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沖縄返還の一幕

国家間の決定に影響を与える事とは

文量:新書の約19ページ分(約9500字)

はじめに

国家間の政治的決定は私たちの仕事や生活に影響することもあるため、そうしたことへの関心は低いわけではないと思います。ただ、ビジネス的な話題に比べるとイメージしにくいため、どこか遠い出来事に感じてしまうことも少なくないのではないでしょうか。

 

1972年5月15日、沖縄の施政権しせいけんが日本に返還されました。第二次世界大戦における日本の敗戦以降、沖縄の施政権はアメリカが有してきましたが、それがこの日返還されたのです。

この返還交渉において、日米間では様々な取極めとりきめが成されました。それらの取極めは、日米それぞれの思惑の対立や時代背景の中で交わされていきました。その中には、秘密の取極めも含まれていました。

では、沖縄返還において、どのような国家間の思惑や時代背景が交渉や取極めに影響を与えたのでしょうか。また、取極めを秘密にすることには、どのような意図があったのでしょうか。

 

今回は、沖縄返還という歴史的出来事を例として、政治的決定や交渉には何がどのように影響を与えるのかについて、考えていきたいと思います。本テーマでは、日本大学法学部教授の信夫隆司先生にお話を伺いました。

 

信夫隆司しのぶたかし先生

1953年生まれ、山形市出身。日本大学法学部卒、修士、ポートランド州立大学修士、武蔵野短期大学助教授・岩手県立大学教授を経て日本大学法学部教授、博士(政治学)。

〈著書〉

  • 『米軍基地権と日米密約 〜奄美・小笠原・沖縄返還を通して』(岩波書店)
  • 『日米安保条約と事前協議制度』(弘文堂)
  • 『国際政治理論の系譜 〜ウォルツ、コヘイン、ウェントを中心として』(信山社) など

 

 

第一章 沖縄返還に対する日米の思惑

1972年の沖縄返還は、第二次世界大戦に端を発する出来事です。しかし、その当事者である日本とアメリカには、それぞれ異なる文脈の思惑がありました。

日本の思惑

1945年の敗戦以降、日本はアメリカを中心とした連合国の占領下に置かれることになりました。その後1952年、サンフランシスコ講和条約(以下、講和条約)が承認され、日本の占領状態は終了しました。講和条約締結後も、奄美群島、小笠原諸島、沖縄は、アメリカの施政権下に置かれたままでしたが、その後1953年に奄美群島が、1968年に小笠原諸島が本土復帰を果たしました。

つまり、日本にとって沖縄は、アメリカの施政権が残る最後の領土となっていたのです。

このような背景から、日本にとっての沖縄返還には、第二次大戦以降続いた他国による占領や施政が終わり日本に主権が戻ってきたことを国民に示す、という思惑が込められていました。

アメリカの思惑

第二次大戦以降、アメリカを主とする資本主義陣営とソ連を主とする共産主義陣営は、冷戦と呼ばれる対立構造に陥っていきました。

1950年には、米ソの代理戦争とされる朝鮮戦争が始まり、アメリカは韓国側の軍事支援を行いました。また、同じく代理戦争とされるベトナム戦争では、1960年頃からアメリカは南ベトナムを支援する形で介入していきました。

このような、1950年代・60年代における冷戦の激化を受けて、アメリカにとって沖縄は、軍事基地としての重要性が増していきました。特に、朝鮮半島・台湾・日本列島からほぼ等距離にある沖縄は、西太平洋の要石かなめいしと呼ばれ、奄美群島や小笠原諸島よりも軍事基地としての重要性が格段に高かったのです。

 

1969年、ベトナム戦争の終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退を公約に掲げるリチャード・ニクソン大統領と佐藤栄作総理による日米首脳会談で、沖縄返還が決まります。しかし、アメリカは、ベトナム戦争の終結を公約に掲げてはいても、その時期を正確に推しはかることはできていませんでした。

