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遺伝的探訪

挑戦するすべての人へ

文量:新書の約44ページ分(約22000字)

はじめに

自分は何をする人間になるのか、とは十代後半から二十歳はたち前後頃に抱く問いや悩みではないでしょうか。学校生活などを通じて見えてきた自分の一面的な輪郭と、まだまだ乏しい社会への認識を錯綜させながら、自分は何ができるのか、自分は何がしたいのかを模索していきます。このような問いに対する答えをいち早く見つけた人は、才能がある人と見なされます。最も分かりやすい例としては、甲子園で活躍をしてプロ入り確実と目される野球少年などではないでしょうか。ほかにも、何らかの評価軸が定められがちな社会生活の中で輝きを放つ人はおり、そのような人と自分とを見比べながら才能を比較しがちです。

しかし、人間の才能とは、それほどまでに分かりやすく一軸的なものなのでしょうか。また、才能が発現するタイミングはみな同じなのでしょうか、人生の前半の早い時期なのでしょうか。

 

私たちの心身の特徴は遺伝子に由来するところがあります。遺伝子がもつ情報を設計図として、環境の影響も受けながら体や心が形成されていきます。そして才能というものは、生まれ持ったもの・先天的に備わっているものというイメージがあるはずです。したがって、才能について考えるときには遺伝子に関する知見や考え方は避けては通れません。そこで今回は、遺伝子の見地から、才能とはどのようなものなのか、どのように見つかっていくものなのかを考えていきたいと思います。

このブックレットでは、以下の点を前提として考え進めていきます。遺伝子には先行する様々なイメージがつきまとうため、以下を留意しながら読み進めていただければと思っています。

その前提とは、生まれ持った遺伝子によって個々の優劣が決まる、というような単純で極端な考え方は妥当ではないと考えるということです。個々がもつ遺伝子は超多様であり、遺伝的形質は環境によってあぶり出される性質があります。私たちが生きる環境は時事刻々と変化し広がりがあり、また生きていく上では様々な能力が必要とされます。そのような前提を踏まえると、優劣という一言を前面に出して語るのは、正しい姿勢ではないということが見えてきます。ただしもう一方で、環境や努力によって全てが変えられるというような姿勢や考え方もとりません。遺伝子が私たちの心身の形成に寄与する限り、遺伝子も、環境や努力も、才能の発現に寄与すると考えることが妥当であると考えます。

 

冒頭では、思春期と呼ばれる時期の自分の進む道に対して抱く悩みや葛藤を想起しました。しかし、同様の問いは大人になってからも抱き続けることなのではないでしょうか。自分は何をする人間になっていくのか、何ができるのか、何がしたいのかは、人生における大きな関心事です。まだほんの一端ですが遺伝子に関する知見を得たときに私は、自分の才能や道を探すことは、決してごく若い時期だけに行われることではなく、年齢を重ねても向き合い続けるテーマであるのだと感じました。

遺伝子の見地から広がる才能に関する考え方や才能の見つかり方は、決して単純明快なものではありません。でも、だからこそ可能性を感じられます。人類がそして生物が脈々と受け継いできた遺伝子の多様性や複雑性を噛み締めながら、自分の才能の見つかり方について考えていきたいと思います。

 

今回は、慶應義塾大学文学部教授の安藤寿康先生にお話を伺いました。安藤先生には、遺伝的素質や才能についての適切な考え方や向き合い方についてご教授いただきました。このブックレットは、いただいた知識や考え方に、不足する情報や具体例などを執筆者なりに集めて補いながら作成しています。

 

安藤寿康あんどうじゅこう先生

1958年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。慶應義塾大学文学部教授。博士(教育学)。専門は教育心理学、行動遺伝学、進化教育学。

 

〈著書〉

  • 『なぜヒトは学ぶのか ―教育を生物学的に考える』(講談社現代新書、2018)
  • 『「心は遺伝する」とどうして言えるのか ―ふたご研究のロジックとその先へ』(創元社、2017)
  • 『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(SB新書、2016) など

 

執筆者:吉田大樹
 「こころが自由であること」をテーマに、そうあるために必要だと思えたことをもとに活動しています。制約がありすぎるのは窮屈で不自由なのだけど、真っ白すぎても踏み出せない。周りに合わせすぎると私を見失いそうになるのだけど、周りは拠り所でもある。1986年岩手県盛岡市生まれ。

 

 

 

目次

  • はじめに
  • 第一章 99.9の共通性と0.1に潜む超多様性
    • 一卵性双生児の再会
    • 心身を織りなす遺伝子
    • 私たちの共通性と個別性
  • 第二章 否応なく滲み出てしまう才能
    • 遺伝的形質は多様に広がる
    • 才能をどう捉えるか
    • 既存の評価軸では測れない
  • 第三章 環境と自己との遺伝的往復
    • 環境によってあぶり出される才能
    • 自由と厳しさ
    • 内に湧く個体学習
  • 第四章 一生、自分探しの旅

 

〈参考文献の表示について〉
 本文中で参考文献は、[文献番号,参考箇所]という表し方をしています。文献番号に対応する文献は最後に記載しています。参考箇所は、「P」の場合はページ数、「k」の場合は電子書籍・Kindleのロケーションナンバーになります。

 

第一章 99.9の共通性と0.1に潜む超多様性

遺伝子という言葉を見たり聞いたりすることは少なくありません。そのイメージは、違いを決定づけるもの、絶対的で強固なもの、というようなものではないでしょうか。たとえば、アスリートの遺伝子とか、これは親の遺伝子だからとか、個人の特性を説明するときに遺伝子という言葉を利用することで、良くも悪くも納得感をもたらします。しかし、遺伝子が私たちの個性や才能に実際にどの程度影響を及ぼしているかは、あまり知られるところではないのではないでしょうか。本章では、遺伝子の正体の一端にも触れながら、遺伝子が私たちに一体何をもたらしているのかを考えていきたいと思います。

一卵性双生児の再会

身の回りの兄弟姉妹を見ていると、顔や性格など似てはいるけど、別の人なのだと分かる違いがあります。両親を同じくする兄弟姉妹は、父と母それぞれから遺伝子をもらうため、遺伝情報の源泉は同じです。しかし、何を受け継ぐかはランダムであるため、兄・弟・姉・妹それぞれのまとまりとしての遺伝子は異なるものになります。それに対して、一つの受精卵から生まれる一卵性双生児は、基本的に全く同じ遺伝子を持ちます。私には身近な一卵性双生児の知人はいませんが、テレビなどで見ると本当によく似ています。顔立ちや身長などだけではなく、仕草やリアクションのタイミング、好きなテレビ番組などまで同じです。しかし、内面に関してはテレビに出るにあたって示しを合わせたりお互いに意識したりしているのではないかとか、同じ環境で生きていれば似るのは当たり前なのではないかとか、いろいろ勘繰ってしまいます。ただ、以下に紹介する違う環境で育った一卵性双生児の再会エピソードからは、遺伝子が同じであることの奇蹟を感じざるを得ません。

