リベル

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感情と功利の不調和

人間社会を理解する足がかりとして

文量:新書の約37ページ分(約18500字)

はじめに

「最大多数の最大幸福」とは、「功利主義」という道徳規範について表したイギリスの哲学者ベンサムの言葉です。この言葉が表すように、功利主義の原則は、社会全体の幸福や富の総量を最大化することに置かれています。決して利己主義やエゴイズムを意味するものではありません。

功利主義は、一見社会にとって望ましい考え方であるため、この考え方に基づく施策や取り組みは問題なく社会に受け入れられるように感じられます。しかし、身の回りの意思決定や人々の言動などを思い起こしてみるとどうでしょうか。会社組織や地域共同体などにおいて、「最大多数の最大幸福」を念頭に置いた、全体最適の視点からの運営や行動となっていないことも多く見られると思います。

私たちの人間社会において、一見するとみんなにとって良い功利主義がうまく働かないのはなぜなのでしょうか。人間は集団を重んじる生き物だと言われることもありますが、実はあまりそうではなく利己的な生き物なのでしょうか。人間とその社会は、どのような原則やシステムによって動いているのでしょうか。

 

今回は、東京大学大学院人文社会系研究科教授の亀田達也先生にお話を伺いながら、このようなテーマについて考えてみました。本書は、亀田先生と後記する先生のご著書からいただいた知識や考え方を元として、テーマに合わせて編集し作成しています。

 

亀田達也かめだたつや先生

1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科修士課程、イリノイ大学大学院心理学研究科博士課程修了。Ph.D.(心理学)。現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。

〈著書〉

  • 『モラルの起源 ー実験社会科学からの問い』(岩波新書)
  • 『合議の知を求めて ーグループの意思決定』(共立出版)
  • 『複雑さに挑む社会心理学 ー適応エージェントとしての人間』(共著、有斐閣) など

 

 

第一章 スーパー個体のハチ社会、個の集合の人間社会

「人間は社会的な生き物である」と言われることがあります。このフレーズが意味することは文脈によって異なると思いますが、おおむね、多数の個体で集団を形成し、相互依存しながら生きていこうとする性質を表しているのではないでしょうか。そして、人間の社会的性質に関連する議論として、人間は利己的か利他的か、個人主義か集団主義かといった二極に分かれた議論もしばしば起こります。本書では、このような二極的な問いを立てるのではなく(人間は利己的にも利他的にも、個人主義的にも集団主義的にもなり得ます)、人間がどのような社会性を有しているのかということについて、考えを深めていきたいと思います。

 

社会的な生き物は地球上で人類だけではありません。サルやチンパンジーも社会的な生き物であり、イヌも社会的な生き物であると言われています。さらには、霊長類などの比較的人類に近い動物だけではなく、昆虫のハチも社会的な生き物であると言われています。

しかし、これらの生き物を「社会的な」という一つの形容詞でくくることは、少し大雑把であるとも言えます。ハチと人間は、集団を構成する個体同士の血縁度において、明確な違いが見られるからです。そして、集団の血縁度の違いは、社会活動の質に影響を与えるものなのです。

そこで、本章では、血縁度が違うハチ集団と人間集団の比較から、人間の社会性について考えを深めていきたいと思います。まずは、ハチと人間の血縁度の違いについて簡単に紹介していきます。

血縁度が違うハチと人間の集団

人間は様々な単位で社会を形成しています。会社や地域、学校、そして最も関係の深い家族や親戚などです。これらの社会において関わり合う人たちは、お互いに血縁関係にないことの方が多いはずです。家族はもちろん血縁関係にありますが、遠い親戚になってしまうと、血縁関係にあると直感的に感じられないことも少なくはないでしょう。つまり、人間は血縁関係にない人とも関わり合い、多種多様な集団を形成し社会的な活動を行っているのです。

それに対してハチは、血縁関係にある個体のみで集団を形成し、社会的な活動を行っています。ここで言うハチの集団や社会の単位は、一つの巣で共に生きている群体を指しています。ハチの活動とは、花の蜜を採集したり、巣を作ったり、敵を撃退することなどですが、これらの仕事を担うハチは働きバチと呼ばれています。この働きバチたちは、一匹の女王バチから生まれた姉妹です(働きバチは全てメスです)。つまりハチは、人間が形成する諸集団に比べてはるかに濃い血縁関係を有した集団を形成し、活動を行っているのです。

では、この血縁関係の濃さの違いは、社会活動の質にどのように影響を与えるものなのでしょうか。

ハチと人間の「集団での意思決定」の違い

例えば、「集団での意思決定」において、ハチと人間はその結論の導き出され方に質的な違いが生じます。ハチの意思決定とはあまり耳馴染みみなじみのない事象です。しかし、行動生態学者のシーリーらの実験によって、ミツバチは巣探しにおいて集団で意思決定をし、その結果、客観的に最も良い巣を非常に高確率で選択できていることが明らかにされているのです。では、ミツバチはどのようにして意思決定を行い、何が精度の高さに寄与しているのでしょうか。それは人間と比べてどのような違いがあるのでしょうか。

 

