異なる生活を強いられていたと言えます。

 

その後、11500年前頃(縄文時代早期始め)から気候が急激に温暖になっていき、植物相や動物相も変化していきました。温暖になるにつれて、現在の日本に特徴的な、四季も明瞭になっていきました。地質年代としては、気温が7度ほども一気に上昇した完新世かんしんせいに突入した頃です。縄文時代前期と呼ばれる7000年前〜5470年前は、気候が最も温暖化し、海が現在の栃木県栃木市あたりまで入り込んでいました。この時期の海水面の上昇を、縄文海進じょうもんかいしんと言います。

しかし、間氷期以降の気候は一様に温暖であったというわけではなく、およそ4400年前の縄文中期末頃には、一度気候が冷涼化します。これによって、温暖な気候に合わせて形成された生活環境は、変化を強いられました。そして、その後再び温暖化したことで、またさらに生活環境の再構築が必要となりました。

このように、縄文時代という一つの時代区分の中には、寒冷化から温暖化へ、冷涼化から再度の温暖化へと、波をうつような気候の変化がありました。それは、食や住といった人間の根源的な生活環境に影響を与えるものでした。

尚、本書では、年代を覚える必要はありませんが、時代区分と気候の変動は覚えておくと、スムーズに読み進められます。本書で採用した時代区分と気候の変動について、以下に記載します。

  • 草創期そうそうき:16500年前〜11500年前頃。温暖化が始まるが、13500年前頃には氷期に戻るような寒冷化も起きていた
  • 早期:11500年前〜7000年前頃。気候が急激に温暖化した
  • 前期:7000年前〜5470年前頃。気候が最も温暖化した
  • 中期:5470年前〜4420年前頃。
  • 後期:4420年前〜3220年前頃。中期の終末から後期の最初の頃に冷涼化した時期がある
  • 晩期:3220年前〜2350年前頃。九州北部においては3000年前頃から稲作が始まり、弥生時代に移行していく

第二章 なぜ定住がはじまったのか

食環境と、食料確保の方法の変化

縄文時代草創期から早期・前期にかけての温暖化により、植物相は、針葉樹から落葉広葉樹へ変化していき、ドングリなどの堅果類が採れるようになりました。気候が温暖化することで、寒冷期に比べて多くの食料が発見され、その食べ方も開発されていきました。生活に対する土器の貢献は、ものを入れる容器としての性質よりも、煮沸しゃふつを行う鍋としての性質の方が大きかったと考えられています。煮込むことにより植物や動物の繊維は柔らかくなり、また煮込み料理という調理のバリエーションも増えました。食料資源が増えたことと土器利用の相乗効果により、縄文時代早期以降の食は多様化していったと考えられます。

また、温暖化により四季が明瞭になると、季節によって穫れる(採れる)食料が増減するようになりました。自然界における利用可能な食料の総量をバイオマスと言いますが、バイオマスは秋が最も多くなり、翌年の初夏が最も少なくなります。バイオマスの変動が生じたことで、少ない時期を乗り切るために、多い時期に十分な食料を確保し「保存する」という必要性が出てきました。

縄文時代の人々は、堅果類は地面に掘った貯蔵穴で保存し、干し魚などは屋内などに保存していたと考えられています。また、保存にあたっては、加熱処理や燻蒸くんじょうなどの加工を必要とする場合もあり、一定の作業場が必要とされました。

定住生活のはじまり

温暖化によって食環境が豊かになることで、食料確保のために移動する必要性は薄れていきました。移動をしなくても一定の領域内で、生きていくのに足る食料を確保できる可能性が高くなったためです。加工と保存という方法を開発することで、移動の必要性はさらに薄れていったと考えられます。

他方で、保存を基本とした食料確保の方法へと変化していったことにより、移動することが困難になっていきました。なぜなら移動することは、保存用の食料や加工に必要な道具や作業場ごと持ち運ぶことを意味したからです。

このように、食環境の変化により移動の必要性が薄れ、食料確保の方法として加工や保存が加わることで移動が困難になりました。これらの変化が、人々を移動生活から定住生活へと導いていったのだと考えられます。

