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弱い一歩

自由な地平へ歩きだす

文量:新書の約44ページ分(約22000字)

はじめに

私たちは一体どれだけ自分で考えて行動しているのでしょうか。「自分で考えて行動しなさい」とは、自立するための当たり前としてよく言われることですが、本来それはどの程度可能なことのでしょうか。

 

自分一人では決して多くのことはできないけれど、周囲の支えや助けを受けながら動いていくロボットがあります。与えられたタスクを高度な機能をもって一人で達成していく「完結さ」を備えたロボットではなく、「不完結さ」を備えたロボットです。豊橋技術科学大学の岡田美智男先生らは、不完結さを備え、周囲とのコミュニケーションやインタラクションを伴いながら動くロボットを〈弱いロボット〉と呼び研究しています。

〈弱いロボット〉自体にもとても興味を惹かれるのですが、本書では〈弱いロボット〉の研究から見えてきた人の行為の“本当のところ”に着目したいと思います。不完結さ・弱さによって前に進んでいくのは、〈弱いロボット〉だから実現できることではありません。私たち一人一人も、根本的な部分に弱さを備え、行為の一つ一つに周囲環境のリソース(資源)が織り交ぜられています。あるいは、周囲環境のリソースを借りて初めて行為が完結していく、前に進んでいけると言うことができると考えられます。さらに言うならば、「自分で考えよう」「自分で完結させよう」とあまりにも観念的に縛ってしまうと、うまく前に進めなくなってしまうとも言えるのかもしれません。

この短編本では、人の行為や人自身の不完結さに目を向けることで、より滑らかで広がりがある思考や行動をするための構え方や、一歩の踏み出し方について考えていきたいと思っています。また、〈弱いロボット〉の弱い行為からは、何かが生み出される・創られていくというイメージも感じられました。不完結さ・弱さから生まれる、広がりや創造性についても考えていきたいと思っています。

 

本書を読み進めていただくにあたって、一点だけ留意していただきたいことがあります。それは、本書で使う「弱さ」とは、あくまでも人や行為の「不完結さ」を意味するものであり、いわゆる弱者・強者のような序列を意味するものではありません。また、努力により成長を求めるような意欲を批判的に見る意味合いもありません。人や人の行為に対する見方であり、私たちの日々の振る舞いを見返すきっかけとなる概念や言葉として、捉えていただきたいと思います。

 

今回は、豊橋技術科学大学情報・知能工学系教授の岡田美智男先生にお話を伺いました。岡田先生には、〈弱いロボット〉の研究に至った経緯や、〈弱いロボット〉を研究する中で見えてきた人の行為の不完結さなどについて教えていただきました。本書は、いただいた知識や考え方に、テーマを考え進めるにあたって必要と思われる情報や知見などを筆者なりに補いながら作成しています。

 

岡田美智男先生

1960年福島県生まれ。1987年、東北大学大学院工学研究科博士後期課程修了。工学博士。NTT 基礎研究所情報科学研究部、国際電気通信基礎技術研究所などを経て、2006年より豊橋技術科学大学情報・知能工学系教授。専門は、コミュニケーションの認知科学、社会的ロボティクス、ヒューマン・ロボットインタラクション、生態心理学など。「弱いロボット」の提唱により、平成29年度科学技術分野の文部科学大臣表彰科学技術賞(科学技術振興部門)などを受賞。

〈著書〉

  • 『〈弱いロボット〉の思考 ーわたし・身体・コミュニケーション』(講談社現代新書、2017年)
  • 『弱いロボット』(医学書院、2012年)
  • 『ロボットの悲しみ ーコミュニケーションをめぐる人とロボットの生態学』(共編著、新曜社、2014年) など

 

目次

 

第一章 私たちは自分だけで考えたり行動したりしているのか

私たちは疑いなく「自分で考えて行動できること」を良いこととし、目指しすぎてはいないでしょうか。勉強や仕事などにおいては特に自分で考えて行動するように促されたり意識したりしているように感じます。しかし、日常の行為を観察し直してみると、自分であまり考えることなく物事をうまく進めているようにも思われるのです。本章では、一見自分で考えて行動していると思っていることに、実際はどの程度「自分」が介在しているのかを見ていきたいと思います。行為における自分の介在度合いを認識することで、思考や行動に自分がどの程度の力や責任をかければいいのか、その加減が見えてくるはずです。

引越し先は自分で見つけたのか

日常の行為における自分の介在度合いを思い返すために、ここでは実話に限りなく近いフィクションを交えながら考えていきたいと思います。

 

田中さん(仮)は、7月に引越しをしました。1LDK・築50年・月11万円のマンションから、1LDK・築2年・月15万円のマンションへと引っ越したのです。引っ越し先は近所で、元のマンションから100mほど離れたところです。引越し先を決めるまでには、インターネットの物件検索サイトで数件問い合わせ、まちの不動産屋さんを1店、チェーン展開している大手不動産屋さんを1店、賃貸物件も扱うハウスメーカーを1店、UR都市機構を1店、自社管理物件だけを扱う不動産屋さんを1店訪れました。最終的には、自社管理物件だけを扱う不動産屋さんで決めました。

さて、ここで質問です。田中さんは引越し先を決めるまでに、なぜこれほどまでにいろいろな不動産屋さんを訪れたり問い合わせたりしたのでしょうか。また、そもそもなぜ引っ越したのでしょうか。

「網羅的に情報を集めたかったから。」たしかに、いろいろな形態の不動産屋さんを訪れ、またリアルとネット両方から情報を集めています。「引っ越した理由は、給料が上がったから?近所への引越しだから転勤ではないだろうし、同じ間取りだから結婚や出産というわけでもなさそうだし。」なるほど、引っ越し先のマンションは築浅・家賃高でもあるので、給料が上がった説はアリかもしれません。「田中さんはきっと仕事ができる人なんだね。」たしかに、給料が上がって引っ越すなんて仕事できる人にありそうです。すると、こんな推論が成立するかもしれません。「給料が上がった田中さんはきっと仕事ができる人なんだ。そういう人だから妥協なく網羅的に情報を集めてベストな選択をしたかったのだろう。給料が上がった勢いで、築浅で家賃3割増のマンションに引っ越したのだと思われる。過剰にも思えるほどの情報の網羅性は、仕事で得た自信そのままに、きっと仕事モードで情報を集めまくったためだろう。」こうして妥当と思えるような結論に至りました。

