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遊動する生

ちょうどいい自由をさがして

文量:新書の約51ページ分(約25500字)

はじめに

何かを得るごとに、自由を失っているのではないかと思うことがあります。評価を得れば失敗の自由を失い、正解を得れば考える自由を失います。モノに関しても、家を得ればいろいろなところに移り住む自由を失い、スマホを得れば情報やコミュニケーションから離れる自由を失います。私たちが得るモノやコトには引力のようなものがあり、次々と得ていくことによって、まるで四方八方から引っ張られるかのように不自由になっていくこともあるように感じられます。

さらに少し大きな視点でみると、科学革命や産業革命によって人類は新たなフロンティアを得ました。もっと先があるという開拓の可能性です。その可能性に対する期待は社会に対してだけではなく、個人に対しても向けられてきたように思われます。

フロンティアは、まだまだ開拓の余地があるという、可能性を示してくれます。そうして実際にさまざまな開拓を進めたことで、衣食住や医療・衛生などの面で、この上なく豊かになりました。しかしその一方で、ほどほどにすることや適度なペースで進むこと、分からないで残しておくことや環境に身を委ねることなどが、少し難しくなったのではないかと感じられます。可能性があるという気づきを得れば、どこまでも追求せざるをえないのがヒトのさがなのでしょうか。

 

人類が自然を改変し食料生産を自分たちの手で管理し始めた弥生時代の前、縄文時代には、今とは異なる思想をもって人々は生きていました。縄文の人々からすると現代を生きる私たちは、全知全能の存在に見えるかもしれません。しかしながら、自分よりもはるかに大きな存在である自然のなかに身をおき、神や他界を意識しながら生きてきた縄文の人々と私たちとでは、優劣をつけるような比べ方などできるはずもありません。ただ、その生き方に対する思想や世界観に触れてみると、現代にはない自由さのようなものが感じられるのです。

このブックレットでは、現代とは異なる縄文の思想に考えを巡らせてみたいと思います。決して縄文と現代のどちらがいいのかなどと比べるつもりはありませんが、ひとつの生き方や社会のあり方として、自由さや不自由さに対する新たな見方につながるのではないかと考えています。生き方や考え方の、囚われすぎないちょうどいいところ、のようなものが見つかるヒントが隠されているような気がしています。

 

今回は、考古学・アイヌ史を専門とする、札幌大学教授の瀬川拓郎先生にお話を伺いました。はるか昔につちかわれた縄文の思想を知ることは容易ではありません。しかし、神話や伝説のモチーフ、抜歯ばっしやイレズミなどの習俗、その他の世界観や他界観などから、北海道や南島、海辺に住む列島周縁の人々に、縄文の思想が生き残ってきたと瀬川先生は『縄文の思想』[1]の中で著しています。列島周縁の海民・北海道・南島に残る文化や思想と、考古学的に示されている縄文の歴史から、縄文の生き方や社会について想像を深めていきたいと思います。このブックレットは、瀬川先生にいただいたお話やご著書を基礎にしながら、テーマを考え進めるにあたって必要と思われる知見などを執筆者なりに補いながら作成しています。

 

瀬川拓郎先生

1958年、札幌市生まれ。考古学者、アイヌ研究者。岡山大学法文学部史学科卒業。2006年「擦文文化からアイヌ文化における交易適応の研究」で総合研究大学院大学より博士(文学)を取得。現在、札幌大学教授。

 

〈著書〉

  • 『縄文の思想』(講談社現代新書、2017年)
  • 『アイヌと縄文 ―もうひとつの日本の歴史』(ちくま新書、2016年)
  • 『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015年) など

 

執筆者:吉田大樹
 「こころが自由であること」をテーマに、そうあるために必要だと思えたことをもとに活動しています。制約がありすぎるのは窮屈で不自由なのだけど、真っ白すぎても踏み出せない。周りに合わせすぎると私を見失いそうになるのだけど、周りは拠り所でもある。1986年岩手県盛岡市生まれ。

 

 

 

目次

  • はじめに
  • 第一章 ヒト文化の胎動
    • 縄文時代
    • 生活と文化の風景
    • 大きなもののなかにある生
  • 第二章 ひとつの自由のかたち
    • 歴史の枝分かれ
    • 贈与・平等・閉じた系
  • 第三章 生き方の調整軸
    • 「他」への開放性
    • 自らを分けることと自由
    • 平等について
  • 第四章 葛藤のなかで

 

 

〈参考文献の表示について〉
 本文中で参考文献は、[文献番号,参考箇所]という表し方をしています。文献番号に対応する文献は最後に記載しています。参考箇所は、「P」の場合はページ数、「k」の場合は電子書籍・Kindleのロケーションナンバーになります。

 

第一章 ヒト文化の胎動

これから、縄文にひとつの生き方や社会のあり方を見ていくにあたって、まずは縄文の時代に少しだけ入り込んでみようと思います。縄文の人々が生きた世界を知ることで、その生き方の深いところにある思想を、想像しやすくなるのではないかと考えています。尚、本章における縄文時代や文化に関する理解は、山田康弘著『縄文時代の歴史』[2]に大きく依っています。

縄文時代

縄文時代の始まりと終わりは、土器の出現から水田稲作の開始までとすることが一般的です。年代でいうと現在のところは、およそ16500年前から3000年前までとされています。縄文時代といえば、狩猟・採集・漁労などの生業を通して動物や植物と直接的に対峙し、石器・骨角器・土器などの自然物を道具とする、粗野で非文明的な生活をしていたのだと想像されるかもしれません。たしかに生業や使う道具はそのようなものでしたが、もう少し社会の像を詳しく知ると、違う印象をもつことができます。また、年代だけをみると縄文時代は1万年以上も続いたことになりますが、その間一様に同じような生活や文化の様式が続いたわけではありません。地球の気候や気温の変化に合わせて大きく変化していきました。

 

地球の気候は、およそ4万年から10万年の周期で寒冷化(氷期)と温暖化(間氷期かんぴょうき)をくり返しますが、縄文時代の始まりは、ちょうど直近の氷期の終わりに差し掛かる頃でした。15000年前頃から温暖化が進み、春・夏・秋・冬という四季が明瞭になり、獲れる食料が豊富になっていきました。この気候の変化は、ヒトの生活や文化に大きな変化をもたらしていきます。ちなみに、現代は氷期と氷期の間の間氷期であるとされています。

現在確認されているところでは、およそ4万年前から3万8千年前頃に日本列島にヒトがやってきたとされています。食料資源を求めて列島に渡ってきて、その後も移動生活を続けていました。しかし、温暖化によって食料が豊富になったことで、移動生活の必要性が薄れていき、定住生活に徐々に移っていったのです。ただ、気候が温暖になったとはいえ、季節によって獲れる食料が変動することは現在と変わりません。そこで獲れる食料が最も豊富な秋に大量に集め、燻製などの加工によって保存食を作るようになりました。保存食を作れば、それが荷物になります。また、保存食を作るための加工場や設備も必要になります。そうして荷物や設備・道具が増え、ますます定住化が進んでいったと考えられるのです。

温暖化に伴う定住化はさまざまな恩恵を人々にもたらすとともに、問題も生み出しました。その恩恵や問題、解決の方法は後述することとして、ここでは土器についても少し触れておきたいと思います。なぜ土器が時代の区切りとして採用されるのか、その歴史的な意義についてです。

