文量:新書の約47ページ分(約23500字)
はじめに
私たちが生きていく上での支えになるものの一つは、お金や不動産などの経済的な資本です。それらを元手にした取引によって、衣食住を整えたり、医療サービスを受けたり、保険でリスクヘッジをしたりすることができます。また何らかのトラブルが生じたときには、弁護士や会計士などのプロフェッショナルに解決を依頼することもできます。
しかしもう一方で、経済的な資本を元手にせずに受けている恩恵も多くあります。友人や知人が、悩みの相談に乗ってくれたり人を紹介してくれたり。または、災害に遭ったときなどに駆けつけてくれるボランティアの方々の助けも、経済的な資本を元手にした取引ではありません。
後者のような、人のつながりや信頼関係、困った時はお互い様というような規範も、一つの資本であると言えます。資本とは何らかの活動を行うにあたっての元手を意味しますが、それらを元手にして私たちの生活(=生きる活動)は助けられていると言えるからです。このような人々の協調的な活動を促す、信頼・規範・ネットワークを「社会関係資本」(またはソーシャル・キャピタル)といいます。
社会関係資本は、少し振り返っただけでも生活の助けになっていることが分かります。他方で、目には見えにくいものであるがゆえに、失われやすくもあると考えられます。しかしながら、不確実な時代においては特に、経済資本だけに頼るのではなく、社会関係資本というもう一つの資本も拠り所にする方が、安定や可能性の広がりが得られると思うのです。
そこでこのブックレットでは、社会関係資本が人生にどのように寄与するのか、反対にないがしろにしたり経済資本に寄り過ぎたりするとどのような弊害が生じる可能性があるのかを考えていきます。また、人と出会い過ごす時間がよりインターネット上に移っていくなかで懸念されることや、社会関係資本との向き合い方についても考えていきたいと思います。
このブックレットを書くにあたって注意していることが二点あります。
一点目は、社会関係資本を、経済資本と補完関係にある並列的なものとして捉えることです。経済資本と社会関係資本のどちらが重要かという議論ではなく、それぞれの資本が解決してくれる問題や与えてくれるものは異なるという前提のもとで考えていきます。このブックレットでは社会関係資本の利得や性質を中心に書きますが、決して経済資本の価値が薄いと考えているわけではありません。経済資本を元手に解決される問題や得られるものは、とても多くあると考えています。
二点目は、個人の目線で、社会関係資本の利得や向き合い方を考えていくことです。社会としてどうあるべきかという社会目線ではなく、あくまでも「個人にとって」という目線で考えていきたいと思っています。
今回は、東北大学大学院文学研究科リサーチフェロー・日本大学大学院法学研究科非常勤講師の稲葉陽二先生にご協力いただきました。稲葉先生には、社会関係資本の基本概念をご教授いただきました。本書は、いただいた知識をベースに、テーマに沿った情報や知識を執筆者なりに集めて編集し作成しています。
稲葉陽二先生
1949年(昭和24年)6月10日生まれ。1973年京都大学経済学部経済学科卒業。1973年日本開発銀行入行。1978年スタンフォード大学経営大学院修士課程(公企業管理)修了(MBA)。2001年日本政策投資銀行・設備投資研究所所長。2003年日本大学法学部・政治経済学科教授(~2020年3月)。現在、東北大学大学院文学研究科リサーチフェロー・日本大学大学院法学研究科非常勤講師。2015年博士(学術)(筑波大学)取得。専門はソーシャル・キャピタル論、日本経済論。
〈著書〉
- 『ソーシャル・キャピタル入門』(中公新書)
- 『企業不祥事はなぜ起きるのか ソーシャル・キャピタルから読み解く組織風土』(中公新書)
- 『ソーシャル・キャピタル叢書第1巻 ソーシャル・キャピタルの世界―学術的有効性・政策的含意と統計・解析手法の検証』(共著/ミネルヴァ書房) など
執筆者:吉田大樹
「こころが自由であること」をテーマに、そうあるために必要だと思えたことをもとに活動しています。制約がありすぎるのは窮屈で不自由なのだけど、真っ白すぎても踏み出せない。周りに合わせすぎると私を見失いそうになるのだけど、周りは拠り所でもある。1986年岩手県盛岡市生まれ。
目次
- はじめに
- 第一章 もう一つの資本がもたらす恩恵
- 個人間の利他行為 -ボウリングで知り合った個人間の臓器提供-
- 地域の健康 -心臓疾患による死亡率が低かった田舎町-
- 第二章 社会関係資本とはどのようなものか
- 社会関係資本の定義と特性
- 「信頼」 -きわめて人間的な関係性-
- 「規範」 -浸透度合いや親和性が協調活動に影響を与える-
- 「ネットワーク」 -弱いつながりが可能性を広げる-
- 「心の外部性を伴う」 -経済取引に内部化してはいけない-
- 社会関係資本の定義と特性
- 第三章 社会関係資本をどう培えばいいのか
- 社会関係資本は「社会や集団で共同保有する養土」
- 自然と居たくなる「サードプレイス」
- 第四章 見えないけど大切なものを溜める
〈参考文献の表示について〉
本文中で参考文献は、[文献番号,参考箇所]という表し方をしています。文献番号に対応する文献は最後に記載しています。参考箇所は、「P」の場合はページ数、「k」の場合は電子書籍・Kindleのロケーションナンバーになります。
第一章 もう一つの資本がもたらす恩恵
「はじめに」では、私たちの生活を支える元手となるもう一つの資本、社会関係資本というものの存在を少しだけイメージしてみました。本章では、社会関係資本によってもたらされるより具体的な恩恵を紹介していきます。経済資本との比較も要所で行うことによって、もう一つの資本として有することの重要性を理解していきたいと思います。
社会関係資本を元手として受けられる恩恵としては様々なものが研究報告されていますが、ここでは稲葉陽二先生の著書『ソーシャル・キャピタル入門』[1]で紹介されている「個人間の利他行為」と「地域の健康」の2つについて紹介していきます。
個人間の利他行為 -ボウリングで知り合った個人間の臓器提供-
一つ目は、腎臓移植を待っていた男性・ランバートが、別の男性・ボシュマから腎臓の提供を受けたという話です。この話は、社会関係資本のベストセラー本であるロバート・パットナムの『孤独なボウリング』のなかで紹介されたものです。
ランバートとボシュマはボウリングを通じて知り合いましたが、注目すべきはそれぞれのバックグラウンドの違いと出会い方です。ミシガン大学附属病院を退職した64歳のアフリカ系アメリカ人であるランバートに対して、ボシュマは会計士をする33歳の白人男性でした。仕事などで接点を持つ可能性が低い二人は、ボウリングという日常的な遊びであったからこそ、知り合うことができたと考えられるのです。信頼関係を築いていった二人でしたが、あるときボシュマはランバートの腎臓の状態を知ります。ボシュマは「たまたまランバートの状態を知り、自分でも予期しなかったことだが、自分の腎臓の片方の提供を申し出た」と言います。