「集団での意思決定」と言えば、会議などの場で資料や言葉を用いた複雑なコミュニケーションを要することが頭に浮かびます。しかし、集団の意思決定を、「各個体の意思を群れ全体の行動選択にまとめあげる仕組み」であると解釈すれば、人間以外の生き物も集団での意思決定が出来ることが分かります。なぜなら、他の動物も、鳴き声によって集団に危機を共有したり、また鳴き声の違いによって危機の違いを表現していることなどが明らかにされているからです。ミツバチの場合は、巣探しの時に「8の字ダンス」によって意思伝達を行い、集団での意思決定をしています。

ミツバチは、女王バチが娘の新女王バチを生み巣が一定程度の大きさを越えると、親の女王バチが3分の2ほどの働きバチを連れて巣を離れる「分蜂ぶんぽう」という行動をとります。元の巣を離れた親女王バチの集団は新たに巣を探す必要性が生じるため、働きバチの中から巣を探す部隊が結成され、各々飛んでいき巣の候補地を探してきます。候補地を見つけたハチは巣に戻り、「8の字ダンス」によって候補地の方角を伝えます。ダンスは方角を伝えるだけではありません。ダンスの長さや熱心さは、候補地が巣としてどの程度適切であると知覚したかを表しているのです。

巣でそのダンスを見た他のハチは、仲間の意思表示に「同調」して、自らも候補地を確認しに行きます。候補地を確認して帰ってきたハチは、巣として適切であると自らも知覚すれば8の字ダンスをし、そうでなければダンスをしません。ダンスをしなければ他の仲間へ候補地が伝わりませんし、ダンスが短く熱心さに欠ければ同調する仲間も少なくなります。このようにして、集団の中に候補地が徐々に伝わっていき「合意」が形成されていきます。そして、ある閾値しきいちを越えたところで新たな巣として適切であると意思決定されるのです。

ここで重要なことは、個々のハチが、仲間が持ってきた巣の候補地の情報を鵜呑みにせず、自ら確認し、適切だと知覚しなければダンスを踊らないという意思表示をすることです。つまり、仲間の見つけた候補地に向かうという「同調」はしますが、行った先の適切さの評価は個々が「独立」して行っているということになります。ミツバチの巣探しにおける集団意思決定の精度の高さの要因は、「行動の同調」と「評価の独立性」が両立していることにあると考えられるのです。

 

他方で、人間の場合はどうでしょうか。私たち人間も、友達や仲間が持ってきた情報や意見に同調し、自らも情報にアクセスし飲食店の訪問や物の購入を検討したり、仕事においてもアイディアに耳を傾け検討を試みたりします。日常を思い起こしてみると、ハチと同じく「行動の同調」は見られると考えられます。

しかしながら、「評価の独立性」についてはどうでしょうか。友達や仲間の情報や意見が、仮に自分に合わなかったり正しくないと思えたとしても、それをそのまま周りにフィードバックするのは心理的に困難ではないでしょうか。特に、既に自分以外の複数の人で合意形成が成されている場合には、違う立場をとることは困難です。さらに人間社会には、明示的にも非明示的にもヒエラルキーが存在するため、誰の情報や意見かによってもフィードバックの困難さが変わってきます。つまり、人間社会においては、「評価の独立性」はハチ社会ほどには保たれていないと考えられます。

 

この「評価の独立性」に対する人間とハチの違いに影響を与えるのが、集団を構成する個体同士の血縁関係の濃さの違いであると考えられるのです。

血縁関係が濃いとは、言い換えると遺伝子を共有していることを意味します。生き物の生存目的が自らの遺伝子を存続させることにあるとするならば、仮に自らが生き残れなくても、同じ血縁の兄弟姉妹や親の生存を助けることは合理的です。ハチの場合は、集団内の個体はみな姉妹か親です。これは集団の生存イコール自らの遺伝子の生存であることを意味しています。そのため、集団の生存が優先されることとなり、巣探しにおいても、自らが正しいと知覚する情報を仲間に正直に共有することにつながるのです。なぜなら、仲間は必ずしも正しい情報を持ってきているとは限らないため、誤っていた場合、それは集団の存続を脅かすことにつながるからです。集団の生存イコール自己の生存であるがために、ハチの集団では、集団の意思決定の質を上げるために「評価の独立性」が保たれているのです。

他方で、人間社会における諸集団は、多くの場合血縁関係が強くはありません。そのような集団において個人が気にするのは、自己の生存にとって優位であるかどうかです。遺伝子の共有度が低い集団の生存を助けることは、自らの遺伝子を残すという意味で、ハチに比べて合理的ではありません。それが、「評価の独立性」を保てなくしているのです。

私たち人間が、他者の情報や意見に同意できないにも関わらず言い出せない時、「関係が崩れたらどうしよう」「集団から外されたらどうしよう」「分かっていないと思われたらどうしよう」というような感情が生じているのではないでしょうか。これらの感情は、集団の協調性を養い、協力的に活動するためには重要であると考えられます。他方で、集団から排斥はいせきされることで自己の生存に悪影響が及ぶことを気にしているとも言えます。集団の生存イコール自己の生存ではない人間にとって、最終的に優先されるべきことは集団ではなく自己の生存です。そのような「集団内における自分」を気にする心が、「評価の独立性」を保てないことに影響を与えているのです。

ハチは、自己の命を犠牲にして戦っても集団が生き残れば、遺伝子の存続という点で大きな意味があります。他方で人間は、そうではありません。ハチよりも血縁が入り混じった複雑な集団で生きているため、自己を優先する心が働くことは必然であると考えられるのです。そしてそのような集団特性が人間の社会性に影響を与え、「集団の意思決定」などの社会的活動に影響を与えていると考えられるのです。

