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生きもの目線の時間軸

社会や自分の時間デザインを考える

文量:新書の約37ページ分(約18500字)

はじめに

今の社会を流れる時間は、本当に私たち人間に合ったものなのでしょうか。

 

移動しながらニュースやメールを確認したり、その次の瞬間には買い物をしたりすることができるようになりました。これは、時間当たりに行えることが増えているという意味で、流れる時間が相対的に速くなっていると言うことができます。

気温や明るさをコントロールすることで、季節や時間帯に関係なく活動できる時間が長くなりました。また、医療などの発達によって、寿命も長くなりました。これらの変化は、私たちの使える時間自体が長くなったと言うことができます。

時間の速さと長さは、時を経るごとに増し続けています。そして社会で生きていく上では、共通の社会システムやインフラ、サービスを使う必要があるため、変化していく時間軸にあらがうのは簡単なことではありません。

速く・長くなり続ける時間に私たち人間が適応し続けられれば問題ないのですが、人間を生きものとして捉えると、そうとも言えないようなのです。

 

生きものの目線で時間というものを捉えたときに、私たちが普段意識する時計の時間ではない生物的な時間があり、それに合わせて生物はデザインされていると考えられるのです。生物ごとの時間デザインがあるということは、そこから逸脱していくことは何らかの弊害をもたらすはずです。

では、生物的時間とはどのようなもので、速く・長くなり続ける社会の時間は、生物としての私たちにどのような弊害をもたらす可能性があるのでしょうか。私は、生物的時間という視点を持つことで、変化する社会の時間軸を受動的に受け入れるのではなく、人間目線の時間デザインを能動的に考えるべきなのではないかと思うようになりました。また、どのような時間の上で生きていきたいのかを、考えるきっかけにもなりました。

技術革新を主要因として速く・長くなり続ける時間を否定するのではなく、今後も時間軸は変わり続けることを前提に、改めてどのような時間の上で生きていきたいのかを考えるきっかけになればと思っています。

 

今回は、東京工業大学名誉教授の本川達雄先生にお話を伺いながら、このようなテーマについて考えてみました。なお、このブックレットは、いただいたお話と後記する参考文献から学んだことをもとに、執筆や編集はリベルで行なっております。また、このブックレットでは、数式や図表が多めに出てきますが、なるべく文章で補足しながら書き進めています。

 

本川達雄もとかわたつお先生

1948年宮城県生まれ。東京大学理学部卒業。同大学助手、琉球大学助教授、デューク大学客員助教授を経て、1991年より東京工業大学教授。2014年3月の退職後は、科学とは自然の見方、つまり世界観を与えるものだという考えのもと、生物学的世界観を分かりやすく解く著書の執筆をしている。

 

〈著書〉

  • 『生きものとは何か —世界と自分を知るための生物学』(ちくまプリマー新書)
  • 『人間にとって寿命とはなにか』(角川新書)
  • 『ゾウの時間 ネズミの時間 —サイズの生物学』(中公新書) など

 

執筆者:吉田大樹
 「こころが自由であること」をテーマに、そうあるために必要だと思えたことをもとに活動しています。制約がありすぎるのは窮屈で不自由なのだけど、真っ白すぎても踏み出せない。周りに合わせすぎると私を見失いそうになるのだけど、周りは拠り所でもある。1986年岩手県盛岡市生まれ。

 

 

 

目次

  • はじめに
  • 第一章 生きもの目線の時間
    • サイズと時間の関係性
    • 生物ごとの時間デザイン
    • 生きものの時間軸という見方の大切さ
  • 第二章 エネルギーを使って生み出される生物的時間
    • サイズとエネルギー消費の関係性
    • エネルギーを使うほど生物的時間は速く進む
    • 年齢による時間の進み方の違いから考える時間デザイン
  • 第三章 生物的時間と社会的時間のギャップ
    • 産業革命以後、急速に生み出された社会的時間
    • 機械化とエネルギー投下による人類の進化
    • 機械寄りの社会的時間と、生物的時間とのギャップ
  • 第四章 私たちはどのような時間軸で生きるのか

 

〈参考文献の表示について〉
 本文中で参考文献は、[文献番号,参考箇所]という表し方をしています。文献番号に対応する文献は最後に記載しています。参考箇所は、「P」の場合はページ数、「k」の場合は電子書籍・Kindleのロケーションナンバーになります。

 

第一章 生きもの目線の時間

「時間」と聞いて私たちが思い浮かべるのは、時計が示す1秒や1時間、カレンダーが示す1日や1年ではないでしょうか。本川先生の著書『「長生き」が地球を滅ぼす』[1]にならって、このブックレットではこれらの時間を「物理的時間」と呼ぶことにします。

他方で「はじめに」で、生物目線で考えた時に、物理的時間ではない生物的な時間があると言いました。同じくこれを「生物的時間」と呼ぶことにします。

本章では、生物的時間とはどのようなものなのかを説明していきます。時間に関する新たな視点を得ることで、私たちの身体や心に関する理解が深まるとともに、時間との付き合い方の多様化につながるのではないかと考えています。

サイズと時間の関係性

動きの速さや寿命の長さが生物ごとに異なることは、普段からなんとなく認識していることかもしれません。ネズミの動きはせかせかとしている一方で、ゾウはのっしのっしとゆったりしています。また、イヌの寿命は人間よりも短く、飼い主が哀しい思いをすることもあります。