ランバートは、ボウリングを通じて意図せず培ったネットワークや信頼関係によって、偶発的に臓器の提供を受けるという恩恵を受けました。人のつながりによって生まれた一つの美談であるとも捉えられてしまうかもしれませんが、経済資本による解決と比較想定すると、社会関係資本の異質性が見えてくるのです。
仮に臓器提供を経済資本を元手に解決するとしたらどうなるでしょうか。経済資本を元手にするということはお金で臓器を購入することになりますが、臓器は高額になることが予想されます。ランバートは臓器を購入することができたでしょうか。また、倫理的な問題にも直面し、実際に日本では営利を目的とした臓器供与は禁止されています。つまり、仮に経済的な取引で解決しようとした場合、資本力の問題でも法律的な問題でも、ランバートは臓器提供を受けられない可能性が高かったと考えられるのです。
さらに、経済資本ではなく社会関係資本によって臓器提供が実現したことによって、ランバートとボシュマは別の恩恵も受けられたと考えられます。それは、二人の絆の深まりと、こころの充足です。ボシュマとランバートがそれぞれ、まさに命を削って一人の人の命を助け・助けられたことは、二人の人生に大きな意味を与えたのではないかと想像されます。身体の一部を提供したボシュマは自分の命の意味をより多重的に捉えられるようになったかもしれませんし、ランバートは命を削ってまで助けてくれた人がいることに自己を肯定する気持ちを高めたかもしれません。これは、お金などの経済資本を介在させなかったことによってもたらされた価値であると言えるのではないでしょうか。
このように、意図せずに築かれていく信頼関係やネットワークは、思いがけない利他行為をもたらすことがあります。それによって、一人の力や経済資本では解決が困難な問題に、突破口を開いてくれることもあるのです。
地域の健康 -心臓疾患による死亡率が低かった田舎町-
二つ目は、アメリカ・ペンシルヴェニア州の人口千数百人の田舎町ロゼトの話です。ロゼトは、同名の南イタリアの村からの移民によって、1880年代につくられました。スレートの石切り場が主要産業であり、労働環境は決していいものとは言えませんでした。しかし、この町の1950年代から60年代にかけての心臓疾患による死亡率は、周辺の町や全国平均を大きく下回っていたのです。これは、喫煙・食事・運動などの要因では説明できない低さであるとされ、「ロゼトの奇跡」と呼ばれました。
ロゼトの奇跡は、学術論文の他に、1979年には『ロゼト物語』として一冊の本にまとめられました。この本の中では死亡率の低さの要因が次のように述べられているといいます[1,k1121]。
「イタリア系住民の間にある共通の目的意識と仲間意識により、仲間はずれや、裕福ではないことについて困惑させられる、といったことが決して起こらないようにしている。また、隣人に対する気遣いがあり、誰も決して見捨てられることはない。この、家族を生活の中心かつ砦としている驚くべき社会の一体感が、災難や困難に対するある種の安心と保険を与え、心筋梗塞や突然死のきわめて低い値をもたらしている。」
ロゼトの住民の間には実際には経済格差がありましたが、互いにそれを感じさせない慎ましい生活をしていたと言われています。ロゼトの住民の間で育まれた平等を重んじる規範が、一体感や信頼を生み出していたのです。
しかし、「ロゼトの奇跡」には後日談があります。それは、1960年代以降、彼らの一体感や平等を重んじる価値観が消えていくのに伴って死亡率が上昇していき、周辺の地域との差はなくなっていったのです。これは、現代的な言い方をすると、ストレスによる健康への影響であると言えます。
進化の過程を想定することで人間の心理を解明する進化心理学の視点を用いると、ストレスと健康の関係は次のように説明できると考えられます。
まず前提として、ストレスとは野生において獰猛な肉食獣などの外敵に遭遇した時に起こる反応であるとされます。ストレス反応によって、呼吸数や心拍数が増え、血圧が上昇しますが、それによって身体がより活発に動くようになります。つまり、ストレスとは決して悪い反応ではなく、外敵に応戦したり逃げたりするために備わった生き抜く上での重要な特性なのです。他方で、このような目的で備わった特性であるため、ストレスが生じている間は筋肉や五感などの外部環境に対応するための外的器官にはエネルギーが注がれる一方で、内蔵や免疫機能などの内的器官に対する維持管理は疎かになります。それによって内的器官が正常に働かなくなっていき、健康に悪影響を及ぼすと考えられるのです。
一般的な動物であれば外敵という危機が去れば、元通り内的な器官にもエネルギーが注がれます。しかし人間の場合は、何か怖いことや嫌なことがあったとき、その瞬間だけではなくたとえば家に帰ったあとも、思い出して憤ったり不安に思ったりすることがあります。このような長い時間生じてしまうストレス状態は、健康により悪い影響を及ぼしてしまうのです。
南イタリアからの移民であったロゼトの人々は、移民当初はお互いを助け合わなければ生きていけない一蓮托生の仲間として認識していたと想像されます。しかし、時を経るごとに助け合いの必要性や意識が薄れていき、平等を重んじる規範も崩れていったのだと考えられます。同じ町で暮らす他者を外敵とまでは見なさないまでも、いざとなったら助けてくれる仲間としては認識できなくなっていったのではないでしょうか。そのような不安や敵対心、孤独感がストレスとなり、心臓疾患による死亡率も上昇していったのではないかと考えられるのです。
このような地域の健康も、経済資本による解決を想定することはできます。その解決方法はシンプルに医療サービスを受けるということです。しかし、医療によって健康問題を解決した後も、不安・敵対心・孤独感は残ったままとなってしまいます。
このように社会関係資本は、経済資本では解決しきれない問題を解決に導いてくれる場合があります。したがって、経済資本と同じくらい重要な、もう一つの資本であると言えるのではないでしょうか。社会関係資本は、今回紹介した以外にも、地域社会の安定や政府の効率、教育水準、企業活動などへも影響を与えるとされています[1]。
経済資本と異なる問題を幅広く解決してくれる社会関係資本を経済資本と並列で有しておくことで、個人にとっての安定や可能性の広がりにつながるのだと考えられます。では、社会関係資本とはどのように培えばいいのでしょうか。次章では、培い方を考える礎として、社会関係資本の性質を説明していきたいと思います。
第二章 社会関係資本とはどのようなものか
前章の社会関係資本による恩恵の紹介のなかで、その正体が何となくイメージできたのではないかと思います。本章では社会関係資本の定義や特性を明らかにすることで、社会関係資本をどう培い、どう向き合っていけばいいのかを考える礎としていきたいと思います。
社会関係資本の定義と特性
社会関係資本の定義は研究者によって様々なようですが、信頼・規範・ネットワークという三要素は基本的に含まれています。本書ではこれら基本三要素に「心の外部性」を加えた、「心の外部性を伴った信頼・規範・ネットワーク」を社会関係資本の定義とします。これは、稲葉陽二先生が提唱している定義です[1]。社会関係資本のイメージを深めるために、それぞれの要素について掘り下げていきたいと思います。