土器は物が入る形状をしていますが、物を入れる容器としてよりも、煮沸具しゃふつぐとしての歴史的意義が大きかったと言います[2,k3524]。遺跡から出土した土器には煮炊きによってついたと思われるすすや“おこげ”が付着しており、平たく言えば「鍋」として使われていたことが確認されています。土器が登場する前の器としては、植物の繊維を編み込んだものや木をくり抜いたものが考えられます。これらの素材のものでも例えば熱した石を投入して一時的に熱することはできたかもしれません。しかし、長時間煮込むことは困難であったと思われます。耐火性と耐水性に優れた土器の登場によって、煮込むことができるようになったのです。

煮込むことができるようになって、より多くの食物資源を使うことができるようになりました。動物のスジや肉の硬い部位、植物の繊維なども煮込むことでやわらかくなり、食することができるようになったと思われます。また漁労も行っていたため、魚介類とともに煮込めば、出汁のとれた美味しいスープや煮込み料理になったことでしょう。また土器は、食べ物の調理だけではなく、接着剤として使われていたアスファルトを溶かしたり、塗料などに使われていたウルシを精製したりする時にも使われていたと考えられています。新たな材料を生み出すことにも、一役買っていたのです。

土器の出現は16500年前とされていますが、出土量が増え始めるのは15000年前のものからです。地球が温暖化し始めるのは15000年前であり、この頃から土器の利用が増え始めたと考えられます。気候が変わり、移動から定住への変化の兆しに合わせるように、新たな画期的な道具が生活に根ざし始めたのです。土器が生活を大きく変化させた、あるいは生活の変化が土器を通してみられるとして、歴史の画期を表すものとして土器は注目されるのです。

 

このように縄文時代は、現在に近い温暖な気候に変化するのに合わせて、生活や文化の様式をダイナミックに変化させていた時代でした。自然に脅威を感じ、動植物と直接的に対峙しながらも、おそらく偶発的に得た知識なども交えながら道具を開発して、少しずつ他の生き物とは一線を画するような生活を営み始めた頃だったのです。

生活と文化の風景

温暖化とともに徐々に進んでいったと思われる定住化は、様々な恩恵を人々にもたらしました。

まず挙げられるのは、先に記したような食生活や道具の多様化です。考古学者の小林達雄氏は、季節ごとに獲っていたと考えられる海の幸や山の幸を、「縄文カレンダー」として示しました。春には山菜類やイワシなどの魚類やコンブ類、夏にはカツオ・タイ・マグロなどの大型魚やアサリなどの貝類、秋にはサケやクリ・ドングリなどの木の実、冬にはシカ・イノシシ・ウサギなどが狩猟により獲られ、季節に応じた食料資源の確保が行われていました。道具に関しても、定住化で荷物の持ち運びがなくなったことで土器が利用しやすくなり、木の実などをすりつぶすのに必要な重たい石皿なども利用しやすくなったと考えられます。また土器を作ったり燻製を行ったりする作業場や加工場も整えることができ、作業効率も上がっていったことでしょう。

こうして食料資源が豊富になり、保存や加工の技術にも長けてくると、各地域で特定の資源を生産し各地へ運び出す、集団・集落間のネットワークが形成されていきました。今からおよそ5000年前頃の縄文時代中期にはネットワーク化が見られ、4000年前頃の後期以降には、交易用交換材の採取・製造の拠点化が進んでいきました。交易用交換財とは、地域の特産品が主で、それをもとに交換することで自分たちの地域では手に入らないものを手に入れることができていました。沿岸地域では塩の製造に特化した製塩土器や大型炉が見られ、割ると鋭い刃物になる黒曜石の原産地では大規模に開発された鉱山が発見されています。また、磨製石斧などの生活道具や、耳飾りや貝輪などの装飾品が大量に出土する地域もあり、道具や装飾品も集中的に生産され流通していたと考えられています。

このようなネットワークは、文化圏の形成にもつながっていきます。あるいは文化圏の形成がモノの流通に寄与したのかもしれません。考古学者の岡村道雄氏は著書『縄文の生活誌』の中で次のように言っています[3,P125]。「東北地方北部の縄文時代中期人、たとえば山内丸山人が、同時期の熊本県阿高貝塚人と出合った場合にはまったく言葉が通じなかったであろう。」

縄文時代には文字はまだなかったと考えられていますが、言語は存在していたと考えられています。その言語は列島内のある領域内では通じましたが、互いに通じない地域同士というのも存在したというのです。ちなみに、そのような一定の領域は、土器や装身具、埋葬などの習俗に見られる共通性から一つの文化圏として推定されることになります。つまり、現在でこそ日本列島は北海道から沖縄まで一つの国と見なされていますが、縄文時代には列島内にクニがいくつも存在していたという見方の方が適切なのです。

定住化が進むと、発展をとげてムラとも呼べる規模にまで大きくなる大規模集落が出てきます。代表的なものが現在の青森県青森市にある、5500年前から1500年間ほども続いたと考えられている三内丸山遺跡です。三内丸山遺跡は、広さ35ヘクタール・東京ドーム7.5個分もの広さで、500人近い人が住んでいたと考えられています[3,P88]。現代の感覚ではそれほど大きくもない、とも思ってしまいますが、定住化が始まった当時は数人が横になれる程度の竪穴式住居が数棟集まった程度のものが一般的な集落単位でした。したがって、三内丸山遺跡は当時の感覚ではとてつもなく大きな集落であったことが分かります。このような大規模集落が基点となって、一つの文化圏が形成されていたと考えられるのです。

『縄文の生活誌』には、岡村氏の考古学的知見と想像が盛り込まれた、「三内丸山ムラの祭り」と題された物語が記されています[3,P93]。当時の社会像を表すものとして、要約して紹介します。

 

山内丸山と同じ文化圏に属する二ツ森の氏族長の娘のアカメは、父とともに数十キロ離れた三内丸山を訪れる。母が用意した地元のみやげをいくつも持ち目的地に着くと、そこにはオニのような顔が彫刻された門があった。そこからムラの中心部に向かうまでには、いくつもの墓とクリ林の間を抜けながら、420メートルほどの道を歩く。案内された滞在スペースで休んでいると、同世代と思われるムラの人々が夕食を持ってきた。そして、ついでにと言わんばかりに、二ツ森のことをいろいろ聞いてきた。ひとしきり聞いたあと、翌日に行われる祭りの案内をして帰っていった。祭りでは、普段は飲まない酒を酌み交わしながら、各部族の衣装に身を包み、交流を行った。祭りのあともアカメたちは残り、ムラの仕事を手伝いながら、現地を探検したり土器のデザインなどを勉強したりしながら過ごした。いよいよ帰らなければいけないときになると、アカメの父は、次の氏族長に継承するようにとムラの長からヒスイの大珠たいじゅを受け取っていた。

 

山内丸山遺跡には、直径1メートルのクリの巨木を6本建てた大型建造物があったことが確認されています。周辺各地から祭りに集まった人々は、さぞ驚いたことでしょう。さらに三内丸山遺跡では、クリが意図的に植栽・群生・管理されていたことも推定されています。大規模な建築物も植栽・管理も、定住とともに生まれた発想であると考えられます。ちなみに、クリは木材として利用されただけではなく、当然食されていました。そのまま食べられていただけではなく、粉末にしてハチミツやヤマイモなどをつなぎとして使った、クッキーとしても食されていたと考えられているようです。

 