しかし、このような生物にまつわる時間が“サイズと関係がある”ことは、あまり知られるところではないのではないでしょうか。例として、様々なサイズの哺乳類の体重(サイズ)と心臓の鼓動間隔である心周期の関係を表1から見ていきましょう。

 

表からは、サイズが大きくなるほど心周期が長くなることが分かります。その一方で、ハツカネズミとゾウとを比べると、体重は10万倍になっていますが、心周期は30倍程度の増加なので、体重の増え具合ほど心周期は長くならないことが分かります。体重と心周期は、同じ割合ずつ増えていく正比例にはなっていないようです。

しかし、これを図1のように両対数目盛のグラフにプロットしてみるとどうでしょうか。対数目盛とは、目盛りが1増えるごとに値が10倍になる目盛りです。図1を見ると、なんだか一つの直線に乗りそうなことが分かります。

 

表1では紹介しきれていない他の様々な哺乳類もプロットすると、同じように直線に乗ることが分かっています[1,k409]。このようなグラフに示される規則性は、サイズ(体重)と心周期の間に何らかの関係性があることを示唆していると言えます。もっと想像を豊かにすれば、サイズを基準にしたような設計図やルールをもとに、心周期が定められているのではないかと考えることができるのです。

 

このようなサイズに対する時間の規則性は、心周期だけに見られるものではありません。生きものの他の時間とも比較するために、図1のプロットに近似式を当てはめて、数式で表してみます[1,k409]。

 

この式は、体重の1/4乗に0.25を掛けた数字が、おおよその心周期を示すということを意味します。この1/4乗というのが、さらに興味深いことを示唆してくれるのです。

表2は、心周期の場合と同様に、哺乳類の様々な生物的な時間を近似式で表したものです。

 

Wの右上の数字に着目してみてください。おおむね1/4(=0.25)であることが分かるのではないでしょうか。成獣になるまでの時間も、お腹に子を宿す懐胎期間も、脂肪燃焼の時間も、腸が動く速さも、筋肉が収縮する時間も、サイズに依存するという点だけではなく、サイズのおおよそ1/4乗に比例するという点でも共通なのです。

生物ごとの時間デザイン

このような規則性は、生物が何らかの設計ルールに基づいてデザインされていることを示唆していると考えられます。デザインされているとは、パーツの単なるつなぎ合わせではなく、全体としてセットでうまく働くように組み合わせられているということです。たとえば、筋肉の収縮時間は、エネルギーを生み出すための脂肪の代謝時間とのバランスがとれていないといけないのかもしれません。

また、表2に挙げたような時間は、それぞれの生物の生存戦略やライフスタイルとも関連していると考えられます。筋肉が収縮する時間が短ければ、細かく速いフットワークで敵から逃げることができると考えられます。ちなみに、長指伸筋ちょうししんきんとは足首や足の指を反るなどの働きがある筋肉で、歩くときによく働く筋肉です。ほかにも、脂肪を代謝して使いきる時間が短ければ、頻繁に食事をとらなければいけないライフスタイルに通じると考えられます。

このように、生物には「生きる」ことの根本に関わる時間デザインが組み込まれています。また、生物の時間が一定のルールに基づいてデザインされているということは、一部分に何らかの齟齬そごが発生すると全体に影響を及ぼすということが考えられます。したがって、仮に外部環境が急激に変化しても、それに合わせて柔軟且つ早急に適応することは困難であると考えられるのです。

人間の場合は、移動手段や居住空間、通信という情報交換手段など、様々なものを開発することで周囲をとりまく環境自体を変えてきました。それによって解決できる問題は格段に増えました。しかしもう一方で、その社会に生きる私たち自身の成長や処理能力などの速さは大きくは変わっていないと考えられます。このような環境の急激な作り変えは、生物としての人間と社会との間にギャップを生じさせ、私たちに何らかの弊害をもたらしていると考える方が妥当です。この点に関しては、第三章で改めて考えていきたいと思います。

生きものの時間軸という見方の大切さ

生きものは、生きものごとにデザインされた時間のなかで、それぞれ生きています。その視点を持つと、私たちが普段用いる時計に示されるような物理的時間が、生きものの時間を捉える上で必ずしも適切ではないことが見えてくるのです。

 

成獣になるまでの物理的時間が異なれば、同じ1年や1ヶ月でも、身体や心の変化度合いは異なるでしょう。また、筋肉が収縮する時間が異なれば、思い立ってから動き出すまでの時間も異なると言えるのかもしれません。ネズミから見たら、ゾウはじっくり考えるタイプの生きものに見えているのかもしれません。

ほかにも、心臓の生涯鼓動回数はおよそ15億回程度と考えられているため、心臓が1回鼓動するごとに死ぬ日が近づいているということも意味します。その鼓動する間隔である心周期も、ネズミとゾウでそれぞれ0.1秒と3秒と大きく異なるのです。

このように考えると時間とは、一様に流れていく物理的時間の他に、生きもののイベントを1サイクルと見なす時間の見方もあって然しかるべきだと考えられるのではないしょうか。同じ1秒や1年でも、その間に起きているイベントの回数は生きものによって異なるからです。生きもの目線の時間、つまり「生物的時間」が一つの時間軸として認識されておくべきではないかということです。もう少し厳密に言うと、本川先生は生物的時間を、「生物に関わる時間を、生物の中で繰り返し起こる現象の周期を単位として計ったもの」として定義しています[1,k627]。心周期はその代表例だと言えます。ほかにも成獣に達する時間は、一個体では繰り返し起こりませんが、子を生むことで命がつながっていくことを考えると、繰り返し起こると考えることができます。