このような結論が正しいとすると、田中さんは自分で考えて行動していると言えそうです。自分のふところ具合をみて住む家のグレードを選び、当たるべき情報元を考え実際に情報収集をし、引越しを完了させました。

 

しかし実際は違いました。田中さんは最初、ネット検索による問い合わせだけで終わらせたいと思っていました。しかし調べてみると、どうも条件に合う物件が見つかりません。そこで、ネットに載っていない物件情報も店舗に行けば見つかるのではないかと思い、近くにあったまちの不動産屋さんを訪れました。しかしここでも見つかりません。今度はチェーン展開している情報が豊富そうな不動産屋さんを訪れました。ここでもダメでした。ただダメだっただけではなく、まちの不動産屋さんもチェーン展開している不動産屋さんも、紹介してくる物件は同じだったのです。どうやら不動産屋さんは物件検索に共通のデータベースを使っているようなのです。どうしようかと考えていると、UR都市機構という看板が目に入ってきました。調べてみると、一般的な不動産屋さんとは少し違う物件を扱っているようです。早速行ってみましたが、やはり見つかりませんでした。とりあえず条件だけを伝えて、見つかり次第連絡をもらえるように依頼をして帰ってきました。さてどうしたものかと途方に暮れて物件検索サイトをしらみつぶしに調べていると、なんとこれまで見かけたことがない条件に合いそうな物件が出てきました。なぜこれまで見つからなかったのかというと、他の不動産屋さんには情報共有せず系列企業内だけで管理や仲介をしている物件のようだったのです。急いで電話をし、もう他に物件はないからとそのまま物件申込をしました。その後、もろもろの手続きを済ませ、無事引越しを完了させることができました。

では、田中さんの引越しの理由は何だったのでしょうか。物件探しの様子を見ていると何やら急ぎの事情があったようです。実は引越しをすることになったのは、元々住んでいた築50年のマンションの取り壊しが決定し、立ち退き依頼がきたからでした。田中さんの給料が上がったための引越しではありませんでした。立ち退きは一方的なものであったため、管理会社から数ヶ月分の立退料がもらえることになっていましたが、その分立ち退き期日がありました。また、同じマンションに住む他の住人も近所で物件探しをすることが予想されたため、急いで探す必要がありました。本当は同じくらいの家賃で見つけられるのがベストでしたが、見つからず家賃が3割近く上がってしまいました。しかし、田中さんは家賃が上がることを逆に利用して、あることを考えつきます。家賃が上がる分を補填ほてんするように立退料の割増を管理会社と交渉することです。そして田中さんは交渉の末、立退料を割増でもらえることになりました。結果的に悪くない引越しになりました。

 

さて、引越しにまつわる話を長々としてしまいましたが、ここで考えたかったことがあります。それは、私たちは自分で考えたり行動したりしているというより、状況との交互作用によって思考や行動がつくり出されているのではないかということです。

思考や行動は状況との交互作用でつくりだされる

思考や行動が状況との交互作用でつくり出されているとは、田中さんの引越し完了までのプロセスそのものを指しています。つまり、多様な情報収集の方法や、管理会社に立退料の割増を交渉するというアイディアなどは、田中さんが最初から考えていたことではなかったということです。最初の田中さんのプランは、ネットの検索サイトで物件を探すというものでした。しかし実際に探し始めると、なかなか条件に合う物件が見つからず、いくつかの形態の不動産会社の実店舗を訪れたり、執念の検索で不動産会社全般には出回っていない物件情報の発見に至ったりと、創造性や網羅性に優れた探し方になりました。UR都市機構の看板も、物件が見つからない状況にあったからこそ目にとまり、店舗を訪れることになったはずです。さらには、賃料がどうしても以前より高くなってしまうという状況が、立退料割増の交渉ができるのではないかというアイディアにつながりました。はじめは、十分すぎると思えた立退料に交渉の必要などないと考えていたと言います。したがって、田中さんの一連の物件探しや引越しにおける行動やアイディアは、決して田中さんに内在していたものではないと言えます。状況とその時々の発想との交互作用によって、つくり出されていったのだと考えることができるのです。さらに踏み込んで言うと、田中さんの行動の動因は田中さんに内在していたものではなく、状況の中に埋め込まれていたと考えることができるのです。なぜなら、引越しにおける思考や行動のきっかけは、なかなか見つからない物件やどうしても上がってしまう家賃などの、状況を起点にするものだったからです。

自分で考えられる範囲は少ない

本章でイメージしたのは物件探しというわずか一事例だけでしたが、私たちが状況と共に思考や行動をつくり出しているということはある程度納得できるものだったのではないでしょうか。「自分で考えて行動している」とは、そこまで強くは言えなそうなのです。あるいは自分の内で考えて行動することもできるのかもしれませんが、それでは広がりに欠けるものになってしまいそうです。田中さんの最初のプランは、ネットで検索して物件を探すという単純なものでした。それが様々な状況に出合う中でダイナミックに変化していきました。私たちが考える当初のプランはとても不完結であると考えた方がよく、状況と出合う中で完結に向かっていくのです。

 

私たちは、出来事を考察しようとする時、俯瞰的な目線で捉え、行為の要因を行為者の内側に求めようとする傾向があると言います[1]。例えば、成功までの道筋が説明された話を見聞きした時に、圧倒されることはないでしょうか。試行錯誤や苦労の跡は感じられるものの、最終的にはきれいな一本の道筋がつくられているように感じます。そのような一本線をつくり出せるような思考力や計画力のある人は、なんてすごい人なのだろうと感じることも少なくはないはずです。しかし、このような見方は実際とは違うのかもしれません。俯瞰的な目線で捉えすぎていて、行為の要因を行為者の内側に求めすぎているのではないかということです。

田中さんの引越しに関する推論では、田中さんの引越しプロセス全体を遠くから眺めた上で、多様すぎる情報収集の理由を田中さんのパーソナリティに、引越しの理由を給料が上がったという田中さんの個人事情に求めました。もちろんこの推論は筆者が仮定したものなので、別の推論も出てくるでしょう。しかし、そこまで違和感のある推論でもなかったのではないでしょうか。これは、俯瞰的な目線で捉え、行為の要因を行為者の内側に求めようとする傾向の一つの表れではないかと考えられます。