このような定住・集住化が進むと、恩恵とともにさまざまな問題が生じ始めます。そのなかの一つが、集団内の協調をいかに保つかという問題でした。移動生活をしていた頃は、集団の規模が小さく、血縁に近い関係の集団形成が主だったと考えられます。また、集団内で仮に不和が生じたとしても、離散すればいいだけでした。しかし、生活が定住・集住化していくにつれて、そうもいかなくなっていきました。集落内だけではなく集落間でも分業に近い体制をしいていたため、離れる方も離れられる方も、困ってしまうようになったのです。そのような人間関係とも言える協調問題の解決に寄与していたのが、祭祀さいしであったと考えられています。「三内丸山ムラの祭り」で紹介されていたように、定期的に集まって飲んで歌って踊れば、お互いのつながりを確認し深めることができたことでしょう。また、共通した文様の土器や装身具や、ムラ長から授かった宝物が集落内の身近なところにあったりすれば、離れていてもつながりに思いを馳せることができたはずです。

また、集団内のつながりを促す手段としては、墓制も重要な役割を果たしました。およそ4000年前の縄文時代後期頃には、別々の場所に埋められていた遺体を掘り起こし、一箇所に埋葬し直す、多数合葬・複葬例たすうがっそう・ふくそうれいが見られるようになりました。この頃は、温暖化が進み定住・集住が進んだ後、一度冷涼化し大集団が離散し、再び人々が集まり集団が新規に結合し直された頃でした。多数合葬・複葬例で一箇所に埋葬し直された何十体もの遺体には、血族関係に“なかった”者同士が多数含まれていたといいます。さらに付近には柱穴があり上屋などの上部構造があった、つまり人々の目につきやすく設計されたモニュメントであったと考えられています。離散後に集団が再結合したという社会状況と、モニュメント的なデザインを考慮すると、多数合葬・複葬例は、血縁による直接的なつながりはなくても祖先がつながっていたことを示すことで、集団統合を促す役割を担っていたのではないかと考えられるのです。

 

必ずしも定住・集住化に伴う問題ではありませんが、「死」は縄文時代の人々にとって現代よりも身近な問題でした。特に出産と育児に伴うリスクは、医療の整った現代の比ではありませんでした。現代とは少し異なる「死」に対する向き合い方や死生観についても、少しだけ触れておきたいと思います。

縄文時代の墓は、土を掘って穴をつくり、そこに遺体を納める「土坑墓どこうぼ」が一般的です。しかしなかには、土器の中に納めた上で土に埋める土器棺墓どきかんぼがしばしば見られるのです。そして土器棺墓に納められているのは、産まれて間もなく亡くなってしまった子供であると推定されているのです[4,k1308]。土器は、これまで発見されたものに施されていたデザインなどから、母胎としてとらえられることがあったと考えられています。生命を生み出す母は再生の象徴であり、それを模した土器も同様の意味をもっていたのです。つまり土器棺墓は、土器自体を母胎ととらえ再生を祈願した、墓制祭祀であったと考えられるのです。三内丸山遺跡では、竪穴住居の近くに、大人の墓の6倍近い土器棺墓があったといいます[3,P216]。生活のすぐ近くにおき、日常的に再生を祈っていたということでしょうか。

このように縄文では、生命が回帰・再生する「円環的死生観えんかんてきしせいかん」をもっていました。そして、再生を願う対象は人だけではありません。土器に埋納されたのは、イノシシ・シカ・イヌといった比較的ヒトに近いかたちをもつ動物から、木の実・黒曜石・石斧などの植物やモノにまで、さまざまに及んだのです。医療による人為的回復や人工的な生産ができず、委ねることがほとんどだった縄文時代においては、より豊かであってほしいと“祈る”ことが、人のこころに生まれる自然な思想・観念ということなのだと思われます。

大きなもののなかにある生

ここまで紹介してきたものは、縄文の生活や文化のほんの一部であると言えます。1万年以上もの長さを一つの歴史区分でくくられた縄文時代は、どこで切り取るかでその様相は違っていたと考えられます。

気候が温暖になれば食生活は豊かになり、定住・集住化が進んでいきました。そして、人口も増えていきました。国立民族学博物館名誉教授の小山修三氏による各地の遺跡数を調べた推定によると、早期(1万年前頃)の全人口は2万人程度であったところから、前期(7千〜5千年前頃)には10万人を超え、中期(5千年前頃)には24万人にも達していたと考えられています。しかしその後、後期には一度冷涼化したため、大集団が離散し、人口も減少した時期もあったと考えられています。さらには、縄文時代全体を通してみると、関東・東北などの東日本の人口が多く、西日本には人口が少なく人々は離散的に生活していたと考えられています。年代でみても地域でみても、斑目まだらめ状に、しかし着実に、さまざまなヒト文化が興っていたときが縄文時代であったと考えられるのです。

そのような縄文の時代にみられた人々の生活は、粗野と言えるようなものではなく、文化的で豊かなものであったと感じられました。土器によって使える食材や調理法の多様性が生まれ、定住化によって大型の道具を使えるようになったり、作業場をこしらえられるようになったりしました。また集団や集落の協調をはかるために、祭祀や墓制によって、こころの統一や長期の維持を図りました。新たな豊かさを得るとともに生じる問題を、知恵をはたらかせながら解決していたのです。

しかしそのような、自分たちにとっての適した環境を自分たちの手で造りあげていくなかにあっても、みえないものを信じ、自然や神のようなはるかに大きな存在に畏敬の念を抱きながら生きていたのではないかと思われます。たとえ死しても円環的にまたこの世に生をうけられると信じ、動植物や自然物の豊穣を祈りました。自分たちよりもはるかに大きなものを感じながらそのなかで、日々の生を送っていたのではないでしょうか。

第二章 ひとつの自由のかたち

第一章では、本書で触れていきたいと考えている縄文の思想が生まれた時代そのものに迫ってみました。文字はまだなく、言語も列島内でバラバラであったと考えられる、まだ多くを持たない1万年前の人々の生活に少しだけ触れることができました。自己や世界に対する認識や、生きる上で大切にしていたことも、垣間見られたように思います。

本章ではもう少し深く、縄文的な文化に生きる人たちがもつ、思想に迫ってみたいと思います。細かな生活上の機能やインフラなどの具体ではなく、思想や生き方といった抽象のところに触れていきたいと思います。縄文に限らず異なる世界に触れてみることの意味は、それをみてどう思うか、という比較をしながら思いを馳せたり考えを巡らせたりできることにあると考えています。ものの見方の幅が広がったり、今を見つめ直すことにつながったりすると考えています。

縄文の思想へは、近現代まで脈々と続いている北海道アイヌや南島、列島周辺の海民の生活や文化から迫っていきたいと思います。これらの地域や文化圏には、縄文の思想が受け継がれてきたのではないかと考えられるからです。1万年の歴史越しに迫るよりも、より身近に感じられるのではないかと思います。その前にまずは、ヒト文化が胎動した縄文時代から近現代へと続く、枝分かれした歴史について少しだけ触れておきたいと思います。

歴史の枝分かれ

歴史の変遷としては、縄文時代の次は弥生時代が到来したというのが記憶するところかもしれません。しかしもう少し細かくみていくと、北海道では縄文時代の後に続縄文ぞくじょうもん時代・擦文さつもん時代と続き、奄美・沖縄では同じ頃、貝塚後期時代・グスク時代へと続いていきます。つまり、日本列島が一様に弥生時代に移行したわけではなく、弥生文化を特徴づける水田稲作を取り入れなかった地域が存在したのです。