リベル:ハチ集団に見られた多数の情報や評価が集まることで導き出されるより高度な知を「集合知」というようだ。しかし、人間社会では「三人寄れば文殊の知恵」と言われる一方で、周りに流されて集合知とならないこともある。人間集団で集合知を生み出すためには、どのような方法があるのだろうか。
リベル:「評価の独立性」をいかに保つかという文脈からは逸れてしまいましたが、どうすれば人と協力してより良い知恵を生み出せるのかnoteで考えてみました。現代そしてこれからは、知識や情報は得られやすくはなっていますが、知恵は得られにくくなる可能性をはらんでいるのではないかと感じました。どうずれば「三人寄れば文殊の知恵」を生み出せるのか』

ハチ集団と人間集団の質的な違い

労働においても、ハチ社会を見ていくと、人間の特性やあり方を考えるきっかけになります。

ハチ社会においては、女王バチと働きバチで明確に機能や役割が異なりますが、働きバチの中でも年齢に応じた役割の違いが見られます。働きバチの仕事の中でも、女王バチの子どもにエサを与えたり、巣をきれいにしたりといった内勤的なものは、若いハチが担います。しかし、その若いハチも歳をとると外に出ていく仕事を担うように世代交代していくのです。当然のことながら、外に出ていく仕事の方が外敵に襲われるリスクなどが高く、体力も激しく消耗します。年配のハチがそのような仕事を担うのは人情的にはひどい仕打ちであるとも感じられ、人間社会では何かの拍子に破綻してしまいそうです。しかし、ハチの社会では問題なくこのような分業体制が成立しているのです。さきほどの「集団の意思決定」もそうですが、ハチは集団の存続を第一として、各個体が集団の一部として合理的に機能しているのです。

このような高度な分業体制が築かれ、多数の個体がまるで一つの個体であるかのように振る舞う生物の集団のことを「スーパー個体」と言います。集団と遺伝子を共有し、集団の存続のために動くハチは、一匹一匹の個体であると見なされるよりも、集団として一つの個体であると見なされる方が自然であると考えられるのです。「一匹」という単位は、あくまでも人間が定めたもので、ハチにはそのような感覚はないのかもしれません。

他方で人間は、同じ社会的な生き物とは言っても、「個の集合」の域は出ないと考えられます。集団内で自己の遺伝子がそれほど共有されていないため、人間の集団をスーパー個体として見なすことは困難です。

労働をはじめ、人間社会では人々の協力体制を築くために、様々な規範や制度が構築されます。確かに、人間は一人では生きていけません。しかし、人間が形成する集団は、根底的には「スーパー個体」ではなく、あくまでも「個の集合」であると認識しておくことも重要です。なぜなら、「スーパー個体」であると他者や自己を強いてしまうことは、人間の本性に合わず、大きな軋轢あつれきやストレスを生んでしまうと考えられるからです。人間の社会性に対する適切な認識が、規範や制度の適切な設計や、個人としての「いい生き方」の選択に良い影響を与えるのではないでしょうか。

第二章 社会を成り立たせている「感情」

第一章では、人間はハチと比べた時に、集団よりも個を優先する生き物であることを学びました。血縁関係の薄い人間社会の集団では、集団の存続が自己の遺伝子の存続に必ずしも直結しないからです。しかし、それでも人間は社会を形成し、集団の中で他者と関わり合いながら生きています。では、人間はそもそもなぜ社会を形成するのでしょうか。また、どのようにして血縁の薄い他者と関係を維持し、社会を成立させているのでしょうか。

人間はなぜ社会を形成するのか

私たちは、生まれたときから大人になるまで、そして大人になってからも、ごく当たり前に集団の中に身を置いて生活しています。時には協力し合い、時には対立や喧嘩をし、時にはライバルとして切磋琢磨します。このように、社会が存在することや、集団の中で生きていくことは私たちにとっての当たり前となっています。他方で、生物の世界には社会的な生き方をしない種も数多くおり、「社会的」であることは生き物としての当たり前ではありません。つまり、私たち人類は「社会的」であることを選択したのだと考えることができます。人間の社会性や本性を理解するために、まずは私たちがなぜ社会を形成するのかに目を向けてみたいと思います。

 

さて、突然ですがここで、一つの問いを立ててみます。

 

「天国に社会はあるのでしょうか?」

 

この問いは亀田先生にいただいたものですが、みなさんはどのように考えたでしょうか。この問いに対する答えの中には、私たちの社会に対する認識が見え隠れすると考えられます。

ちなみに、筆者は「ない」と直感的に答えました。続けて、「ない」と答えた理由について、「幸せであることが決められている天国には、社会を作ってみんなで頑張ることが必要とされなそうだから」というようなことをたどたどしく答えました。

 

天国は、定義にもよりますが、飢えることはなく、住むところや着るものに困ることもありません。資源も無限にあり枯渇の心配もなく、天候や自然も安定していて災害が起きる心配もありません。私たちが想像する天国とは、おおむねこのようなイメージではないでしょうか。何の心配もなく、問題を抱えることもなく生きていける世界です。

それと比較すると現実世界は、現代の日本では衣食住に困ることは少なくなりましたが、全く心配がないとは言えません。また、資源は有限であり枯渇の恐れがあり、その分配を巡る問題は国家間の争いに発展することもあります。また、自然をコントロールすることはできないため災害の心配もあり、大きな災害の際には対外的な援助がなければ復興を遂げることは困難です。そして、これらの心配や恐れは、時代をさかのぼるほどに深刻であったことは想像に難くありません。