「信頼」 -きわめて人間的な関係性-
まず「信頼」についてです。社会関係資本における信頼とは、ランバートとボシュマのような個人間の信頼関係だけではなく、社会に対する信頼も指します。また社会に対する信頼も、社会全般を信頼する一般的信頼と、自分が属する集団に対して向けられる特定化信頼の二つに分けられます。そして、一般的信頼や特定化信頼は、不平等や社会の腐敗と影響を及ぼし合うとされており、全体としては図1のような相互関係が考えられています。
図1のプラス・マイナスの関係が、どのような流れの中で生じるのか考えていきたいと思います。ですがその前に、そもそも「信頼」とはどういうものを言うのか少し掘り下げてみたいと思います。
社会心理学者の山岸俊男氏は、信頼を「相手の行動によって自分の身が危険にさらされる状態で、相手がそのような行動をとらないだろうと期待すること」と言います[2]。そして信頼できる理由としては、「相手が「いい人」だと思うから(=相手の人間性)」や「相手が自分に好意を持っていると思うから(=相手との関係性)」が挙げられると言います。他方で、信頼と近い感情に思われる「安心」とは質的に異なるものであるようです。「安心」とは、「自分を裏切ると、相手自身が損をするから」という理由で得られるものだそうです。なにかうまい話があったときに、背景や仕組みを知らないと「安心できない」という感情が、まさにその一例であると考えられます。つまり、信頼とは無条件に生じるものである一方で、安心とは条件付きで生じるものであり取引的な要素を含むものであると言えます。
さて、話を戻して、信頼・不平等・社会の腐敗の関係について見ていきたいと思います。話の起点を、ロゼトの町のような平等を重んじる社会規範がある社会や集団に置き、展開していきます。
経済格差はあっても皆表には出さない規範がある社会では、他者へ配慮する心を感じられるため、他者あるいは社会全般を信頼する一般的信頼は高く保たれると考えられます。平らに等しくあろうとする姿勢は、相手が自分の身を危険にさらすような行動はとらないだろうという信頼を抱かせると考えられるのです。しかし、格差を感じさせまいとする配慮がなく差が明らかに見えてしまっている社会では、一般的信頼は生まれにくいと考えられます。平等でないということは階層を意識させ、階層が上の者は下の者と関係性を結ぶ必要性が薄いことを連想させると考えられるからです。このような状況では、一般的信頼は保たれにくく、反対に同じ階層の仲間と関係を厚くする特定化信頼が育まれやすくなります。他集団との差が大きいほど自集団内の仲間意識が強くなっていくことは、身のまわりの社会生活でも心当たりがあるところではないでしょうか。集団の仲間内での信頼である特定化信頼は、不平等になるほど強くなっていくのです。特定化信頼は、集団内の結束は高めますが、他方では他の集団への不信を強め、犯罪の増加などによって社会の腐敗を招きます。単純に言ってしまえば、仲間は傷つけてはいけないけど、敵(=他集団の者)であれば傷つけても構わないという心理状態が集団間で生まれやすくなるということです。
このように、社会関係資本における信頼は、個人間の直接的なものだけではなく、広く間接的なものも指します。では、私たち個人が信頼を大切にすることでどのような良いことがあるのでしょうか。社会関係資本の一つである信頼と、どのように向き合っていくべきなのでしょうか。一般的信頼は社会の腐敗を防ぎ回り回って自分の利得につながってくる、と言われても少しイメージが湧きません。
信頼の重要性や向き合い方は、安心と比較することで見えてきます。
山岸氏の言う安心する理由は「自分を裏切ると、相手自身が損をするから」であるため、安心とは利害が絡んだ感情と言えます。安心と近しい意味のものとして「信用」があると言えます。信用とは、担保を差し出したり契約を結んだりすることで、手に入れられるものです。
大規模な集団で協力活動を行うには、信用を得るための仕組みは必要です。なぜなら信用は、相手その人自身を知らなくても、お金や契約によって取引を成立させることができるからです。それに対して、信頼関係は築くのに時間がかかります。可視化・明文化しやすい信用や安心に対して、人間性や関係性を認識するのはあやふやで時間がかかるからです。したがって、信頼関係だけで取引をしていては、いちいち構築するのに時間がかかり、大規模な集団でスピード感のある協力活動は行えません。
このような特徴を踏まえると、安心や信用とは経済的な取引に親和性が高いことが分かります。しかし安心とは、「自分を裏切ると、相手自身が損をするから」という理由で得られるものであるため、相手を対立関係に置くことを前提としています。これでは、日常的なストレスを感じることとなり、健康などへ悪影響が及ぼされると考えられるのではないでしょうか。
それに対して信頼は、相手を対立関係にはおきません。利害に関係なく、相手は自分に危害を加えず、ときには助けてくれるたりもする関係性です。実際に、ランバートはボシュマとの間に築かれた信頼関係によって、腎臓の提供を受けることになりました。それによって、臓器提供という事実に留まらず、心の充足や絆の深まりを感じられたと考えられました。安心や信用に比べて、より人対人の付き合いによって生まれる信頼は、幸せを感じるために不可欠な関係性であると言えるのです。
このような関係性は築くのに時間がかかり、利害を前提にしてはいけず、偶然に生まれ育まれていくものであると言えます。したがって、利害関係がなくてもただ一緒にいて良い時間を過ごせる相手との関係性は、言うまでもなく大切にするべきだと考えられるのです。
移民当初のロゼトの町の人々のように、不平等を感じさせない振る舞いも大切であると考えられます。そのような規範意識を持つことが信頼につながりますし、また仮に現時点で上とされる階層にいたとしても今後も維持できるとは限らないからです。格差とは主に経済格差を指しますが、経済的に優位な状況にいられるのには、努力以外にも、スキルや素質が今この時点の社会環境に合っているからという理由もあると考えられます。社会の変化スピードが速くなっている現代では、今はたまたま自分にフィットした環境であるだけで変化後はどうなるか分からない、ということです。優位・劣位には「運」の側面もあるのであれば、ある特定の指標で他者と自分との優劣を計るのは間違っているとも言えます。長期の目線では互いに助け合う関係にあることを前提に、他者を思い不平等を感じさせないように振る舞うことがあたりまえであり、大切なのではないかということです。そしてそのような規範意識や信頼の積み重ねが、社会の腐敗を防ぎ、社会の安定にもつながっていくことでしょう。
「規範」 -浸透度合いや親和性が協調活動に影響を与える-
次に、信頼について考えるなかで何度か出てきた「規範」について掘り下げて考えていきたいと思います。