また、仮に田中さんに後日話を聞いた場合、「自分はこう考えて行動した」と一つ一つの行動を意味や理由を交えて理路整然と説明してくれるかもしれません。時間が経ってから振り返る田中さんは、考察する視点になっていると考えられます。後から振り返ると、一つ一つの行為に意味を見出せ、一本のストーリーとして見ることができていることでしょう。しかし実際には、状況とぶつかる中で一つだけ先のステップが見つかり、一歩一歩進んでいったのでした。つまり、当事者が当時その瞬間見ていた光景と、その後振り返る話は異なり、また周りで見ている人の印象とも異なるのではないかということです。言いたいことは、「人は自分で考えて行動できるものだ」とそこまで思いすぎる必要もないのではないかということです。そして、先々までの精緻な道筋まで考えられなくても、一歩を踏み出し状況とぶつかる中で道筋は自然とつくり出されていくのではないかということです。

 

私たちは自分で考えたり行動したりしているわけではなく、状況と出合いながら思考や行動をつくり上げていると考えた時、一歩を踏み出す時の心持ちが変わってきます。ハードな行動促進の表現として「動きながら考えろ」とよく言われますが、実は「動きながらしか考えられない」という方が正しい言い方なのかもしれません。動きながら考えるということは、実は標準的な思考や行動の様式なのではないかということです。

本章では、完結までが比較的長くイベント的な行為である引越しという事例を取り上げて、行為の不完結さについて考えました。しかし、岡田先生の〈弱いロボット〉の研究により得られた知見からは、もっと無意識的に繰り出す行為である会話や歩行すらも不完結であることを伺い知ることができます。さらには、私たちは自分の存在に対しても、不完結な認識しか持てていないのではないかということまで見えくるのです。

第二章 不完結さをテコにして人は前に進む

何らかの行為を繰り出す時、「自分がまとめなきゃ・導かなきゃ」というような完結さを意識しすぎてしまうと、なかなか踏み出せなかったり、ギクシャクしてしまったりするものです。しかし、人はそもそも不完結であり、不完結だからこそ前に進めている側面もあると言われたらどうでしょうか。不完結さを受け入れ、もっと楽に一歩を踏み出せそうな気がしてこないでしょうか。第一章では、引越しを例にイベント的な出来事に対する人の行為の不完結さを見つめ直してみました。本章ではもう少し踏み込んで、人そのものの不完結さについて見ていきたいと思います。

尚、本章で紹介する人の行為に関するロボットを交えた考察は、岡田美智男先生の書籍『〈弱いロボット〉の思考』[1]で紹介されている実例などを、本章のテーマに合わせて選び出し編集を加えたものとなっています。

周囲が明らかにするあなたの存在

さて、突然ですがロボットになってみましょう。どういうことかと言いますと、今あなたの目の前にはモニターがあります。モニターには、何やら公園のような景色が映し出されており、子どもたちが遊んでいます。モニターに映っているのは静止画ではなく動画です。手元に目をやると、何やらラジコンのコントローラーのようなものがあります。あなたはおそるおそる手にとってみました。そして、コントローラーのレバーを少し動かしてみました。すると、モニターの映像が変化したのです。遠くに見えていたものが近づいてきたり、左右の景色を見ることができたりします。そうです、今あなたは移動できるロボットを操作しているのです。そしてモニターに映し出されているのは、ロボットに取り付けられたカメラ越しに見ているリアルタイム映像です。

ロボットの操作に慣れてきたあなたは、おそらく公園の端っこの方にいたロボットを、少しずつ真ん中の方に移動させていきます。すると子どもたちがこちらに顔を向けました。「え!?気づかれた!?」。あなたは驚き少し焦ります。子どもたちはお互いに顔を見合わせながら、ゆっくり近づいてきました。ドキドキしながら何もできずにいると、少し声も聞こえてきました。「なにこれ、かわいい」。「え、私って、いや違うか、このロボットってかわいいの!?」。あなたはロボットのかたちを徐々に認識していきます。さらに近づいてきました。子どもたちはロボットの目元と思われるところに顔を近づけたり、ボディにタッチしたりしているようです。あなたはなんだか照れてしまい、慣れたコントローラー操作で後ずさりしてしまいました。

 

ここで一時中断です。さて、どんなことを感じたでしょうか。まず、モニター越しの映像を見るだけでは、それは単なる動画であるという認識しか持てなかったはずです。しかし、手元のコントローラーを使ってロボットを動かし、モニター越しの映像が変化することで、自分がリアルの世界とつながっていることに気づいたはずです。映像は視界なのだと気づき、視界が変化することでリアル世界とつながっているのだと気づきました。子どもたちに気づかれたところで、自分が(正確にはロボットが)実体として存在しているのだと実感したのではないでしょうか。視界がリアルとつながっているだけではなく、あなたが乗っているモノに実体があることを実感できたのです。そして子どもたちが「かわいい」と言ってきたり近づいてきたりすることで、自分がかわいくて人の気を惹くような存在なのだと分かることができました。周囲の景色の変化がリアルに居ることを教えてくれ、周囲の人の反応が実体として存在していることや、どんな外見や面持ちなのかを教えてくれました。つまり、周囲が自分の存在について教えてくれたのです。決して自分一人だけでは知ることができなかったはずです。

自分の存在の認識が周囲に委ねられているということは、ロボットに入り込んだ場合に限った話ではないと考えられます。私たち自身も、存在の認識を周囲に委ねている側面があると考えられるのです。本書を読んでいただいているおそらく大人の方々は、この世に生まれてから多くの時間を過ごしています。したがって、なかなかロボットのように自分が発見されることによる新鮮な存在認識は得られにくくなっていることでしょう。しかし例えば、自分の行為で周囲に影響を与えたり称賛を受けたりすることで、自分の存在感を確認することができます。また、外を歩いている時、周囲の人の自分に対する注意の向け方が薄い都会に比べて、注意の向け方が濃い田舎の方が、自分の存在をより強く意識することになるはずです。そして、よくよく考えてみると、外を歩いている自分の姿も、歩く自分の姿を見ているわけではなく、周囲の景色の変化の中に認識しています。

