文量:新書の約26ページ分(約13000字)
はじめに
人はそれぞれ、さまざまな趣味嗜好をもち、それにもとづいて商品やサービスを選択し購入しています。その趣味嗜好を適切に捉え・適切なものを作り・届けるのがビジネスマーケティングであり、それを購入するのが消費活動です。このような消費者ニーズにもとづいた供給側の努力によって、私たちは、個々に合った商品やサービスの入手ができていると言えます。
他方で、国家や企業、地域などの共同体では、共同体全体の方向性やルールなどを決定しなければいけないときがあります。この決定においては、民主主義的な共同体では全体の合議をとりながら進められますが、一人ひとりの利得や意思を、すべて深く適切に反映させるのは困難であることが多いと考えられます。これが共同体を治めるために必要な政治であり、共同体構成員は最終的にはその決定に従う必要があります。
つまり私たちは、個人の意思の反映のされ方や尊重のされ方が異なる世界に、並行して身を置いていると言えます。
イギリス政治の世界は、とりわけサッチャー政権後の1997年総選挙以降、「政治的マーケティング」革命を経験してきたとされています。それは、有権者を消費者と見立てて「市場志向性」を追求するという意味で、ビジネスマーケティングと同質であると言えます。マーケティング手法を用いることは、民主主義社会における大衆の意向を伺う政治という意味では、好ましい試みであると感じられます。しかしながら、政治の世界では、強すぎる市場志向性をもつ政治活動は、ポピュリズム(大衆迎合主義)として警鐘を鳴らされることがあります。つまり、市場志向性の追求やマーケティングの活用は、ビジネスと政治の世界とでは異なる結果をもたらす可能性があるということです。
では、政治の世界は、ビジネスの世界とは何が異なるのでしょうか。過度な市場志向性の先にあると考えられるポピュリズムとは、どのような弊害があるものなのでしょうか。共同体があれば政治が存在すると考えられますが、政治の世界における私たちのあるべき姿勢とは、どのようなものなのでしょうか。
今回は、日本大学法学部教授の渡邉容一郎先生にお話を聞きながら、このようなテーマについて考えてみました。
渡邉容一郎先生
1967年2月神奈川県小田原市生まれ。1989年日本大学法学部政治経済学科卒業。1991年日本大学大学院法学研究科博士前期課程政治学専攻修了(政治学修士)。1995年日本大学大学院法学研究科博士後期課程政治学専攻単位取得退学。2003年日本大学法学部専任講師。2013年日本大学法学部教授。
〈著書〉
- 『イギリス政治の変容と現在』(晃洋書房)
- 『現代ヨーロッパの政治』(北樹出版)
- 『イギリス・オポジションの研究』(時潮社) など
目次
目次
第一章 政治の市場志向性の高まり
1990年代ごろからイギリス政治の世界は、政治的マーケティング革命を経験してきました。これは、「政治的消費者」の出現を背景として、マーケティングによる市場志向型の政党運営や政治活動が行われるようになったことを意味します。
政治的消費者とは、基本的には無党派層などに象徴される普通の有権者を指しますが、政治家側からみるとあまり好ましくない特徴を有しています。それは、メディアなどの情報に左右されやすく、また政治エリートにも懐疑的で従順な態度を示さないという特徴です。別の言い方をするば自己を主体として、消費活動のように好みの商品やサービスを選ぶ感覚で、支持政党を吟味したり選択したりするという特徴を有しています。これが「政治的“消費者”」と呼ばれる所以です。
そして、このような無党派層である政治的消費者は、近年増加してきています。イギリスの三大政党である保守・労働・自民の合計党員数は、1970年の210万人から2013年には37万人に減少しています[2,P4]。この党員数の減少は、特定の政党に強い愛着や一体感をもたなくなってきていることを意味していると考えられます。実際に、「支持政党なし」と答える有権者の割合は、1987年の8%から、2012年には22%に増加しています[2,P4]。
このような、特定政党への強い支持を示さない流動的な政治的消費者の割合が増えたことは、政治家の有権者との向き合い方に大きな影響を及ぼしました。その結果、意識的に用いられるようになったのが、政治的マーケティングと呼ばれるビジネスの世界に由来する手法です。
政治学者のリーマーシュメントは、政党の政治活動の「志向」に応じて、①「製品志向政党」(Product-Oriented Party:POP)、②販売志向政党(Sales-Oriented Party:SOP)、③市場志向政党(Market-Oriented Party:MOP)の三つに分類しました。そしてこれらの政党の志向性には、POP→SOP→MOPという変化のサイクルがあると考えられています。