 

生物的時間という視点を持つと、1日を24時間、1年を365日とする“以外”の時間の捉え方を、なぜ私たち人間が大切にしてきたのかという理由も見えてきます。成人として社会に認められる二十歳はたち、結婚してからどれくらいの時間を共に過ごしたかを確認する結婚記念日、子どもの成長を確認できる七五三。これらは、生きものとしてのイベントを大切に思う生きもの本性の表れではないでしょうか。ほかにも、一定期間の活動の振り返りや棚卸しによって心がすっきりするのは、それによってイベントを消化できていることを確認できるからかもしれません。

生物的時間という視点は、自分は何をやったのか、何が変わったのかというようなイベント単位で時間を感じることの大切さを教えてくれるようです。そのような時間の捉え方を求めるのは、私たちが高度な社会に生きる人間である前に、生きものであるということの証であるとも考えられるのではないでしょうか。

超多人数で連携・分業する現代の社会においては、万国共通の時間軸である物理的時間は不可欠です。しかしもう一方で、生きていることを感じるという点においては、生物的時間による捉え方も社会や私たちにとって大切なのではないかと考えられるのです。

 

では、生きものとしての時間をより豊かにするためには、どうすればいいのでしょうか。

第二章 エネルギーを使って生み出される生物的時間

前章では、生物的時間の流れる速さがサイズによって異なることを紹介しました。生物的時間が速いとは、生きもののイベントが高頻度で起こることを意味します。したがって、たとえばネズミとゾウとでは寿命は異なりますが、その生物の主観で見ると同じだけの生物的時間を生きているということが示唆されました。

本章では、前章で紹介したサイズと時間の関係に加えて、サイズとエネルギー消費の関係を見ることで、生物的時間がどのように生み出されているのか考えていくことにします。時間が生み出されるとは聞き馴染みなじみのない表現ですが、サイズと時間、そしてエネルギーとの関係を見ていくと、そう考えられるのです。

生物的時間とは、生きていることを感じられる時間であるともいえます。その時間がどのように生み出されているかを分かることは、どうすればより充足した人生につながっていくのかを考える足がかりになると考えています。

サイズとエネルギー消費の関係性

サイズが大きくなればエネルギー消費量も多くなることは、違和感なくイメージできるのではないでしょうか。では、増え具合についてはどうでしょうか。サイズが2倍になればエネルギー消費量も2倍になるというような正比例の関係になるのでしょうか。

エネルギーは細胞で消費されます。そして、細胞の大きさは、どのサイズの動物でもほぼ同じであると考えられています。これらの事実を踏まえると、サイズが2倍になれば、その身体が有する細胞の数も2倍になるため、エネルギー消費量も2倍になるのではないかと考えられます。

しかし、実際に測定してみると、そのような正比例にはならず、エネルギー消費量は体重の3/4乗に比例するのです。3/4乗に比例するとは、体重が2倍になってもエネルギー消費量は約1.7倍(≒23/4)にしか、体重が10倍になってもエネルギー消費量は約5.6倍(≒103/4)にしか増えないというような関係です。つまり、サイズが大きい生物ほど、体重あたりのエネルギー消費量は少ないということです。言い換えると、サイズの大きな生物の細胞は、あまり働いていないともいえます。

 

サイズと時間の関係性を見たときと同様に、ここからは数式を使って見ていきましょう。哺乳類の安静時の1秒あたりのエネルギー消費量である基礎代謝率は、以下の式で表されます[2,P27]。これは心周期の近似式を出した方法と同じく、様々な哺乳類の基礎代謝率をプロットしたグラフに近似式を当てはめて出された式です。

 

体重と基礎代謝率が正比例であれば、Wの右上の数字は1になるはずです。この数字が1よりも小さい約3/4であるということは、先ほど述べたように体重の増え具合に比べて、基礎代謝率(=エネルギー消費量)は大きくならないということを意味します。3/4乗とはなかなかイメージしにくい数字であるため、もう少し具体的に数字を当てはめて考えてみましょう。ここで、基礎代謝率を体重あたりで比べるために、基礎代謝率を体重Wで割った以下の式を用います。

 

たとえば、表1のハツカネズミとゾウの体重を上式に代入して比較してみましょう。結果はゾウの体重あたり基礎代謝率は、ハツカネズミに比べて約5.6%でしかないことが分かります。言い換えると、ハツカネズミに比べてゾウの細胞は約1/18しか働いていないと考えられるのです。反対に、ハツカネズミの細胞はゾウに比べて約18倍も働いていると考えることができます。

前章では、サイズの小さな生物ほど生物的時間が速いことを紹介しました。ここではサイズの小さな生物ほどエネルギー消費率が高いことが分かりました。これらの事実を踏まえると、エネルギー消費率の高さと生物的時間の速さの間には、何か関係がありそうだと考えられるのです。

エネルギーを使うほど生物的時間は速く進む

エネルギー消費と生物的時間の間にはどのような関係があるのでしょうか。ここで、生物的時間は体重の1/4乗に“比例”し、体重あたり基礎代謝率は体重の1/4乗に“反比例”することを思い出してください。Wの1/4乗を分子と分母にそれぞれ持つこれらの式を掛け合わせると、どうなるでしょうか。心周期を例に見てみましょう。

 