 

保存という食料確保の方法は、定住だけではなく、集住も同時に促しました。バイオマスが多い限られた時期に一気に食料を獲得し保存作業まで行うには、多人数で協力・分担して作業を行った方が効率的であったためです。

また、食料を加工し保存できるようにしても、その保存期間は1年程度が限界であったと考えられます。保存期間が長くなれば味は落ち、腐食も進むためです。したがって、1年をサイクルとした定期的な共同作業が必要とされ、これも恒常的な集住を促した要因であると考えられます。

 

実際に、縄文時代草創期から早期のものと思われる鹿児島県霧島市に所在する上野原うえのはら遺跡では、多数の竪穴式住居が発見されました。そのうちの10棟には、約9500年前に噴火した桜島の火山灰が堆積しており、これは10棟程度の住居が同時期に存在していたことを示しています。その住居の平均的な床面積は約7.13平方メートルで、その一棟には2,3人程度の人々が生活していたと考えられています。したがって、10棟全てに人が住んでいたとすると、20〜30人程度の集落であったと考えられます。

上野原遺跡からは、燻製施設と考えられる連穴土坑が16基、石蒸し炉と思われる集積遺構しゅうせきいこうが39基、集落内を通る道路跡が二筋確認されています。このような施設跡からも、安定した定住生活が行われていたことが伺えます。

縄文時代前期には、東日本を中心に環状集落かんじょうしゅうらくが見られるようになります。環状集落とは、同心円状の構造を持ち、竪穴式住居、貯蔵穴、掘立柱建物(倉庫or平地式住居?)、墓域を同心円状に配置する特徴がある集落のことです。規模の大小はさまざまですが、外径150mほどの大きさのものも存在していました。さらに、中期の東日本では、住居が100棟を超える環状集落が営まれていたことが発掘調査によって確認されています。

 

このように、気候の温暖化に伴い食環境が変化し、人々の食料確保の方法も変化していきました。それに伴って、移動の必要性が薄れ、また同時に移動が困難になっていきました。合理的に定住の方がメリットが大きいと判断したのか、気づいたら移動しなくなっていたのかは分かりませんが、このようにして人々は定住生活に移行していったのです。

では、食以外の生活は、定住・集住によってどのように変化したのでしょうか。その変化を見ていくと、生活が多様になっていくと同時に、定住・集住によってさまざまな問題が生じていたことが伺えます。そして、縄文時代の人々は、その問題を、時には現代の私たちと近い考え方で、時には独特と感じられる感性をもって解決していたようです。次章では、食以外の生活の変化や、創られていった社会システムに見ていきたいと思います。

第三章 定住以後の生活と創られた社会システム

管理や分業 〜仕組みによる問題解決〜

廃棄物の管理

定住化によって生じた問題の一つに、ゴミや排泄物の問題がありました。移動生活では、現代のようなプラスチックゴミなどはなかったため、生活で生じた廃棄物は適当に捨てておいても問題ありませんでした。しかし、定住するとなるとゴミは溜まっていき、生活の快適性だけではなく、衛生面にも悪影響を及ぼします。

そこで縄文時代の人々は、居住域とは別に、廃棄場所を作ることでこの問題を解決しました。それが、「貝塚かいづか」です。縄文時代中期から後期にかけての、環状集落が多くつくられた頃の貝塚は、非常に大規模でした。中でも最大なものは、千葉県曽谷そや貝塚で、東西210m、南北240mという大きさでした。

 

少し話は逸れますが、貝塚からは、当時の人々の生活を覗き見ることができます。福井県鳥浜とりはま貝塚からは、淡水産の貝殻層、魚骨を主体とした層、堅果類けんかるいを主体とする層というように、廃棄物が明確に層をなしていました。これは、当時の人々の、季節性を重視した、年間を通じた計画的な暮らしを示していると言えます。