POPとは、有権者に対するマーケットリサーチ結果よりも、政党の伝統的な価値や政策、つまり「製品」に固執して選挙に臨む政党です。有権者は製品を支持して投票することになりますが、仮に有権者の支持が得られなくてもPOPはその製品変更を行わないとされています。
SOPとは、製品の販売に力を入れる傾向をもち、有権者とのコミュニケーションによって有権者を説得しようとする政党です。POPに比べて有権者の需要を確認し、コミュニケーションの方法などを柔軟に設計しますが、製品自体に変更や追加はしないという特徴をもっています。
MOPとは、製品を作る前に有権者のニーズやウォンツを調査した上で、そのマーケットリサーチ結果を製品に反映させる政党です。政党の伝統的な思想や観念に従って活動するのではなく、有権者市場のニーズを満たすと予想される政策を作って活動する政党であるとされています。
イギリスでは、選挙市場における有権者の政治的消費者性の高まりに伴い、主要政党のMOP化が進んでいったと考えられています。言い換えると、政治活動の市場志向性が高まったと言えます。またこの変遷は、ビジネスマーケティングにおける、プロダクトアウトからマーケットインへの変遷とも類似しています。
では、MOP化の要因である政治的消費者の増加は、どのような背景で起こったのでしょうか。ビジネスマーケティングの変遷の背景との、関連性や類似性はあるのでしょうか。
第二章 政治的消費者化の背景
有権者の非集団化
特定政党への強い支持を示さない、流動的な政治的消費者の増加は、中流層の増加、言い換えると社会の非階級化が一つの要因であると考えられています。
イギリスの二大政党である保守党と労働党は、それぞれ富裕層と労働者層が支持層となっていました。例えば労働党は、1900年頃、労働者階級の人々や社会主義的な知識人が中心となって立ち上げた政党であり、労働組合という明確な支持基盤を有していました。
その後、階級による権利の違いは是正されていき、劣悪な労働環境や不公平感のある雇用条件なども改善されていきました。それに伴い、安定的で安心感を持てる生活を営める中流層が生まれ、増加していったのです。このような中流層の増加は、階級差あるいは階級差に対する意識を薄れさせることを意味し、政党支持における明確な選択基準を失わせることにつながります。つまり、自分は富裕層だから保守党、労働者層だから労働党という、わかりやすい支持基準がなくなっていったのです。
また、近年では、労働組合や地域の町内会といった、政治と民衆をつなぐ中間的な組織も存在感が薄れてきています。さらには、マスメディア以外にも、さまざまなネットメディアやSNSの発達により情報源が多様化し、個人で選択できるようになりました。それによって、政党支持において結束を促すような外的な力が、個人に対して働きにくくなっていったのです。
このような非階級化・中間組織の存在感の希薄化・情報源の多様化は、有権者の集団性を低くする代わりに、個人性を高めていったと考えられます。別の言い方をすれば、結合がないという意味では、社会が原子化したと言うこともできます。中流層は、明確で逼迫した問題を抱えにくい、あるいは問題に対して自覚をもたない場合が多いと考えられます。逼迫した問題がなければ徒党を組む必要性も低くなり、問題への自覚性が低ければ強い支持を示そうという意思も生まれにくくなります。中間組織というのは所属していれば安心感も生まれますが、逆に煩わしく感じる部分も多くなるため、特に近年では好まれない傾向にあると考えられます。そして、情報やコミュニケーションの手段が多様化することによって、個人は自分の意思で情報取得したり行動しやすくなったりしました。このような背景から社会の個人化が進み特定政党への強い支持を示さない、流動的な有権者である政治的消費者が生まれていったのだと考えられます。
政治的マーケティングによる消費の促し
政治家の視点から見ると、有権者の個人化は、有権者を見えにくくしたと言えます。中間組織やマスメディアを利用した、集団に対する集中的なアプローチができなくなり、有権者の抱える問題も見えにくくなりました。このような状況においては、有権者に自政党を認識し支持してもらうためにも、マーケティングの手法が積極的に用いられるようになるのは当然と言えます。ビジネスと政治の手法の詳細な違いは定かではありませんが、マーケティングの基本が、消費者をそのニーズごとに分類するセグメンテーション(Segmentation:S)、そのセグメントの中から訴求する対象を選択するターゲティング(Targeting:T)、その上で競合との違いを明確にして優位な立ち位置を築くポジショニング(Positioning:P)(3プロセスで、以下STP)にあるとすると、マーケティングは、流動的な有権者に明確に認識され支持してもらうためには有効な手段であると言えます。