ご覧の通り、分子と分母のWの1/4乗が打ち消し合い、数字だけが残ります。この式の左辺を読み替えると、心臓が1回鼓動する時間あたりに消費される体重あたりのエネルギーとなります。この値が、サイズによらず一定の約1ジュール/㎏であるということが示されているのです。

少し不思議な感覚を覚えないでしょうか。サイズが大きいほど心周期は長くなるので、心周期時間あたりのエネルギー消費量は大きくなりそうです。しかし、心周期が長いゾウも心周期が短いネズミも、心周期時間あたりに消費するエネルギーは体重あたりで同じなのです。これは、心周期が長い大きな生物ほど、体重あたり基礎代謝率が小さいことが関係しています(図2)。

 

そしてこのような一定性は、心周期だけではなく、表2に示されたような他の様々な生物的時間に対しても言うことができます。なぜなら、成獣になるまでの期間や筋肉の収縮時間などの他の生物的時間も、心周期と同様に体重の1/4乗に比例するからです。体重あたり基礎代謝率が分母に持つ体重の1/4乗と打ち消し合い、一定の値を示すのです。

さらに驚くべきことが上式から導き出されます。それは、体重あたり生涯エネルギー消費量は、サイズによらず同じであるということです。なぜなら、哺乳類の生涯の心臓鼓動回数はサイズによらず約15億回であると推定されているからです。心臓の鼓動1回あたりに消費する体重あたりエネルギーである1ジュールに、15億回をかけた約15億ジュールが、生涯に消費する体重あたりエネルギーであると算出されるのです。ただし、基礎代謝率は安静時のエネルギー消費量ですので、実際に生涯に消費するエネルギーとしてはその2倍程度の約30億ジュールであると考えることが妥当であると考えられます。

これも少し不思議な感覚を覚えます。サイズが大きければ寿命は長く、小さければ寿命が短いのでした。しかし、寿命が長くても短くても、一生のうちに消費する体重あたりエネルギーは同じであると算出されるのです。心周期や寿命などの生物的時間はサイズによって異なりますが、その間に使うエネルギーは同じなのです。

この事実は何を意味するのでしょうか。

 

一つ目には、生物はサイズによらず、一生の間に同じだけのエネルギーを細胞に投じ、命を終えていくということです。寿命が長いゾウも短いネズミも、生涯に投じるエネルギーは同じであるということです。ゾウと同じだけのエネルギーを短い物理的時間で使うネズミは、必死でエネルギーを燃やして生きているとも言えるのかもしれません。

加えて二つ目には、エネルギーを使う量が多いネズミほど生物的時間が短いということは、エネルギーを使うことで生物的時間を速めていると言うことができると考えられます。エネルギーを投下して心臓を速く動かし、脂肪を速く燃焼させ、筋肉を速く収縮させ、速く成獣になり子を生み、生涯を終えていくということです。

同時に生物は、エネルギーを使わないことで生物的時間を遅くすることができます。たとえば、冬眠するリスは冬眠しないリスよりも長生きします。食料の少ない冬はエネルギーの投下を極限まで抑え、その間はリスの生物的時間の流れがゆっくりになるのです。その分、物理的な寿命が延びていると解釈することができるのです。

このようにエネルギー投下によって生物的時間の速さを調節しているということは、生物はエネルギー投下によって生物的時間を生み出していると見ることができます。エネルギーを投じなければ、生物的時間は進まないからです。エネルギーをどんどん投じるネズミは、生物的時間を次から次へと生み出し、反対にゾウは生物的時間をゆっくりと生み出しているとみることができるのです。

年齢による時間の進み方の違いから考える時間デザイン

エネルギーの投じ方が時間の速さや時間の生産量に影響を与えるということは、社会や自分の時間デザインを考える上での重要な示唆を与えてくれます。

 

時間の進み方が、子どもの頃にはゆっくりで、大人になってからはあっという間であると感じたことはないでしょうか。このような年齢を重ねるごとに変わる時間の進み方は、エネルギーと時間の関係性から説明することができます。

以下に、18〜29歳の基礎代謝率を1とした時の体重あたり基礎代謝率を、年齢ごとに比較した図を示します。

 

図3より、子どもの頃の基礎代謝率は、大人になってからのおおよそ2倍であることが分かります。さきほど、エネルギーを投下するほど生物的時間は速く進むということを述べました。これはつまり、エネルギー消費量が多い子ども時代は、同じ1時間でも大人より多くの生物的時間を過ごしていることを意味します。だから、子どもの頃は物理的時間の進みはゆっくりで、大人になってからは速いと感じるのではないでしょうか(図4)。

 

別の見方をすると、若者は周囲の時間をゆっくりに感じているわけですから、周囲の出来事や変化に余裕を持って対応できると考えられます。他方で、年配者は若者に比べて余裕は少ないと考えられます。このような時間の感じ方が異なる若者と年配者が同じ速い社会時間の中で生活するのは、理にかなっているとは言えないのではないでしょうか。モノには年齢や障害の有無、体格の差などを問わずに使えるユニバーサルデザインという考え方が存在します。時間にもユニバーサルデザインという考え方が必要かもしれませんし、時間に関する多様性の受容も必要ではないかと考えられるのです。

 

人間の場合、ここからもう一段階踏み込んで考える必要があります。社会や自分の時間デザインを考えるとき、私たち人間の場合は、体外の環境へのエネルギー投下についても考慮に入れる必要があるのです。なぜなら、住居や働く空間、移動手段、情報交換手段などにエネルギーを投下することで、他の生物にはない時間の生み出し方をしていると考えられるからです。