このように天国と現実の違いに思考を巡らせると、社会とは、人類が生きていく上で生じる様々な問題を解決するために形成されてきたのだと考えられるのです。食料獲得や自然災害への対応のために人々が集まれば、協力し合うことで大きな力が得られます。しかしもう一方で、集団が形成されれば人間同士のしがらみや軋轢あつれき、時には裏切りも生じます。血縁を越えた集団形成をする人間は、自己やその家族を優先する行動をとることは当然のことだからです。しかしながら、そのように個を重視しすぎるあまり集団が瓦解がかいしてしまえば、生き残っていくことは困難です。私たちは、集団内の人間同士のしがらみを越えて協力して生きていくために、社会を形成してきたのです。

このような人間社会の成り立ちを考えると、第一章で紹介したハチ社会とは、そもそも社会形成の論理が異なることが分かります。ハチは集団存続のために社会が形成され、人間は個の存続のために社会が形成された側面があると言えるのです。ただし、これは人間が個人主義だと断言するものではなく、あくまでもハチのような血縁集団を築く生き物と比較した場合の話です。しかしながら、生存の困難さが薄れてきた現代社会において、昔よりも個人主義的な側面が見られるようにはなったのは、このような人間社会の成り立ちを考えると必然であると言えるのかもしれません。

 

では、そのような個を重視する性質を持ち合わせる人間は、血縁を越えた集団を何によって維持してきたのでしょうか。それは、私たちが長い進化の歴史の中で得てきた遺伝的特性である、「感情」であると考えられるのです。

社会に安定をもたらす「感情」

私たちは、状況に応じて様々な感情を抱きます。

例えば、ムシャクシャしたときに悪いことをしたくなることがあるかもしれませんが、その時に頭をよぎるのは、見つかったら罰せられるかもしれないという「罰の可能性への恐れ」です。別の言い方をすると、私たちは、社会規範を犯すことに対して恐れや不安を抱く感情を有していると言えます。このような感情は、集団内の裏切りを抑止し集団が瓦解することを防ぐと同時に、自己が集団内で生きていくことを助ける感情として有効に働いていると考えられます。

また、不公平や格差に対しても強いネガティブな感情を抱きます。不公平を嫌悪する感情は、人を対象とした脳のイメージング実験からも確認されています。実験によって、自分と相手の間の不公平が解消されると、「報酬系」と呼ばれる脳の部位が活性化することが分かっているのです。また、興味深いことに、不公平が自分にとって不利だった場合だけでなく、有利だった場合でも、解消によって活性化することが分かっています。私たちは、自分が不公平に有利な立場にいると不安を感じるのです。格差や不公平を感じれば、不利な側にいる人間は、自己やその家族のために集団に損害を与える行為に走るかもしれません。また、有利な側にいる人間は、嫉妬や妬みによって何らかの攻撃の被害に合う可能性も考えられます。あらかじめ不公平や格差を嫌悪する感情を備えておけば、不公平や格差が生じにくくなり、集団内の不和を未然に防ぐことができるのです。

 

感情は、さらに複雑な社会維持の効用を私たちにもたらしてくれています。

例えば、このような状況を想像してみてください。あなたは、開拓時代のアメリカ西部に住んでいる牧場主です。土地は広く牛のエサにも困りませんが、警察のような組織化された治安維持のシステムはなく、治安には問題があります。ある時、盗賊団が自分が大切に育ててきた牛を盗もうとしていました。ただ、牛も小さくはないので、盗賊団は一頭を盗むのがやっとです。それを目撃した牧場主のあなたは、どのような行動に出ますか?

考える間もなく盗賊団に襲いかかり、撃退するでしょうか?なにしろ、大切に育ててきた牛です。しかも鉄砲が手元にあるかもしれませんし、農機具も武器になります。「怒り」の感情のままに、盗賊団に襲いかかり撃退を試みる、これが一つの回答だとします(回答Aとします)。

しかし、冷静に考えてみてください。盗賊団は複数人で、喧嘩慣れしていて武器も持っています。戦ったらまず勝ち目はありません。あなたが怪我をすれば他の牛の世話に支障をきたしますし、死んでしまったら元も子もありません。しかも今回盗まれそうなのは一頭だけです。経済合理性で考えたら、「怒り」の感情をぐっとこらえてやり過ごし、また一から牛を育てる、これがもう一つの回答だとします(回答Bとします)。

では、どちらの回答が生きていく上で妥当だと言えるのでしょうか。それぞれの回答のその後を考えてみましょう。

まず回答Bですが、盗賊団の襲撃に抵抗することなくやり過ごしたあなたは、怪我もなく翌日からまた牧場仕事に励むことができました。しかし、盗賊団の側からするとどうでしょうか。「どうやらあの牧場からは簡単に牛を盗めそうだ」と思うのではないでしょうか。そのように味をしめた盗賊団は、継続的に牧場を襲い、ついには牛が全て盗られてしまうかもしれません。

他方で、回答Aの場合はどうでしょうか。もしかしたら、あなたは怪我をしてしまうかもしれませんが、盗賊団もあなたの必死の抵抗に怪我を負ったり、恐怖心を抱くかもしれません。盗賊団も人の子ですからその時の恐怖や痛みが思い起こされ、もっと簡単に盗める他の牧場を探すかもしれません。