さらに、政治的マーケティングの積極的活用には、近年の政治家の専門職化(プロ化)も影響していると考えられます。18〜19世紀前半におけるイギリスの下院議員は、大企業経営者や地主など、本職を抱えるアマチュア政治家の方が一般的でした。あるいは、他の職業を経験した後就任する名誉職的な側面がありました。しかし、20世紀末頃から今日にかけて、議員や大臣など役職の獲得に生涯を捧げ、政治を本職とし、可能な限り活動を維持・継続しようとする職業政治家が増えてきました。このような政治家が増えることで「当選至上主義」が強まり、政治的マーケティングの活用がより積極的になっていったとも考えられます。
当然のことながら、政治的マーケティングによって政党や政策の製品化がなされ、販売方法も巧みになれば、有権者の消費者性は高まっていくと考えられます。潜在的に抱える問題やニーズを満たす製品がSNSなどを通じて自分のもとに流れてくれば、まるでモノやサービスを消費するように政党や政策を選択するようになるのではないでしょうか。つまり、政治的消費者の出現は、有権者の中流層化をきっかけとしてはいますが、政治的マーケティングの活用によって消費者性がより促されていった結果であるとも考えられます。
このような政治的マーケティングの積極的活用は、一方では有権者の関心を惹き、政治参加をより喚起する良い側面があると考えられます。また、政党の積極的なリサーチなどによって、これまで政治の目が向けられていなかった人々の抱える問題に目が向けられる契機にもなります。他方で、そのような有権者の関心を惹きつけることに注力しすぎる政治活動は、ポピュリズムとして批判の対象となることがあります。ポピュリズムとはいろいろな定義がありますが、大衆に迎合して人気を集める政治姿勢として理解されるものです。
マーケティングによる消費喚起は、ビジネスの世界では一般的に行われています。衣食住が整い、モノが十分に行き渡って以来、マーケティングの必要性がより高まってきていると考えられます。政治的マーケティングも、中流層が増えたことで活発化しました。両者のマーケティング積極活用の背景には、消費者の自覚的で逼迫したニーズが満たされたことにより、問題が非顕在的になったことが一因であるという点で共通するものがあると考えられます。また、マーケティングを実施した結果、人々が求める製品を作って提供できる可能性が高まる、という点も共通しており、これ自体は良いことのように思えます。
では、政治の世界で、政治的マーケティングによって有権者視点が追求された結果、ポピュリズムとして批判の対象となる可能性が生じるのはなぜなのでしょうか。ポピュリズムとはどのような弊害を引き起こすものなのでしょうか。ビジネスと政治の世界では何が違うのでしょうか。
第三章 ビジネスと政治の前提の違い
「ターゲットの絞り込み」が適切か否かの違い
ビジネスと政治の前提の違いの一つは、「ターゲットの絞り込み」が適切な行為と見なされるか否かにあると考えられます。
ビジネスでは、ターゲットの絞り込みをすることが一般的であり、逆にいうと広すぎるターゲット選択は製品の価値をあいまいにします。つまり、高い価値の製品を生み出すためにも、ターゲットの絞り込みが必要なプロセスとして奨励されているのです。先述した、マーケティングプロセスの一つであるSTPでは、消費者をそのニーズごとに分類するセグメンテーションと、そのセグメントの中から訴求する対象を選択するターゲティングを通じて、ターゲットの絞り込みがなされています。
他方で、政治の場合は、ターゲットの絞り込みは奨励されず、みんなにとってベターなものが適切な製品(政策)として見なされると考えられます。富裕層に富がより集中するような政治、あるいは反対に貧困層の救済に主眼をおきすぎた政治は、国家全体を治める行為としては適切でないと考えられます。つまり、ターゲットの絞り込みは、ビジネスにおいては適切な行為ですが、政治においては不適切だと考えられるのです。