さらに、そもそも私たちは自分の顔を見ることができません。今視界に入っているのは、鼻先や前髪や眼鏡のフレームくらいではないでしょうか。もちろん鏡を見れば確認することはできますが、常に鏡を見ているわけにもいきません。またさかのぼれば、鏡がない時代を十万年単位で私たちの祖先は生き、社会生活や集団生活を営んできました。私たちは自分の顔や表情を知ることなく生きてきたのです。私たちの表情や醸し出している雰囲気を教えてくれるのは、周囲の人や生き物なのです。普段あまり意識することはありませんが、私たちは、他者との重要な接点の一つである表情や、存在性も、自分だけでは分からないで生きていると考えられるのです。自己の認識に対して不完結であり、あるいは外に対してオープンであるとも言えます。

そして存在の認識の不完結さを埋めるために、一歩を踏み出しているという側面もあるのかもしれません。動き出すことで、周囲の景色や人に教えられるように少しずつ自分の存在の輪郭が見えてきて、確認できていきます。不完結さからくる不安や好奇心が、私たちを前に進めているのではないでしょうか。岡田先生はこのように言っています[1]。「わたしたちが一歩を踏み出すのは、自分の身体を前に進めたいばかりではない。自分のなかに閉じていては見えてこない、そこにあるはずの自分の存在を確かめるために、ということもある。」不完結さというのは、人の活動の原動力の一つなのかもしれません。また、このような考えを持つと、自分の存在が外の環境に溶けていくような感覚を覚えないでしょうか。私たちは、周囲環境とそこまで分離された存在でもないのかもしれません。

 

さて、ここであなたが動かしていたロボットを紹介しましょう。その名は〈アイ・ボーンズ〉です。どうでしょうか、子どもたちが寄ってきたのもうなずけるのではないでしょうか。

 

図1.〈アイ・ボーンズ〉

(出典:豊橋技術科学大学 ICD-LAB)

 

 

動画もご覧ください。ティッシュを配ろうとしている〈アイ・ボーンズ〉です。

 

動画1.ティッシュを配ろうとする〈アイ・ボーンズ〉

(出典:豊橋技術科学大学 ICD-LAB)

 

 

この〈アイ・ボーンズ〉、実は話すことができるのです。話せる〈アイ・ボーンズ〉は、〈トーキング・ボーンズ〉と呼ばれています。

不完結さが生み出す行為の回転

さて、一時中断していた〈アイ・ボーンズ〉改め〈トーキング・ボーンズ〉の操縦に戻りましょう。〈トーキング・ボーンズ〉は、最新の音声合成エンジンを搭載しているため、テキストを入力すれば流暢りゅうちょうな音声が発せられます。子どもたちが寄ってきている今がまさにチャンスです。あなたはキーボードで打ち込みます。「コンニチハ」。子どもたちが驚きながらも興味を示します。「しゃべれるんだね」。いい反応です。あなたは続けます。「キョウハイイテンキデスネ」。さらに気を惹こうと、「アリガトウ」「アイシテル」と連発します。しかし、子どもたちの反応はだんだん薄くなっていきます。あなたは感じ始めます。どうも伝わっている感じがしないのです。

 

流暢で言葉や文章としては成立しているのに伝わっている感じがしない、あるいは伝わってこないということは経験としてあるのではないでしょうか。例えば、知識は確かな先生が教壇きょうだんに立って話す学校の授業や、校門の前で行われる「あいさつ運動」など。なんだかどうにも気がそちらに向かなくて、耳を素通りして行ってしまうのです。

反対に、どうしても気が向いてしまうのは、相手のどのような発話でしょうか。例えば、「あ、」や「なんか、」などと発せられただけで「なになに?」と聞き耳を立ててしまいます。「なんだっけあれ、」などと言われれば、一緒に思い出してあげたくなります。さらには明確な疑問形が発せられた時には応えてあげざるを得ません。つまりコミュニケーションに必要な発話とは、一つの発話だけでは成立していない意味の不安定さや、発話者自体も何を言いたいのか・どう収束していくのか分からない不確かさを含んだものなのではないかと考えられます。何らかの支えや助けを必要とする不完結さを発話から感じた時、人は自然と気を向け、コミュニケーションが始まるのです。周りで電話をしている人がいると気になるのも同じ要因なのでしょう。複数人で成立している会話に比べて、不完結で成立していない電話の話し声は、不完結さを埋めてあげなきゃという無意識的な衝動と、電話だから応答の必要はないのだという意識的な抑えを生じさせていると考えられます。その小さな葛藤のようなものがストレスになっているのではないでしょうか。不完結さがあれば埋めてあげようと、どうしても反応してしまうのも人のさがなのかもしれません。

発話が不完結であることは、コミュニケーションのきっかけとして必要というだけではありません。不完結であること、あるいは不完結であるという心持ちのもと繰り出される行為は、発展性を秘めているとも考えられます。どう完結していくのか分からないという可能性があるということです。例えば、論点が分からなくなるほど錯綜さくそうしていた議論で、突然今までの発言がつながっていき、新たな解釈やアイディアにつながることはないでしょうか。他にも、営業やインタビューに行った時や誰かに相談を持ちかけた時、思っていたのと違う方向の話がされて、それでもじっと聞いていたら実はすごくおもしろい話を聞けたり有益な情報をもらえたりすることはないでしょうか。あるいは、普通に発した一言が芸人肌の人に拾われて壮大なボケとなり、場が笑いに包まれることもあるかもしれません。このような場面において最初の発話を投じる人は、もしかしたら自分の中で完結したコミュニケーションの流れを想定している場合もあるかもしれません。議論では結論の落とし所を持っているかもしれませんし、営業では売るまでのストーリーを持っているはずです。しかしそのような完結さを強く保持しすぎていると、予想外の方向に転がっていく可能性を阻害してしまうことになります。不完結さを認識していれば周囲の予想外の応答が助けとなりますが、完結さを保持しすぎていれば障害になるのです。