 

1979年、アメリカのオハイオ州で、生まれて37日後に離れ離れになり、お互いに別の環境で育った一卵性双生児が39年ぶりに再会したという話が地方のある新聞で取り上げられました。驚くべきことは、二人の体や顔などの表面的特徴だけではなく好みや人生の歩みまで似ていたことです[1,P30]。

二人は、同じオハイオ州の中のブルーカラーの二つの家庭で育てられました。学校の成績はあまりかんばしくなく、一方は高校一年生のときに落第し、もう一方も高校時代に落第すれすれの成績をとり続けていました。成人した二人はシボレーを運転し、セーラムが好きなヘビースモーカーで、自動車レースは好きですが野球は大嫌いでした。二人とも離婚歴があり、最初の妻の名前は二人ともリンダ、二度目の妻はどちらもベティーでした。情熱的なロマンチストである二人は、妻へのメッセージを家中に書きつける趣味を持っていました。そして息子の名前は同じくジェームズ・アレン、飼い犬の名前はどちらもトイでした。その名前が好きだったのだと言います。類似点はさらに続きます。趣味は日曜大工で、地下にほとんど同じような作業場を設け、部屋の隅には同じようなコーナーベンチが置かれ、壁に掛かった道具も同じような並び方でした。そして二人とも家具や額縁を作るのが好きだったのだそうです。

これは同じ家庭で育った一卵性双生児の話ではありません。別々の家庭で育った一卵性双生児の話です。確かに同じ州で育ち、育ての親の仕事や所得も類似していそうです。しかし、妻や子供、飼い犬の名前などまで同じになるでしょうか。まるでお互いに細かく連絡を取り合っていたかのような類似度合いです。

身近な兄弟姉妹と比べて極端なほどに似すぎている二人のエピソードからは、遺伝子の影響を感じざるを得ません。では、遺伝子とは一体どのようなものなのでしょうか。その全てを理解することは困難ですが、一端に触れるだけでも、遺伝子が個性や才能に及ぼす影響を想像する足がかりとなります。

心身を織りなす遺伝子

私たちの遺伝情報はA(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)、G(グアニン)という4種類の塩基によって記述されています。塩基の名前はここでは覚える必要はありませんので、4つの文字によって遺伝情報が記述されているとイメージしてください。ヒトの遺伝情報は、4つの塩基による文字がおよそ30億個並ぶことで記述され、この遺伝情報の全てのこと、すなわち30億の塩基の文字列をゲノムと言います。ゲノムは、細胞の核の中にある染色体に格納されています。

ここから少しややこしくなるのですが、塩基による30億の文字一つ一つが遺伝的形質を表すわけではありません。ATCGはあくまでも文字なので、文字を並べて意味のある文章を成す必要があります。もう一つややこしいことがあります。それは、30億の文字情報の全てが私たちの心身を作ることに使われているわけではなく、使われているのはごく一部であると考えられています。ゲノム30億の文字列のうち、使われているのはわずか数%程度であると考えられています。そして、30億の文字の海のうちの、遺伝的形質に寄与する文字列部分が「遺伝子」と呼ばれるものです。一定数の文字の連なりである遺伝子は、文章としてイメージしてもらえればと思います。遺伝子(=文章)の数は、およそ2万2千程度であると考えられています。この2万2千の遺伝子の組み合わせが、私たちの目・鼻・口や、運動能力・感性・性格などを形成する基になるのです。

ゲノムや遺伝子などの少し複雑なメカニズムについて紹介したので、以下の図でまとめたいと思います。図では紙に並ぶ文字列という例えで表現していますが、ATCGは実際には二重螺旋らせんの上に並んでいます。またゲノムはひとまとまりの連なりではなく、23の染色体に分割して記述されています。

 

ゲノムが30億の文字で遺伝子が2万2千の文章と聞いても、インターネット上の膨大な情報のなかで生きている私たちにとっては、あまり多いものと感じられないかもしれません。しかし遺伝子一つ一つの組み合わせで遺伝的形質が決まり、もう少し細かい話をすると3つの塩基で単語にあたるアミノ酸が指定され、アミノ酸の組み合わせで一つの文にあたるタンパク質が形成されます。つまり、遺伝子一文一文と、遺伝子の中に刻まれた一文字一文字が私たちの心身を織りなしているのです。一つ一つ意味の深い遺伝的情報が奇蹟的に同じである一卵性双生児は前述したような類似性を示し、それ以外のほとんどの場合は一人一人違う人間として生まれ成長していきます。

しかし、一人一人が違うとは言っても、同じ種である私たちヒトは99.9%のゲノムは同じであると考えられています。つまり、私とあなたの遺伝的な違いはわずか0.1%でしかないのです。一体私たちは同じなのでしょうか、違うのでしょうか。

私たちの共通性と個別性

遺伝子が99.9%同じと言われたときに、よくよく考えると納得できることがあります。私たちの姿形の特徴は類似しており、できることの大部分も類似しているからです。目と耳は2つ、口と鼻は1つ、指は5本あります。食べ物を食べれば消化してエネルギーに変換し、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すという呼吸をすることができます。歩くことも走ることも自転車に乗ることもでき、言語を聞いて理解し、思ったこと考えたことを言語を使って発し、学習すれば文字に表すこともできます。これらは皆できるためあまり意識しませんが、このあたりまえこそが99.9%の共通性であると言えます。これらの遺伝的形質が脈々と受け継がれることで、私たちは生きることができています。私たち一人一人が、生きるために必要な非常に高度な形質・機能・能力を備えているのです。

しかし、違いも確実にあります。走る速さの違い、物覚えの良さの違い、体型の違い、集団への打ち解けやすさの違いなど、挙げればキリがないほどの違いを私たちは普段感じています。その違いを生み出す基となるのが、残り0.1%の個々の遺伝子の違いであると考えられるのです。0.1%と聞くと取るに足らないわずかなものに感じられるかもしれません。しかし、遺伝子一つ一つが意味の深い2万2千もの情報であることを考慮すると、わずか0.1%の違いでも無視できない違いを生み出すことにもうなずけます。