政治的マーケティングは、有権者を消費者とみなす市場調査と製品開発によって、特定ターゲット向けの政治に導いてしまう可能性があると考えられます。声の大きな有権者の需要に左右されたり、あるいは当選を求めるあまり、多数の票を確実に得られるセグメントの層に合わせたりして、製品開発や宣伝を行う可能性は低いとは言えません。ターゲットを絞り込んだ政党が選挙によって議席を多数獲得して影響力をもった場合、特定のターゲット層を向いた政治が執り行われる可能性が生じます。これは、民主政治のあるべき姿ではないと考えられます。
価値の自発的交換と権威的配分という違い
また、ビジネスと政治とでは価値の交換・配分原理が異なるという点も大きな違いであると言えます。
ビジネスあるいは経済の世界では、市場原理にもとづいて、製品提供者と消費者との間で価値が交換されます。製品提供者は、マーケティングによってターゲットの絞り込みなどを行い、その検討にもとづいて製品や価格を決定していきます。消費者は、多種多様な製品の中から、その機能やデザインを吟味し、さらにはその価値が価格と見合っているかを判断した上で製品を購入します。これらのプロセスを通じて、消費者は製品を得て製品提供者は金銭を得るという、価値の交換がなされます。この交換プロセスは、基本的には誰かに命じられて行うものではなく、製品提供者と消費者双方の意思にもとづいて行わるものです。つまり、ビジネスあるいは経済の世界では、自発的交換が価値流通の基本的な原理であると考えられます。
他方で政治の世界では、権威によって価値の配分がなされます。選挙によって選ばれた政治家は、国民の政治的代表としての承認を得たことを意味し、権威的存在であるとも言えます。政策や法案の詳細な意思決定や実行については、国民がこれに細かく介入することは困難であり、政治家に一定程度任せることになります。国民の自由選択ではなく政治的決定にもとづいて、国民は公共サービスを配分されているのです。つまり、政治の世界では、権威的配分が価値流通の基本的な原理であると言えます。この権威的配分とは、アメリカの政治学者デイヴィッド・イーストンによって、「社会に対する価値の権威的配分」と定義された政治の特質です。この定義は広く用いられており、政治の機能の基本的な考え方とされています。
市場原理にもとづく自発的交換では、消費者で構成される市場によって、直接的且つ即時的に製品及び製品提供者の評価がなされます。他方で、ターゲットの絞り込みという行為が適切ではなく、共同体全体の利益を考える必要がある政治においては、市場のような有権者による、直接的且つ即時的な評価にもとづく意思決定や執行は適切ではないと考えられます。そのため、選挙によって政治家その人自身の権威を認め、あとは一定程度任せてしまうという権威による配分の方が適切であると考えられるのです。
それに対してポピュリズムは、一部の有権者に迎合し、その層からの票を集中的に獲得したり、パフォーマンスによって人気を得ようとしたりする傾向があります。これは、選挙によって権威を認めてもらい、その承認によって得た権限で、ターゲットを絞らず全体最適を志向しながら権威的配分を行っていく姿勢とは相反するものと考えられます。ポピュリズムが問題視される要因は、ここにあると考えられます。
では、ポピュリズムによってもたらされる問題とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。
ポピュリズムが生み出す社会の分断
ポピュリズムの問題の一つは、対立構造を生み出す傾向が強いことにあると考えます。
近年では例えば、2017年1月に第45代アメリカ合衆国大統領に就任したドナルド・トランプが、ポピュリズム的な政治姿勢の持ち主として問題視されています。実際に、選挙中は政治や経済の世界における富裕層を激しく非難し、当選後の就任演説でも「一握りの政治家がコントロールする首都ワシントンから人々へ、権力を取り戻す」と宣言しました[3]。つまり、富裕層と貧困層との間に対立を作り出しそれを煽ることで、貧困層から強い支持を得る戦略だったと考えられます。また、外交面でも「アメリカ第一主義」を掲げ、SNSでの積極的発信も相まって、他国との分断が深まることが危惧されています。経済面でも政治面でも他国の影響を強く受けるグローバル化の時代においては、目を向けるべき対象も広がりました。そのような社会においては、ポピュリズムのように一部分だけに目を向ける政治姿勢は、問題をより生じやすくさせると考えられます。
また、ポピュリズムは、社会的な問題を極端に単純化することで国民に考えなくさせる特徴をもつことも、その弊害として指摘されています。