また、特に千葉県域の貝塚からは、しばしば埋葬された人骨も見つかります。このことから、貝塚はゴミ捨て場としてだけではなく、精神文化的な場であった可能性も考えられます。現代では、生活廃棄物の処理場所と、葬儀や埋葬の場を明確に分けていますが、縄文の人々はそれらを明確に分けていなかったということです。自然の恩恵の中で生きているという意識が強かった縄文の人々にとっては、同じ人間の生命だけではなく、生活によって出た残渣物にも、再生を祈るような価値観があったのかもしれません。

植物資源(クリ)の管理

縄文時代の人々にとって、アク抜きの必要のないクリは食料として有益なものでした。また、食料としてだけではなく、加工が容易で、腐食しにくい特性をもつため、木材としても重宝されていました。

青森県三内丸山遺跡では、集落の形成とともにクリの木が多くなることが、花粉の分析から明らかになりました。集落が形成される前にはナラ林が主体であったものが、集落の形成とともにクリしか生えていない純林になり、その後集落が廃絶すると再びナラ林が復活するということが確認されています。これは、通常の自然界では起こりえないことであり、縄文時代の人々が集落の周辺に意図的に植栽しょくさいし、管理していたと考えられます。

移動生活であれば、自分たちにとって有益な植物があったとしても、管理するメリットはあまり大きくなかったと考えられます。管理に成功したとしても、移動の際に築いた資産を放棄しなければいけなくなるためです。自分たちにとって有益な植物を管理し、安定的にそれを活用できるようになったのは、定住によってもたらされた利点の一つであると考えられます。

集落を越えた分業

縄文時代後期以降、集落間の取引が活発化し、それに伴う交易用の交換財の採取や製作が行われるようになっていきました。定住がはじまった頃は、各集落内で食料や資源の調達、加工などが完結していましたが、人口が増え、周辺集落が増えてくると、集落間の取引によって必要な食料や資源を補った方が、効率がよくなっていったのです。

では、実際にはどのような製品が作られ、取引されていたのでしょうか。

 

縄文後晩期の霞ヶ浦沿岸部や仙台湾周辺などでは、器壁きへきが薄く文様もんようがまったく描かれていない粗製な土器が、一つの遺跡から大量に出土することがあります。これは、熱効率を高めた土器で、海水を煮沸して塩を作り出すために使用された大量生産用の製塩土器であると考えられています。これらの沿岸部で大量生産された塩は、小型の製塩土器に入れられて内陸部に運ばれていました。埼玉県の大宮台地周辺の遺跡からは、少量の製塩土器がしばしば出土しています。

黒曜石の鉱山も確認されています。長野県鷹山たかやま遺跡群では、縄文時代後期を中心とする黒曜石の採掘坑が多数見つかりました。この地域の黒曜石の採取は、旧石器時代にすでに行われていたと考えられていますが、その当時は川原などで転がった黒曜石の採取にとどまっていました。その後、地表からの採取だけでは不足するようになったためか、竪穴を掘り採掘を行うようになります。その深さは地表面から3m以上もあり、掘り出された土は2.5mほどの高さの小山になるほどの量でした。また、掘り上げた土や採掘坑が崩れないように、丸太材を用いた木柵もくさくも見つかっています。このように採掘された信州産の黒曜石は、東北地方南部から近畿地方東部にいたるまで、日本列島の中央部のほぼ全域に運ばれていました

塩や黒曜石のような実用品だけではなく、装身具として使用される宝飾品も取引されていました。縄文時代後晩期の、長野県エリ穴遺跡や群馬県茅野かやの遺跡などでは、大量の耳飾りが出土しました。これは、一つの集落で必要とされる以上の量であり、交換財として製作されていた可能性が考えられます。また、貝製の腕飾りである貝輪かいわが、規格化の上、製作されていた可能性があります。宮城県里浜さとはま貝塚では、貝輪製作の過程を追うことができる資料が見つかりましたが、その過程で大きな貝殻の外縁を切り落としてわざわざ小さくし、直径8cmほどに揃えていることが確認されたのです。これは均質さに価値が見出されていたためなのか、集落単位で大きさを揃えたいという発注要望があったためなのかは分かりませんが、現代の大量生産に通じる製造方法であると言えます。

 