ゲノムの0.1%の違いとは30億の千分の一であり、300万の文字が違うということになります[2,P31]。ゲノムのうち、遺伝的形質に影響を与える遺伝子の割合は数%程度と考えられていますが、ここでは少なく見積もって1%と見なします。すると、300万の1%なので、遺伝子内の3万の文字が違うということになります。遺伝子(=文章)の数は2万2千程度なので、平均して各遺伝子に1文字以上の違いはあるという計算です。1文字の違いとは言っても違うタンパク質の形成につながる可能性があるため、決して小さな違いではありません。

このような違いが、多様性にどうつながっていくのか考えを進めていきましょう。3万の文字の違いが各遺伝子にまんべんなくまぶされるとは限りません。そこで、遺伝子2万2千のうちの10%に文字の違いによる影響が及ぶとします(60%以上に及ぶとする報告もあります)。つまり、2千2百の遺伝子に違いがあるということです。各遺伝子に3種類の型式があるとしたら、多様性はどのように見積もられるでしょうか。3の2千2百乗であり、計算するとおよそ4.6×101049です。これに対して地球の人口は80億人程度、わずか8×109です。遺伝子の多様性は0が1000個以上続くのに対して、人の数は0が9個続く程度です。全くレベルが違います。つまり、わずか0.1%の違いには超がつくほどの多様性が内包されており、人は一人一人遺伝的に異なると考えることが妥当なのです。

 

この共通性と個別性をどう捉えればいいのでしょうか。

まず、99.9%の共通性からは、私たちは一人一人基本的に同じことができると捉えられるのではないかと考えられます。たしかにウサインボルトのように速く走ることはできませんし、アインシュタインの生み出した一般相対性理論も理解できないかもしれません。それでも生活に困らない程度の移動能力はあり、読み書き算盤そろばんを習得でき、言語による意思疎通ができます。これらの基本能力の組み合わせによって、日常生活や仕事を行うことができます。

だからといって、0.1%の違いを気にしないではいられません。人との違いを活かして社会の役に立ちたい、認められたいと思うのです。そのような願望を抱くときに直面するのが、才能の優劣です。しかし、遺伝子が超多様であるとしたときに、才能の優劣など容易に測ることなどできるのでしょうか。才能の優劣の判断は、人間社会が後から定めた有限で画一的な評価軸による影響を受けないではいられないはずです。しかしながら、そのような評価軸に乗らないくらい、遺伝的多様性は広がりを持つものなのです。

私たちは、99.9の共通性の土台の上の0.1の違いを才能と呼んで探し求めているとも言えます。では、その0.1の違いには、どのような特性・形質が含まれるのでしょうか。才能とは、どのようなもののことを言うのでしょうか。次章では、遺伝的影響の範囲と程度に触れながら、才能というものに対する考えを深めていきたいと思います。

第二章 否応なく滲み出てしまう才能

遺伝子は私たちの心身にどこまで影響を与えているのでしょうか。身長や目鼻顔立ちに影響を与えていることは認識されるところだと思います。また運動能力も、アスリートを親に持つ子が活躍する姿をテレビなどで見るため遺伝の影響がありそうです。では、性格はどうなのでしょうか、好きなことや没頭できることはどうなのでしょうか。本章では遺伝子が私たちの特性に及ぼす範囲や程度について、双生児研究の結果から紹介します。またその見解を基点として、才能とはどういうものなのかを考えていきたいと思います。

遺伝的形質は多様に広がる

私たちの特性に対する遺伝子の影響の範囲や程度を調べることは容易ではありません。遺伝子の塩基配列が分かったとしても、何に影響を及ぼすものなのかを特定することは困難です。遺伝子一つ一つが足の速さや物覚えの良さに紐づいているわけではなく、いくつもの遺伝子の組み合わせによって、私たちが認識するような形質として現れるからです。また、仮に親兄弟といえども遺伝子は異なり、似ているのが遺伝子によるものなのか環境によるものなのかも判断がつきません。そこで用いられる方法が、「双生児法」です。

双生児法は、一卵性双生児と二卵性双生児の類似性を統計的に比較することで、それぞれの形質に対する遺伝と環境の影響割合を推計する方法です。具体的なメカニズムを簡単にではありますが紹介しますが[3,k612]、読み飛ばして図4に示す結果から見ていただいても問題ありません。

 

双生児法では、形質の類似性・非類似性の要因は遺伝と環境に分類されると考えます。一卵性双生児は一つの受精卵から生まれるため、遺伝子を全く同じにしています。したがって、一卵性双生児の二人の特性の間に違いがあれば、環境の影響として考えられます。しかしもう一方で、類似していたとしても遺伝の影響なのか環境の影響なのか、はたまた両方の影響なのかの判断がつきません。そこで二卵性双生児と比較することが有効な手段になってきます。ここからはIQを例に、少しの数式を交えながら、双生児法によってどのように遺伝と環境の割合が推計されるのかを説明していきたいと思います。

一卵性双生児と二卵性双生児それぞれのIQなどの類似度合いは、相関係数というもので表されます。これはたとえば、統計をとった対象の全ての双子二人が全く同じIQであった場合、相関係数は1になります。反対に、双子二人のIQの値が異なるほど相関係数は0に近づいていきます。言い換えると、双子の形質のばらつき方が小さく・類似しているほど相関係数は1に近くなり、ばらつき方が大きく・類似していないほど0に近くなります。

いま、一卵性双生児のIQの相関係数が0.73で二卵性双生児は0.46だとします。遺伝子が全く同じ一卵性双生児の相関係数が1よりも小さいということは、その分だけ環境の影響を受けていると考えられます。二人を似させない方向に働く環境を「非共有環境」と呼び、以下のように算出することができます。

 

非共有環境 = 1 – 0.73 = 0.27

 

一卵性双生児の類似度合いが0.73とされていても、遺伝による類似なのか環境による類似なのかが分かりません。そこで、二卵性双生児との比較から、遺伝と環境の割合を算出していきます。二卵性双生児の遺伝子の共有度は、一卵性双生児の100%に対して50%です。ということは、IQの類似が仮に遺伝によるものだけであれば、一卵性双生児の相関係数0.73に対して、その半分の0.36程度になるはずです。しかし、二卵性双生児の相関係数は0.36よりも大きい0.46となっています。これにより遺伝子以外に二人を似させる要因があることが示唆されます。その類似させる方向に働くものは環境であると考えられ、似させない方向に働く環境である非共有環境に対して「共有環境」と呼びます。これらの関係を用いると、IQの類似における遺伝と環境の影響は以下の数式により表されます。