また、1970年には、1960年に締結された日米安全保障条約(以下、新安保)の更新を控えていました。新安保は、当初10年の固定期間を経て、その後一年毎の自動更新とされることとなっていました。1970年は、その更新のタイミングにあたっていました。日本側には、1960年の安保改定時ほどの反発はなかったものの、アメリカは新安保条約の更新も一つの懸念材料と見ていたと考えられます。

このような背景から、アメリカにとっての沖縄返還には、施政権の返還は行うとはいえ、それまでと同程度の軍事基地を確実に保持しておきたい、という思惑が込められていました。

 

このように、第二次大戦により占領下に置かれた沖縄には、返還に際し、領土の返還という問題だけではなく安全保障の問題も関わっていました。

日本側にとっては、安全保障の問題だけではなく、占領の終結と主権の回復を国民に示すことも重要なことでした。

他方でアメリカ側は、軍事基地としての権限の確実な確保という安全保障の問題に重きを置いていたと考えられます。

では、その両者の思惑が交渉にどのように影響していったのでしょうか。

第二章 思惑にもとづく交渉の争点

現在でもアメリカ軍は、沖縄をはじめとする日本の領土に駐留しており、外見上は一定の領土を占有しているようにも捉えられます。1972年に沖縄が返還されて何が変わったのか、疑問を覚えるのではないでしょうか。

そこでまず、アメリカ側の視点から、沖縄という領土の返還によって何が変わったのか、少し時間をさかのぼり具体的に紹介していきましょう。その上で、沖縄返還の大きな争点の一つとなった那覇空港の返還に焦点を当て、その交渉を紹介していきたいと思います。

領土返還によるアメリカの権限の変化

日本の主権が回復した1952年の講和条約と時期を同じくして、日米安全保障条約(以下、旧安保)とそれに附帯する行政協定が締結されました。

連合国の占領は終結を迎えても、日本や極東の安全保障のためにはアメリカ軍の支援が必要でした。そこで、日米の二国間で、アメリカの日本における権限等に関する取極めである旧安保と行政協定が締結されたのです。これらは、占領時よりは対等に近い立場で締結された条約でした。そして、1952年に締結された旧安保と行政協定は、1960年に締結された新安保と地位協定にそれぞれ承継・改定されていきます。

1960年に締結された地位協定では、アメリカ軍が日本国内でその装備に重大な変更を加える場合(たとえば、日本国内への核兵器の持ち込み)、あるいは在日米軍基地から他国へ戦闘作戦行動を行う場合には、日米両国が前もって協議する、いわゆる事前協議制度が導入されました。

この事前協議は、あくまでも日本の領土内が対象であるため返還前の領土には適用されません。

つまりアメリカは、沖縄返還前は、事前協議なしで沖縄に自由に核を持ち込んだり他国への戦闘作戦行動も出来ました。しかし返還後は、日本との事前協議を経る必要があるというように変わりました。言い換えると、沖縄の返還によって事前協議制度が適用されることになり、アメリカは基地を自由に利用できなくなったのです。

このような背景からもアメリカは、1972年の返還までに自軍にとって必要と考える装備や施設に関する取極めを行い、基地に関する権限を確実に得ておく必要があったのです。

日本の要望

前述したように、日本にとっての沖縄返還には、第二次大戦以降続いていた占領が終結し、主権が戻ったことを国民に示したいとの思惑が込められていました。したがって、沖縄が日本に戻ってきたことを明確に示す交渉内容や交渉過程である必要がありました。内容はもちろんのこと取極めの交渉過程においても、日本の主体性を示す必要があったのです。

ここで、日米双方の具体的な要望や交渉の様子として、1970年11月の愛知・マイヤー定例会議の一部を引用して紹介します[2]。この席上で、愛知大臣は次のように要望しました。