つまり、瞬間的に起こる熱い感情は、短期的には損害を被るかもしれませんが、長期的にはあなたやあなたの属する集団を守るように働くことがあるのです。回答Bの冷静な判断は、一見スマートです。しかし、反撃による怪我を避けるという判断は短期利益の追求であり、牧場の牛を守るという長期利益には結びつきません。前述した「罰の可能性への恐れ」や「相手との不公平への嫌悪」も同様です。それらの感情が働くことで、裏切り者が出にくくなることで集団の不和が生じにくくなり、長期利益をもたらしてくれると言えるのです。一瞬で沸点(ふってん)に達するような感情が長期利益につながるとは不思議な感覚を覚えますが、社会は私たちのこのような感情によって維持されているのです。

「内」に対してより強く働く共感

不公平に対する嫌悪や敵に対する怒りは、周囲に対して反発するような感情です。それとは反対に、他者の気持ちを分かろうとし、自分ごととして受け入れようとする心の働きもあります。それが「共感」です。共感は、人々が協力し合ったり、他者に支援を仰ぐ上で重要な働きをします。この共感に関する理解を深めることで、人間の感情の特性に対する理解をさらに深めていきたいと思います。

映画の哀しいシーンでもらい泣きをしたり、テンションが高い友人と話していて自分も楽しくなったりと、私たちは他者と気持ちを通じ合わせることができます。では、私たちはどのようにして相手の気持ちを理解しているのでしょうか。その方法の一つが、相手の動作や表情をコピーし自分の中に落とし込むことで、相手の気持ちを理解するというものです。私たちに備わっているこのような特性は、「ミラーシステム」と呼ばれています。亀田先生らの研究からも、人物の顔動画を見ている実験参加者に、「その人物がどのような気持ちか」を推論するように指示した場合の方が、「年齢・体型などの身体属性」を当てるように指示した場合よりも、動画人物の表情が実験参加者に模倣されやすいことが確認されています。つまり、私たちは相手の気持ちを理解したいと思う時に、相手の動作や表情を自分の身体を使って模倣するのです。表情模倣は、相手の表情が動き始めてから0.5秒くらいで生じる反射に近い反応です。私たちは、表情模倣により相手の気持ちを理解する「共感」を、ごく当たり前に行っていると言えるのです。

「共感」には、さらに興味深い特性があります。脳科学者のシンガーらは、カップルに参加してもらい次のような実験を行いました。カップルのうち、女性の脳の活動を脳イメージングにより計測し、女性本人に痛み刺激を与えている場合と、男性パートナーに痛み刺激を与えているのを女性が見ているだけの場合とを比較したのです。結果は、女性本人の場合だけではなく、自分には痛み刺激はなく男性パートナーのみに痛み刺激を与えられている場合も、痛みを感じる脳部位が反応を示したのです。つまり、他者の痛みを自分の痛みとして本当に感じたのです。

さらに、この痛みの伝染は、仲間や好意のもてる相手に対しては起こる一方で、対人場面で不公正に振る舞う者や、好感の持てない相手には起きないことが確認されています。つまり、協力関係を築く上で重要な働きをする「共感」は、私たちと関係が深い、あるいは関係を深めたいと考えている「内」の他者に、より強く働くことが示唆されているのです。

 

ここまで見てきたように、私たちは生きていくために集団を形成し、集団内のしがらみなどの問題を解決するために社会を形成してきました。その社会を維持するためのシステムは「感情」であると考えられました。感情は、私たちの冷静な判断を阻害するものとしてネガティブに捉えられることもありますが、社会を長期的に維持していくために必要な人間の特性なのです。また、共感に関する実験からは、共感は「内」の方向により強く働くことも示唆されました。これはごく当たり前に感じることかもしれませんが、次章で功利主義と人間社会の親和性を考える上での、重要な視点になるのです。

第三章 功利主義の有効性と問題性

第二章では、私たちの「感情」が社会の維持のために働いていることを紹介しました。しかし、現代の複雑化した社会では、「感情」というシステムだけでは解決できない問題も出てきていると考えられます。感情システムを補う基盤として「功利主義」という道徳規範が考えられていますが、この規範は人間の本性にそぐわない部分があり、一筋縄では取り入れることができないとも考えられています。本章では、感情システムの性質や限界性、それを補う功利主義の有効性と問題性について考えることで、人間社会の理解を深めていく足がかりとしたいと思います。

感情システムの限界性

私たちの「感情」の特性について理解を深めるために、人類が生きてきた進化環境に目を向けてみたいと思います。「感情」という遺伝的特性は、遠い遠い祖先が生きてきた環境に適応する形で備わってきたと考えられます。したがって、その進化環境を理解することで、感情の特性を推察することができると考えられるのです。