 

一卵性双生児の相関係数:0.73 = 遺伝 + 共有環境

二卵性双生児の相関係数:0.46 = 1/2遺伝 + 共有環境

 

この連立方程式を解くと遺伝割合が0.54、共有環境割合が0.19となります。さきほどの非共有環境の0.27と足し合わせると1になり、遺伝と環境の割合が導き出されたことが分かります。

 

IQ以外の様々な心理的・身体的側面に対して、双生児法を用いて統計的に推計が行われています。図4ではその一部を紹介したいと思います。

 

図4を見ていただく際の注意点があります。それは、各項目の遺伝と環境の割合は絶対的なものではないということです。各項目の割合は様々なテストによって導き出されたものですが、項目によってはテスト内容や母数が不十分なものもあると考えられます。したがってたとえば、音楽より美術の方が環境要因が大きいから、美術は環境作りや努力で成果を出しやすいなどという細かい分析には適さないデータであるということです。

この図で言いたいことは、性格・能力・行動などのあらゆることに、遺伝的影響があるということです。私たちが才能としてイメージする、スポーツや芸術、学業成績などに限定されるものでは決してありません。各項目・形質に概ね30〜70%遺伝が寄与しているということです。

能力以外の性格などの項目は、遺伝的であるとしても才能であるとは言えないのではないかと思われるかもしれません。しかし、社会人になって仕事を始めると、思っていた以上に様々な性質が生きてくることを実感します。営業では外向性を持って他者との関係を楽しめる人が様々な情報やニーズを拾い集めてこられるのかもしれません。誠実でなければ長期的な関係を築くのは困難でしょう。最近ではイノベーションを求める声が高まり新奇性追求や開放性は重要な資質となってきていると思われます。他方で、何かに固執してコツコツと積み重ねることもこれまでにないサービスを生み出すためには必要です。協調性は当然なければいけないと思われるかもしれませんが、協調を無視して自我を押し通す人がいなければ、今まで通りの路線で進み続けるだけになってしまうかもしれません。しかしながら、協調や調和の心がなければ、ひとりよがりになってしまい社会や人に必要とされる仕事はできないのかもしれません。そして当然のことながら、損害回避をしながら現状を守り生き残り続けることも必要です。

学校生活では学業成績が良い人やスポーツ万能の人が目立つ傾向にありました。しかし社会に出ると、そういった画一的な評価だけでは測れないような人が仕事で成果を上げ、個として突出した存在になっていることが分かります。才能というものは、決して画一的なものではなかったのです。図4に示した以外にも様々な研究が行われ、様々な心理や行動に遺伝の影響が示されています。今後も、研究項目は増えていくでしょう。私たちの特性のあらゆる側面に遺伝子は関与しているのです。

さらに、私たち一人一人は、どれか一つの指標が著しく高い・低い人として特徴付けられるわけではありません。調和性が高くてスポーツもできるけど自尊感情はなぜか低くて実はギャンブル好きな人、というようにいくつかの形質が組み合わさって人格が形成されています。人の性格はいくつかの要素で構成されるとする考え方があります[3,k534]。たとえば、「ビッグ5」と呼ばれるものは、経験への開放性(好奇心の強さ)・勤勉性・外向性・協調性・情緒不安定性の5つの要素を提唱します。「ジャイアント3理論」では、外向性・情緒不安定性・精神病質の3つを性格の構成要素としています。これらの理論は、人の個性を限定的なものとする考え方ではありません。安藤先生は、性格要素の組み合わせによる多様性を、カラープリンターのインクに例えて表現し「カラープリンター理論」と呼んでいます。すなわち、カラープリンターでは様々な色をプリントすることができますが、カラフルな色を生み出すインクとして装着されているのはシアン・マゼンタ・イエローの三色です。これらの組み合わせで様々な色が表現できるように、人の性格も組み合わせによって色々であるということです。これは性格以外の形質の様々な組み合わせについても言えることでしょう。

また、各項目には遺伝だけではなく環境も遺伝と同程度の割合で含まれています。つまり、私たちの性格や能力の違いは、遺伝だけによるものでも環境だけによるものでもないということです。自分の才能を見つめるときには、素質の問題なのか、努力が足りないのか、環境を変えた方がいいのかなどという模索は、必然的に伴うものであると言えると考えられます。才能とは決してシンプルなものではないのです。

才能をどう捉えるか

では、私たちの心理的・行動的形質のあらゆる側面に遺伝が半分程度影響し、残りの半分程度は環境に影響を受けるとしたときに、才能とはどのように捉え直されるのでしょうか。ここでは安藤先生に例示していただいた、音楽の才能があるかどうかに悩む人を想定して考えていきたいと思います。

 

音楽大学に入ったXさんは、入ってみたら自分よりも才能豊かな人がごろごろといて、ちょっとやそっとの努力ではとても追いつけそうにないと感じ始めます。自分には本当に才能があるのだろうかと悩み、もうここで諦めて別の道を選んだ方がいいのか、でももっと別の先生に出会ったり留学して環境を変えたりすれば、まだ伸びるのかもしれないとも思います。日々練習に明け暮れながら、自分の才能に向き合い続けています。

 

行動遺伝学の知見を用いても、Xさんの才能がいずれ開花するのかどうかは、基本的には分からないとしか言えません。あることを学習し続けていくうちに、やがて理解できなくなったり、伸び悩んだりしてしまう時期があります[4,k2367]。これを心理学では「プラトー(高原状態)」と呼びます。プラトーはたいがいの学習のいろいろな段階で生じ、学習中の知識の整理整頓を行っている段階と考えられています。この場合は、遺伝的な限界ではありません。しかし、同じような伸び悩みでも頂上に達した時に起こる「スランプ」もあります。この場合は遺伝的な限界である可能性があり、いま真正面から向き合っている分野で登り詰めることは難しいのかもしれません。ただ、自分が今プラトーなのかスランプなのかは、分からないのです。