水田稲作を取り入れなかった地域があったと聞くと、たとえば北海道は気候が冷涼であるため、水田稲作を行いたくてもできなかったと考えられるかもしれません。しかし現在は、気候のせいだけではなく生業戦略的な面でも取り入れられなかったと考えられているようです[5,k918]。続縄文時代では、縄文時代に比べて漁労に重点を置いた生活を送り、交易によって必要なものを手に入れていました。稲作という新たな生業を冷涼な環境で無理して取り入れるよりも、地の利を生かした漁労活動に特化させていった方が、必要とするものを効果的に手に入れることができたと考えられるのです。

また、水田稲作を取り入れることは、新技術の習得による生業の転換ということに留まらなかったとする考えもあります。日本の水田稲作の起源や選択の背景に迫っている『弥生時代の歴史』[5]の中で著者の藤尾慎一郎氏は、水田稲作を取り入れることの意味を著しています。朝鮮半島を経由して九州北部へ伝来した水田稲作は、朝鮮半島の遼寧式りょうねいしき青銅器文化がお手本となっていたのではないかと考えられます。その青銅器文化において水田稲作とは、「遼寧式銅剣や鏡などの青銅器を至高の祭祀として崇め、社会統合の象徴とする社会を支える生産基盤であった。」「水田稲作は目的ではなく、そうした社会を造り維持していくための手段だった。」[5,k1539]と言うのです。つまり水田稲作は、食の確保という生きることと同義とも言える目的のためだけに行われていたのではなく、自分たちの威信や威厳を高める仕組みを支えるための生産基盤でもあったのではないかということです。水田稲作は、その生産技術だけではなく、文化全体として伝えられたと考えられます。藤尾氏はこのような見解を示しています。「九州北部に水田稲作を伝えた人びととは、こうした威信財システムやその意味を知り、実践していた人びとである。彼らが威信財を手に入れるために余剰生産物の蓄財に余念がなかったことは想像に難くない。それは縄文のまつりとは違って、集団内での特定集団化、個人の位置を保証する有力な手段だったからである。」[5,k2182]水田稲作を取り入れるとは、狩猟採集という生業や技術それだけの転換に留まらず、威信財を中心に据えた祭祀の導入なども必要とされ、またそれを手に入れるための蓄財を強いられることになることも、同時に知られるところだったのではないかということです。つまり、水田稲作を取り入れる選択をするということは、生活や文化全体の転換も求められるということです。

水田稲作と、銅剣や鏡などの威信財を中心に据えた祭祀がセットであることには、一定の合理性があります。水田稲作では、土地の開墾・水田の造成や収穫などにおいて、狩猟採集とは比較にならないほどの労働の集約や組織化が求められます。また、水田を造るためには、動植物がいる森林を切り開く必要がありました。このような水田稲作を成立させるためには、金属の輝きと直線・曲線美が伴う、人間の力を象徴するかのような威信財が有効にはたらいたのではないかと考えられます。自然を敬い、自然のもとに生きるという観念だけでは、自然の開墾や管理をし、人間のもとに人間を統制するというようなことは出来なかったのではないでしょうか。

このような祭祀・文化・生業は、縄文のそれとは大きく異なります。自然のなかに自らの存在を感じ、自然そのものに生産や生命の再生を祈る縄文のあり方と比較すると、自然から人間への中心のシフトを思わせるものです。それは人々にとって、生き方の根本を変えることを迫るような選択であったのではないかと考えられます。

 

農耕文化が大陸から伝来したにも関わらず従来的な生業や文化から変えなかった北海道や沖縄は時代に乗り遅れた地域なのだ、という見方もあるいはされるのかもしれません。しかし、生業戦略上の優位性や、縄文の進化版が弥生なのではなくそもそも根本に近い部分で異なるという点を考慮すると、並行して存在した選択肢であったと見ることができるのではないかとも考えられます。

そして弥生時代以降、近現代に至るまで、そのもう一つの文化は続いてきました。神話や伝説のモチーフ、抜歯ばっしやイレズミなどの習俗、その他の世界観や他界観などから、アイヌや南島、海辺に住む列島周縁の人々に、縄文の思想は受け継がれてきたと考えられるのです [1]。その思想や生き方に触れていきたいと思います。

贈与・平等・閉じた系

枝分かれした歴史的歩みがそれぞれに進んだなかにおいても、アイヌ・南島・海辺に住む列島周縁の人々の社会は、縄文のときと同様に、自然や神の存在が意識されるものであったようです。

縄文の時代において、ヒトや動物だけではなく、黒曜石や石斧などのモノも祭祀によって再生を祈る対象でした。これは、自分たちで作り出したり見出したりしたのではなく、自然や神から贈られたのだという観念があってこそのことだと思われます。このような観念は、縄文の思想を受け継いだ人々の社会に、「贈与」というかたちで表れています[1,k2516]。

船を住まいとし移動を繰り返した家船えぶね漁民は、自分たちでとった魚などが金銭で売買されることを好まず、陸上の知人に贈りものとして与えたのだと言います。その返礼は、祭事への招待などでした。そして、このような贈与や返礼の関係でむすばれる相手を、「親戚」や「いとこ」などと呼びました。

贈与はごく近しい間柄だけで行われたのではないかと思うかもしれませんが、そうではありません。アイヌは和人(アイヌ以外の日本人)と交易を行なっていましたが、銭を手に入れてもそれを決済手段とすることはありませんでした。銭を使ってモノを買うということはせず、銭はアイヌ女性の首飾りなどの装飾部品として用いられました。異なる文化に生きる異国人のような相手であっても、商品の売買ではなく贈与と返礼というかたちをとったのです。取引を行う和人商人も「親戚」や「いとこ」であり、逆に言うと、アイヌの贈与の慣習を理解しない和人は取引相手にはなれなかったのではないかと考えられます。

 

このような贈与の慣習は、個人の富の蓄積につながる「所有」とは一線を画したものであると考えられます。自らのもとにモノを保持したり、売買によって新たなモノを手に入れたりするのではなく、「親戚」や「いとこ」といった擬制的な身内のあいだで共有するのです。モノの売買や所有を嫌悪し、贈与を重んじる精神性は、アイヌ社会最大の祭りである「イオマンテ」にもみることができます[1,k2365,2580]。

イオマンテは、春先に捕獲した子グマを初冬頃まで飼育し、これを殺して魂を神の国に送り返す祭りです。現在の感覚では残酷な行為に思われるかもしれません。しかしアイヌにおいて意味するところは、クマに仮装した神が集落を訪れ(捕獲され)、もてなされ(飼育され)、肉と毛皮を与えて神の国へ帰るというものなのです。そしてクマが神の国へ帰る時(送り出す時)には、多くの土産が供えられました。つまりイオマンテは、「神にたいする最大の贈与」であるのです。さらには、この祭りは遠隔地の親戚も招待し、大量の酒や食べ物を振る舞うのだといいます。つまり、「人にたいする最大の贈与」でもあるのです。ちなみに、縄文の時代には、クマではなくイノシシで行われていたと考えられています。

イオマンテからみえてくることは、贈与や返礼は人間のあいだだけで行われるのではなく、自然や神とのあいだでも行われるということです。自分たちの生を支えるものが、神とのあいだの贈与と返礼によって成り立っているのであれば、所有したり、人間が作り出した記号的な価値である銭を介して交換を行ったりすることには、強い違和感が生じることは必然であると言えるのではないでしょうか。