私たちの祖先がいつ誕生したとするかは難しい問題ですが、ここでは10万年以上前に誕生したこととします。他の動物に比べると身体的に劣っていた人類は集団を形成して生活をし、狩猟採集によって食料を確保していました。人口は現代に比べるとはるかに少なく、集団は点在しており、必然的に集団同士の交流も少なかったと考えられます。集団内の血縁は、ハチほどは濃くなくても、現代よりは血縁・地縁の濃い関係性であったと考えられます。そのような集団生活であったため、集団内の他者は、ほぼ一生をお互いに助け合う仲間でした。自分が狩りに失敗しても仲間の獲物を分けてもらったり、男性が狩りに出かけている間は、集落に残る女性が協力して子守をしたりする、助け合いの関係です。このような継続的な助け合いや社会的取り引きの関係にある集団を、「内集団ないしゅうだん」と言います。内集団の定義は様々ありますが、ここではこのような定義とします。感情も、内集団での社会生活がうまくいくように進化しました。第二章で紹介した共感がより内側に働くという特性は、内集団での協力関係やつながりを維持するために有効に働いていたのだと考えられます。また、内集団や自己を守るために、競争や対立の対象である外集団がいしゅうだんに抗するような感情も備わってきたと考えられます。

内集団の人数規模は最大150人程度であったと考えられています。人類の大脳新皮質だいのうしんぴしつのサイズから、そのように考えられているのです。霊長類学者のダンバーは、霊長類(サル・類人猿)の大脳新皮質のサイズと、それぞれの種の平均的な群れのサイズに相関関係があることを発見したのです。大脳新皮質が大きな種ほど大きな群れを形成しますが、大脳新皮質のサイズを超えた群れは形成しないということです。大脳新皮質は、私たち人間の認知や判断、言語、思考、計画といった活動を担っています。集団生活は、自分と他者だけではなく、他者と他者のやりとりや関係性にまで目を向けなければいけません。これは大量の情報処理を伴うことであるため、脳のサイズと集団のサイズには比例的な相関関係が生まれるのだと考えられます。

 

ひるがえって、現代の人間社会はどうでしょうか。私たちの、継続的な助け合いや社会的取り引きをする内集団は一つではありません。会社や地域、趣味や学校の友達などだけではなく、インターネットによってつながりはさらに広がりました。かつては、一生を一つの内集団で過ごしていたのが、いまは多岐に広がっていっているのです。外形的には一つの集団だと定義されていても、人間の脳の容量から考えると、私たちが内集団だと認識しているのはその中の一部に対してかもしれません。例えば、1000人を越える規模の会社や、100人のグループでも複数に属していた場合、全員を「内」の他者として深い関係性を感じることは難しいのではないかということです。この場合、内により働きやすい感情に依存したシステムだけでは、会社や地域などの社会はうまく維持できないと考えられます。同じ会社や地域内でも、私たちの心の中では、内集団とそれ以外というような棲み分けが無意識的に成されている可能性があるからです。

さらには、グローバル化によって、自国の安心や安全だけを考えていればいい時代ではなくなりました。外国の政情不安や諸問題はすぐさま自国に影響するため、外国に目を向けておくことがすなわち自国を守ることとなってきたのです。

これらの変化は、言うまでもなく人類が進化・適応してきた環境とは大きく異なります。近年急速に複雑化してきた社会においては、内集団を維持するために働く私たちの感情システムとは別の、新たな考え方や規範が必要とされているのです。その一つの可能性として「功利主義」が挙げられます。

「功利主義」の有効性

私たちの社会には様々な規範が存在します。例えば、「国のあり方を決める権利は国民が持っている」という規範は、民主主義を表すものです。私たちはこの規範を受け入れ、この規範に従って政治活動などに参加していると言えます。規範は、何らかのプロセスによって定められ、社会に覆(おお)いかぶせられるようなものです。しかし、社会に受け入れられる必要があるので一方的に決められるものではなく、人間の本性や価値基準に一定程度沿う必要があると考えられます。民主主義の規範も、不公平を嫌悪する人間の感情と一致するものであると言えます。

功利主義とは、「社会全体の幸福や富の総量をできるだけ大きくする」ことに原則が置かれた規範です。「限られた資源をいかに分配するか」という社会の根幹に関わる規範で、イギリスの哲学者ベンサムは「最大多数の最大幸福」という言葉で表しました。この規範自体は、みんなが幸せになることを目指すものに感じられるので、社会に円滑に受け入れられるように思えます。

さらに功利主義には、内在する一つの特徴があります。それは、最大幸福にする「対象」は、あらかじめ特定されないということです。あくまでも「最大多数」が幸福になることを目指すため、対象は特定の誰かではないのです。ハーバード大学の実験哲学者グリーンは、自分を含めて誰かを特別扱いすることがない功利主義に、社会の共通基盤としての可能性を見出しています。確かに、様々な集団が重なり合い、国境を越えて交わり合う現代においては、有効な考え方であるとも言えます。

しかし、この規範の適用を実際に想像してみると、頭では分かっても、私たちの心に合わないと考えられるのです。

私たちの心に反する「功利主義」

最大幸福になる「対象」を定めないとは、私や私たち、家族や恋人、友人などを特段優先しないということです。そのような判断に私たちは合意することができるでしょうか。あるいは、自らそのような判断を下すことができるでしょうか。

例えば、このような状況を想像してみてください。あなたは江戸時代の商人で、市場で食料を仕入れ、山村に届けるという仕事を友人と二人で行っています。自動車などはもちろんないので、リアカーを引いて届けています。届けるのはいくつかの山村ですが、最終地点となる自分の家族が住む村に食料を届けることも一つの大切な目的です。ある日、いつものように食料を仕入れましたが、異常な猛暑で食料が腐りそうです。経由するのは、A村とB村、そして家族が住むC村です。A村とB村に寄らなければ時間が短縮され、C村に3割の食料は届けられそうです。他方で、A村とB村までは食料は保ちそうなので、両親のいるC村に届けることを諦めれば10割の食料が人々の手に行き渡ります。食料はそう頻繁に届けられるものではなく、各村の人々はこの配達を頼りにしています。あなたは判断にきゅうしています。すると、同じくC村に家族が住む友人は言いました。「10割の食料を届けられるのだから、C村は諦めて、A村とB村に届けよう」。