不完結さを内包したコミュニケーションは、言いよどみや言い直しが多く含まれることになると考えられます。「え、それってどういうことですか?」「つまり、こういうことだよ。」「うぅ、」「そうだな、例えば、う〜ん、どうしようかな、」「こういうことですか?」「そうそう、だけどもっと言うと、」というように、お互いに探りながら言葉を繰り出していきます。聞く側が完結した姿が見えないのは当たり前かもしれませんが、応える側も相手の持つ知識や感性などが分からないので、完結への持っていき方が分かりません。岡田先生は、言い淀みや言い直しの役割をこのように言っています[1]。「わたしたちの発話における「いい直し」や「いい淀み」というのは、そうした知覚的、探索的な側面をも含んでいる。それと聞き手とのあいだで一緒に意味を生み出していくような、生成的なものでもあるのだ。」言い淀みや言い直しは、決して言い誤りではなく、完結へ向けた有効なステップであると言えるのです。相手の応答に自分が言い淀んでしまう、相手はそれを聞いて自分の代わりに考えてくれようとする、そんなことを繰り返すことで、次第に会話は小気味よく回り出します。完結に向けた回り道にも思えるような例え話などの数々は、後から振り返ると価値ある発話であると分かり、会話全体をおもしろく創造的なものに仕立て上げてくれていることでしょう。

 

ところで、発話が流暢すぎた〈トーキング・ボーンズ〉は、子どもたちとコミュニケーションをとるためにはどうすればいいか考えました。そして、こんな風に進化したのです。

 

動画2.言い淀みながら子どもたちと話す〈トーキング・ボーンズ〉

(出典:豊橋技術科学大学 ICD-LAB)

 

「あのね、えーと、」と言い淀みながら、「桃太郎」の話を子どもたちにしてあげています。でも、ときどき物語の内容を忘れそうになってしまうから、子どもたちに助けてもらっています。〈トーキング・ボーンズ〉が「そうそう、それそれ」なんて言いながら、子どもたちと一緒に物語を完結させていっているのです。

 

不完結さを内包する身近な行為は会話だけではありません。歩行も、不完結さを帯びているのです。

1996年に自動車メーカーのホンダが発表した人型ロボット・ASIMOは、世界初の本格的な二足歩行ロボットとして注目を集めました。それまでの二足歩行ロボットは、一歩一歩バランスをとろうとしていて、それがどこかぎこちなさを感じさせていました。しかしASIMOは、もっと滑らかに人っぽく歩いてみせたのです。その進化の秘密は「静歩行」から「動歩行」への歩行モードの変化にありました。

静歩行とは、一歩を踏み出した後、その足裏に重心をしっかりと置きバランスをとってから、また次の一歩を踏み出しバランスをとるという繰り返しで歩行する方法です。じっくりと慎重に一歩一歩を踏み出していくような歩行方法です。それに対して動歩行では、一歩を踏み出しても重心は足裏に置かず、踏み出す一歩一歩の間を重心が流動していきます。重心の位置も静止しません。なんだかバランスがとれず不安定そうですが、バランスを崩しながら一歩また一歩と踏み出して前に進んでいくのです。とりあえず前に進み出し、地面からの反力に助けられ、コロコロと転がるように前に進んでいくのです。この動歩行が私たちの一般的な歩行方法になります。

静歩行の静は静的安定の静であり、動歩行の動は動的安定の動です。平面でなければ歩くことが難しい静歩行に対して、凸凹でこぼこ道にも対応できる動歩行は、動きながら環境と自分との間に安定を探しているとも言えます。踏み出す一歩の中に安定を求めているわけではなく、歩くこと全体の中に安定を求めていると言えるのです。

人の行為はオープンにつくられていく

存在の認識やコミュニケーション、歩行方法などをみていると、私たちの行為はオープンにつくられていくと考えることができるのではないでしょうか。自分で繰り出す一歩に周囲の支えや助けが織り交ぜられ、一つの完結に向かっていく、そんなイメージです。不安定さを帯びた一歩は、周囲の支えを受けながら安定を形成していきます。あるいは、次の一歩を周囲に委ねることで、予想もしていなかった方向に転がっていくこともあるでしょう。外に向けられた表情のようなオープンさを接点にして、周囲の力が織り交ぜられ一つ一つの行為がつくられていくのです。他方で、完結さを保持しクローズドに構えることもできるとは考えられます。しかしそれでは周囲の助けや支えが入り込む余地がなく、安定性や発展性に乏しいものになってしまうのかもしれません。人や人の行為に不完結さがどうしても伴うのであれば、オープンなままでいる方が、自然なかたちで前に進めそうなのです。

 

では、オープンなままでいたとして、不完結さを埋めてくれるものをどのように見つけていけばいいのでしょうか。でもあまり構える必要もないのかもしれません。私たちの行為を完結させたり広げてくれたりしてくれるそれは、どうやら私たちに発見されることを待っているようなのです。

第三章 周囲環境に埋まっている行為のリソース

第一章・第二章と、私たちは自分で行為を完結に向かわせているというよりも、周囲との出合いや絡み合いの中で完結へと進んでいるのではないかと考えてきました。ここまでは不完結さを帯びた“人”に目を向けてきましたが、本章では、周囲環境に目を向けてみたいと思います。人の行為を完結へと進めてくれる周囲環境とはどのようなもので、どうすれば見つけることができるのかを考えていきたいと思います。

本章では、岡田先生が現在の研究に至るきっかけの一つとなったとおっしゃっていた、「アフォーダンス」という概念をもとに考えていきます。アフォーダンスに関しては、岡田先生に直接詳しく伺ったわけではなく、関連する書籍をもとに解釈していきました。

行為を導くものたち

今度は散歩に出かけてみましょう。あなたはなんの気なしに外を歩いていると、高さ40cmくらいの岩を見つけました。岩の上面はいくらか凹凸おうとつがあるものの、平面に近い滑らかさです。さてどうしますか?おそらく腰を下ろしたくなるでしょう。腰を下ろすと足元に細長い枝が落ちていました。あなたはおもむろに手に取ると、振ってみたくなります。「ヒュ」と風を切る音が出ました。もっと勢いよく振ると、「ビュン!」とさらにいい音が出ました。爽快です。他にもおもしろい枝がないかと辺りを見渡していると、少し離れたところに、片端が細く、もう片端に向けて徐々に太くなっていく太めの枝がありました。手にとって振ってみます。細い方の端を持って投げたらよく飛びそうです。でも危ないのでやめました。代わりに短くて細い小枝を見つけてきてそれを地面に突き立て、上から太い方の端で叩きました。土の中にどんどん小枝が打ち込まれていき楽しくなっていきました。でも、周りの目が気になり出したので途中でやめました。