「米側が自からのイニシアティヴにより積極的に、特に政治上象徴的価値のある若干の基地(これに限るものではない旨明らかにした上、例示的に(イ)那覇空港を民間航空基地として返還すること、(ロ)那覇軍港の返還、(ハ)牧港まちなと住宅地区の移転、及び(二)与儀よぎ等の石油貯蔵所の移転をあげた)を返還することが肝要である」

これに対して、マイヤー大使は次のように述べました。

「(ロ)沖縄返還の基本的な前提は、在沖米軍の削減ないし縮少ではなく、その機能の維持にあることは、米政府が議会に対し繰りかえし説明してきた点であり、また、(ハ)国防総省においては、沖縄復帰は米側の財政支出を伴なわない旨議会に対し固く約束してきたこともあり、特に牧港住宅地区の移転については強い抵抗がある」

これらの要望を整理すると、まず日本側は、那覇空港をはじめ基地の返還や縮小を要望しています。これに対しアメリカ側は、日本側の要望に消極的で、基地やその機能の維持を要望しています。また、沖縄返還に際して、アメリカ側では財政支出を行わない想定であったことが分かります。

また、様々な事案がある中で、日本側は那覇空港の返還を、沖縄返還の象徴と位置づけていました。沖縄の空の玄関である那覇空港がアメリカ軍から日本の民間空港として移管されることで、沖縄の返還を国民に印象づけるためです。

 

では、特に那覇空港を取り戻したい日本と、権限の現状維持を求めるアメリカとの間で、どのような争点が生まれ交渉が行われていったのでしょうか。沖縄返還における交渉は多岐にわたるため、本書では那覇空港返還に焦点を当て紹介することとします。

那覇空港返還の争点

那覇空港の返還に際しアメリカは、C130輸送機は嘉手納基地に移転させ、対潜哨戒機たいせんしょうかいきP3はそのまま那覇空港に置くのではないかと日本側は考えていました。対潜哨戒機とは、潜水艦の探知や攻撃を主任務とする航空機のことです。

また、海軍の所有であるP3を嘉手納基地へ移転させる案もあるようだが空軍はその受入れに強硬に反対している、との情報も得ていました。空軍が反対した理由は、嘉手納基地を拡張する計画があったため、海軍機を受け入れる設備の建設が困難であるというものでした。

つまり、那覇空港返還に関しては、対潜哨戒機P3の移転が問題の一つだったのです。

しかし、この問題の協議が進むうちに、アメリカにとって重要なのは、P3を受け入れる物理的なスペースではなく、移転に必要な経費であることが明らかになっていきました。P3を移転することになった場合、受け入れる基地には同機種に見合った高度なエレクトロニクス関係の施設を構築する必要があったからです。

アメリカは議会に対して、沖縄返還に財政支出は伴わないと固く約束してきました。したがって、費用が伴うような移転案には、否定的にならざるをえなかったのです。

また、アメリカ側は、沖縄返還日までに移転が完了しなかった場合、アメリカの基地に関する権限は維持されるのかという懸念も抱いていました。したがって返還までに、返還後アメリカが必要と考える権限を、確実に得ておく必要があったのです。

このように、那覇空港返還の争点は、対潜哨戒機P3の移転先及びその移転費用と、移転が間に合わなかった場合の対応という点にあったと言えます。

第三章 交渉の過程と決着

交渉の過程

P3の移転問題はその後も交渉が続けられ、1971年4月の吉野・スナイダー会談でも、その具体的な交渉が行われました。

しかし、アメリカ側の返答は、嘉手納基地は今後使用の増大が見込まれ、また移転には多額の費用が伴うため、同基地への移転には否定的なものでした。また、その他の基地の場合、たとえば普天間は同じく移転費用がかかり、条件的に嘉手納よりも劣るという見解を示しました。