例えば、2016年6月にイギリスで行われたEU離脱を問う国民投票では、EU離脱派(51.9%)が残留派(48.1%)を上回り、EUから離脱する方向で動いていくことが確認されました。いわゆるブレグジットです。イギリスがEUに加盟していることによって生じる主な問題は、①EU本部が政策を決定することによる主権の喪失、②毎週3.5億ポンド(約480億円)のEUへの拠出、③増加する移民に国内雇用が奪われる、という三点にあるとされていました[4]。離脱を推進する政党は、これらの問題を、離脱した場合のメリットと、残留した場合のデメリットの“シンプルなメッセージ”にまとめて、キャンペーン活動を行いました。これは、残留派を高所得・高学歴層として、離脱派を低所得・低学歴層として対立を作りだし、また他のEU加盟国との対立も煽るものでした。
その結果、離脱に過半数の票が投じられました。しかしその後、離脱に投票した人々は戸惑いの声を上げだしたのです。投票結果の判明後、英BBCのウェブサイトに「残留派が勝利すると思って何も考えずに軽い気持ちで離脱派に票を投じた。(国債や株価が急落するなど)大騒動になったことを憂慮している」などの投稿が寄せられたそうです。また、サーベイション社の世論調査結果によれば、離脱投票者の7%、113万人に相当する人が「離脱に入れなければよかった」と悔いているとの結果も出ました[5]。
また、離脱派のイギリス独立党(UKIP)が主張していたEU残留に伴う問題点の中に誤りがあったことも、国民投票後判明しました。先述した②の拠出金は、実際には補助金として返ってくるお金も多く、イギリスの実質負担は週1億2000万ポンド程度にすぎなかったのです。EUを経由して補助金を受け取っていた貧しい地域はその事実を知らず、離脱が決まってから補助金がストップしたため政府への抗議が起こりました。UKIPのファラージ党首は投票後に「あの主張は間違いだった」とあっさり認めました[6]。これによって国民の間には「だまされた」という感情が生まれ、先に述べたような離脱への後悔にもつながったと考えられます。ツイッターでは、Regret(後悔)とExit(離脱)を掛け合わせた「Regrexit(リグレジット)」という造語も生まれました。
イギリス政府は、国内での議論を経て、2017年3月にEUに離脱を正式に通告しました。しかしながら、離脱によって、アイルランドとイギリス領北アイルランドとの紛争再発が懸念されるなど、EU側が懸念するさまざまな問題が生じます。また、イギリス側もEUに加盟することで、EU加盟国との貿易には関税がかからないなどの恩恵を受けてきました。そのような諸問題や経済的取決めをめぐる交渉は難航しており、2019年9月現在、国民投票から3年近く経っても決着がつかず離脱期限は数度延長されています。このような難航は、EU加盟国が28カ国もあることから当然の時間軸とも考えられますが、EU離脱へと急激に舵をきり、結果的に国民の注目を集め信任を得ることに成功したポピュリズムによる弊害とも考えられます。投票後、EU残留に関する誤情報や「まさかの離脱派勝利」を経て、さらにEUとの交渉過程を通じて離脱の困難さや弊害を知った国民は、後悔の念を深めているのではないでしょうか。
第四章 私たちが生きる二つ目の世界
近代以降、身分が明確だった中世の封建的な社会から民主的な社会へと移行したことによって、生まれながらの序列という概念は薄れていきました。しかしながら、民主的な社会に移行した瞬間に、人々の精神構造や経済状況、社会システムなどがフラットになったわけではなく、時間をかけて非階級的な社会へと徐々に移行していったのだと考えられます。産業革命による大きな社会変化や二度の大戦、その後の数十年間の比較的平和な期間を経て、社会インフラが整い、人々の生活も相対的に安定した結果、中流層が増えていきました。このような人々の中流層化は、階級的イデオロギー(政治思想)による政党への強い支持、あるいは帰属意識を希薄化させました。また、企業における労働組合活動や、地域社会での活動なども減少し、政治と民衆をつなぐ役割を担っていた中間組織も存在感が薄れていきました。さらには、インターネットやSNSの発達により、個人で情報源を選択できるようになり、様々な情報や考え方・思想が錯綜するようになりました。これは、集団中心の社会から個人中心の社会への移行を意味しており、民主主義を選択した社会の必然的帰結とも考えられます。
個人中心の社会となったことで、政治活動も変化を余儀なくされました。集団中心の社会では、支持基準は比較的明確で、アプローチするチャネルも中間組織やマスメディアなどに限定されていましたが、個人中心の社会では必然的に多様化していきました。また、中流層の増加は、逼迫した自覚的な問題を抱えていない層の増加をも意味し、訴えるべき社会問題も不明瞭になりました。そのような背景から、有権者のニーズを調査し、それに合わせて政策を充足させていく政治的マーケティングという手法が活発に用いられるようになりました。別の言い方をすれば、政治の市場志向性が高まっていったということでもあります。