これが「対象」に優先度を定めないという功利主義的な判断です。トータルで、より多くの人がより幸福になることを考えると、このような判断が妥当となるのです。あなたは納得できるでしょうか。反対に、あなたが判断を下す立場だったらどうでしょうか。C村を諦めて、A村とB村に届けるという判断ができるでしょうか。

 

私たちは、意識するまでもなく家族や友人、そして自分自身を優先的に大事にしたいという気持ちを持っています。それが私たちの「自然」な感情です。現代的な例でも、企業の人員削減は、将来的な倒産を防ぎ少人数でも雇用を維持するという点では功利主義的であるとも言えます。働く側も、会社は、事業に対して労働力を提供し、その事業利益の還元を報酬として受け取るための場であり、家族的な関係を築く場ではないと頭では分かろうとするのかもしれません。しかし、仕事という継続的な協力関係の中で、会社に内集団や仲間という意識を持つことは人間として自然なことであると言えるのです。そのような心が、功利主義的な判断に反発を感じるのです。

人類の進化環境である狩猟採集の社会では、内集団から排斥されることは、すなわち生存が困難になることを意味しました。周囲には獰猛な動物がおり、他集団に転入しようにも集団は点在していて見つかりにくく、また必ずしも自分を受け入れてくれるとは限らないからです。そのような環境に適応する形で備わった私たちの心は、内集団の中で自らが不利な立場になることを極端に恐れるはずです。

内集団からの排斥を恐れる心だけではなく、私たちは「困った時はお互いさま」というような、いわゆる「人情」も有しています。過酷な進化環境では、内集団の仲間と助け合うことが生き抜くためには不可欠でした。ほぼ一生を共にする内集団の仲間とは、困っている時には短期的な利益を求めずに助けてあげる、そして助けてもらうことは当たり前の関係性だったのです。

しかし、功利主義は内集団を優先しません。そのような考え方は、時には「裏切り」に感じられ、私たちの感情を逆なでします。功利主義的な判断は、冷静にじっくりと考えれば、長期的には世界の平和や幸福につながり、回り回って自分自身の幸福につながるかもしれません。しかし、そのようなじっくりとした思考が働く前に、感情は反応してしまうのです。

この感情の立ち上がりの早さも、功利主義が人間社会に馴染みにくいと考えられる理由の一つです。私たちは、感情によって考える間もなく判断をし、敵を撃退したり、悪さをしたい自分の気持ちを抑え込んだりすることで、社会を維持し、自分自身の生存を助けてきました。功利主義のような、一見人情に反するような判断には、このような私たちの心がとっさに反発してしまうのです。感情は意識せずとも自動的に立ち上がるもので、私たちは感情と共に生きてきました。その感情を抑えなければいけないような考え方を、社会の基本的な規範にするというのは非常に困難であると考えられるのです。

第四章 調和を目指して

第一章から第三章まで、人間社会や人間そのものについていくつかの視点から考えてきました。納得できるもの、直感に反するもの、これは違うのではないかと反論を抱いたものなど、様々だったのではないでしょうか。これを一つの始点として議論や思考の巡航が生まれ、何らかの課題や悩み事に対する示唆を得るきっかけになればうれしく思います。

おそらく私たちは、時代背景や身を置くコミュニティなどによって、見せる側面が違ってくるのだと思います。しかし、根源的な人間性のようなものを有しており、根源的であるがために状況に応じて器用に切り替えるようなことは難しいのではないかと考えられます。感情論を全く抜きにして議論しようとしても、やっぱり感情システムは作動してしまいます。世のため人のために生きようとしても、ハチのように遺伝子を深くは共有していないので、やっぱり家族や自分を優先してしまいます。それが人間の本性であり、そのような感情をもって私たちの社会は維持され、ここまで生き抜いてきました。仮に、感情を排したりコントロールできたとしても、人間社会はうまく回らないのかもしれません。

しかしながら、社会の複雑化に伴って、功利主義のような「内の私たち」を越えた規範や考え方も必要とされてきています。第三章では、功利主義を社会の共通基盤とすることの困難さを考えましたが、場面によっては受け入れられることもあります。「トリアージ」をご存知でしょうか。大事故や災害時に、負傷の状態によって異なる色のタグをつけ、治療の優先順位を決めることです。助かる見込みのある人は治療が優先的に受けられる一方で、助かる見込みがないと判断された人の治療は行われません。これは一見残酷に思えますが、限られた医療資源を有効に分配するという意味で合理的な方法です。そして、「最大多数の最大幸福」を目指した功利主義に基づく行動規範です。功利主義も、ある前提や文脈においては、社会に受け入れられるようなのです。

他にも、人間の本能的な恐れや不安を克服して、よりよい結果を導き出そうとする方法はあります。例えば、議論の場において、あえて反対意見を言う役割を決める「デビルズ・アドボケイト(悪魔の提唱)」という方法です。反対意見を言えば集団の中で不利な立場になるのではないかという人間が当然に抱く恐れを、明示的に役割を決めることで克服しているのです。