 

贈与とも通じる価値観として、「平等」も重んじられます。擬制的な身内に対する贈与は分配であるとも言え、分配は人々のあいだに平等さをもたらします。何かを得た者がそれを分配することで、みな等しく得ることができるからです。

平等を重んじる思想は、自然や神のもとにおいてはみな平等である、という考えに一つもとづくものであったのかもしれません。また前述したように、神からいただいたものを、特定の誰かが蓄財することは忌避きひされるべきことだったのでしょう。

しかし同時に平等を重んじる思想は、格差を是正するシステムとして意識的に伝承されてきたのではないかとも思われます。格差は、階層ごとに分かれた集団形成を促進させてしまい、集団の瓦解や分断、形成された小集団同士の争いを生じさせてしまう可能性をはらんでいます。現代でも格差は大きな社会問題とされますが、集団間の移動が困難で離脱した者に対する救済策などがない社会においては、格差はヒトの生存により直接的に影響を与えたはずです。また、集団の力を削いでしまうようなそれは、集団存続の危機を招くものであり、集団に生きる者にとっての大きな不安材料であったはずです。『縄文の生活誌』の中でも、不平等な分配による偏った蓄積が生じた場合の解消手段として、人々を集めて余剰品を消費・再分配する祭りである「大盤振る舞い」があると述べられています[3,P191]。格差の是正は、ヒト社会において普遍に近いかたちで存在してきた課題なのかもしれません。縄文的な文化圏では贈与や平等の思想やそれにもとづく慣習が、格差をうまく解消してきたのではないかと想像されます。

 

贈与や平等は、「閉じた系」の中で展開されました。贈与は、親戚やいとこという擬制的な身内のなかでその行為がなされました。平等に関しても、それを脅かす禁を破れば集落に厄災が訪れるというような伝説などもあるようです。そのような伝説や掟が、各地で発展し伝承されることでも、社会は維持されてきました。

閉じた系における贈与や平等の思想は、「相互扶助」につながっていきます。漁労・狩猟などは、農耕に比べて不確実性が高い生業であると言えます。いかに各人の経験が豊富で、罠を張るなどの策を講じたとしても、獲れない日はどうしてもあったはずです。そのような不確実性を吸収してくれる、得た者が分配して助け合うという相互扶助は、生存において非常に重要であったはずです。仮に周りの人が獲物をとれず自分だけが獲れたとしても、明日は立場が逆になっていることもあるからです。また同時に、相互扶助があるからこそ挑戦的な行為も行うことができるとも考えられます。そこで得られた発見、たとえばそれまで行ったことがなかった新しい狩猟・採集の場の発見などが、集団の存続に寄与することもあったのではないかと想像されます。

 

閉じた系で思想が共有されていたとはいっても、決して閉じこもっていたわけではありません。行動の範囲は広く、外の集団との交易も活発でした。

漁労を生業とする人々にとっては海上も交通路であり、日本の境界を軽々と超えていきました[1,k2854]。ロシア沿海州、サハリン、カムチャツカ、朝鮮半島、中国、東南アジアまで進出していったと言います。民俗学者の宮本常一つねいちは、1950年頃に90歳すぎの老漁師に大阪府南海町の浜辺で会い、こんな話を聞いたといいます。それは、老漁師が若い時、友人と二人で下関までいったと思ったら、玄界灘を越えてみようと壱岐・対馬を経て、朝鮮半島へ渡り、さらにいけるところまでいってみようと、中国までたどり着いたというものです。ひとつのところに留まらない漁労・狩猟という生業をもつ人々は、農耕を行う人々よりも、「もっとあっちに行ってみよう」といいながら動くことが自然であり、国境のようなものは意識するところではなかったのかもしれません。

アイヌ・南島・海辺に住む海民などの周縁に住む人々が受け継いできた縄文の思想や文化は、その人々がもつ遊動性を阻害しないものでした。片一方で広がりをみせていた水田稲作は、必然的に人を土地に固着化させるものでした。そして威信財のもとに統治された弥生の集落は徐々に発展していき、各地で豪族と呼ばれる有力者が生まれはじめます。弥生時代の後、古墳時代には、大和地域(現在の大阪・奈良あたり)に国家的な中枢が芽生えはじめていきました。国家は、中央的な統治により、遊動性を阻害するものとなりえます。それに対して、閉じた系で生きる人々は、自治によるまとまりをみせていました。階級や権限などの明示的なシステムが伴わないあいまいさをはらんだ共同体のなかで、遊動性をもった生き方をしていたと思われるのです。そしてそれは自分たちで選びとった、一つの自由であったのかもしれません。贈与・平等・閉じた系による、持たない・とどめないという循環と、相互扶助のなかで生きる遊動性のある生です。

第三章 生き方の調整軸

第一章・第二章と、縄文の生活や文化と、思想についてみてきました。現代と比べて登場した道具や建物、墓などの物質的な違いは当然ありましたが、思想や生き方としても大きな違いを感じられました。列島が弥生文化に移り変わっていくときに枝分かれしたもう一つの歴史は、対極にあるとも言える思想を有しているようでした。

本章では、思想の調整軸を得ていくような感覚で、縄文の思想を改めて振り返っていきたいと思います。現代のことだけしか知らなければ、それは点に終始します。しかし、もう一つ別の点を得れば線となり、その間を行き来することができるようになります。そのような調整や探訪によって、自分なりのちょうどいいところを見つけられるかもしれません。

ここで、「思想」についても少しだけ触れたいと思います。思想というと何か壮大なイメージがありますが、瀬川先生は、「大上段に構えなくても、思想とは生き方みたいなものでもあると思います。たとえば、身近にいるおじちゃん・おばちゃんも思想をもっていて、学べることもたくさんあるはずです。」と言っていました。それぞれの時代に異なる社会の思想がありながらも、同じ時代に生きる個人はそれぞれに異なる思想をもって生きているのだと思います。ですので、個人が生きていくときの心持ちのようなものを探す感覚で、考えを広げていきたいと思います。尚、本章には瀬川先生のお話や著書などを受けて浮かんだ執筆者なりの考えが、多く反映されています。

「他」への開放性

縄文の思想では、モノの売買に違和感を示し贈与への執着がみられ、分配をつうじた平等が重んじられました。また、贈与や平等が閉じた系で展開されることによる相互扶助が成り立っていました。集団のまとまりは自治によってまかなわれ、内の他者とのつながりが強かったことがうかがえます。再生を祈る墓制からは、円環的な死生観がみられ、その対象は動植物や自らつくりだした道具にまで至りました。

このような縄文の思想に特性を一つ見出すとするならば、「他」への開放性に今との違いがみられるのではないかと思われます。

 

「他」とは、ひとつには他界であると言えます。山内丸山では住居のすぐ近くに子の墓をおいて再生を祈ったように、円環的死生観をもつ縄文の人々は、死霊しりょうの世界とのつながりをもっていたのだと考えられます。またそれは、人の生命いのちだけではなく、動植物や自然物、モノに対しても同様でした。

伝説や生活空間においても、他界は身近なものでした。アイヌでは高山の山頂が死霊の行きつく先とされており、あの世の者である山の神へ会いに現世に生きる海の神が高山へ行き、山の神に追い返されて戻ってくるという伝説が残されています。また洞窟が他界への入り口であるとされており、洞窟を通してこの世界と他界はつながっていました。奄美でも、聖地のカミ山と海にある異界・ニライカナイとをつなぐ「カミ道」と呼ばれる一本道が実際につくられており、その道は集落を通ります。