しかしながら、マーケティングは元々ビジネスの世界で用いられる手法であり、本質的にターゲットの絞り込みを求められます。ビジネス製品の場合は、ターゲットの絞り込みは、消費者にとってのより価値の高い製品を生み出すために必要なプロセスですが、政治的製品の場合は、そもそもターゲットを絞り込むこと自体、特定有権者だけを見た政治を執り行うことを意味するため、適切ではないと考えられます。
そのような政治的製品にはフィットしない面もあると考えられる政治的マーケティングの過度な活用は、ポピュリズムにつながると考えられます。ポピュリズムは、アメリカ・トランプ政権やイギリス・ブレグジットの例のように、国内の有権者だけでなく、自国と他国との間に、あるいは国際社会にも分断を招きます。また、ポピュリズム的な政治姿勢は、わかりやすいキャンペーンを通じて政治への関心を高める一方、問題の単純化により誤った解釈や理解、あるいは国民に「考えないこと」を促し、国内外に混乱を招く危険性があります。
しかし、このような姿勢やマーケティングの活用は、市場原理をもとに自発的交換がなされている経済の世界では一般的に行われ、特に大きくは問題視されていません。このような同一的な手法や姿勢に対して異なる評価がなされるということは、経済やビジネスの世界と政治の世界で、向き合う際の姿勢や価値観を意識的に変える必要がある、ということを示唆しているのではないでしょうか。個の時代において、情報の取得をはじめモノやサービスの購入が気軽にできるようになりましたが、その心持ちで政治に参加すると混乱を招き、私たち自身にしっぺ返しがくる可能性もあると考えられるのです。
政治は、国家だけに存在するものではなく、会社や地域、学校などの共同体があれば、そこに政治は存在すると考えられます。
私たちは、特に近年、どちらかというと経済やビジネスの世界を意識しながら生きているのではないでしょうか。個の時代になり、仕事においても日常においても、セルフブランディングが一般的になりました。これは、自分をどのような人物として見てもらうかというポジショニングであり、その前段階のプロセスにあたる市場ニーズのセグメンテーションとターゲティングという行為も、意識的あるいは無意識的に行っていると考えられます。また、就職においても、終身雇用を前提に会社という共同体に所属して会社内政治に従って生きるよりも、自身の市場価値を見据えた上での経済的な取引を雇用に求める志向も高まっていると考えられます。また、スマートフォンやSNS、最近では動画プロモーションも一般的となり、私たちは日々製品プロモーションにさらされ、消費意欲を掻き立てられています。そしてその先には、ボタン一つでその製品やサービスを消費できる仕組みが整えられています。
しかしながら、政治的な世界では、もう少し慎重に思考・判断するプロセスが必要とされそうです。所属する共同体の瓦解を防ぐためには、所属する人々の対立を避けるような、みんなにとってベターな判断が必要になると考えられます。また、グローバル化による国境の融解や、業界の境界の融解、副業解禁による会社の内と外との境界の融解などが起きている近年では、共同体の政治的意思決定は、より複雑化してきていると言えます。そのような複雑化した社会においては、政治家のような代表者はもちろん共同体の一人ひとりにも、表面的な情報に翻弄されないような知識や思考力が必要とされそうです。あるいは、権威による意思決定や権威による価値の配分に、ある程度委ねるという選択や寛容な態度も必要なのかもしれません。その場合、信頼できそうな権威ある人をいかに見定めるかということが必要となります。それゆえ、わかりやすい利得や存在の派手さ、あるいは表面的なカリスマ性のみで判断してはいけないと考えます。
民主化が一段と進み、個人の選択肢や権利の幅が広がった個の時代だからこそ、政治という二つ目の世界が存在することを改めて認識し、その世界においては姿勢や価値観を意識的に切り替えることが必要とされるのかもしれません。これは、政治に参加する側にも、政治を率いる側にも言えることです。そうすることによって、安心できる充実した共同体の中で生きていくことが可能になるのではないでしょうか。
最後に、渡邉先生にこんな問いを投げかけてみました。
「近年の変化もふまえて、政治の代表者や参加者のあるべき姿勢とは、どのようなものなのでしょうか。」