才能や資質と向き合うとき、ネガティブな思考に至ることも少なくないと思います。しかし、遺伝子が及ぼす影響、つまり先天性に基づく私たちの心理や行動は多様です。そして音楽の才能を構成する要素も様々なはずです。指が速く正確に動くこと、素敵な表現が思い浮かぶこと、絶対音感を持っていることを仮に音楽的才能の代表的な要素としましょう。Xさんはこれらの能力が劣っていると感じているとします。しかしそれでもXさんを今の場所に至らしめ努力の継続を促しているものは、Xさんの内にあるはずです。自分よりも高い才能を持っている人の演奏が分かるとか、音楽に感動する感性を持っているとか、気付いたら音楽のことばかり考えてしまって仕方がないとか、色々あるはずです。そしてこれらの能力や性格は、ポジティブなものであると言えるはずです。

既存の評価軸では測れない

個々が持つ遺伝的形質・先天性・才能が様々なのであれば、必ずしも既存の評価軸では測りきれないはずです。

どうしても有名な人の例しか挙げることができませんが、世界陸上の400mハードルで2度の銅メダルに輝いた為末大氏は、元々は100mの選手でした。陸上では100mが最も人気があり、花形の種目です。為末氏は、中学3年生の全国大会で優勝し、全国ランキングのトップに立っていました。しかし、肉体的に早熟だった為末氏は高校生になって伸び悩みます。そして高校3年生のインターハイでは、怪我と先生の勧めもあり、100mの出場を断念し、200mと400mだけに出場しました。その後の大会でも100mに出ることはありませんでした。「高校三年生、十八歳の僕としては、人生の転機とも言うべき苦しい決断だった。」[5]と著書『諦める力』の中で記しています。その後、100mが自分には適切ではないことを正当化するようにライバルとの比較分析を行い、400mハードルでメダルをとり、その分析的思考から「走る哲学者」と呼ばれるようになり独自の立ち位置を築いています。

水泳の北島康介選手や寺川綾選手などの世界的な選手を育てた平井伯昌のりまさコーチは、学生時代、名門早稲田大学水泳部に選手として入部しましたが、3年生の時に選手を引退してマネジャーに転向しました。最初は嫌々やっていたマネジャーでしたが、後輩のオリンピック出場に貢献したことをきっかけに指導にやりがいを感じるようになったといいます。現在指導している代表的な選手の一人は、2016年のオリンピック・400m個人メドレーで日本人初となる金メダルを獲得した萩野はぎの公介選手です。萩野選手は今、深い不調の谷に陥りながら、復活へ向けて励んでいます。ドキュメンタリー番組で見た平井コーチは、休養を申し出てきた萩野選手に「やっと言ってきたか」というような声を漏らしていました。私はそれを見て、指導者としての知識や経験だけでなく、選手であった時の経験も現役選手との適切なコミュニケーションに生きているのではないかと感じました。

著書やテレビのなかに見る為末氏や平井コーチからは、彼らを表象するような才能が固有名詞的に存在するのではないかというほどの独自性を感じます。元アスリートでありながら執筆の力もあり、客観性に優れた分析力で、スポーツ選手だけではなくビジネスパーソンの注目も集める為末大氏。選手が自ずと集まってくるだけではなく自身も選手の素質を見極める目を持ち、厳しくも科学的なトレーニング指導で、オリンピックメダリストを次々と育て上げていく平井伯昌コーチ。彼らの持つ全てがその成果に結びついており、さながら「為末大才能」「平井伯昌才能」という遺伝子のセットがあるかのようです。

しかし、彼らは最初からそのような才能のセットの存在を自身で認識していたのでしょうか。

そうではなかったのではないかと思います。為末氏は十八歳での種目転向を「苦しい決断」と言い、平井コーチは大学3年時のマネジャーへの転向をネガティブに受け止めていました。自分が今歩んでいる道と自分の遺伝的形質が合わないことは、現実的にあるのだと考えざるを得ません。しかしながら、今の現実が全てではないと考えられます。自分でも決して全てを把握しきれていない遺伝子という持ち物といくつもの環境がぶつかり合うことで、才能というのはあぶり出されていくのだと考えられるからです。

 

人生で様々な方向転換を迫られるなかでも、道標みちしるべになるようなものはあるのかもしれません。その一つは、好きなもの・没頭できるもの・自然と時間を費やしてしまうものであると考えられます。好き・没頭とは大げさに感じてしまう人も、なぜか考えてしまうもの、時間を使っても苦ではないものなどがあるのではないでしょうか。世の中の無数にある関心事のなかから自分で選択したそれは、遺伝的影響の表れであると言えると考えられます。どうしても気が向いてしまうもの、才能がないと感じてもどうしてもあきらめきれないものの近縁きんえんには、自分の才能と呼べるものが眠っているのかもしれません。才能とは自分の理性や意識、周囲の期待などとは関係なく、否応いやおうなくにじみ出てしまうものだと考えられるのです。

 

自分の遺伝的形質が社会の既存の評価軸とフィットしたとき、それは誰の目からも明らかな才能として認識されます。しかし、人の遺伝的形質が個々に異なるのであれば、社会が作った評価軸に乗せるのは困難であると考えるのが妥当なのではないでしょうか。仮に近くにある評価軸に自分を乗せてみても、しっくりこなかったり、上には上がいるという結果になったりするのかもしれません。自分だけの才能を見つけるということは決して簡単なことではありませんが、これまでの人生の足跡に滲み出ている可能性があります。あるいは、まだ適切な環境に遭遇しておらず、あぶり出されていないだけなのかもしれません。才能とは、既に自分の中にある持ち物が社会とぶつかるなかで、後づけで意味付け・価値付けが成されていくものなのだと考えられます。

次章では、自分の才能がどのようにして見つかっていくのかを考えていきたいと思います。

第三章 環境と自己との遺伝的往復

遺伝子とは私たち自身のなかにあるものでありながら、自分でもどのようなバリエーションが内在しているのか分かりません。2万2千の遺伝子の組み合わせによって現れる形質は、無数です。また今把握していると思っている自分の特性も、これまで経験した環境において表に出たものであり、別の環境に身を置けば新たな一面が現れる可能性が十分にあります。実は誰にも分からない自分の遺伝的形質・才能を、私たちはどのように見つけていけばいいのでしょうか。

環境によってあぶり出される才能

自分の才能や得手・不得手が何であるかは、過去の経験によって認識することがほとんどなのではないでしょうか。なかにはやったこともないのにできると確信できることもあるかもしれませんが、それはまさに才能ということなのでしょう。多くの場合は、実際にやるなかで周囲の人よりも上手にできることなどを確認することで、才能や得意なこととして認識していくはずです。