「規範」とは、社会や集団におけるルールや慣習のことを言い、私たちが有する道徳心や倫理観も規範の一種と言えます。明示的な規範の例としては、「国のあり方を決める権利は国民が持っている」という民主主義などが挙げられます。また、社員の行動指針となる企業文化なども、規範のひとつであると考えられます。
社会関係資本における規範とは、「困ったときはお互いさま」というような互酬性の規範を特に指します。「お互いさま」という前提があることで、明確なリターンが想定できなくてもいつか自分に返ってくるだろうという心持ちのもとに、助けるという行為に出ることが出来ます。つまり、互酬性の規範が社会や集団に浸透していることによって、利他的な行為や協調的な活動が生まれやすくなるのです。ほかにも、ロゼトの町で見られたような平等を重んじる規範も、非常に重要な規範です。なぜなら、ロゼトの町では、平等を重んじる規範が信頼を育み、心臓疾患による死亡率の低さに寄与していたと考えられているからです。その後、規範が損なわれたことで町の人々が不安を感じるようになっていき、死亡率は上昇していきました。
社会や集団内での規範の浸透度合いは、信頼関係の築きやすさや協調的な活動の起こりやすさに影響を与えると考えられます。たとえば、「困ったときはお互いさま」という互酬性の規範は、皆がそれを当たり前に有していると信じているからこそ、利他的な行動をとれるはずです。なぜなら、自分だけが互酬性の規範を有していても周りの誰も有していなければ、いつかのお返しを期待できず協調的行動の意欲が削がれてしまうからです。共通の規範を自分が所属する社会や集団の皆が有していると信じられるからこそ、他者を信頼し協調的な行動が促されるのだと考えられるのです。
では私たちは、そのような協調的行動を促す規範をどのように有していくのでしょうか。
規範意識に大きく影響を与えることの一つは、「教育」であると考えられています。教育によって、規範が私たちのなかに備わっていくのです。「困ったときはお互いさま」という互酬性の規範は、よくよく考えると根拠に乏しい考え方であるとも言えます。契約などの明示的な約束事を取り付けずに他者が助けてくれる保証など、どこにあると言えるのでしょうか。しかし、「情けは人のためならず」ということわざもあるように、互酬性の規範は古くから私たちの社会に存在する規範であると考えられます。したがって、私たちにとっての規範とは、論理的に考える必要もないくらいあたりまえすぎる存在であるとも言えるのです。その規範を育むものが教育であると考えられています。生まれたときから受ける親による教育、学校に入ってからの教育、または地域の人からの少し面倒に感じてしまうこともある注意なども規範意識を育んでいると言えます。そして、このような教育によって私たちに備わった規範は、いつしか「あたりまえ」として認識されていくのです。しかしもう一方で、「あたりまえ」として深く刻まれた規範意識は、柔軟に変えることは困難であるとも言えるのでしょう。
規範の浸透が教育に影響を受ける一方で、どんな規範でも浸透させることができるかというと、そうではないと考えられます。私たち人間が有する本能のようなものに大きく反しない規範でなければ、浸透させることができないと考えられるのです。たとえばどのような規範であれば浸透させられるのかということを、チスイコウモリに見られる協調的行動を切り口として考えてみましょう。チスイコウモリは、教育というシステムを有さないにも関わらず、互いに助け合う行動をとるのです[3,P48]。
チスイコウモリは、南米大陸に生息する家畜の血を吸って生きる小動物です。代謝の早いチスイコウモリは、2日続けて血が吸えないと餓死してしまうと言われています。そのようなチスイコウモリに見られるのが、獲物にありつけなかった仲間のために、血を吐き戻して分け与える分配行動です。さらに興味深いには、動物行動学者のカーターらの実験から示された分配の判断基準です。カーターらは、コウモリの個体DNAから血縁関係を調べた上で、ランダムに一個体ずつ絶食させて巣に戻し、他の個体からどの程度血の分配を受けられるか調べました。直感的には、血縁関係の濃い個体間で血の分配が行われると思うのではないでしょうか。しかし結果は、血の分配を受けられるかどうかは、「相手に以前に血を分け与えた回数」が多いかどうかに依存することが分かったのです。その次に大きな要因は「相手の性別」であり、その次が「相手に以前に毛づくろいした程度」、そして最後が「相手との血縁度」でした。つまり、相手に血を分け与えてこなかった利己的なチスイコウモリは、いざ自分がハンティングに失敗し続けたときに、助けてもらえる可能性が低いということです。言い換えると、血を与えてこなかった者は短期的には利益を得ていても、長期生存の目線に立つと大きなリスクを抱え込んでいるということが言えるのです。
チスイコウモリと同様に人間も、他者と協力しながら生きていくことを選択した社会的な動物です。したがって、教育を受ける以前に、「助けられたらお返しをする」という助け合いの本能のようなものを有しているのではないかと考えられます。したがって、規範とは、全く新しい精神性のようなものを植え付けるものではなく、本来有するものをより強固に働かせるためのものという捉え方の方が、適切なのではないかという考えが浮かびます。本能と親和性が高い規範を社会の共通基盤とすることで、協調的関係の円滑な構築につながっていくのではないでしょうか。
他方で、人間社会に浸透しにくいと考えられている規範には、どのようなものがあるのでしょうか。そのひとつは、以前リベルのブックレット『感情と功利の不調和』(現在配信停止中)で紹介した「功利主義」が挙げられます。功利主義とは、イギリスの哲学者ベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉に表されるような、全体最適を目指す道徳規範です。一見すると最良に思われる規範ですが、功利主義は社会の「あたりまえの社会規範」として浸透させるのは困難であると考えられています。
たとえば、企業が行うリストラについて想像してみてください。経営者の判断としては、倒産して雇用の全てを失うよりも、縮小してでも継続して雇用を少しでも維持する方が、最大多数の最大幸福を実現する功利主義的な判断であると言えます。しかしながら、リストラされる側からすると、それまで信頼関係を築いてきた会社や上司から裏切られたような気持ちになります。功利主義とは、最大幸福の対象を考える際に、親しさや血縁関係を考慮しません。あくまでも、最大多数の幸福を目指すものであるため、頭で考えると合理的ではあるのですが、信頼関係や仲間意識を重んじる人間のこころとは反発してしまう規範なのです。
このような前提を踏まえると、社会や集団に既に浸透している規範は、人間本性や人間社会に一定程度合っている規範であると言えるのだと考えられます。したがって、既に存在する規範にはある程度肯定的な心持ちで従ってみたり、その意味を考えてみたりするというのも一つのあり方なのかもしれません。なぜなら、多少は面倒でも協調的活動を促し長期生存を助ける規範であったり、新たな規範構築のヒントが隠れたりしている可能性があるからです。