第三章 生物的時間と社会的時間のギャップ

前章では、エネルギーの投下量が生物的時間の速さに影響を与えることや、エネルギー投下によって時間を生み出していると考えることができることを説明しました。そして、基礎代謝率の高い子どもは大人に比べて生物的時間の進みが速いため、子どもと大人・若者と年配者が同じ速い社会時間で生活することは、合理性が低いのではないかと考えました。これは、社会時間のデザインの必要性を示唆するものでした。

しかし、私たちが考えなければいけない時間のギャップは年齢に関するものだけではありません。人間は他の生物と違い、エネルギーを自分の体内にだけではなく、周囲の環境にも投下しています。体外へのエネルギー投下とは、対象が機械や構造物などであり生体ではありません。しかし、体外へのエネルギー投下が及ぼしている影響を考えると、生物的時間と同様に社会の時間も生み出していると考えられるのです。

本章では、人間社会を取り巻く周囲の時間を「社会的時間」と呼び、エネルギー投下による社会的時間の変化について考えていきます。そして、社会的時間と生物的時間のギャップを明らかにすることで、時間デザインを考える意義や示唆を得ていきたいと考えています。

産業革命以後、急速に生み出された社会的時間

周囲環境へのエネルギー投下による時間の生み出し方は、「速める」ことと「非活性を活性にする」という二つの面から考えることができます[1]。

まずは、「速める」ことで社会的時間を生み出していることについて説明してみたいと思います。これは、自動車や電車などの移動手段が典型的な例であると考えられます。移動が速くなったことで、同じ物理的時間の間に行ける場所や会える人が格段に増えました。これは、同じ物理的時間でも対峙できる出来事やイベントが増えたという意味で、相対的に社会的時間を速めていると言うことができます。

人類は、狩猟採集時代は自らの脚で移動していました。その後、馬などの動物を利用するようになりましたが、一人一頭とまでは普及していませんでした。しかし、産業革命により機械に関する様々な発明がされ、1908年には初めての量産型自動車であるT型フォードが発売されました。そして日本国内では、1996年に自家用車が1世帯に1台普及しました[3]。また、大都市圏では数分おきに電車が行き交うまでに移動インフラが発展していきました。

言うまでもなく、自動車は移動速度を格段に速めました。走行速度は徒歩の10倍から20倍の速さであり、動物と違って疲れることもありません。Googleで検索すると、東京—大阪間は徒歩で107時間と表示されます。1日10時間歩いても10日以上かかる計算です。それに対して、自動車を使えば約5時間半、新幹線では約2時間で移動することができます。

これらの変化を客観ではなく主観で見ると、場所や人が以前よりも速く迫ってくるようになったと言えます。自動車や電車に乗れば、自分の脚で歩いていた頃の何十倍もの速さで目的地が迫ってきます。会う人も、元来一日あるいは一生のうちに会える人は限定的でしたが、移動速度が上がったことで会える人数も会えるまでの時間も格段に速くなりました。このような変化を、輸送機器やインフラへの石油や石炭などの一次エネルギーの投下により、社会的時間が速まっていると見なすことができると考えられるのです。

ほかにも、情報交換の手段が直接の会話から手紙などの文書、電話、そしてインターネットを使ったメールなどへと進化し時間は速くなりました。食料や衣服も、材料から自分たちで獲得していたものが、お店で買えるようになり、今では家にいながらECサイトで買うことも一般的になってきました。これら一つ一つのサービスやプロダクトにも、大量の一次エネルギーが投下されています。

このように、私たちの生活や仕事の一つ一つにエネルギーが投下され、社会的時間が速められていると言えるのです。

 

次に、「非活性を活性にする」ことで社会的時間を生み出していることについて説明していきます。

産業革命以前の機械などの発明に乏しい頃は、暗くなれば仕事を切り上げ、暑かったり寒かったりすれば活動レベルを下げざるを得ませんでした。農業などはまさに日照時間や気候に依存しており、暗くなれば作業はできませんし、雨が降ればその日が仕事休みになるのです。

しかし現代は、気温や湿度を一定に保つエアコンや、明るさを調節できる照明によって、活動に最適な時間を増やすことができています。工場内の作業やオフィスワークだけではなく、家での生活でも、活発に活動できる時間が増えました。それまでは自然環境の影響で活動できなかった非活性な時間を、活性な時間として利用できるようになったのです。これは言い換えると、周囲環境を一定に保つという意味で「恒環境化」によって時間を生み出したと言うことができます。

ほかにも、医療によっても「非活性を活性にする」ことに成功しました。人間に限らず生物は、年齢を重ねれば身体は劣化していき徐々に死へと近づいていきます。たとえば、動物園のゾウは50歳を過ぎると歯がすり減ってうまく食べられなくなり、食が細ることで徐々に身体が弱っていくそうです。

しかし、人間の場合は歯の治療だけではなく、四肢や内蔵、脳までも治療することができるようになりました。それによって、本来であれば終えていた命も助けて延命させることができるようになりました。これも、非活性を活性にすることで時間を生み出していると言えると考えられるのです。

機械化とエネルギー投下による人類の進化

「速める」ことと「非活性を活性にする」ことによって生み出された時間は、前節で紹介した例を見るだけでも10倍・20倍の桁数で増えていることがイメージできるのではないでしょうか。