このように、縄文時代後期以降は、集落間がそれぞれの特色を活かした製品を作り、それを取引する、集落を越えた分業体制が築かれていました。そこには、物を運ぶルートも形成されていたと考えられ、集落ネットワークへと発展していたと考えられます。

縄文時代の人口は、気候が温暖化し定住化が進みだした縄文時代早期の2万人から、中期には26万人へと大きく増加していきました。このような人口増加が、自分たちの集落の利用分を越えた、大量の資源の採掘や製品製造を可能にしたと考えられます。定住・集住化に加えて、労働力の増加と、バイオマスの安定によって食料確保に計画が立てられるようになったことも助けとなって、多様な製品の流通ネットワークが形成されていったと考えられます。

祭祀や墓制 〜観念的な問題解決〜

生命への祈り

祭祀さいしに用いられていたと考えられる土偶は、温暖化と定住化が進んだ縄文早期以降に多く見られるようになりました。土偶の形状は女性的特徴を備えており、女性の「新たな生命を生み出す」という力を、土偶に込める気持ちがあったのだと考えられます。土偶の具体的な使い方は不明な部分が多いですが、出産時の御守りとしてだけではなく、新たな生命から連想される病気や怪我の治療、自然の豊かな恵みへの祈りなどに用いられたのだと考えられます。

定住で一定の領域にとどまり、四季のサイクルに生活が支えられるようになったことで、より自然の再生に意識が向くようになっていった可能性が考えられます。移動しながら主体的に狩猟採集をしていた時とは少し違う、自然への畏敬いけいの念や不安も抱いていたのではないでしょうか。

墓制によるつながりの形成・維持

縄文時代の後期から晩期にかけての墓で特徴的な点は、それまではお墓が集落の内部に位置づけられていたのが、集落の外の独立した場所に構成される傾向が強まることです。このような変化には、縄文中期と後期の間頃の、気候の冷涼化が影響していると考えられます。

気候の冷涼化は、海水面の低下による海岸線の後退や、植物相や動物相を変化させ、バイオマスも減少させました。このような変化は、人々の食料確保の方法や、活動場所に影響を与えました。そして、この時期の人々がとった生存戦略が、大規模な集落で集住するのではなく、小規模な集落で分散して生きていくことでした。実際に、前期から中期にかけて見られた大規模な環濠集落は、中期末から後期初頭には見られなくなり、一棟から数棟にとどまる程度の集落となっていきました。つまり、一ヶ所に集住していた人々が、離散していったのです。ピンチの時に協力せず離散する選択をしたのは、少ない食料を巡る争いを避けるためだったのでしょうか。

 

その後気候が再び温暖化しだすと、人々は再び集まり出します。しかし、縄文時代の前期以降、血縁的つながりから始まったと考えられる定住生活は、冷涼化によって離ればなれになってしまいました。どこに行ったかも分からず、連絡をとる手段もありません。そのため、後期以降の再度の集住化は、近くにいた血縁的つながりがない”人々が集まって、なされていったと考えられます。

そこで必要になったのが、つながり意識の形成や維持でした。そのための手段を、縄文時代の人々は、墓に求めたと考えられるのです。

縄文時代後期前葉にしばしば見ることができる墓には、一旦個別に埋葬した遺体を再び堀り起こして、何十体もの遺体を一ヶ所に埋葬し直したものが見られます。考古学的にはこれを、多数合葬・複葬たすうがっそう・ふくそうと言います。

注目すべきは、その一ヶ所に集められた遺体同士の関係性です。通常は血縁ごとに埋葬されますが、多数合葬・複葬では、異なる血縁・家族の遺体が、あえて一ヶ所に埋葬されていたのです。これは、集落の人々にとって、血縁を越えたつながりを意味するものでした。伝統的な血縁者同士の墓を一旦棄却し、異なる血縁者同士で再埋葬することで、新規のつながりが再構築されたということを人々は認識していったのです。

多数合葬・複葬の墓坑内部や、その付近には柱穴が見られ、上屋などの上部構造が存在していたことが確認されています。つまり、集落に住む人々の目に付きやすいように設計されており、特別な場所として認識されていたと考えられます。それは、集団統合のモニュメントとも言えるものであったと考えられます。