渡邉先生:かつてのイギリス保守党は、痛手を伴う革命を起こさずに、現状の秩序の範囲内で政治を慎重に行っていくという姿勢をもっていました。しかし最近は、イギリス保守党も「わかりやすさ」のようなものを求めるようになり、その結果の一つがEU離脱をめぐる国民投票だったと考えられます。あのような手段は、いつまでも決まらない停滞感を解消するにはいいのですが、議論や結論が出ないことから逃げ出しているようにも感じられます。
近年は、ダイナミックな動きのある方が社会的に好まれ、政治家はそのような有権者の志向性を捉えて、すぐ結論を出すこと、動きをつくることに重きをおくようになっているのではないでしょうか。あるいは政治家自身の価値観も、そのように変化してきていると考えられます。しかし、民主的な社会における政治というのは、本来なかなか結論が出ないものです。動きのダイナミックさや、早さという点では専制や独裁の方が勝りますが、その結果として世界の混乱を経験したからこそ、私たちは今の民主主義を選択しました。
イギリスの政治家は、19世紀頃までは、他に本業のあるアマチュアが担っていました。弁護士や聖職者、経営者などが仕事の傍ら、あるいは引退後に政治に携わっていたのです。そのような立場の人は、大所高所から物事を見る、割とジェネラリスト的な性質ももっていました。しかし、今は政治の専門職化が進んでおり、スペシャリストは概して視野が狭くなりがちです。「最高の役人は最悪の政治家」という言葉もありますが、「スペシャリスト的な仕事」と「政治の仕事」とでは、その思考や判断の仕方が異なるのです。
他方で、政治家を選ぶ側の人たちは、性悪説にもとづいて政治家を批判的に見ることも大事だと考えられます。政治の指導的立場にいる人の言うことを鵜呑みにはせず、批判的思考力を養って考え続けていくことが必要です。そのような不断の努力の上に、より良い社会が形成されていくのではないでしょうか。
(2019年11月23日掲載)
〈参考文献〉
- 渡邉容一郎著(2014年)『イギリス政治の変容と現在』(晃洋書房)
- 日本貿易振興機構(ジェトロ)・ロンドン事務所・海外調査部欧州ロシアCIS課(2015年3月)『英国総選挙2015の争点ー中小企業の事業環境への影響ー』(https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/07002004/07002004.pdf)
- 朝日中高生新聞(2017年2月)『政治手法は「ポピュリズム」?』(朝日新聞社)https://www.asagaku.com/chugaku/topnews/8845.html
- NewsPicks(2016年6月)『スライドストーリーで見る「ブレグジットの衝撃」』(株式会社ニューズピックス) https://newspicks.com/news/1630969/body/?ref=user_9370
- 産経ニュース(2016年6月)『離脱派に広がる「後悔」 「Regrexit」の造語も登場 軽い気持ちで投票…やり直したいとも』(産経新聞社)https://www.sankei.com/world/news/160628/wor1606280056-n1.html
- NewsPicks(2016年6月)『【細谷雄一】イギリス離脱、真の勝者は「世界の極右勢力」』(株式会社ニューズピックス)https://newspicks.com/news/1637887/body
筆者:吉田大樹
人の内発性により生み出される、プロダクトや活動に魅力を感じています。自分自身様々なサービスを模索する中で、何かを生み出そうと考えるほどに視野が狭まっていく感覚を覚えたことを一つのきっかけとして、リベルを始めることにしました。1986年岩手県盛岡市生まれ。2005年、東北大学工学部・機械知能航空工学科へ入学。2009年、東北大学大学院工学研究科・ナノメカニクス専攻へ入学。2011年、株式会社ザイマックスへ入社。2016年7月、高校時代からの友人と株式会社タイムラグを創業。
〈感想を教えてください〉 さまざまな方の思ったこと・考えたことを伺いたいと考えています。もしよければ、短編本を読んでの感想を教えてください。 〈お知らせ:リベルの読書会〉 リベルでは休日の朝10時からオンライン読書会を開いています。読書会の情報については、FacebookページやPeatixをご覧ください。 読書会のリクエストがある場合は、こちらにご連絡ください。 また、リベルの読書会のスタンスはこちらに表しています。
二つ目の世界に入る前には、一呼吸。 #リベル