他方で、その分エネルギーも大量に投下しています。日本の石油や石炭などの一次エネルギーの消費量を人口で割ると、私たちは生物として必要な基礎代謝量の約30〜40倍のエネルギーを消費していることが分かるのです。当然のことながら他の生物は基礎代謝量(安静時のエネルギー消費量)の2倍程度で生活をしています。人間はその数十倍ものエネルギー投下をして時間を速めたり、非活性な時間を活性にしたりしているのです。このような事実を踏まえると、地球温暖化や気候変動などの急激な変化がなぜ起きているかも合点がいきます。

このような人間のエネルギー投下量の増加度合いを見ると、人類は1ステージ進化したと見なすこともできます。以下に、恒温動物と変温動物と単細胞動物の基礎代謝率を比較した表を示します。

 

表内の式が示すことは、先に紹介した恒温動物と同様に、変温動物も単細胞動物も基礎代謝率は体重の約3/4乗に比例するということです。しかし、Wの前の係数が異なり、この係数の違いが基礎代謝率の違いに影響を与えると言えます。その差は、表の下段に示されている通り、恒温動物は変温動物の29.3倍もの基礎代謝率であることが分かります。想像よりも大きいと感じたのではないでしょうか。

恒温動物と変温動物の違いは、体温を一定に保てるか否かにあります。ちなみに、恒温動物は哺乳類や鳥類などが、変温動物は爬虫類や魚類などが代表例です。恒温動物は、体温を一定に保つことで、活動の速さを周囲環境に依らずに一定に保ちやすくなりました。また、変温動物に比べて高めの体温は、生物的時間を速めることにつながります。したがって、恒温動物は変温動物から進化ステージを一つ上げることによって、時間を生み出すことに成功したと見ることができるのです。

他方で、体温を一定に保つためには平時でもエネルギーを多量に消費します。その結果、変温動物に比べて基礎代謝率が約30倍も上がったのです。

この30倍という上がり具合は、人類が周囲環境に投下しているエネルギー量とオーダーを同じくしています。そして、エネルギーを投下することで、先に紹介した例のように社会的時間を速めています。これは、恒温動物が変温動物へと進化した時のような、人類の一つの進化の形と見ることができるのではないかとも考えられるのです。

 

ここで一つ疑問が生じます。それは、生物はエネルギー投下をすれば時間が速まります。ネズミは、ゾウに比べてエネルギー投下量が多かったために生物的時間が速く進み、寿命が短くなると考えられるのでした。では、人間はこれだけのエネルギー投下をしているにも関わらず、なぜ寿命がかえって延びたのでしょうか。

それは、機械などにより身体機能を拡張したり、恒常的な周囲環境を構築したりすることで、エネルギー投下をする対象自体を大きくしているからです。エネルギー投下による負荷が拡張部位や環境に分散されるため、寿命が短縮されないと考えることができるのです。そう考えると人間は、機械によって機能拡張された動物であるとも言えますし、環境にエネルギーを投じて恒常化させる恒温動物ならぬ恒環境動物であるとも言えるのです。

このようにエネルギー投下の対象が体内から体外へと移っていくことは、時間デザインの主体も同時に体内から体外へと移っていくことにつながります。そしてこのような時間主体の変化が、私たちが元来持つ生物的時間とのギャップを生じさせてしまうと考えられるのです。次節では、私たちがそもそもどのような機能拡張や恒環境化を実現しているかと、それによって生じている生物的時間とのギャップについて考えていきます。

機械寄りの社会的時間と、生物的時間とのギャップ

機械などにより身体を拡張している例としては、自動車や電車は脚の拡張であると見なせることが挙げられます。また工場の生産ラインに並ぶ機械や建設現場などの重機は、足腰や腕の拡張であると見なせます。これほど高機能の拡張された身体があれば、ピラミッドや古墳は、どれほど速く造ることができたでしょうか。また、コンピュターは脳の拡張であり、計算処理速度を格段に速めてくれました。

恒常的な周囲環境を構築している例としては、雨風を防ぎ断熱をしてくれる建物が最たる例であり、エアコンや照明を設置することで気温や明るさも恒常化しました。また、機械はそもそも疲れを知らず動き続けることができるので、恒常化と相性がいいと言えます。このような恒常的な環境を作ることで、非活性な時間を活性に転換してきたのです。

機能拡張や環境構築は、言うまでもなく人間が主体となって行っています。しかし、それによって生み出される時間は、人間が主体性を持って消費しているとは必ずしも言えない状況になっていると考えられるのです。

たとえば日本では、明治維新後、殖産興業のスローガンのもとに持ち込まれた機械は、家内制手工業から工場制手工業へと働くスタイルを変えました。それまでは人の手によって動かされていた機織り機はたおりきなどが、エネルギー投下された機械によって動かされるようになりました。いつしか、疲れを知らず・速く・ダイナミックに動く機械が中心に据えられるようになり、24時間動き続けられる機械に合わせて人間のシフトが組まれるようになっていったのです。

近年問題視される長時間労働も、恒常的に働き続けられるオフィスや工場などの環境を構築したことに一端があると見ることもできます。資本主義の思想も相まって、活動に適した明るさや気温に保たれた恒環境に合わせた働き方が推進されるようになっていったのです。

 

このような変化は、人間を取り巻く社会的時間の主体が、生物として数万年・数十万年という単位で適応してきた「自然」から、「機械」へと移ってきたことを意味していると考えることができます。産業革命を境に社会に機械が一気に浸透し、社会的時間が急激に速くなったのです。