このように、縄文的な世界においては、身近なところに他界とつながる手段がありました。日々、他界を思ったり他界へ祈ったりしていたことでしょう。あるいは現代の私たちが思うほど、縄文の思想で生きる人々にとって他界は“他”ではなかったのかもしれません。この世界とあの世界というように、並行して存在するものとして捉えられていたのかもしれません。

 

もうひとつの「他」は、自然や神です。アイヌ社会の最大の祭りであるイオマンテでは、クマを神が仮装したものと認識し手厚くもてなします。またそもそもアイヌの世界観では、猟で得た獣はすべて、人間にみずからを与えるためにやってきた来訪神らいほうしんであるのだといいます[1,k2365]。つまり、生業をはじめ、生活の要所において神は意識されるところであり、人々の生を支えるそのものだったのだと考えられます。

自然とは、共存をしていました。瀬川先生は、どの時代でも自然に負荷をかけない人間の暮らしはなかったと前置きしながらも、次のように言っています[1,k2207]。「しかし私は、自然との共存が縄文時代には実現されていたと考えています。それは、負荷の大小や低開発か否かといった問題とは関係なく、自然と構造的にむすびついた世界観・他界観が現実の世界そのものであり、したがって自然それ自体が人びとの生と死を意味づけるものであった、という点においてなのです。」これはさきほどの他界とのつながりとも類似する話ですが、畏敬のこころをもって向き合う対象である高山・洞窟・海が、生活の場と一体でした。はるかに大きな存在でありながら贈与と返礼の関係にもある自然や神が、人々のすぐ傍そばに在ったのです。

 

さらにもうひとつの「他」は、他者です。縄文の思想では贈与を重んじ、贈与をする相手を「親戚」や「いとこ」と呼び、擬制的な身内とみなしました。閉じた系のなかで行われる、得た者が行う贈与や分配は、不確実な日々を生き抜くために必要な相互扶助でした。現代でいう助け合いのような意識的なものでもなく、それが当たり前であり、一蓮托生という間柄で他者と共に生きていたのではないしょうか。

 

このようにみていくと縄文の思想では、「他」への開放性が多様であったように思われます。そして同時に「他」との境界もあまりなく、一体に近いものでもあったのではないでしょうか。世界と他界とにはつながりがあり、神や自然とは贈与・返礼や共存の関係にあり、他者とは日常的に繰り広げられる相互扶助の関係にありました。「他」への開放性は大きく、別の言い方をすると、自らの生として感じる領域が広かったのかもしれません。ただし、身内とみなすような閉じた系の「内」があるということは、その「外」があり、内と外との間には明らかな境界があったことを念のため付言しておきます。

自らを分けることと自由

縄文の思想と並べてみると今は、ある意味では世界が狭くなり、人間や自分への収束性も高くなったのではないかと思われます。他界につながることなくこの世界だけで生き、自然は大きな存在として畏敬の念を抱く対象ではなく監視や管理をする対象になりました。自然に教えてもらうというような感覚は小さくなり、自然は人間によって解き明かされ開発されるものへと存在性が変容してきたのではないでしょうか。ここで言いたいことは、自然をおそうやまわなくなったことがいけないということではなく、そういった大きなものの存在を私たちは心的に失ったということです。

また、一蓮托生の関係をむすぶような集団は時代遅れとされていき、自らの責任において自らを磨き、社会において際立たせていく必要性が高まっているように感じられます。集団に縛られることなく個人が自由に選択できるようになるということは、選択の責任が個人に帰属することを意味します。「その選択はあなたがしたものだから」とか、あるいは反対に「その選択をあなたがしなかったのだから」となるということです。他責的であることや集団に従うことを勧めたいわけでは決してありませんが、自分のもとに降りかかってくるものが多くなるほどに、がんじがらめになっていくことはあると思います。

こうしてみると、世界のなかで、「他」とは分けられた存在である人間としてあるいは個人として生きることが、不自由さを招いているようにも思えてきます。「他」と切り離されることにより、自らのもとに抱えこみ滞留することが多くなりすぎるように思えるからです。

この世界とは別の他界があることや、はるかに大きな存在がありその一部であること、人生の波を吸収してくれるような集団や場がある方が、余裕をもった自由な振る舞いができるのかもしれません。自分で消化しきれなくても、持ちすぎずとどめすぎないことによって循環していき、別のかたちになって自らのもとへ還ってくることもあることでしょう。

少し話はとびますが、哺乳類は爬虫類に比べて、新奇な出来事に対して大きな興味を示すと言います[6,P150]。爬虫類は新奇なものにそれほど反応しませんが、哺乳類の例えば子犬や子猫などは注意を向け近づいたり足を出したりします。しかしこれは、安全な環境内であればという前提条件付きです。危険になった時に親のもとに駆け戻れるような範囲内で、挑戦的になるのです。私たち人間も、何かに守られていたり、あるいは大きなもののなかに存在しているという観念であったりする方が、より自由に生きられるのかもしれません。

平等について

「平等」についても少し触れておきたいと思います。縄文の思想では、分配をつうじた平等が重んじられましたが、掟や慣習などによっても平等が保たれていたのではないかと考えられます。各地で発展したと考えられるアイヌの伝説のなかには、次のようなものがあったといいます[1,k2697]。要約して紹介します。

 

ある若い夫婦が交易で財をなし、大きな家を建てた。しかし大きな家を建てることは禁じられていた。若い夫婦はその禁を犯したのだ。そしてどうなったかというと、集落の人々が疱瘡ほうそうによって死に絶えてしまったのだ。

 

少し過激な伝説ではありますが、それほどまでに不平等や格差が生じることが、集落にとってのおそれであったということなのかもしれません。このような伝説が代々伝えられることで、不平等をいましめ、防いできたのだと考えられます。

ただ、このような伝説は、もう少し複雑さをはらんでいます。一様に不平等が忌避きひされていたかというと、そうではないようなのです。アイヌ社会では、宝もちであることは威信と名誉を示すものであり、首長の条件の一つは宝もちであることでした。さきほどの、若い夫婦による大きな家の所有を禁じる伝説とは矛盾するように思えますが、そうではないのだといいます。大きな家を建てるのが、「若い」夫婦であったことが問題なのだと考えられるのです。宝もちとしてふさわしいと認められるのは年齢を重ねた者であって、若者であってはならなかったのです。

このような個々がもつ才覚や機運をないものにしてしまうような、過度に等しくあろうとする掟や慣習がある社会は、気力を奪い窮屈さを感じさせてしまうことでしょう。しかし一方で、不平等が生じ格差が大きくなれば、集団が瓦解してしまうリスクが高まるのでした。個人の才覚や機運が活かされることと、集団の協調や相互扶助とでは、あちらを立てればこちらが立たずというトレードオフの関係にあるのでしょうか。しかしながら、そう悲観的に捉えなくてもいいかもしれません。その二つが両立可能なのではないかということが、ある町の自殺率の低さを研究した考察結果からみえてきます[7]。

 