才能を認識する上で、環境はとても重要であると言えます。なぜなら人は、周囲の環境に適応することを目的として自分の形質を出し入れするからです。

たとえば、子どもが学校帰りに寄る児童館のエピソードを想定して考えてみましょう。

 

いつも通っている児童館は、友達みんなで楽しく遊ぶことをよしとしています。一人で遊ぶような雰囲気ではないため、Yくんもグループの輪に加わって遊ぶことにしています。Yくんも外向性という形質を持ってはいるため、みんなで遊ぶことも何とかやってのけます。でもいつもみんなと同じ方向を向いて、同じように感情を表すことに窮屈さを感じています。

あるとき、別の児童館の存在を知り、ドキドキしながらもそちらに行ってみることにしました。すると、床一面に折り紙やら木の枝やら松ボックリやらが散らばっています。子どもたちは、それらを駆使してもくもくとものを作ったり、作ったもので遊んだりしています。Yくんは空いているスペースに気になった材料を集めて、あれこれ組み替えながら気付いたら夢中でもの作りをしていました。作ったのは「家」でした。実は自分の家が新築中で、建築過程を見知っていたのです。木の骨組みに壁材を打ちつけ、庭にはちょっとした植栽もありました。それを思い出しながら木の枝を骨組みに、折り紙を壁材に、松ボックリを植栽に見立てたのです。初めて顔を出したYくんの作品に、周りの子どもも大人も驚き、褒めてくれました。この経験が、もの作りが好きであり得意であるというYくんの才能の発見につながったのです。

 

この例では、最初の児童館ではYくんは、外向性という形質を表に出して環境に適応したと考えられます。しかし、外向性の形質をあまり優位に備えていなかったYくんは、その環境にストレスを感じます。この時点では、形質はポジティブには発現していません。ただ、そのストレスが別の環境を求める行動を促し、ドキドキしながらも別の児童館に飛び込んでみるという開放性(好奇心の強さ)の形質発現につながります。ストレスが新たな形質を発現させたのです。次の児童館では内向的な遊びも奨励されていたため、内に想像が膨らんだ家を作り、自分の新たな好きなもの・得意なものの発見につながりました。

世の中には様々な環境があります。ルールやシステムが整備されているのか雑多で自分で考えて動かなければいけないのか、教室の後ろに小説が置いてあるのか理論書が置いてあるのか、個人の成果が評価されるのか協調を重んじる姿勢も評価されるのか。多くの場合、その環境に合った自分の形質を無意識的に出して適応しようとしていくはずです。遺伝的形質や才能は、学業成績やスポーツなどのように、あらかじめ整えられた環境や明示的な評価軸の上に発現する場合もあります。しかしながら、そのような既定の枠組みに囚われない、きわめて部分的・隙間的・瞬間的なところにも現れる可能性もあると考えられるのです。

 

では形質や才能を発現させるためには、いろいろな環境を経験すればいいのではないかと思ってしまいますが、そうとも言えないといいます。システマティックにいろいろとやってみるというよりも、もっと偶発的に才能というものは発現するようです。

たとえば私の知人には、高校生で「旅館」という漢字が読めなかったのに今では整骨院を数店舗経営している人がいます。ほかにも、政治家という漠然とした夢がありながらもそういう家柄ではないからと遠いものに感じていましたが、諦めきれず医学部保健学科から法科大学院に専攻を大きく変え、ある一本の糸をたぐりよせ政治の道へ進んだ人がいます。ほかにも、転勤を機に何か始めようと思い立ち全く素人の芸術活動を始めたらハマり、アーティスト育成プログラムにも選出され、会社を辞めた人もいます。

才能の発現とは、偶発的であり、人工的というよりは野生的な印象を受けます。しかし、ただ偶発的・野生的と言われても何をしたらいいのか分かりません。そこで、安藤先生からいただいたヒントを紹介していきたいと思います。

自由と厳しさ

環境が異なることによって発現する遺伝子が異なったり、その発現のあり方や寄与の度合いが変化したりする現象を、専門用語で「遺伝子と環境の交互作用」と呼びます[2,P102]。植物や動物に関してよく研究されている分野ですが、人間の行動に関して比較的安定して報告されるようになった交互作用が以下の2つです。

 

  • 環境の自由度が高いほど遺伝の影響が大きく表れる
  • 環境が厳しいほど遺伝の影響が大きく表れる

自由と厳しい、一見相反する環境のように思われますが、このことが意味することは何なのでしょうか。

 

自由な環境に関して報告されているのは、都会住まいと田舎住まいとで、飲酒量や薬物摂取の多さに及ぼす遺伝の影響が異なるというものです。酒を飲んだり薬物に触れたりする機会が多い自由な都会の方が、個々の差に対する遺伝の寄与率が大きいと双生児研究によって報告されたのです。ほかにも、一歳半から二歳の幼児の双子の実験研究では、発達検査をさせられている時よりも、自由遊びをしている時の方が強い遺伝の影響を示したという報告もあります。また、日本人の中学生の双子研究では、まばたきの数に及ぼす遺伝の影響が、自分のまばたきを意識させた時よりも意識させないように別のことに集中させていた時の方が顕著に大きく表れたと報告されています。

つまり、行動選択の自由を本人に委ねている制約の少ない環境の方が、遺伝的影響が強く表れることが示唆されているのです。

 

ではもう一つの、環境が厳しいほど遺伝の影響が大きく表れるとは、どういうことなのでしょうか。これは、精神病理や反社会的な行動傾向に関して、双子の研究ではなく遺伝子の研究によって報告されていることです。

印象的なものをかいつまんで紹介すると、ある遺伝子の活性度が低い人は強い虐待経験が反社会的行動に結びつくが、活性度が高い人はほとんど結びつかないという報告です。つまり、虐待やストレスが著しく大きい時、遺伝子の差がよりはっきり表れるということです。別の見方をすると、ある遺伝的素因があっても、環境が厳しいものでなければ発現しないということが言えると考えられます。

現在は精神病理や反社会的行動に関する報告が主なようですが、これがもし遺伝子一般について言えることであれば、才能も厳しい環境にさらすことで発現しやすくなる可能性があります。決して身近な例ではありませんが、トップアスリートは幼児期から厳しい練習を毎日こなしていたり、芸能でも歌舞伎俳優なども同様に稽古を積んだりしています。ただ、その厳しさのなかで登り詰めていけるのは、環境だけではなく遺伝的素質もセットで備わっていたからであると考えるのが妥当です。なかには、能力的になのか性格的になのか、その厳しい環境が合わずに別の道に進む人もいることでしょう。身近な例でも、受験や就職などの進路選択の際に、両親や学校側の強い期待などに反発心を抱くこともあったと思います。つまり、何らかの厳しい・極端な環境にさらされた時に、遺伝的な反応が起こり才能が発現したり、反発して自身の道筋が見えたりすることがありそうなのです。