一つの集落で血縁という関係を越えて協力し合うには、自分たちの祖先が一つにつながっているという観念を抱く必要があったのだと思われます。そして、それを世代を越えて継承させるための手段として、多数合葬・複葬という方法と、モニュメントとしてのお墓が用いられたのだと考えられます。

第四章 現代の視座から定住について考える

縄文時代の先の現代

今から約1万年前、氷期から間氷期へ移行し、地球は温暖になり、日本列島では四季が明瞭になりました。それによって、バイオマスは増加しましたが、他方で季節ごとの食料の増減に対応する必要も出てきました。そこで縄文時代の人々は、加工と保存という食料確保の方法を開発しました。その結果、食料確保のために移動する必要がなくなり、また同時に移動することが困難にもなっていきました。

その食環境と食料確保の方法の変化から、定住がはじまりました。さらに、大規模な労働力を食料の確保に当てるために、集住も同時に起こりました。定住・集住以後、前章で紹介したような問題が生じましたが、それぞれ縄文時代の人々の知恵によって解決されていきました。

その問題解決の方法や、それによって築かれていく社会は、現代の私たちの社会の原型を見ているように感じなかったでしょうか。

 

縄文時代には、集落ごとに地理的特性などを活かして製造する製品の選択をし、それらを集落間ネットワークに乗せて流通させていました。つまり、現代ほどシステム化されておらず流通量も少なかったと考えられますが、製品を生産・分配する、産業がおこっていたと言えます。

クリ林の管理をする林業や、狩猟や採集、あるいは魚介類をとる漁業は第一次産業にあたります。また、黒曜石の鉱山開発や、食品加工、装飾品の規格化及び大量生産も行われており、これらは第二次産業にあたります。また、今回紹介しきれませんでしたが、他にもやじりなどの実用道具も大量に生産されていたと考えられています。

これらは、いずれも定住によって拠点が確立していたことと、集住によって一定規模の労働力が投下できたために可能になった仕組みであると考えられます。また、早期から中期にかけての大幅な人口増加は、その生産や流通を大いに促したでしょう。このように、定住や集住を一つのきっかけとして、食の安定的な確保と、食だけではない多様な物の獲得も可能になったのです。

ただ、別の見方をすれば、そのように築かれていく仕組みやネットワークに、人々自身が組み込まれ、さらに移動が困難になっていったと考えることもできます。そこから外れることは、享受していた便益を失うことを意味していたからです。

 

食や物の問題だけではなく、縄文時代早期以降の土偶の増加からは、人々の不安定な精神状態も垣間見ることができました。多数合葬・複葬の複雑な墓制からは、多人数の人々が恒常的な協力活動や共同生活を営むための苦労を、時代を越えて感じることができました。

また、今回紹介しきれませんでしたが、その埋葬場所や副葬品から、特別な地位にいたと考えられる遺体もありました。つまり縄文時代の人々の間に、階層化の兆候が見られるようになっていたのです。

階層は、定住・集住的な社会においては、より必要とされるものであると考えられます。多くの人々が集まり分業的な仕事が増えれば、その後の分配方法などを取り決める必要があります。また、長くその地にとどまり協力して生きていくためには、掟などの統治の仕組みが必要になったでしょう。そのような取り決めや掟の運用や執行にあたっては、一定の権威や権力を持つ人が必要とされると考えられます。ただし、縄文時代における権威や権力が、常態的に発揮されていたのか、特定の場合にのみ発現するものだったのかは検証の余地があるとされています。

階層は、多人数の協力活動を円滑に取り仕切ることができる一方で、人々の間に上下の関係を生み出します。また、集住によって人口密度が増え、しかも単純な血縁関係や姻戚関係を越えたコミュニティに発達したことで、人間関係のストレスも増したのではないでしょうか。

 

このように、温暖化による食環境の変化に端を発した定住・集住は、現代に通じるような、多様である一方で複雑な社会の形成をもたらしました。そして、弥生時代、朝鮮半島を通じて大陸からもたらされた稲作と青銅器文化によって、定住・集住化、階層化、分業化がさらに進み、戦による問題解決なども加わりながら、現代へとつながってきました。