社会人を経て健康マネジメント研究科の大学院・修士課程に入った岡檀おかまゆみ氏は、徳島県の海沿いに位置する海部かいふ町(現・海陽町)の自殺率が極端に低いことを知り、その要因をフィールドワークなどによって調べていきました。自殺率が全国平均並みの隣町と比べても海部町は、自殺の危険を高める要因である「病苦・健康問題」や「生活苦・経済問題」が低いわけではありませんでした。つまり、海部町には他に自殺率を低めている要因があることが示唆されたのです。岡氏は、海部町を実際に訪れて、「この町はなにかが違う」と肌で感じながら、町にとけこむように話を聞いたりアンケートなどによる統計データをとったりしながら分析していきます。そうして見出された自殺を低めている要因は、町にある以下の5つの考え方や文化でした。

 

  • いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい
  • 人物本位主義をつらぬく
  • どうせ自分なんて、と考えない
  • 「病」はいちに出せ
  • ゆるやかにつながる

 

少しだけ補足していきます。1つ目は後にまわしまして、2つ目の「人物本位主義」とは、職歴や学歴、家柄や年齢などではなく、問題に対応する能力や人柄などで人物評価がされるということです。適材であれば抜擢人事もされ、地域活動においても、年功者の権威による理不尽もなく、たとえば祭りに向けた子どもの稽古では稽古の続行の判断を大人が下すのではなく子どもに委ねることもあるといいます。3つ目の「どうせ自分なんて、と考えない」とは、社会を主体的に動かす力が自分にもあると考える、自己効力感の高い人が多いことをたとえば言っています。また、デイサービスや医療などを受ける際にも、うしろめたさのようなものはなく、「元気に」受けるのだといいます。4つ目の「「病」は市に出せ」とは、何か困ったことがあったらすぐに誰かに相談しアドバイスを求めることを良しとする、掟や慣習を指しています。うつ病も、ほかの町では周りの目が気になってなかなか病院に行かないのに比べて、海部町では受診率も高く、周りの人も積極的に受診をすすめるのだといいます。5つ目の「ゆるやかにつながる」とは、アンケートの結果で他の町に比べて「日常的に生活面で協力」の割合は少ないのに対して、「あいさつ程度の最小限のつきあい」は相対的に多く、あっさりとしているが気にはかけているというような関係性です。また町の組合のような組織でも、出入りに強制はなく自由で、人の流動性が高いのだといいます。

私個人として興味深かったのは、1つ目の「いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい」についてです。関連エピソードとして、「赤い羽根募金が集まらない」ということが紹介されていました。隣接する町村では、募金箱を回すだけで住民たちがほぼ同じ額を次々に入れていくのだそうです。しかし海部町では、「だいたい赤い羽根て、どこへ行て何に使われとんじぇ」と問い詰められ、町の担当者はたじたじになるのだといいます。すでに多くの人が募金したと言っても、「よそはよそ」と言って、やっぱり募金はしてくれないのです。他方で、自分が必要と感じている祭りになどはお金を出すのだといいます。つまり、自分で考えた自分なりの大事にしたいことがあり、ただしそれを他の人に押し付けるようなことはしないのです。

こうしてみると合理的でドライな印象ももちますが、そうでもないようです。誰かがうつ病になったと噂で聞くと、「見舞いに行ってあげないと」と口々にして、押しかけるのだそうです。また、岡氏のように外から町に入っていくと、注目の視線を強めに感じるのだといいます。しかしそれでも、同調圧力のようなものは弱く、「いろんな人がいる」ということを基本にしているようです。たとえば、海部町から都市部に出た人に話を聞くと、最初は慣習や考え方の違いに戸惑いストレスを感じたようですが、しばらく過ごすと「いろいろな人がいるものだ」と納得していったのだそうです。

このような5つの要因が自殺率を低めており、生き心地の良さにもつながっていると言えるのではないかというのが岡氏の見解でした。

 

平等は重んじ過ぎると、先に紹介したアイヌの伝説のように、個人を抑圧するように働く可能性があります。しかし海部町の例をみていると、個人の価値観や能力、性格を尊重しながらも、格差をさほど生じずにあるいは感じずに、相互扶助の関係を維持できるのではないかと感じられます。ただし、その場合には主体的に考えること・選択することは求められそうです。ただ言えることは、主体性を保ちながらも、抱え込みすぎずに連帯して生きていく、そんなことは可能なようです。「いろんな人がいる」という思想を持つと、なんでも誰とでも比べる必要もなくなり、平等に対する寛容さが生まれるのかもしれません。

 

リベル:「自由と平等」の周辺では、詳しくはないが、さまざまな議論がなされている印象がある。自由且つ平等であることが社会の目指すところであるとか、ただ自由を目指せば格差(不平等)がどうしても生まれるとか、いやいや平等にも結果平等と機会平等の2種類があるとか。ちなみに、結果平等とは、結果が平らで等しくなければならないということであり、機会平等とは、機会がそうでなければならないということだ。前者は、徒競走でみな横並びでゴールテープを切らなければならない平等さであり、後者は、徒競走にみな参加できるという平等さだ。縄文の思想で重んじられる平等は、結果の平等であるから窮屈さを感じるのであって、機会の平等を重んじればそうはならないと言えるのかもしれない。しかし、機会の平等の末に生じた結果の不平等を、私たちが許容できるのか言われると疑問だ。理想としてありそうなことは、それぞれがそれぞれの価値基準を持てば、不平等を「違い」としか捉えなくなり、嫉妬や妬みを感じずに済むのではないかということだ。そんなことは壮大なきれいごとに過ぎないとされるのかもしれないが、海部町のことを知って、少しだけそんな社会像に思いを馳せた。

第四章 葛藤のなかで

ヒトが日本列島に渡ってきたとされる頃はまだ氷期でした。移動生活の負担にならない程度の携帯できる道具を使って、獲れる食料の種類や絶対量も少ないなかで、日々生きていました。そこから気候が徐々に温暖になっていき、生活に定住性を帯び始めていきます。ただ、定住化が始まったとはいっても、時期や地域にもよりますが、集団の規模は数棟程度のものが多く、季節ごとに居住地を変えていた時期が長かったと考えられます。しかしそのなかでも徐々に、三内丸山のようなムラができていき、文化圏や物流のネットワークが形成されていき、今に知られるような縄文文化がおこっていきました。食生活は多彩で、問題に対峙した末に生み出された墓制や祭祀は、時を超えた生の脈動を感じさせるものでした。

縄文時代が1万年以上も続いた後、朝鮮半島を経由して水田稲作と青銅器文化が伝来し、弥生文化として徐々に列島に広がっていきます。縄文と弥生の文化の違いは生業にあるだけではなく、人間による自然の改変や、人間による人間の統制・組織化という、根本に近い価値観や思想にもありました。それはやがて興っていく、国家の形成や社会のシステム化、所有概念の一般化や階級社会化への一歩目であったように思われます。そうした未来を予見していたとまでは思えませんが、縄文の思想で生きていた人々の一部は、水田稲作を受け入れず、漁労・狩猟・採集を中心とした遊動生の高い生き方を続けることを選びました。

縄文の思想は、近現代に至るまで、アイヌや南島、海辺に生きる人々を中心に受け継がれてきたと考えられます。モノの売買を忌避きひして贈与に執着し、平等を重んじ、またそれらを閉じた系で展開することで相互扶助的であり、集団のまとまりは自治によってまかなわれました。その生き方の根本にあるものは、自然や神という大きなもののなかの人間であり生であるという思想なのではないかと考えられます。

 