加えてスナイダーは、「仮に那覇空港を全面返還の場合でも、緊急の場合等必要に応じての同空港再使用の保証を得たい」と要請しました[3]。つまり、那覇以外の適切な場所がないという見解に加えて、移転費用と緊急時の保証がアメリカ側の懸案として示されたのです。

 

しかし、同じく1971年4月に行われた愛知・マイヤー会談では、状況の好転の兆しが見え始めました。愛知大臣の那覇空港返還に関する強い要望に対して、マイヤー大使は以下のように応えたのです。

「これらに対する米側の立場は不変であり、空港については日本側への無償で管理権を渡すが、P3は引続き駐在の必要あり(移転は可能だがきわめて高価につき、その負担は二◯◯の枠外として日本政府にかかるということなら考えてみてもよい。)、かつ、有事再駐留の権利が確保されねばならぬ」[4]

マイヤーが挙げた「二◯◯の枠外」の二◯◯という数字は、すでに日米間で了解されていた基地移転費二億ドル(二◯◯×百万ドル)を指しています。つまり、移転に必要な追加費用を、既存の基地移転費でまかなうのではなく、別途日本政府が負担するのであれば移転を考えてみてもよい、という考えを示したのです。その移転費用は、約2,000万ドルと見積もられていました。

交渉の決着

この交渉は、1971年6月の愛知・マイヤー会談で決着を迎えました。

結論としては、追加費用なしでP3を那覇から嘉手納へ移転する旨を、アメリカ側が了承しました。ただし、追加費用なしというのは、アメリカ側で負担するという意味ではなく、基地改善費として日本側で用意していた6,500万ドルの中から移転費用2,000万ドルをまかなうという意味です。

しかし、この費用元を基地改善費としたことで一つ問題が生じました。それは、基地改善費は沖縄返還後に支出されるものであったため、返還前にP3向けの移転工事は出来ないというものです。つまり、返還前にP3を那覇から嘉手納へ移転させることは出来ない、という時期的な問題が新たに生じたのです。

 

日本には、沖縄返還の一つの象徴として空の玄関である那覇空港を取り戻したいという思惑がありました。したがって、返還後に移転準備を始めるというのでは日本側の思惑に反することになります。沖縄返還の時点で、那覇空港が日本へ返還されていることを国民に示す必要があったのです。

そこで、日本側は、復帰前早期に費用が拠出された場合、移転を早めることができるかをアメリカ側に確認しました。その上で、費用の早期支出について大蔵省と協議し、大蔵省はこれを了承しました。

しかし、費用の問題は解決されても設備の建設が物理的に間に合うか否かという問題が残されました。アメリカ側は、間に合わなかった場合についての懸念を交渉中から示していました。

そこで、もし工事が完了しなかった場合、返還後もアメリカ側による那覇空港の使用が可能であることを確認する“秘密の書簡”が吉野・スナイダー間で交わされました。これは、沖縄返還を国民に印象づけるという点では、マイナスとなる取極めであったと言えます。

こうして、日本側とアメリカ側双方の思惑を満たすかたちで、国家間の一つの交渉に決着がつくこととなりました。

密約に見る国家間交渉の裏側

ここで、那覇空港返還からはれますが、日米の思惑が反映されるかたちで生み出された密約について紹介します。密約の締結に至るまでの過程や密約の形式を知ることで、国家間の交渉の裏側について理解を深めていきたいと思います。

密約締結の発端となったのは、1970年11月の日米協議委員会において、委員であった山中貞則総務長官が「権限移行合意」案の一部に異論を唱えたことでした。山中長官は、日本政府から琉球政府への援助計画にアメリカ政府の承認が必要とする旨の項目を削除することを要求したのです。

その要求の背景には、1969年の日米首脳会談で沖縄返還が決定した結果、日本による琉球政府への援助額がアメリカを上回る状況が続いていたことがあります。

日本政府から琉球政府への直接援助は、1961年の池田勇人総理とジョン・F・ケネディ大統領による日米首脳会談以降に開始されました。この会談後の共同声明でアメリカ側は、「日本の協力を歓迎する」と日本政府の積極的援助を承認したのです。それまでは、日本政府の発言権が増すことを恐れ日本側が直接援助することにアメリカ側は消極的でした。