このように、私たちが抱く人間的な本性に真正面からあらがうことは難しいですが、状況を限定したり工夫を凝らすことによって、よりよい社会的活動に導くことはできるのだと言えそうです。今回は功利主義を取り上げましたが、合理的なのに不調和を起こしてしまっている他の規範や仕組みも、調和に導ける可能性は見つけ出せるのではないかと考えられます。

 

最後に、亀田先生にこのような問いを投げかけてみました。

「もし使い分けられるとするならば、私たちは感情と功利主義をどのように使い分けるべきなのでしょうか。」

 

亀田先生:感情が解く問題は、原則的に内集団に関するものです。進化の歴史的にも私たちはローカルなところで生きてきて、その中で感情という特性を備えてきました。私たちが抱く、例えば悪いことをしようとした時に罰の可能性が頭をよぎる感情などは、基本的にぶれない感情です。内集団の問題は、いちいち合理的に計算するのではなく、感情がぶれずに働くことで安定的に解決されてきたのです。夏目漱石は小説『草枕』で「情にさおさせば流される」と書いていますが、流されることにも意味があるのです。

このような感情によって解ける問題は、私の言葉を使うと「いま・ここ・私たち」に関するものです。これに対して、功利主義は「未来・あちら・彼ら」の問題を解くことになります。ローカルに対してグローバルな問題とも言えるでしょう。

功利主義には、プランナーの視点が必要とされますが、そのような視点をとれる人はあまり多くないと考えられます。「いま・ここ・私たち」を離れて「未来・あちら・彼ら」に思考を巡らせることは、感情とは違う認知的な要素が必要なのです。

しかし、現代は内集団を大きく越えて人々がつながり、深刻な対立や価値葛藤が起きています。功利主義を社会規範として働かせるハードルは非常に高いですが、感情や人情だけに拠ることのない共通基盤をデザインすることは、現代の重要なミッションなのです。

コラム:日本型雇用慣行は感情的か?

感情による社会システムと功利主義のことを学んだ時に、日本型雇用慣行は感情寄りでアメリカ型雇用慣行は功利主義寄りなのではないかということが頭に浮かびました。しかし、そのような推論にはしる前に、それぞれが成立している合理性に目を向ける必要があるようです。

日本型雇用慣行の定義は様々かもしれませんが、ここでは長期雇用、年功序列、文脈特殊的技能形成、企業内組合の4つのシステムがパッケージになっていることを言うこととします。この4つがセットになっていることの意味を説明することで、合理性を説明していきたいと思います。

説明の起点として、長期雇用が適用されている会社があったとします。労働者の側から見ると、労働者は生涯を通じて同じ会社に勤めることになります。そうすると、労働者はその会社により強く適応したキャリア形成をしていくことになります。例えば、トヨタのアセンブリラインの労働者は、トヨタのアセンブリラインについてだけ詳しくなればいいので、このラインのこの機械はここを2回叩けば動き出すとか、社内のあの人にこの話を通せばうまくいくというような技能を身に着けていくことになります。これらの技能は他社では通用しないものかもしれませんが、長期雇用のもとでは問題はないのです。こうして、ローカルな文脈に依存して技能が形成されていく「文脈特殊的技能形成」が成り立つことになります。

雇う側の視点で考えると、1年目と20年目の労働者のどちらにいてほしいかというと20年目の労働者となります。なぜなら、より職場に適した技能を持っているからです。20年目の人にいてほしいと考えれば、年次に比例した給与を支払う「年功序列」型の賃金体系ができていくことになります。長期雇用のもとでは文脈的な技能形成をすることが合理的になり、そのもとでは年功序列が合理的になるのです。

このような状況下では、会社とその従業員が融和的になるので、両者が対峙して労働条件を話し合うことになり、企業内組合が合理的になります。他方で、アメリカのように一つの会社で長く働かない場合は、会社と従業員ではなく、業界と職能ごとの労働者が対峙して話し合う方が合理的です。したがって、アメリカには職能別組合が存在しているのです。

日本型の4つのシステムは、1つ崩れただけでパッケージとして意味を成さなくなります。例えば、長期雇用が流動性の高いスポット型になると、労働者は文脈特殊的技能形成をしようと思わなくなります。すると、雇用者は年次を重ねた人に高い給与を支払う必要性がなくなるので、年功序列は廃止されるでしょう。また、キャリア形成の仕方にも変化が出てくると考えられます。資格などの明示的なスキルが必要とされるようになり、一つの会社で長く働いているということは転職ができなかったという可能性も示唆されます。つまり、何が評価されるかという基準も変わってくると考えられるのです。

このように考えると、長期雇用や年功序列などの日本型雇用慣行は、情などではなく、明確な合理性のもとに構築されてきたのだということが分かります。システムが成り立っている背景を考える時は、多面的な視点で考えていく必要があると言えそうです。

 

(2020年3月21日掲載)

 

〈参考文献〉

  1. 亀田達也著『モラルの起源 ー実験社会科学からの問い』(岩波新書)
  • 様々な社会科学的な実験や思考実験が紹介されており、私たちの日常と重ねながら人間の感情や心について理解を深めることができます。その上で、私たちがどのようなモラルをもって社会生活を営んでいくべきか、社会を設計していくべきかを考えさせてくれる書籍です。

 

 

 

 

 

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