そのような縄文の思想が続いてきた一方で、近代先進国の思想は、弥生文化のがわで進展してきたのだと考えられます。航海により新大陸を発見し、科学により自然現象を解き明かし、技術革新により採掘・利用できる資源が格段に増えました。成長に限界はないという思想が生まれるのは、必然であったと言えるのかもしれません。そしてその成長の思想は、社会の発展に対して向けられただけではなく、個人に対しても向けられてきたように思われます。

自分次第でどこまででもいけるという成長思想は、成長レースのようなものを観念的に抱かせ、そこから外れることの自由を失わせる可能性をはらんでいると思われます。ただ、成長すること自体は決して悪いことではないでしょう。できなかったことができるようになること、目指す何かに一歩でも近づくこと、物事を豊かにみられるようになることなどは、生きる楽しさをくれるものです。しかし、その成長の方向や速さが一様に定められてしまうことに、不自由さを感じてしまうように思います。定められたそれにぴったりとフィットする人は翼が生えたようにも思えるのかもしれませんが、人それぞれに性格も能力も置かれた環境も異なるのであれば、翼が生えるのはごく一部の人に限られるのが必然ではないでしょうか。

何かが一つに定められ提示されるということは、上に何者かが君臨している様を想起させます。王様のような人がトップダウンで価値があるとするものを定めている様です。民主主義にそぐわない状態であるとも言えますが、福澤諭吉は『学問のすすめ』[8]において、政治や商いでたみが主権をもつためには、民が学ぶ必要があることを示しています。その理由とするところは、民が自ら考えて選択し、行動できるようになって初めて、官が主ではなく民が主の社会が成立するからです。民が封建社会そのままに官のお伺いをたてているようでは、官が主権を握らざるを得ないということです。非常に大雑把な紹介ではありますが、福沢諭吉のこのような指摘は、民主主義社会においては、個人に常につきまとう問題であるように思われます。

では、どういう方向に学ぶことが、それぞれが窮屈ではない自由さをもって生きることに寄与するのでしょうか。ひとつの方向としては、今とは対極とも感じられる思想をもつ、縄文にヒントはあるように思われます。諭吉が言うように自分なりの考えや価値観をもつということは簡単なことではないと思われますが、まずは、ヒトを含めた生き物やそれらが織りなす生態系のすごさや、人の不完結さや歴史の多様性などを知り、自分からみたときの世界を大きなものとして捉えられるようになると、身軽で柔軟になれるのではないかと思いました。おそらく人は、思っているほど周りから独立した存在ではなく、他の生物や自然全体に比べて特別に優れた存在でもないように思います。そのようなあいまいさと大きなものの上に成り立っていることを知った上で自分らしい生き方を模索していくことが、ひとつの自由のかたちなのではないかと思いました。

 

歴史が枝分かれ、縄文の思想を受け継いできたアイヌ社会でしたが、その文化や思想は決して弥生的社会から独立したものではありませんでした。和人との交易において、江戸時代末から明治時代はじめにかけて人口300人ほどであった上川アイヌでは、次のような取引をしていたと言います[1,k2546]。「年間にキツネ皮700〜800枚、イタチ皮1000枚、カワウソ皮200枚、クマ皮150〜160枚、サケ8万4000〜9万尾などを出荷し、その対価として和人商人から酒、コメ、麹、木綿布、系、針、シャツ、手ぬぐい、はさみ、タバコ、煙管、小刀、漆器、鉄砲、火薬などの本州産品」を得ていました。このような大規模なモノの交換は、神から与えられた贈りものを身内に分配していくという贈与とは言い難く、商品取引に限りなく近い行為であると言えます。しかしアイヌの人々にとって、モノは神の化身なのであって、商品であってはいけません。そこでとった方策は、「チャシ」と呼ばれる祭祀施設・聖域をつくり、そこで獣の解体などを行うことで、モノがまとう神や人の縁を無にする「無縁化」を施すことでした。隣接する地で発展していく文化のモノを求める欲望と、自らの文化・慣習から逸脱することは避けなければいけないという抑制との間の葛藤が、チャシとして現れたのではないでしょうか。

ほかにも、アイヌ社会では、狩猟しながらひとりで山中を遊動し何年も村に帰らなかった若者や、山中に孤立して暮らす人々がいたといいます[1,k2715]。平等の抑圧や、そのほかの慣習に合わなかった人々の選択であったともいえますし、社会が一つの折り合いのつけ方としてそのような選択を許容していたのかもしれません。いずれにしても、そこにどんな社会システムが敷かれていたとしても、人は葛藤のなかで、日々の生を紡ぎ出していくものなのではないかと思いました。そうして少しずつかたちを成していくものが、文化であり、思想であり、生き方と呼ばれるものなのかもしれません。

 

最後に、瀬川先生に改めてこんな問いを投げかけてみました。

「縄文の思想で生きる人々は、人間としての自分たちをどのような存在として捉えていたのでしょうか。どのような世界観をもって生きていたのでしょうか。」

 

瀬川先生:獲物を殺して解体するような生業をしていると、人間も他の生き物も変わらないと思うところはあるのだと思います。自分たちと同じようなかたちの生き物の死と毎日のように直面して生きているわけです。そうすると、人間だけが特別なわけではなくその世界の一部なのだと日々実感して生きるのだろうと思います。そういう意味では自然のなかの一部だと考えているのかもしれません。一方で自分というものをすごく大事にしている気もします。たとえば村の中に居づらくなったらすぐ出て行ってしまうこともあるからです。

ただ、生き物の死と常に接してはいるのですが、そのあとに神の世界に戻っていけるように、お祭りをきちんとやります。他界が山の頂上にあるのですが、川を通って山の頂上に向かってあの世に行き着き、そこからまた戻ってくるという観念をおそらく持っているのです。そうした循環的な世界というのは、すごくいいものだと思います。私たちは死んだら終わりでただ灰になってしまう、そう思うのが今の一般的な考え方だと思いますが、そうではない世界です。自然の大きなサイクルのなかに自分も戻っていき、また新たな生命になるのだという世界観です。

縄文時代のもので見つかるのは、お祭りの道具とかお祭りを行った後の形跡がとにかく多いです。おそらく四六時中そういうことをやっていたわけです。何のためにお祭りをやるのかというと、自分たちが思う世界を具現化し、自然のサイクルの一部だというような認識を改たにすることだと思います。日々そうした循環的な世界に生きているという実感をもてていれば、虚無感や不安を抱くことも少なかったことでしょう。

 

 

(2021年3月11日掲載)

 

 

〈参考文献〉

  1. 瀬川拓郎著『縄文の思想』(講談社現代新書、2017年)
  2. 山田康弘著『縄文時代の歴史』(講談社現代新書、2019年)
  3. 岡村道雄著『縄文の生活誌』(講談社学術文庫、2008年)
  4. 山田康弘著『縄文人の死生観』(角川ソフィア文庫、2018年)
  5. 藤尾慎一郎著『弥生時代の歴史』(講談社現代新書、2015年)
  6. ステファン・W・ポージェス著/花丘ちぐさ訳『ポリヴェーガル理論入門』(春秋社、2018年)
  7. 岡檀著『生き心地の良い町 ―この自殺率の低さには理由がある』(講談社、2013年)
  8. 福澤諭吉著/斎藤孝翻訳『学問のすすめ 現代語訳』(ちくま新書、2009年)

 

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縄文に生きた人々は、はたして「自由」というものを求めていたのだろうか。 #リベル

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