第一章で見たように、生物的時間は生物ごとに定められています。生物的時間とは、心周期や、筋収縮や脂肪燃焼、成獣になるまでの期間など、生きものとしての根本に関わるものです。したがって、わずか数百年の急激な社会変化に合わせて素早く適応することは困難であると考えるのが妥当です。したがって、現代の速い社会的時間と、適応が追いついていない生物的時間の間には、大きなギャップが生じていると考えられるのです。

 

速くなった社会的時間と生物的時間とのギャップによる弊害を考えるために、人類が進化適応した環境である狩猟採集時代をイメージしながら考えてみましょう。

狩猟に行く時は、徒歩で移動しながら獲物がいないか危険がないかを、キョロキョロ観察しながら情報収集していたはずです。ただし、自分の脚で草原の中を移動していたため、景色や状況が目まぐるしく変わるようなことは少なかったはずです。移動しながら確認する以外にも、事前に仲間からどこでどんな獲物や危険に出くわしたかなどの情報も得ていたことでしょう。このように狩猟採集時代の情報は、自分の脚で歩き目や耳で確認したり、最大で150人程度と考えられている集団内で人づてに聞いたりするものに限られていました。

他方で現代は、移動速度が速くなったことで空間や会う人が目まぐるしく変わります。視覚をはじめとした五感で得る情報の量は格段に増えました。さらに近年は、インターネットとスマートフォンによって、飛び込んでくる情報が桁違いに増えたことは言うまでもありません。もはや人間の生物的時間軸に基づいてデザインされた能力では、一つ一つに対して何かを感じたり考えたりすることは不可能に近くなったと言えます。これは私たちに不安を感じさせたり、時間の密度を低下させたりすることにつながっていると考えられるのではないでしょうか。

また、知識やスキル、またはもっと深いところに根付く知恵や社会の前提の、習得や棄却の速さも大きく変わりました。狩猟採集の時代は、石器の作り方や火の起こし方、獲物の捉え方、食べられる木の実の知識など、必要な知識や知恵が少なかったわけではなかったと思います。しかし、一度覚えれば一生使うことができ、それゆえに年配者は長老としてうやまわれていました。

しかし現代は、必要とされる知識やスキルはどんどん変わり、何かを考えたり決断したりする際の拠り所となる社会の前提までもが、一生の間に何度も変わる時代となりました。たとえば少し前までは、正解があることを前提に正解にいかに速くたどりつけるかが価値とされ、そのための知識やスキルである問題解決力を長い学校教育などを通して習得してきました。しかし近年は、解くべき問題自体を見つける問題発見力を必要であると言われ、習得すべきとされることが変化しました。また、終身雇用や年功序列といった安定感のある働き方や、年金などの老後の生活保障も崩れ始めました。寿命が延びていることも相まって、年齢を問わず知識やスキルの再習得が必要とされています。知識やスキルは比較的表層的ですが、自分が信じていた前提や常識が変わってしまうことは心にも脳にも大きなストレスであることは想像に難くありません。

これらの問題は、エネルギー投下によって速く・長くなった社会的時間と、私たちが元来有する生物的時間とのギャップによる弊害であると考えられるのです。

 

では、私たちは産業革命以後急激に速くなった時間軸に、これからどのように対峙していけばいいのでしょうか。

第四章 私たちはどのような時間軸で生きるのか

このブックレットでは、心周期や成獣になるまでの期間、寿命などの生きものとしてのイベントを尺度とする生物的時間を紹介してきました。生物的時間はサイズ(体重)との相関関係が見られたため、生物ごとに時間がデザインされていることが示唆されました。

また、サイズの小さな生物ほど時間あたり・体重あたりのエネルギー消費量が多く、エネルギー投下量が多いほど生物的時間は速く進むことが考えられました。したがって、サイズの小さなネズミはエネルギーを多量に投下して生涯のイベントを次々に終え、サイズの大きなゾウはエネルギーを少しずつ投下してゆっくりと生きていると捉えられました。

私たち人間は、体内に投下するエネルギーに加えて、体外の拡張機能や環境にもエネルギーを投下しています。そうすることで、時間あたりに対峙する出来事が増えるという意味で相対的な時間を速め、また恒環境化などによって非活性時間を活性に転換することで、社会的時間を生み出していると考えることができました。寿命が長くなり、同時に社会の時間が速くなっているということは、何倍・何十倍もの時間を生きられていることを意味し、なんだか得をしているようにも感じます。

しかし、何倍も何十倍も生きていることに見合った充実感や幸福感を、今感じられているのでしょうか。

 

社会的時間が速く進むことは、一生のうちに経験できることや、出会える人や出来事が多くなって、より濃密な人生につながるように感じられます。ただし、考慮しなければいけないことは、私たちの生物的な時間軸はそれほど柔軟に変化しないということです。狩猟採集の時代を多く過ごしてきた私たち人類は、その時代の時間軸に進化適応していると考えられます。

この時間軸には、情報を処理する能力、言い換えると情報や知識を自分のものにするまでの時間や、何かを感じたり考えたりする時間も含まれていると考えられます。そう考えた場合、速くなりすぎた社会的時間の中で過ごす私たちは、さながら映画を早送りやダイジェスト版で見ているような状況であると言えるのではないかと考えられます。早送りやダイジェスト版は、結果や概要を知るための情報としては有用です。しかし、深い感動や、骨身にみていくような感覚はあまり感じられません。多くの情報や経験を得ているようでいて、実は心や身体を素通りさせているだけの可能性もあるのです。