散歩の中で出合った岩は椅子になり、細長い枝はむちや楽器のようになり、両端で太さが異なる枝はブーメランになりかけましたが最終的に金づちになりました。短い小枝は釘です。さて、これらのものの意味や価値はあなたが考え出したものなのでしょうか。いや、考えたというよりも、もう少し自然に意味や価値にたどりついたという方が感覚的に近いはずです。

岩はその高さと上面の平らさが、座ることを促したことでしょう。細長い小枝も、手に取ってしなり具合を確認しながら、だんだんと振る速度が速まっていったのではないかと思います。枝が風を切る「ヒュ」や「ビュン!」などという音も、腕の振りの調整を助けました。そして最終的にはいい音を出す振り方を見つけ、“いい音が出る枝”となりました。両端で太さが異なる枝も、腕・手・枝の先へと流動していく重みを感じながら、どう使えばいいのかがイメージされていったのではないかと思います。そして金づちに思えた次の瞬間から、短く細い小枝が釘に見えてきたはずです。

このような過程をみると、周囲のものの意味や価値はあなたが考え出したというよりも、既にそこに在ったのを、行為を通して発見していったと言えるのではないかと考えられるのです。目で見て、耳で聞き、四肢で重みの流動を感じ、またそれらの感知された情報が束ね合わさることで、ものの意味や価値の発見につながっていきました。それらの知覚情報が行為を導き、行為が意味や価値の発見を助けました。既にそこに在った意味や価値を、ものと共同で浮き彫りにしていったのです。

人が周囲のものに対して従属的であると言っているわけではありません。対等で補完的な関係であると考えられます。ものは、人あるいは動物の何らかの行為が伴わなければ、意味や価値が立ち現れません。いい塩梅あんばいの高さと座面の岩も、散歩ではなく通勤途中であれば、見向きもされていなかったかもしれません。これでは椅子としての岩の意味や価値は発見されないことになります。しかし、あなたに発見されなくても、他の人が発見する可能性は大いにあります。あるいは、人によっては何かものを置いて岩を飾り棚のように使うかもしれませんし、子どもであれば椅子よりもテーブルとしての意味や価値を発見するかもしれません。様々な可能性を内在させながら、周囲のものは発見を待っているのです。そして、私たちはそのような様々な可能性に囲まれていることで、導かれ、様々な行為を繰り出すことができます。つまり、周囲環境は人あるいは動物にとって行為のリソース(資源)なのです。私たちは、周囲環境に導かれるように行為を繰り出すことで、様々な意味や価値を発見しています。そして発見したものを生きる助けとして使っているのです。

アフォーダンス

前節あるいは本書を通して考えてきたことは、「意味は自分の中でつくられる」というような考えに反するものでした。周囲環境ともっと直接的につながり、感じて、意味や価値を発見していくという考えです。このような考えの前提にあるのは、周囲環境の意味や価値は既に在り、人を含めた動物の行為によって立ち現れていくというものです。

米国の心理学者で知覚研究を専門としたジェームズ・ジェローム・ギブソン氏は、「アフォーダンス」という概念を提唱しました。アフォーダンス(与えるという意味のaffordを名詞化したギブソンの造語)とは、「環境が動物に与え、提供している意味や価値」であるとされています[2]。環境とは、社会問題として取り沙汰されるいわゆる地球環境を指すものではありません。私たちの周囲にあるものであり、感知できるもの全てを指します。前節ではイメージしやすくするために“もの”を例に展開しましたが、ギブソン氏は環境が空気・物質・面の3種から構成されているとしました。空気は呼吸を導くだけでなく、音を伝達させたり微小物質を拡散させたりする媒質となります。空気よりも固定的な物質は、支えることや道具などの製作を導きます。面は、角度や表面の“きめ”によって光の多様な反射をもたらしたり、空気や物質の分断を導いたりします。これ以外にも到底紹介しきれないほどのアフォーダンスがこれら3種によって生成されており、私たちはそうしてつくられた環境の中で生きているのです。

日本にアフォーダンスを広く伝えた心理学者の佐々木正人氏は、生物進化の非常に長い時間スケールを念頭に置きながら、このようなことを言っています[3]。「最初に世界にあったのは、動物の知覚システムではなくて、環境の方であった。森の炎や、地面や水や空気は、生きものに眼や耳や皮膚や鼻や喉ができる、はるか前からこの環境にあった。環境の複雑さがさきにあり、それが徐々にそこに生きる動物の身体にも複雑なことを生んだ。」(太字は筆者が追加)つまり、複雑な環境が先にあり、私たちはそれに適応してきた存在であるということです。複雑な環境を知覚しながら、今日まで生き残ってきたということになります。

ギブソン氏が考える知覚行為は、私たちが抱いているものよりも、もっと直接的なものかもしれません。佐々木氏はギブソン氏の知覚理論をこう紹介しています[3]。「世界からの刺激を処理して中枢が「意味」をつくると考える「情報処理」理論にたいして、彼は世界にある意味をそのまま利用する自分の知覚モデルを「情報ピックアップ(抽出)」理論とよんだ。彼はぼくらが世界を「直接知覚(ダイレクト・パーセプション)」していると言った。世界にはそのまま意味になることがある。知覚とはそれを探す活動なのである。」(太字は筆者が追加)私たちの思考を含む知覚行為は、周囲環境と直接的につながって成されるものであると考えられるのです。