 

自由と厳しさ、どちらの環境にも遺伝子が反応するということを私たちはどのように捉え、活かしていけばいいのでしょうか。

おそらく一人一人の遺伝的素質は、社会的制約が少なく自発的活動を自由にとることが許される環境で表れやすいのではないかと考えられます[2,P109]。しかし、その素質を「形にする」ためには、遺伝的素質が敏感に反応する厳しく極端な環境に身を置く必要があるのかもしれません。

つまり、これから自分の才能を探し始めるという段階の時は、制約を設けすぎずに思考したり行動したりすることが重要であるということです。ただし自由と言われても世の中に無数にある関心事を網羅的に試すことは困難であるため、自分の好きなこと・気になって仕方がないこと・自然と時間を費やしてしまうことなどを感覚的に選んでいくのがいいのではないかと考えられます。

いろいろと探索するなかで、もっと追求したい・極めたいと思うことができたら、より遺伝的素質が敏感に反応しやすい厳しく極端な環境に身を移す段階なのかもしれません。それによってどのような反応が出てくるのか見極めてみるのも有効な方法の一つであると考えられます。

 

また、スタンダートやセオリーに浸ってみて自分とのズレの距離を測って修正していくのも有効な方法であると考えられます。世の中には先達せんだつの教えや方法論、成功するための条件や理論などが多様にあります。本や学校やセミナー、最近ではオンラインコミュニティなどでも提供されているはずです。一人一人が異なる遺伝的形質を持ち置かれた状況も異なるのであれば、自分に完全にフィットする教えを探すのは困難です。しかしながら、なんだか気になるモデルや、要素が抽出された理論や体系的な教えに従ってみることで見えてくるものもあると考えられます。従ったり浸ったりすると、少なくない違和感やNOの反応が出てくると想定されます。しかし、それらはまさに遺伝的素質が発するものであり、才能の発現への道標となってくれるのだと考えられます。

内に湧く個体学習

遺伝的形質・才能が環境によってあぶりだされていくとは言っても、人の性格・能力・行動の違いの半分程度が遺伝で説明されるのであれば、自分の内に目を向けることも当然大切です。自分は何が好きなのか、何ができるのか、何をやりたいのかという視点です。そのために大事なことの一つが個体学習であると考えられます。

私たちは、生活のなかで意識的にも無意識的にも様々な学習をしています[4]。

たとえば、会社で先輩に仕事を教えてもらったり、友達に何かを聞いて教えてもらったりする「教育による学習」です。この場合、先輩や友達が自分のために手間をかけて教えてくれることで、知らなかったことや分かりにくかったことを学ぶことができます。教えてもらうまではいかなくても、なぜあのお店にはお客さんが入るのかをお店に潜入して観察したり、あるいはミミズはなぜ足がないのに移動できるのかを観察したりするのは「観察学習」です。これら教育学習や観察学習は、他個体に依存する学習であるという意味で「社会学習」とも言います。

それに対して、一人でする学習、つまり他個体に依存しない学習が「個体学習」です。たとえば、木の枝と折り紙で家が作れないかと試行錯誤したり、物思いや思索にふけったりすることなどが個体学習に該当します。ここで、いわゆる独学は必ずしも個体学習に該当しません。たとえば、読書によって学ぶ独学は本の著者という他個体に依存しています。著者の知識や経験が著者の思考様式によって編集された本は、教育による学習であると言えます。資格の勉強なども同様です。他方で、教育学習や観察学習を行なっている際中にも個体学習を行なっている場合があります。もっと言いますと、個体学習を伴わない教育学習や観察学習は困難であると考えられます。たとえば、本を読んだり他者から教えてもらったりしているときにも、疑問を持ったり何らかの連想をしたりしているのではないでしょうか。観察をしている時にも、観察の学習目的かられてあれこれ考えたり新たな関心事が頭のなかに浮かんでいたりするはずです。このように様々な学習において個体学習は切り離し難いものであり、同じコンテンツを見聞きしているようでいて、思考していることは個々で異なると考えられます。そしてこのような内と切り離せない性質をもつ個体学習は、遺伝的形質が表れやすい学習様式であると言えると考えられます。

 

現代は次から次へと情報が入ってきて、動画などのコンテンツも豊富です。それらの処理に注意を向けすぎると、自分の内に湧いている思考や興味関心に注意を向けにくくなると考えられます。コンテンツの本筋から逸れて考えてしまうことは、自分が特に強く抱いている関心事のはずです。また他者と話すことで気づく意見や感想の違いも、自分の特性に気づくきっかけになるはずです。

ある環境に身を置きながらも、その環境から影響を受けない自分だけの思考や行動は、才能の元になる遺伝的素質であると考えられます。どうしても引き離すことができない、自分から滲み出ているそれが、自分のやりたいことや自分にしかできないことにつながっていくのではないでしょうか。環境によるあぶり出しを受けながらも、環境から遮断された自己の内で展開される個体学習に注意を向けることも、才能の発現には必要であると考えられるのです。そしてそれら環境と自己との遺伝的往復が、遺伝的形質を結晶化させ才能の発現へとつながっていくはずだと考えています。私たちそれぞれの固有名詞的な才能が、きっと見つかっていくはずです。

第四章 一生、自分探しの旅

才能は、もう少しシンプルなものであるというイメージだったのではないのでしょうか。記憶力が異常に優れている、人を惹きつける歌声を持つ、足がチーターのように速い、など、世の中における才能の種類というものは限られており、持てる者・持たざる者がいる、そんなイメージです。しかし才能を先天的な遺伝子によるものと見るのであれば、遺伝子はあらゆる性格・能力・行動に影響を与えるものであり、必然的に才能も多様であることが分かります。また、社会に出てみると、子ども時代に友達や同年代の有名人に感じていた優劣の基準よりも、はるかに多くの性質やそれら組み合わせが必要であることを痛感します。才能というものは、シンプルなものでも既存の評価軸で測れるものでもなかったようなのです。

しかしながら、才能の多様性が分かるということは、同時に見つけることの大変さも痛感することとなりました。周りの人も自分すらも測りきれないほど遺伝的形質は広がりがあり、その形質は環境にあぶり出されるように発現します。さらに、素質を才能として昇華させるためには厳しい極端な環境に身を置いてみることも必要なようでした。他方で、システマティックにいろいろな環境を体験してみるというような必然性を発現に求めることは難しく、偶発的・野生的に才能は発現していくものとも考えられました。