また、私たち人間は、元来生物として必要なエネルギーの数十倍のエネルギーを投下しています。しかし、このようなエネルギー投下のあり方が、本当に私たちの充実度や幸福度につながっているのかは改めて考えてみる必要があります。

生きものは、自ら獲得したエネルギーを体内に投下することで、身体の成長や筋肉の収縮、心臓の鼓動などの生物的時間を生み出しているのでした。それは「生きる」ということと同義であると言えるはずです。

私たち人間は、生きものとしてのイベントに加えて、他の何かに一生懸命自分のエネルギーを注ぎ、自分の人生にとってのイベントになったと感じられた時に、充実感や幸福感を感じるのではないでしょうか。石油や石炭といった一次エネルギーを投下しなければ今の社会は維持できませんが、そういった周囲の仕組みの上で生きていくたけでは満たされないのかもしれません。仕事や人生に対して額に汗して働く主体はあくまでも自分であるのではないかということです。それによって一つ一つの時間に意味が生まれ、時間が濃密になっていくのではないかと思うのです。

 

産業革命によって急激に社会の機械化が進み、社会的時間が速まるとともに、時間の主体が機械に移っていったのではないかと考えられました。機械は速くダイナミックに、しかも疲れを知らず働き続けられるため、工業化社会や資本主義社会のもとでは重宝されて中心に据えられていきました。そして昨今では、AIの発達によって社会の主体が機械にさらに持っていかれるのではないかということを危惧する声も聞かれます。AIは、私たち人間にとって居心地のよくない時間を作り出してしまうのでしょうか。

私は、必ずしもそうはならず、時間の主体を人間または元来の周囲環境である自然に取り戻すきっかけになりうるのではないかと考えています。なぜなら、人間の行っていたマニュアルやルールに基づいて行う正確で速い処理をAIが代行してくれるのであれば、人間はより人間らしいことに時間を使えるからです。機械に主体を奪われるという恐れを抱くのは、産業革命から近代へかけて根付いた感覚なのではないかと考えられます。その頃の機械は力強くはありましたが一様にしか動けなかったため、社会的時間もそれに合わせざるを得ませんでした。しかし、AIによってより人間側に近づいてくるのであれば、AIや機械に担ってほしい事を人間目線で考えることができるようになったと見ることもできます。

そのような社会変化のタイミングで、私たちはどのような時間軸で生きたいと思うのでしょうか。それは、一つ一つの出来事に感じたり考えたりすることができるような、生きものとしての人間の時間軸に沿ったものなのではないかと考えます。衣食住が整えられた今だからこそ、速さだけではない人間目線の時間デザインを考えることができると思うのです。

 

リベル:人間目線の時間デザインとは、具体的にはどのような場面における、どのようなものが考えられるのだろうか。モノのユニバーサルデザインや、建築のヒューマンスケールという言葉は聞いたことがあるから、そういったものを参考に考えてみたい。あるいは、他国や過去の社会を参考にするのもいいかもしれない。

リベル:一人で考えても幅が広がらなかったため、みなさまから投書を募りシェアしていきたいと思いました。もちろんリベルなりの考えも投稿しており、これからも思いついたら追加していく予定です。ご投書をお待ちしています。

 

最後に、本川先生にこのような問いを投げかけてみました。

「今の社会には、どのような時間デザインが施されるべきなのでしょうか。」

 

本川先生:今は、ものすごい速さで流れる時間に合わせられなかったら、落ちこぼれになってしまう社会であると言えるのではないでしょうか。

特に高齢者には厳しくて、自動販売機で迷っていたら迷惑そうな目で見られたり、システムでもちょっとボタンを押し間違えただけでゼロリセットされたりします。そして最たる例は、自動車の免許返納です。これは車という速い時間に合わせられなくなったらおしまいであると、突きつけられているかのようです。

しかし、このようにちょっと歳を取っただけで落ちこぼれるような社会では、若者も実は無理をしているのではないかと思うのです。現代は毎年約2万人の自殺者が出ていますが、これだけ便利なのに精神的に追い詰められる人がいるのには、一様で速い時間にも一因があるのではないかと考えられます。ちょっとした衰えや違いを受け入れられない社会は、脆弱であると言えるのではないでしょうか。

20世紀は自動車とコンピューターの時代でした。機械は、定型的に動く分、無駄がないとも言えます。何が無駄かというのは難しい問題ですが、無駄があるのは定型的ではないと言え、多様性があるとも言えます。年齢やちょっとした違い、または一見無駄に見えるようなことでも受け入れられるような、多様性ある社会時間のデザインが今、求められているのではないでしょうか。

 

 

(2020年5月16日掲載)

 

〈参考文献〉

  1. 本川達雄著『「長生き」が地球を滅ぼす —現代人の時間とエネルギー』(CCCメディアハウス)
  2. 本川達雄著『ゾウの時間 ネズミの時間 —サイズの生物学』(中公新書)
  3. 『1世代当たり1.062台に —自家用乗用車(登録者と軽自動車)の世帯当たり普及台数』(一般財団法人自動車検査登録情報協会)

 

 

 

 

 

平日は社会的時間で、休日は生物的時間で、なんていう切り替えができたらいいのかもしれない。 #リベル

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