周囲環境と共に創造していく

環境が私たちに意味や価値を提供している、そしてそれらに導かれて私たちは行為を繰り出し意味や価値を発見しているとするならば、私たちの創造力は環境に埋め込まれていると言えるのかもしれません。環境に出合うことで初めて創造力が発揮できるということです。環境を観察し、行為を繰り出し、身体に備わる知覚機能で感じ、束ね、意味や価値を発見していく。こう考えると、私たちは環境に潜む意味や価値の検出装置にすぎないのではないかと思えてきます。なんだか自分という存在感が薄れるような感覚になってしまいます。でも、それでもいいのかもしれません。私たちが発見した意味や価値は、言葉などの表現技法を使ったり物理的に製作したりして創り出すことで、新たな環境を織りなしていきます。それらは次の新たな行為のリソースとなっていきます。私たちの行為や発見が次を生み出していくという、循環をつくっていくはずです。そして循環の中に身を置けば、あるいは循環をデザインできれば、リソースの供給を自然と受けられるようにもなっていくはずです。

人は、周囲環境と生態系的な補完関係を築くことで、より創造力を発揮できる・創造的になれると言えるのかもしれません。創造というと少し大げさかもしれませんが、考えること、行動すること、一歩を踏み出すことは、環境とのコラボレーションによって進んでいくのではないでしょうか。自分だけでつくり出していく必要は決してないようです。

第四章 自由な地平へ歩きだす

本書を通して考えたかったことは、人や人の行為は不完結であり、周囲環境の支えや応答を受けたり、様々な状況との絡み合いを経たりしながら完結へと向かっていくということでした。そう考えるのであれば、一歩の踏み出しはもちろん完璧でなくて良く、歩く軌跡もあっちに行ったりこっちに戻ったりというのが普通なのではないかと考えられます。そして考え進めていると、不完結さというのは、どうやら広がりや創造性をもたらすものなのでもあるのではないかと思い始めることになりました。本書は比較的全体を見通して書き始めたつもりだったのですが、書きながら考えたことを支えにして、次の考えへと進めることができました。どうやら書き始めの時点では不完結だったようです。そしてきっと書き終えた後も、まだまだ不完結なのでしょう。

 

全体を通して、いかがだったでしょうか。

引越しの話は、俯瞰的な視点で見た場合には、賢明でクリエイティブな完了までのストーリーでした。田中さんも、さぞ自慢したくなったことでしょう。しかしそれは、様々な状況と出合う中で生み出されたものでした。本当はネットで簡単に済ませたかったのに、どうしても見つからない物件や、どうしても家賃が上がってしまうという状況に行動やアイディアが引き出され、悪くないおもしろい引越しになりました。

会話が不完結である、あるいは不完結な方がいいのではないかというのは朗報かもしれません。発話を繰り出すのに少しだけ気が楽になりそうです。周囲の支えを受けながら会話が回っていき広がっていくのを、期待する余裕を持つことができそうです。

歩行の不完結さ、動歩行の原理は、どこか人生に似ているようにも感じられました。一歩一歩で多少バランスが崩れることがあっても、全体を通してバランスがとれていれば問題はないということを示されているようでした。人生に似ているとは少し飛躍的かもしれませんが、いずれにしても歩行も、地面や次の一歩の支えによって成り立っているということでした。

表情が外に向けられているとは、言われてみれば確かにそうでした。これは、人というのは他者との関係の中で生きてきたのだと、改めて感じられるような気づきでした。顔にある感覚器だけではなく、てのひらや足の裏、そして皮膚など、様々な知覚機能が外に向けられています。私たちは、周囲の環境に対してとてもオープンなようです。

そして、周囲の環境には「アフォーダンス」があります。アフォーダンスとは、「環境が動物に与え、提供している意味や価値」でした。それらの意味や価値を、様々な行為を繰り出したり、全身で知覚したりしながら、私たちは発見していきます。そして思考や行動、アイディアや製作のリソースにしていきます。私たちの創造力は、環境と二つで一つと言えそうです。

 

自由な時代になりました。住む場所を一つの地域に縛られることもなく、自由に移動・選択できるようになりました。働く会社も一つに縛られることなく、転職をしたり、複業・副業をしたりすることができるようになりました。さらには働く場所も、会社なのか家なのかコワーキングスペースなのかなどを、自分で選べる会社も出てきています。様々なことを自分で選ぶことができ、人生は自由になりました。明治維新以降、廃藩置県による所属の廃止や四民平等による身分の廃止など、様々な制約がなくなってきており、現在に至るまで一様に自由な方向へ進んできているように感じられます。

しかし、なんでも自由だよと言われると案外困るものです。どこに住んでもいいよ、どの会社に入ってもいいよ、仕事いくつやってもいいよ、なんなら自分でつくってもいいよ、などと言われると自由で開放的な気持ちを感じた次の瞬間に、何を基準に選べばいいのか、どう踏み出せばいいのか困惑してしまいます。逆に何か枠組みや制約が欲しいと思ってしまうのです。

ただ、冷静に考えてみると、社会思想は自由をうたっていても、実際の周囲環境や私たち自体は案外そこまで自由ではないのかもしれません。自分の中で何かを想定しても、周りの状況がそれを必ずしも許してくれるわけではないと思います。引越し一つをとってみても、田中さんがいざ物件探しを始めたら様々な制約に直面しました。また、どうしても人には得手不得手や好き嫌いというものがあると思います。これまでの人生の中で、どうも上手くできないぞとか、どうもそっち方向には足が進まないぞということがあったのではないでしょうか。何かを試したり一歩を踏み出したりしてみると、様々な制約が見えてくるのではないかと思います。そして、そのような制約は、「それを踏まえてどうするか」という次の思考や行動の支えになってくれるはずです。状況との交互作用によって思考や行動がつくり出されていると考えられる私たちにとっては、どちら方向にでも踏み出せる自由さと、周囲環境や私たちの中の一定程度の制約は、個々をよりよい選択へと導いてくれるように思われます。

自分から一歩を踏み出そうとすれば不安にもなり、外に向けられた表情や存在感にそれが表れるかもしれません。考えがまとまっていなければ、言いよどみも増えてしまうかもしれません。しかし、それらをあまり隠す必要もないのだと考えられます。そのような不完結さや弱さのようなものは、周囲の人の気を惹き、介在する余地を周囲に示すことになるからです。

一歩を踏み出したら、周囲の見えが変わっているはずです。それまでとは違ったアフォーダンスが埋まっていることでしょう。周囲の見えの変化に引きずられるように、“行為を繰り出したい欲”のようなものが私たちの中に芽生えるかもしれません。それらの行為を繰り出すことで発見した意味や価値が、また新たな支えとなっていくことでしょう。