他方で、一見良いように思えてもなかなか浸透しにくい規範は、人間本性の視点から見直してみる必要があるのかもしれません。たとえば、「失敗を恐れるな」という言葉は、仕事やスポーツなどの様々な挑戦的な場で聞かれます。しかし、集団のなかで他者と協力しながら生きてきた人間にとっては、失敗とは集団の掟に反したことを意味し、集団から排斥される恐れを抱かせます。したがって、「失敗を恐れるな」とは少し無理な注文であるとも言え、私たちはどうしても失敗を恐れてしまうと考えられるのです。そう考えると挑戦を促すための正しい規範としては、たとえば「失敗を恐れてもいいが、何が失敗なのかを一度考えてみよう」ということなのかもしれません。失敗の定義をすることで、本当は失敗ではないことを恐れずに積極的な挑戦が促される可能性があるからです。
規範とは、見方によっては上から押さえつけられるような感覚を覚えますが、押さえつけるだけの規範は社会や集団に浸透しないのではないかと考えられます。浸透する規範は、人間本性に一定程度沿っていることを前提に、社会や集団からのフィードバックを受けながら醸成されていくものなのではないかと考えられるのです。
「ネットワーク」 -弱いつながりが可能性を広げる-
3つ目は「ネットワーク」についてです。ネットワークとは一言で言ってしまえば、人のつながりのことです。ネットワークには、同質な者同士を結びつけるボンディング(結束型)と、異質な者同士を結びつけるブリッジング(橋渡し型)という分類があります。
ボンディングとは、学校の友達やクラブ活動の同期・先輩・後輩、地域の町内会などが一例です。このネットワークは結束が固く閉じているため、互酬性の規範がより働きやすくなります。高頻度で継続的な活動を行うため、助け合いの関係が育まれやすいのです。
他方でブリッジングは、広がりがある一方で開いたネットワークであるため、ボンディングほどは互酬性の規範は強くは働きません。たとえば最近では、複業やプロボノなどによって築かれる関係は、ブリッジングなものであると言えます。また、かつての学校の友達でも、その後違う道に進むことによって、ボンディングからブリッジングに関係が変わっていくこともあると考えられます。
強く狭いつながりであるボンディングに対して、弱く広いつながりであるブリッジングは、多様な問題への解決の糸口をくれる場合があります。社会関係資本の第一人者であるロバート・パットナムの著書『われらの子ども ー米国における機会格差の拡大』[4]の中では、弱いつながりやインフォーマルな助言が子どもの可能性を開くことが描かれています。パットナムは、様々な階級や人種の人々にインタビューを繰り返し、機会を得ている人がどのようなつながりを有しているかを明らかにしていきました。エピソードの例としては、大学の行き方など見当もつかない両親に代わって、教会の牧師さんが大学への推薦と、学資支援の受け方や出願手続きの仕方を教えてくれたという話がありました。ほかにも、一人で子どもを育てることになった母親が、薬物に手を染めそうになった娘に対して知り合いの精神科医に治療をお願いしたり、娘の作文力を伸ばすために通わせた大学で教員が非常に親しいメンターになったり大学の学生と議論する機会につながったりしたというエピソードもありました。他方で、ブリッジングな弱いつながりに欠けている人々は、社会的支援をごく近しい関係の家族や近隣の人にしか求めることができず、必然的に解決できる問題や解決方法、または将来への可能性も限定されていくことになります。
『われらの子ども』の主題は、かつて「アメリカン・ドリーム」と言われ機会の平等性が謳われていたアメリカが、近年では個人の力では越えがたい機会格差にみまわれている。つまりアメリカン・ドリームは終焉してしまったのだが、その原因は何なのかということにあります。原因は様々に挙げられていましたが、居住地域における住民の多様性が損なわれていったことが原因の一つとして挙げられていました。経済格差があっても、たとえ人種的な差別があっても、同じ地域に住み同じ学校に通っていれば、さまざまな人や情報に触れることができ、自分の将来の可能性を知ることができます。しかし、その後の都市化や産業地帯の変遷に伴い、人が移動し、徐々に経済階級ごとの居住コミュニティに変化していきました。それによって、富める者は富める者同士でつながり、有益な情報や良質な教育を受けて益々富んでいき、機会格差は広がっていったようです。このようなアメリカの変遷を見ると、かつてはあたりまえであった地域に根ざす生き方は、機会を均等に分配するという点では有効であったと考えられるのです。
ネットワークとは人間関係であるため、自然に築かれていくのが一番であるとは思います。しかしながら、住む場所の移動が容易になり、オンラインコミュニケーションが一般化したことによって、人のつながりはより流動的になり自らの意思で選択できるようになりました。自分で選択できるということは、同質化していく可能性があります。人はみな、自分の居心地がいいところに居たいと思うはずだからです。ただ、ブリッジングな弱いつながりや、そこから得られるインフォーマルな助言が時に可能性を開くのであれば、自分にとって少し異質なところに顔を出してみることも必要なのかもしれません。
「心の外部性を伴う」 -経済取引に内部化してはいけない-
ここまで紹介してきた社会関係資本の信頼・規範・ネットワークの特性をより明確に表すのが、「心の外部性を伴う」という形容詞です。
外部性とは、個人や企業の経済主体の行動が市場を通じないで影響を与える性質であり、経済学で使われる用語です。便益を与えるものを外部経済、損害を与えるものを外部不経済と言います。
社会関係資本による恩恵は、市場を通じて取引されるものではないため、外部性を有すると言えます。個人間の信頼関係も社会や集団に対する信頼も、規範意識も、ネットワークも、心の中で認識されるものであると言えます。従って、「“心の外部性を伴った”信頼・規範・ネットワーク」という定義が特性をより分かりやすく表していると言えるのです。
「心の外部性」があるということは、市場に内部化してはいけないということを暗に示します。内部化するとは、税金などの制度や価格調整のメカニズムなどを導入することで、外部性が取引に組み込まれることを言います。たとえば、外部不経済である公害問題を例にみてみましょう。公害は、工場とメーカーなどの取引主体者以外の近隣住民が被害を被るという意味で外部不経済です。しかし、たとえば汚染物質の排出に対して罰金や税金をかけることで汚染物質の流出は減少することが想定され、それに伴うコストは価格に転嫁されることになります。こうして外部性は経済取引に内部化されていくのです。
しかし、社会関係資本の外部性は、心を伴うものなので内部化しては恩恵を受けられなくなると考えられます。たとえば、先に紹介したランバートとボシュマの臓器提供も、経済取引化することによって倫理問題が浮上したり、絆の深まりやこころの充足が得られなくなったりすることが考えられました。また、信頼関係やネットワーク・人のつながりにも経済取引の原理を持ち込んで内部化しようとすると、関係が悪化してしまうことはあらためて説明するまでもないでしょう。