日本政府の援助額は、1961年度の5.4億円から返還が決まった1969年度には217億円と、大幅に増加していました。それに対してアメリカ政府は、1965年度から1968年度にかけはほぼ同額の43.2億円で推移し、1969年度は56億円と日本政府の1/4程度でした。

山中長官は、この援助額の実態から、琉球政府を実際に援助しているのは日本政府であるにも関わらず、援助計画にアメリカ政府の承認が必要であることに不満を抱いていたと考えられます。同時に、それはアメリカ側に主導権を握られていることを意味し、日本の主権回復を示すという思惑に反する状況でした。

しかしながら、1972年の返還までは沖縄はアメリカの施政権下にあるため、アメリカの承認を必要とすることは特段おかしなことではありません。それは山中長官も承知するところであり、最終的には、日本の国民感情へ配慮して、密約の締結により決着したのです。

具体的には、「権限移行合意」案から、以下の斜体部分が削除されました。そして、その削除された斜体部分は、そのまま別文書である「了解覚書」に記移行されたのです。

「これには、日本国政府年次計画案の日本国政府大蔵省提出に先立って行われる検討、承認の機能は含まれない。また、米国政府は、日本国政府の閣議で承認を求める前に行う日本国政府の援助計画案の最終的検討、承認機能の遂行を継続する。さらに、援助計画に関する閣議承認後その計画の軽微な変更以外のいかなる変更も、米国政府の同意を必要とする。」[5]

ここで作成された了解覚書は、“非公表”文書でした。

日米双方は、援助計画におけるアメリカの承認プロセスを残すことで合意しました。しかし、日本にとってそれを公表することは不都合でした。一方で、アメリカにとっては、書面に残しておきたい事項でした。そのような双方の事情に折り合いをつける手段として、「了解覚書」という密約が交わされたのです。

尚、この密約は、2015年の外交記録公開で明らかになりました。

第四章 国家間の決定に影響を与える事

沖縄返還の象徴と考えられた那覇空港の民間空港への移管は、対潜哨戒機P3の移転にアメリカ側が難色を示したため難航しました。最終的には返還前の移転という形で合意に至ります。これは、日本側の要望に基づくものでした。他方で、アメリカ側の要望に基づき、その移転費用を日本側が捻出し、移転工事が間に合わなかった場合のP3の那覇空港への駐留を保証することに合意しました。

これら双方の要望の背景として、日本側には、沖縄の主権が回復されたことを国民に示したい思惑があり、アメリカ側には、返還後の沖縄を軍事基地として確保したい思惑がありました。

さらには、日本側の思惑には、講和条約により日本が主権を回復した後も一部領土はアメリカの施政権下にあり、沖縄はその最後の返還されるべき領土であったことが影響していました。他方で、アメリカ側の思惑には、冷戦の激化により、沖縄の軍事基地としての重要性が影響していました。

つまり、沖縄返還は、第二次大戦後の時代の変遷を経て、領土を元の日本国へ戻すという問題だけではなく、アメリカや日本、さらには極東の安全保障の問題へ発展していたと言えます。

そのような問題の複雑な絡み合いや日米それぞれの思惑が反映される形で、密約という国家間の秘密の約束が交わされました。

ここで紹介した密約は、日本側が国民に対し主権を回復したことを示したいとの思惑と、アメリカ側の基地に関する権限の確実な保持という思惑に、折り合いをつける手段として締結されたものでした。

 

国家間の政治交渉を深く読み解くためには、このような時代の変遷や各国の思惑などの背景を考えることが必要であると言えそうです。また、密約は非公表であるため、その存在を確認することが難しいところがあります。しかし、公にされている事柄と、その背景とのギャップを考えることで、その裏側を伺い知ることは出来るのかもしれません。