このような歩み方は、いわゆるPDCAを回すということとはまた少し違うように感じられます。PDCAを回すとは、目的や目標とするものが明確であることを前提にしているように思われます。しかし、人の不完結さや、人と周囲環境との関わりから見えてきたことは、もっとゆったりと構えていた方がうまく前に進めるのではないか、おもしろい方向に転がっていくのではないかということでした。例えば、うまくいかないと思っていても、実はそれには意味や価値があって、裏返すとうまくいっていることもあるというようなことでしょうか、どうなのでしょうか。発見に対してオープンであることは大切そうです。私たちの一歩の弱さが、自由な地平を創造的に歩かせてくれるのかもしれません。

 

リベル:トヨタからソフトバンクに移りPepperくんの開発に携わり最近ではまんまるでかわいいLOVOT(ラボット)を開発した林要氏は、「制約こそが創造性の源泉だ」と言っている。こちらの記事『できる人が「自由」ではなく、「制約」を求める理由』で紹介されているトヨタ時代の開発話は、まさに行ってはぶつかりの連続で、少しだけ田中さんの引越し話に似ていた。制約が創造性に好影響を与えるというのは、根拠が示され始めているようだ。こちらの記事『「制限」が創造性を高める理由』では、障害物は人を一歩後ろへ下げさせ対局的に眺めることを促し、一見すると無関係な情報を概念的に結びつけて考えることを可能にすると書かれていた。また、脳は「何に注意を与えないか」に多くの時間とエネルギーを費やしているとも書かれていた。つまり、自由すぎる状態は、思考が散逸的になり、ある領域に集中することを難しくするということのようだ。なんでもできるというより、なにかができないという状況の方が、なにかが生まれる可能性をはらんでいると言えるのかもしれない。

 

最後に、岡田先生にこのようなことを聞いてみました。

「〈弱いロボット〉の研究を通して得られたメッセージのようなものがあれば教えていただけないでしょうか。」

 

岡田先生:私は元々音声認識や音声言語処理の研究をしていました。その研究の中で、人は頭の中でいろいろ考えて最適な発話を計画して発話をするというよりは、むしろ考えながら話しているというか、思いつくままとりあえず言葉にしてそれをベースに言い直すというやり方で、発話を作りだしているのではないかと考えていました。発話を作ろうとしても相手の心の全部が見えるわけではないので、全てを考え尽くせるわけではなく、不完全なまま放り出して相手と一緒になって言葉を作っていっているとみることができます。自己完結できないというか、完結しようにもできないということです。そういった不完結さや制約を、人は本源的に抱えている。でもだからこそ関わりが生まれて、おおげさに言えば社会が生まれていると考えられます。

自己完結を目指してしまうと、重厚な装備になってしまって高コストになってしまいます。昔の対話理解のシステムでは、相手の心的状態を一生懸命探りながら最適な発話をプランニングしていましたが、それだと無限後退むげんこうたいに陥ってロボットが止まってしまうという問題がありました。

一方で、昆虫などが生きる自然界に目を向けてみると、周りに委ねつつ結構おもしろい世界が形成されていると思っていました。生態系で生き延びている昆虫などの動物の多くは、自分の中で完全なものを目指しているというよりは、環境に委ねつつ非常にチープな構造でうまくいっているケースが多いと言われています。そういうチープなデザインのロボットが私たちにとっては理想的だなと感じました。そんなに技術アピールしなくてもやっていけるロボットも、賢くてスマートなのではないかという方向性です。

会話などを外から眺めると、一つ一つのメッセージが相手に届いて完結しているように見えます。しかし、視点を自分の内側に移してみると自分が放り投げている言葉の意味は、相手のうなずきなどを確認するまでは意味が定まっていないと言いますか、不定な状態にあります。私たちの行為は不完結で、環境の力を借りながら補完しながら定まっていきます。今この瞬間は見えていても、次の瞬間は見えていない。明日が見えないというような制約を抱えていて、だからとりあえず前に進むしかない、前に進みながら見つけていくしかありません。

研究生活もそうで、研究の現場にいる時は自分がどんな状況に置かれていて、どういう問題を考えているかはなかなか分かりません。一年後にどういう理論が世の中で生まれてきているかも当然分かりません。暗中模索の状態での生活ですが、30年たった後に30年前の状況をみると非常によく見えます。何を迷っていたのかなどが、後から振り返るとよく見えるのです。昔のことはよく見えるのですが、明日からどういうふうに展開していくかは見えません。ただ、見えないからおもしろくも感じられて、一歩を踏み出してみようという勇気や希望も湧いてくるのかもしれません。

また、自分で考えているよりも、一歩を踏み出したことによって得られる情報の方がはるかに大きいと思います。認知的なコストという面でも自分の中で考えるよりも、一歩を踏み出して得られる情報の方が多いので、そちらを選んだ方がいいのではないかと思います。学生さんたちにも、迷ったら一歩前に進んでみたら、とよく言っています。

 

(2020年11月12日掲載)

 

 

〈参考文献〉

  1. 岡田美智男著『〈弱いロボット〉の思考 ―わたし・身体・コミュニケーション』(講談社、2017年)
  2. 佐々木正人著『新版アフォーダンス』(岩波科学ライブラリー、2015年)
  3. 佐々木正人著『アフォーダンス入門 ―知性はどこに生まれるか』(講談社学術文庫、2008年)

詳しい参考文献の紹介はこちらのページをご覧ください。『「弱い一歩」の参考文献の紹介』(note)

 

 

筆者:吉田大樹

人の内発性により生み出される、プロダクトや活動に魅力を感じています。自分自身様々なサービスを模索する中で、何かを生み出そうと考えるほどに視野が狭まっていく感覚を覚えたことを一つのきっかけとして、リベルを始めることにしました。1986年岩手県盛岡市生まれ。2005年、東北大学工学部・機械知能航空工学科へ入学。2009年、東北大学大学院工学研究科・ナノメカニクス専攻へ入学。2011年、株式会社ザイマックスへ入社。2016年7月、高校時代からの友人と株式会社タイムラグを創業。

 

 

 

 

 

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