お金や契約は、元来の人間社会には存在しないものでした。しかし、より多くの人と協力や取引をするためには信頼関係の構築はコストがかかりすぎるため、お金や契約が有効な手段として生み出されました。たとえば、相手の人となりを知らなくても、契約を結ぶことで安心して取引することができます。また、何かをしてもらったお礼としてお金を払うことで、取引を問題なく成立させることができます。しかし別の見方をすると、契約を結ぶということは相手を信頼しきれていないことを意味しかねませんし、お礼にお金を払うということは繰り返しの関係性を持たずに清算することを意味しかねません。親しい間柄でも相手に負担をかける場合や、プロフェッショナルに対する礼儀として契約を結んだりお金を払ったりすることはあります。ただ元々は、信頼関係やつながりを築くことと、経済取引に内部化してしまうことは馴染まないものであると言えるのです。
ここまで掘り下げてきた「信頼」「規範」「ネットワーク」「心の外部性を伴う」の各要素から、社会関係資本をどのようなものであると感じたでしょうか。私は、社会関係資本とは「社会や集団で共同保有する養土」という表現がイメージと合うのではないかと考えています。ちなみに、「養土」とは別の先生にお話を伺っていたときに出てきた言葉で、それを拝借しました。次章では、「社会や集団で共同保有する養土」というイメージを抱いた理由と、そこから見出される社会関係資本の培い方を考えていきます。
第三章 社会関係資本をどう培えばいいのか
前章では、社会関係資本「心の外部性を伴った信頼・規範・ネットワーク」の各要素を掘り下げていきました。本章では、前章で深めた社会関係資本の理解から、培い方を考えていきます。また、社会関係資本を培うことができる場の例として「サードプレイス」を紹介します。
社会関係資本は「社会や集団で共同保有する養土」
前章で紹介した社会関係資本の各要素からは、培い方を考えるための要点が見えてきます。それは、「個人所有できない」「コツコツと時間をかける」「ある程度は委ねる」ということではないかと私は考えます。そして、その総体のイメージとして「社会や集団で共同保有する養土」という表現がフィットすると考えました。
お金や不動産などの経済資本は個人所有できますが、社会関係資本は個人所有できるものなのでしょうか。私は「個人所有できない社会や集団で共同保有するもの」であると考えます。
まず、「規範」は社会や集団の中で育まれ、社会や集団ごとに異なります。個人は集団の中で養われた規範意識を外に持ち出すことは出来ますが、持ち出しても個人の利得にはつながりにくいと考えられます。なぜなら、規範は周りの皆が共通で「あたりまえ」に有しているからこそ、協調的活動が生み出されるからです。個人で持ち出して他の社会や集団で唱えても、周囲にその規範意識がなければ皆が動くことは考えにくいということです。つまり、規範は個人の意識のなかにあるのかもしれませんが、皆で保有していなければ意味が生まれないため、実質的には「個人所有できない」と言えます。一般的信頼や特定化信頼も、その社会や集団であるからこそ抱けるものであるため、規範と同様に個人が単独で外に持ち出しても、その信頼意識は変容していくものと考えられます。
では、ネットワークや個人間の信頼関係はどうでしょうか。これらは一見、他者とつながっているのは自分であるため、つながりは個人に帰属するように思われます。しかし、つながりや信頼関係は決して二者間で築かれるのではなく、集団の中のN対Nの関係性の中で生まれていくものなのではないでしょうか。たとえば、相手への信頼は、自分に対する相手の振る舞いだけではなく、周囲の他の人への振る舞いも観察しながら形成されていきます。新たなつながりも、他の誰かの紹介や会話のパスなどによって生まれていき、それによってまさにネットワーク的な広がりが生まれていきます。
このような相互作用によって生まれるものを、自分に帰属するものと捉えて、集団から過度に持ち出すようなことをすればどうなるのでしょうか。まず、信頼関係は時とともに減衰していくのではないかと思います。信頼関係とは一度強固に形成されても、時が経つとともに自分も相手も様々な人生経験を経て変わっていくため、永続的にその強さが維持されるものではないと思われます。したがって、定期的にお互いのことを確認するような時間が必要であり、それは元々信頼関係で築かれた社会や集団での時間であると考えられます。ネットワークも、良いパスなどによって新たな関係が築けたのであれば、1対1ではなくNの集団のなかにいて相互作用を及ぼし合う方が、関係を深めたり広げたりする上では有効ではないかと考えられます。
したがって、社会関係資本とは、実質的に個人で所有することができない、社会や集団で共同保有するものであると言えるのではないかと考えられるのです。
社会関係資本を培う際の時間のかかり方を認識しておくことも、重要であると考えます。信頼は、山岸俊男氏によると、「相手が「いい人」だと思うから(=相手の人間性)」や「相手が自分に好意を持っていると思うから(=相手との関係性)」によって抱くものでした。「いい人」かどうかや好意の有無・程度は、時間をかけて付き合っていかなければ分かりません。規範も、意識しないほど「あたりまえ」となるまでには、繰り返しの確認や教育が必要です。ネットワークも、いろいろな人との出会いや付き合いの中で一つ一つ築かれていくものであり、時間がかかりますし、かけるべきものであるとも言えます。
したがって、「コツコツ時間をかけること」は社会関係資本を培うには必要なことであると言えます。
そして、自分だけでは完結せず他者や社会との関係性の中で培われていく社会関係資本は、「ある程度は委ねる」ことが必要で、自分でコントロールしようと思っても出来ないのではないかと考えられます。
信頼関係もネットワークも、相手がこちらを向いてくれなくては築かれません。社会全般に対する一般的信頼も、自分一人で持てるものではなく、信頼できる土壌があることが前提となります。そして、人間本性から大きくズレたような規範は浸透しないのではないかと考えられました。特定の誰かや組織が強烈に良いものだと考えても、人間や社会との親和性が低いものであれば浸透しにくいと考えられるのです。
つまり、自分だけの気持ち・考え・努力だけでは蓄積していくことは困難であり、ある程度は委ね・身を任せながら培われていくものではないかと考えられるのです。
このような要点を捉えていくと、社会関係資本とは「社会や集団で共同保有する養土」のようなものではないかというイメージがしっくりきます。化学肥料を用いない養土は、醸成されるのに時間がかかります。手触りがしっとりするくらいのちょうどいい水分を含んだ土を作るには、落ち葉や糞尿などの有機物、菌類などの土壌微生物やミミズ・ダンゴムシなどの土壌動物の力を借りて、自然の循環を維持することが必要なのだそうです。また、草を抜いたり石を取り除いたりという地道な働きも必要です。それによって、栄養素の高い作物が育つ土壌ができ上がっていくのです[5]。養土は、自分一人だけの力では作れませんし、持ち出すことは築かれた循環系から自ら抜け出すことを意味するのです。