リベル:政治に限らず、交渉とは相手の思惑を知ることが第一歩目なのだと勉強になった。それにしても、日本は情緒的な思惑が、アメリカは予算や基地権確保など合理的な思惑が主だった。交渉というと合理的な思惑をイメージしてしまうけど、ビジネスよりも人間的感情が介在していそうな政治問題においては、情緒的な思惑をはらんだものも多いのだろうか、どうなのだろうか。

 

最後に、信夫先生にこのような問いを投げかけてみました。

「時代背景を知る以外にも、日米間の政治交渉を深く読み解く上でのポイントなどはあるのでしょうか。」

信夫先生:アメリカの場合、シビリアンとミリタリーが分かれているという認識で見ていくことが一つのポイントです。シビリアンは政治や経済などを包含するもので、他方でミリタリーは軍のことであり、アメリカは軍部が単体で大きな部分を構成しています。

外交問題では、日本では外務省が中心となりますが、アメリカの場合は軍の意向を常に伺う必要があります。アメリカも窓口は一つなのですが、交渉をまとめる段階になると国防省の意向も強く出てくるため、場合によっては国務省と国防省の意見の対立に大統領が裁定を下すという場合もあるのです。

つまり、アメリカにおいて軍部は、独立したような体制にあると言うことが出来ます。

例えば、駐留先で米兵が犯した罪の裁判権が、派遣国(米側)・受入国のいずれにあるかという刑事裁判権の問題は、軍部の意向が強く反映される事案です。軍部は、兵士の士気を高めるという意味において、自国の裁量で裁判が行われる方が望ましいのです。これは言い換えると、司法権についても軍部が掌握しておきたい意向ともとれるため、軍部は自身の権限が及ぶ範囲で完結させたいという考えを持っているとも言えます。

このように、政治交渉やその決定について深く読み解くには、時代背景に加えて、相手国の政治体制などについても理解しておくことで、より具体的にイメージできるようになるのではないでしょうか。

 

(2019年9月28日掲載)

 

〈参考・引用文献〉

  1. 信夫隆司著(2019)『米軍基地権と日米密約』(岩波書店)
  2. 愛知大臣発米・牛場大使宛公電第2126号「部内連絡」(極秘)、1970年11月16日、「米来往電」『日米関係(沖縄返還)三七』、平成26年度外交記録(2)、H26-004,2014-4126,外交史料館
  3. “Telegram From the Embassy in Japan to the Department of State, No. 3786, April 24, 1971”(Confidential), RG59 Subject-Numeric Files, 1970-1973, Box 2572, National Archives at College Park, MD.
  4. アメリカ局北米第一課「沖縄返還問題(愛知大臣・マイヤー大使会談)」(極秘)、1971年4月26日、「会談(大臣、総理)」『沖縄関係十七』、平成22年度外交記録公開(3)No4, H22-012, 0600-2010-00029, 外交史料館
  5. 「第七回(昭和四五・十一・九)」、『沖縄復帰準備委員会(代表会議議事録)(3)』、平成二二年度外交記録公開(2) No.5, H22-005, 0120-2001-02688, 外交史料館

 

筆者:吉田大樹

人の内発性により生み出される、プロダクトや活動に魅力を感じています。自分自身様々なサービスを模索する中で、何かを生み出そうと考えるほどに視野が狭まっていく感覚を覚えたことを一つのきっかけとして、リベルを始めることにしました。1986年岩手県盛岡市生まれ。2005年、東北大学工学部・機械知能航空工学科へ入学。2009年、東北大学大学院工学研究科・ナノメカニクス専攻へ入学。2011年、株式会社ザイマックスへ入社。2016年7月、高校時代からの友人と株式会社タイムラグを創業。

 

 

 

 

 

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