 

偶発的に発現するということは、才能が見つかるタイミングは人それぞれに異なるということが言えるのだと考えられます。社会的評価軸に合っていれば早く認識されることになりますし、人を含めた環境との巡り合わせも大きく影響してくるでしょう。時流の問題もあると思います。たとえば、日本初の独立系ネット生保であるライフネット生命の創業者の一人である出口治明はるあき氏は、還暦・60歳で起業し初代社長に就任しました。新卒で日本生命に入社しミスター生保と称されながらも、ファクトとロジックによって常識に囚われない思考をする出口氏は、74年ぶりに生命保険会社設立の認可をとり、対人保険営業をネットに置き換えるという先鋭的な事業の発起人としては最適任者であったと思わざるを得ません。ご自身でも還暦ベンチャーと言っておられますが、自分にしかできないような挑戦の機会が訪れるタイミングや年齢は人それぞれなのかもしれません。出口氏は2018年には70歳で立命館アジア太平洋大学の学長に就任しています。これには大企業やベンチャー企業での経験や、何度か就任していた非常勤講師の経験なども評価されたのかもしれませんが、ご自身が持つ膨大な知識や見識も評価されたのではないかと想像しています。そしてその知識は、読書という出口氏にとっては大好きで全く苦にはならないものが土台の一部になっているものと思われます。

 

遺伝的形質・才能が多様であるのであれば、既存の価値基準に必ずしも乗るわけではなく、後から意味付け・価値付けがされていくのだという認識も必要であると考えられます。周囲の期待や社会の価値基準に反して、どうしてもそちらに向かってしまうというような、無識的な行動をとることはあるのだと思います。選択の時それは、自分の直感に基づく判断の世界なのかもしれません。たとえば、水泳の平井伯昌コーチは、新卒で大手生命保険会社に内定していたのを断って、水泳コーチになる道を選択しました。周囲の猛反対にあったといいます。

遺伝子とは、自分だけの持ち物であると言えます。そして、その持ち物は私たちの能力・性格そして行動に影響を与えます。自分に内在する何かがその選択をしたというのであれば、それは正しいと言えるのかもしれません。周りの人や社会がどう見てこようと、その選択の妥当性を感じられるのは自分であるという側面はあると言えます。周囲が評価している裏側で実は違和感を感じる自分がいたり、もっと頑張れという叱咤激励しったげきれいの裏側で限界を感じていたり、はたまた誰もが不可能と言う裏側で道筋や北極星が自分の中には見えていたり。自分にしか見えていないものが、あるはずです。

もう一方で、努力は必要です。遺伝的素質を開花させるには、厳しく極端な環境に身を置き、強いストレスをかけることも必要であると考えられました。また、苦手なことでもせめてギリギリ合格点までは持っていかなければ、1つの才能として機能しにくい場合もあるように思います。たとえば、抜群の運動能力はあっても身体が堅ければ怪我をしやすく、早期のリタイアを余儀なくされるかもしれません。自分の持ち物を確認し、才能の可能性を感じながらも、活躍するフィールドに求められる条件というものも冷静に見極める必要もありそうです。

長旅になりそうな遺伝的才能の発見の旅ですが、決して見つからないことに不安を感じる必要もないのだと考えられます。なぜなら、ヒトの遺伝情報であるゲノムの99.9%はみな同じであるからです。99.9の共通性を大切な土台として日々の生活を送り、アクセルやブレーキを踏み分けたり、ときにはニュートラルに戻したりしながら、0.1の違いを探し求めていくというイメージなのではないでしょうか。

自分探しの旅とは、若い一時いっときだけに必要とされることでは決してないということが分かります。これほどまでに多様な自分の遺伝子と環境をぶつかり合わせ、自分にできること・自分がやりたいことを見つけていくためには、時間をかける必要があると考えられるからです。遺伝子という自分だけの持ち物をたずさえて、一体どこまで行けるのでしょうか。どんな景色を見ることができるのでしょうか。遺伝的な探訪に、終わりはなさそうです。

 

最後に、安藤先生にこのような問いを投げかけてみました。

「それが遺伝的な才能であるかどうかは、どのように見極められるものなのでしょうか。」

 

安藤先生:まだ憶測の域ですが示したいと思っているのは、遺伝的な才能というのは、今はまだ実現していないものなのだけれども実現しそうだという感覚を持ってしまう方向にあるのではないかと考えています。

私の高校時代の友人に、スーパーコンピュータ「けい」の開発研究者をしていた井上君がいます。彼がまだ新入社員だった頃に私は、「僕が使っているパソコンを設計したのは君かい?」と冗談まじりに尋ねたところ、彼は「僕が考えているCPUはそんなものではなくてもっと美しいものだ」と言いました。そして本当に「京」を完成させました。

「京」を完成させた後に行われた高校の卒業生の会で彼は、「私は過去の記憶は不確かだが、未来の記憶は見える」などと言いました。非常に彼らしい答えでしたが、こうなるというものが先に漠然と見えており、コンピュータはこうあらねばならないということを明確に感じながら先に進んでいるのだと思いました。

現実は複雑ですし、直面する問題も容易に越えられるものばかりではありません。しかし、遺伝的なものである限りは、壁に当たり摩耗しながらもそれを持ち続けているのだと思います。意識的にでも無意識的にでも環境から得られる情報を自分の遺伝的素質を育てる形で捉えていることでしょう。そのような繰り返しのなかで、内在する才能の萌芽ほうがが、ある時突然開く可能性があるのです。

 

 

(2020年9月5日掲載)

 

〈参考文献〉

  1. 安藤寿康著『心はどのように遺伝するか ―双生児が語る新しい遺伝観』(講談社、2000年)
  2. 安藤寿康著『遺伝マインド ―遺伝子が織り成す行動と文化』(有斐閣、2011年)
  3. 安藤寿康著『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(SB新書、2016年)
  4. 安藤寿康著『なぜヒトは学ぶのか ―教育を生物学的に考える』(講談社現代新書、2018年)
  5. 為末大著『諦める力 ―勝てないのは努力が足りないからじゃない』(プレジデント、2013年)

 

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才能とは、様々な環境で局所的に現れた形質が、あるところでうまい具合に束ね合わせられたものというようなイメージを持った。 #リベル

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