共同保有であるということは、自分の努力が社会や集団に吸収されていくようにも感じられます。しかし、別の見方をすると、自分以外の人々の働きも養土に溜めこまれていくともいえるのです。皆が生活の中で築く信頼・規範・ネットワークを持ち帰らず、社会や集団に残していく感覚です。
蓄積のスピードも、見返りのタイミングや中身も自分でコントロールできないということは、何だかじれったくも感じます。しかし、自分以外の他者の働きも溜めこまれた養土には、自分だけでは蓄えられなかった力が眠っているといえます。自分でコントロールしやすい経済資本に対して、社会関係資本は変化する世の中で直面するピンチを吸収してくれるふかふかのクッションでもあり、長い人生で訪れる絶好の機会に栄養をくれる土でもあると言えるのではないでしょうか。
では、そのような養土はどのような場で培われるのでしょうか。そのイメージを、自宅や職場とは隔離されたとびきり居心地の良い場所「サードプレイス」に求めていきたいと思います。
自然と居たくなる「サードプレイス」
サードプレイスとは、家(第一の場所)と職場(第二の場所)からは離れた第三の場所という意味です。社会学者のレイ・オルデンバーグは著書『サードプレイス』[6]の副題に、「コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」」と付けています。家や職場における立場や役割から離れられるサードプレイスは、ただただ人のつながりや会話を楽しめる場なのであると言います。具体的には、イギリスのパブやフランスのカフェなどが挙げられており、日本では赤提灯の居酒屋や銭湯などが該当するのだそうです。
ここでは、レイ・オルデンバーグが著したサードプレイスの8つの特徴を紹介していきます。社会関係資本を培える可能性のあるひとつの場として、家探し・仕事探しならぬ、サードプレイス探しの参考にしてもらえればと思います。または、コミュニティを整えるような立場にある人にも、その際の参考にしてもらえればと思います。
まず、サードプレイスは「中立な領域」であることが必要であると言います。個人が自由に出入りでき、接待役などの特別な役割を誰も持たず、全員がくつろげるような場所です。私的な場というより公的の場という表現が適しており、人々の“たむろ”を退けようとはしない場所です。
次に、サードプレイスは「人を平等にするもの」であると言います。正式な会員資格や入場拒否の基準がない、誰でも受け入れられる場所です。社会階級を気にした堅苦しい付き合いではないため、制約が少なく、可能性を広げる性質を有すると言います。
そのような場では「会話がおもな活動」であると言います。中立的な領域で人を平等にするサードプレイスでは、誰もが過不足なく話せ、そこに集まった誰からも同じように話が引き出されます。話上手な人は、ときには会話の中心になりすぎることを慎まなければならないそうです。
「利用しやすさと便宜」も重要です。その日に受けた重圧を解消する役割も持つサードプレイスは、昼夜問わずいつでも、きっと知り合いがそこにいると確信して一人で出かけられるところです。利用しやすさと便宜は、時間と場所の両面に求められると言います。時間の面では、仕事や家事以外の時間にも訪れられることです。伝統的にサードプレイスは、営業時間が長く、夜遅くまで、または朝まで営業しているそうです。場所の面では、家から歩いていけるような気軽な立地でなければいけません。理由は、面倒だと通わなくなりますし、家から近いことで常連さんができ仲良くなれるからです。
サードプレイスは、店構えや料理やお酒で魅力が左右されるのではなく、「常連」さんが特色を与えると言います。常連さんがにぎやかな雰囲気を作り出し、新顔を受け入れてくれるのです。銀行の格付けなどの信用とは一線を画して築かれる信頼関係は、回を重ねるごとに育っていきます。新しく訪れた人は、定期的に訪れて雰囲気を壊さないことだけに注意すればいいと言います。
サードプレイスの物理的構造は「目立たない存在」、つまり地味であると言います。地味であるために、大勢のよそ者や通りすがりの客の目を引きません。そして地味さは、そこに集う人々の虚飾を取り除く役割も果たします。訪れる人は普段の格好で来ることが望まれ、見栄を張る必要性はありません。
「その雰囲気には遊び心がある」そうです。家と職場から離れたその場所では、真面目な話をしようにも長持ちしないことの方が多いのです。ウィットに富んだ会話が交わされ、ついつい長居をしてしまうのだそうです。
最後は、サードプレイスは「もう一つのわが家」であると感じさせるのだと言います。公的な場所でありながら“自分の場所”と感じられ、緊張をほぐす自由さがあり、友情や会話によってぬくもりも感じられるのだそうです。
このような特徴を備えるサードプレイスが一つの核となって人のつながりを育み、社会関係資本の豊かな社会や集団になっていくのだと考えられます。特に目的があって行くような場所ではなく、自然と居たくなるような場所なのだと感じられます。
かつて、地域に根ざした生き方をしていた頃は、サードプレイスはあたりまえに身の回りに存在していたと考えられます。近所の飲み屋、公民館、八百屋や魚屋など、場所と訪れる人はセットであったため、関係を築き交流することは日常でした。しかし、都市化が進み人の流動性が高まると、その場所にいる人は「知らない誰か」になっていきました。
では、現代では、どのようなところに社会関係資本が培えるような環境や、サードプレイスが存在するのでしょうか。ひとつは、町そのものに築かれ始めてきている可能性があります。最近では、伝統的なイメージから離れて、比較的若い世代の人々が物理的な交流をできる場所を町に作り出しているという話もよく聞きます。そのような町では、強すぎない適度なつながりを形成していくことができるのかもしれません。もうひとつは、オンラインコミュニティに求めることができるのかもしれません。オンラインと言いつつ、活動はオフラインにも及ぶものも多いようですが、サードプレイスの特徴を備えているところもあるようです。オンラインコミュニティは居住エリアを越えて交流できることが一つの良い点ですが、他方で日常のリアルな協調的活動は行えない可能性が高いと言えます。たとえば、子育ての協力や地域の安全の見守りなどは、家が離れていれば協力し合うことは困難です。
あまり急ぐ必要はないとは思いますが、長い目線で、自分に合った住む場所や、異質な交流を期待できるコミュニティを探してみるのもいいのかもしれません。
第四章 見えないけど大切なものを溜める
社会関係資本は、経済資本とは異なる恩恵を与えてくれるものでした。信頼・規範・ネットワークに基づく偶発的な協力活動や、こころの充足です。しかし、目には見えにくく定性的なものであるため、個人の目からは蓄積の程度や恩恵の期待値を計ることは困難です。そして目には見えにくいものは、目に見えやすい定量的なものが目立ち始めた裏側で失われていくことがあります。