これからも定住をする必要はあるのか

縄文時代、定住と集住、またそこに築かれた仕組みによって、食料確保の安定化や多様な物の獲得を成し遂げました。しかし、時代を経た今でも、私たちは定住を続ける必要はあるのでしょうか。衣食住や、生活に必要なインフラや仕組みが十分に整い、インターネットが発達した現代においても、定住の必要性は高いままなのでしょうか。ここまでの山田先生から学んだ縄文時代の定住の経緯をふまえて、改めて考えてみたいと思います。

縄文時代の定住化の要因は、移動の必要性がなくなったことと、移動が困難になったことに分けられると考えられます。ここではまず、後者の移動が困難になった要因を理解することで、現代でも移動的な生活は困難なままなのか、考えてみたいと思います。

 

移動が困難になった要因は、食料確保に伴う作業場や道具が増え、保存食自体も多く、持ち運びが困難になったためだと考えられます。また、クリ林の管理をすれば、そこを離れる資産的損失は大きく、これは弥生時代以降の農耕社会でも同じことが言えます。また、食料確保だけではなく、黒曜石の資源の発掘を生業の一部としていれば移動が困難ですし、宝飾品や生活道具の製造をしている場合も、その集落間ネットワークを利用するためには、移動をしない方が得策でした。また、その製造に必要な設備があれば、持ち運びも困難であったと考えられます。

つまり、移動を困難にしていた要因としては、「1.自給自足を基本とし、且つ保存という方法を取り入れたため、食関連の物が大荷物になっていった」ことと、「2.仕事場が固定化されていったため、移動すると仕事を失う」という二点が挙げられるのではないでしょうか。決して、立派な家を建ててしまったことが、移動を困難にした要因ではなかったと考えられます。

1に関しては、現代では分業化が大幅に進んでいるため、自給自足である必要性自体がほぼなくなりました。食べ物はどこでも買えるようになったため、食関連の物が大荷物になることはありません。言い換えると、縄文時代の人々が抱えていた、食料をいかに安定的に確保するかという課題は、現代の私たちは直接的には抱えてないと言えます。

したがって、2の「仕事場の固定化」が、現代まで残存する移動困難な要因であると考えられます。

 

ここで、縄文時代以降、私たちの仕事がどのように変化してきたのか、簡単ではありますが、振り返りたいと思います。

縄文時代、弥生時代は、第一次産業従事者の割合が大きかったと考えられます。産業革命が日本にもたらされた明治時代以降は、第二次産業従事者の割合が増えていったと考えられます。そして近年では、それら第一次産業、第二次産業の従事者の割合は、以下のように推移しています。

 

 

特に仕事が場所に縛られる、第一次産業や第二次産業は減少傾向にあり、今後も機械による代替が進み、減少が進むと考えられます。また、第三次産業に分類される仕事も、インターネットとそれを活用したサービスの発達により、仕事場を固定化する必要性は薄れていくと考えられます。したがって、縄文時代以来、私たちの移動を困難にする要因となっていた仕事場の固定化は、これからさらに解消されていくのではないでしょうか。

もちろん現代では、子どもの学校のことや介護のことなど、定住をする必要性は仕事以外にもあります。しかし、定住の起源であった縄文時代の、人々の移動を困難にさせていた食と仕事に関連する問題は、時代を経て解消されてきていると考えられます。つまり、縄文時代の温暖化をきっかけとして始まった定住生活から、移動生活へ移行できる可能性が出てきているということです。別の言い方をすると、定住の必要性が薄れてきていると言えるのではないでしょうか。

リベル:ここまで、食料確保や仕事などの、比較的物質的・物理的な観点から定住の必要性について考えてきた。しかし、定住の良さは、いつも同じ場所に帰ることができる「安心感」のようなものにもある気がする。このような何か人間の本性と結びついた、私たちが定住を継続している要因は何かないのだろうか。
リベル:追考しました。定住を続ける本性までには言及できていませんが、移動型生活は幸せなのか、考えてみました。『移動型生活は幸せなのか 〜モンゴル遊牧民の生活から考える〜』(別サイトになります)

 

他方で、現代においても移動生活の必要性は低いままなのでしょうか。定住生活をやめ、移動生活をするメリットとしては、どのようなことが考えられるのでしょうか。少しだけ考えてみたいと思います。

縄文時代早期以降、定住・集住化に伴い、土偶や墓制を活用した祭祀、または円滑な協力活動を行うための掟やルールが作られていきました。そして、その連関として、階層や階級が生まれ、社会における自己の位置が固定化されることになりました。このような階層や階級は、必ずしも個人の質的な部分とイコールではないと思われます。しかし、階層や階級、現代でいえば学歴や職務経歴などは、その用途や本来的な意味を越えて周囲に浸透していきます。そして、それに応じた振る舞いが求められ、自身もそれに応えていくことで、質的な意味でも自己が固定化されていく側面もあるのではないでしょうか。

自己の固定化が、周囲の人や、そこに築かれた自身の観念によって成されるとするならば、そこを物理的に離れることは、いくつもの人生を生きられるという可能性を与えてくれるものなのではないでしょうか。また、仕事に創造性が求められるこれからの時代においては、移動によって、直接的に新たな出会いや体験をすることは大きな財産となりそうです。

定住の要因の一つである仕事場の固定化が弱くなった今、移動によって、幸せな人生につながる価値が生まれるのであれば、再び人々の移動性が高まるのではないかと考えました。定住の起源として縄文時代までさかのぼりましたが、その定住化の要因や社会背景を踏まえると、今後移動生活という選択肢が一般的になる可能性も十分に考えられるのかもしれません。

 

最後に、山田先生に、こんな問いを投げかけてみました。

「縄文時代の定住化以降、社会は複雑化してきました。今後も複雑化は続くと考えられますが、私たちがその社会を生き抜く知恵としては、どのようなものがあるのでしょうか。」

 

山田先生:社会の複雑化が極限まで進んだのが、スマートフォンだと考えています。電話やメールだけではなく、SNSも通じて、どこにいても、誰からでも連絡がきてしまいます。言い方を変えると、逃げ場がなくなりました。

SNSは最初は面白く感じると思いますが、次第に自分から人間関係を複雑化していくことにもつながります。関係性が浅い人とつながりすぎたり、何気ない投稿で炎上したり、エゴサーチをしてしまったり。

縄文時代の研究や、それに関連して現代でも狩猟採集生活をしているサン族などの生活にふれると、移動生活においては逃げることが出来たのだと感じます。人口密度の低い土地において、集合と離散がある程度自由にできるのであれば、集団内で不和が生じたり、ぶつかりそうになった時に、少し離れて頭を冷やすということが難なく出来ます。

現代は観念的に、逃げることに対してネガティブな感情を抱きますが、もっと積極的に逃げてもいいと考えています。私は、これを「積極的逃避」と呼んでいるのですが。

人の脳が処理できる情報の量が限られている中で,対人コミュニケーションの量は増えてきています。日本はただでさえ人口密度が高いにも関わらず、さらにスマホによって逃げられなくなってきています。そんな現代だからこそ、積極的逃避が必要だと思うのです。ちなみに私は、SNSもやめましたし、スマホのアドレスもあまり教えないようにして,自ら積極的逃避を実践しています(笑)。

 

(2019年10月26日掲載)

 

〈参考文献〉

  1. 山田康弘著『縄文時代の歴史』(2019年、講談社現代新書)

 

筆者:吉田大樹

人の内発性により生み出される、プロダクトや活動に魅力を感じています。自分自身様々なサービスを模索する中で、何かを生み出そうと考えるほどに視野が狭まっていく感覚を覚えたことを一つのきっかけとして、リベルを始めることにしました。1986年岩手県盛岡市生まれ。2005年、東北大学工学部・機械知能航空工学科へ入学。2009年、東北大学大学院工学研究科・ナノメカニクス専攻へ入学。2011年、株式会社ザイマックスへ入社。2016年7月、高校時代からの友人と株式会社タイムラグを創業。

 

 

 

 

 

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