たとえばサードプレイスは、自動車依存型・都市型の社会で失われていったとレイ・オルデンバーグは言います。自動車での移動の一般化によって、働く場所、寝る場所、買い物をする場所はそれぞれ別のエリアに離れていきました。人は、歩くことによって自分の地域の一部になり、他者と出会い、共通の関心事も生み出されていきます。しかし、自動車依存の都市型の社会では、歩くことや道草をくうように話すことが少なくなります。自動車で遠くまで移動できるようになったことで、会える人は自分で選べるようにはなりましたが、歩いていける近所には気軽に会える人が少なくなったのです。これではちょっとした不安を感じているときやムシャクシャしているとき、どこに向かえばいいのでしょうか。
移動して会いに行くとは、選択が伴うため目的性が求められ、会いたいときに今すぐにというわけにもいきません。サードプレイスのような、家の近所で無目的に人のつながりや会話をただ楽しむこととは質的に異なります。しかし、自動車によって移動できるという利便性の陰に隠れて、アメリカの町のなかからも人々のなかからも、サードプレイスのような公的な空間は失われていったのです。オルデンバーグの思うところでは、富裕層は猛烈に忙しく活動することで孤独を紛らわしているのだそうです。また、息抜きと娯楽の手段や施設が公的に共用されない場合、私的な所有と消費に頼ることになるため、個人消費の多さにつながっていると言います。
今、新型コロナウイルスの影響を受けて、私たちの生活は変わろうとしています。買い物はよりオンライン化が進み、バッタリ誰かと出くわすことも少なくなっていくでしょう。仕事も、これを一つのきっかけとして在宅・オンライン化が進みそうです。仕事における規範は研修だけで身につくものではないはずです。仕事中のあらゆる所作をお互いに確認し合うことによって、規範が共有され根付いていくものと考えられます。在宅で離れたところで仕事をするのでは、規範の共有は困難です。また、会議はオンラインのルームを切り替えるだけでよくなりました。オフィス内を移動するときの会話や、会議室以外でのちょっとした情報・意見交換も意識しなければ生まれにくくなるのではないでしょうか。仕事帰りに飲みに行くことも少なくなっていき、お互いの腹の内を知る機会も減っていくのではないかと考えられます。
私たちは、特に目的を定めない時間のなかでも、信頼・規範・ネットワークを築いているのだと考えられます。目的を定めた有益に思われる時間を過ごすだけでは、お互いの人間性や関係性を確認し合うことは困難なのではないでしょうか。
オンライン化が進むことを悲観しているわけではありません。変化の時、目には見えにくい社会関係資本が知らず知らずのうちに失われていくことが、私たちにとっての長期的な損失になるのではないかと考えているということです。社会関係資本の重要性を理解し、意識することで、これからの社会でもプラスに築いていくことはできると考えます。
たとえば、オンラインミーティングツールの利用が習慣化したことで、ツールを頻繁にあるいは常時接続しておくという利用方法も珍しくなくなってきています。いつも開いているようなオンラインルームを作れば、サードプレイスのようにも、会社のタバコ部屋のようにも機能させることができると考えられます。また、これまでは直接会いに行かなければ失礼に当たるという雰囲気もありましたが、オンラインで会うことが当たり前になり、日本中・世界中の人と密なコミュニケーションをする障壁も下がりました。さながら「どこでもドア」のように移動でき、ネットワークは自分次第でいくらでも広げられるようになりました。また、働く場所も選ばなくなり始め、自分の出身地や親和性の高い場所に住み、地域との関係性を深めることもできるようになっていくと考えられます。
信頼・規範・ネットワークという目には見えにくい社会関係資本は、便利さや分かりやすい合理性の前に軽視され、失われていく可能性があります。しかし、長期的に見ると、長く変化していく世の中を生きていく上で生じるピンチやチャンスの時に、力を貸してくれるものであると考えられます。これまでは地域に住んでいるだけで、会社に通うだけで自然と築かれていました。ただ、ライフスタイルが変化する節目の時には、社会関係資本を築くための環境や仕組みを意識的に整えていく必要があると考えられるのです。
リベル:実践者に聞いてみました。負担にならない程度に動いては待つをくり返し、首都圏にいながら地方に関われるコミュニティに出会い入ることができた人の話です。
最後に、稲葉先生にこのような問いを投げかけてみました。
「世の中がオンライン化へ一層進もうとしているなかで、社会関係資本の蓄積という観点ではどのような点に気をつけなければいけないのでしょうか。」
稲葉先生:一緒に研究している須田光郎先生は、社会関係資本は日常生活の中で皆がどのような時間の使い方をするかによって変わってくると言います。基本的に平日は、通勤・通学と会社・学校にいる時間が多くを締めており、そこが大幅にオンラインに変わるのは大きな変化です。信頼や規範は教育で養われることが実証研究で確認されていますが、オンライン化で時間の使い方や人との接し方が変わることで、教育環境に大きく影響を与えると言えるでしょう。
今回の一層のオンライン化で、私たちはまさに「どこでもドア」を手に入れたと言えます。個人の才覚次第で、ブリッジングなネットワークをより広げられるようになりました。しかし、個人の才覚に頼りすぎると、格差が生じる懸念が生じます。規範も教育環境に依存するということは、教育環境や個人の学習意欲などによって格差が生じます。格差は、一般的信頼を損なわせ社会の腐敗を招くため、未然に防がなくてはいけないことなのです。
社会関係資本を養うためには、パソコンや通信環境、あるいはそれらを整えるための予算などのハードの上に、規範や信頼を培うためのソフトの整備も必要です。せっかく新しい世界へ向かう好機を得たのですから、見えにくい本質にも目を向け、本当の意味での夢のある世界を描けたらと思っています。
(2020年6月13日掲載)
〈参考文献〉
- 稲葉陽二著『ソーシャル・キャピタル入門 ー孤立から絆へ』(中公新書)
- 山岸俊男作成『ネット社会における信頼と評判』(https://www.nii.ac.jp/userimg/openhouse/2010/keynoteyamagishi.pdf)
- 亀田達也著『モラルの起源 ー実験社会科学からの問い』(岩波新書)
- ロバート・D・パットナム著/柴内康文訳『われらの子ども ー米国における機会格差の拡大』(創元社)
- 久保幹作成『日本の農業を土から変える「微生物」。』(http://www.ritsumei.ac.jp/research/radiant/gastronomy/story5.html/)
- レイ・オルデンバーグ著/忠平美幸訳/マイク・モラスキー解説『サードプレイス ーコミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』(みすず書房)
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