Scroll

不便視点

益が見つかるもう一つの方向

文量:新書の約36ページ分(約18000字)

はじめに

突然ですが、例え話から始めさせてください。

 

ある日、てる子さんはどうしても気になっていた近所の公園の草とりを始めました。草も自然に生えているのだから公園にあるのも一興かとも考えたのですが、さすがに育ちすぎるとつまずいたりして危険です。また見た目も荒地のように見えなくもありません。朝の運動にもなるしと、草とりを始めることにしたのです。

何日かかけて採り終えたのですが、何週間か経つとまた生えてきていました。採り終えた後の爽快感もあるからとあまり悪い気もせず採り始めていると、いつも犬の散歩で近くを通っていた人が手伝ってくれるようになりました。そして休みの日には、ほかの近所の人たちも顔を出してくれるようになりました。一人でもくもくと草とりをするよりも、みんなで世間話をしながらやる方が楽しいななんて感じていました。ただ、みんなでやるからあっという間に草を採り終えてしまうのは少し残念でもありました。

あるとき、腰をかがめて草とりをしている状況を見かねた近所のおじさんが言いました。「除草剤かけてやるぞ」と。断るのも悪い気がしたので、お願いすることにしました。除草剤は散布機を使えば簡単にかけることができ、除草剤の値段も安いそうです。手間がかからず、とても便利です。しかし、おじさん一人であっという間に終えてしまうため、近所の人と話す時間も、朝の運動の時間も、採り終えた後の爽快感もなくなってしまいました。おじさんは親切ないい人ですが、あの時自分たちでやるからと断れば良かったと少し後悔してしまいました。

 

親切なおじさんを悪者にしてしまいましたが、この例え話でイメージしたかったことがあります。それは、不便なことにも意味がある場合があるということです。そして、手間がかからない便利なものを導入することが、必ずしもいいとは限らないということです。てる子さんは、自分の手で草をとるという不便な方法をとることで、運動や話をする時間、充実や爽快を感じられる機会などを得ていました。

このような、不便だからこそ得られる効用のことを、京都大学情報学研究科の川上浩司ひろし先生は「不便益ふべんえき」と呼んでいます。一般的には、「不便」は「益」を阻害するものとして認識されることの方が多いと思います。しかし日常に目を凝らしてみると、不便が益をもたらしてくれることは確かにありそうです。

私たちは普段、「便利」の方向は積極的に見ており、一つの価値とみなしています。手間・労力・コストが下げられるモノやコトをポジティブに受け入れているはずです。しかし今回はあえて、便利とは反対側の「不便」という方向に目を向けてみたいと思います。比較的便利が満たされた時代だからこそ、不便に目を向けてみることで広がる世界はあるはずです。不便方向には、どのような益を見出すことができるのでしょうか。不便益という視点から、生活に取り入れる便利と不便の仕分けをしたり、不便益を新たに創造したり、もう少し壮大に良い社会や人生とはなにかと考えてみたりするきっかけにしていきたいと考えています。

 

今回は、京都大学情報学研究科特定教授の川上浩司先生にお話を伺いました。川上先生には、不便益の実例や本質的な価値、不便益視点を持つことの意義や効用などについて教えていただきました。このブックレットは、いただいた知識や考え方に、不足する情報や例などを執筆者なりに集めて補いながら作成しています。

 

川上浩司かわかみひろし先生

1964年島根県生まれ。京都大学工学部卒業、京都大学大学院工学研究科修了。博士(工学)。人工知能や進化論的計算手法をシステムデザインに応用してきたが、京都大学共生システム論研究室に配属後、人と人工物の関係を考え直し、「自動化」に代わるデザインの方向性を模索中。

 

〈著書〉

  • 『ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているなら、不便をとり入れてみてはどうですか? ―不便益という発想(しごとのわ)』(ミシマ社&インプレス、2017年)
  • 『不便から生まれるデザイン』(DOJIN選書、2011年)
  • 『進化技術ハンドブック 基礎編』(近代科学社、2011年) など

 

執筆者:吉田大樹
 「こころが自由であること」をテーマに、そうあるために必要だと思えたことをもとに活動しています。制約がありすぎるのは窮屈で不自由なのだけど、真っ白すぎても踏み出せない。周りに合わせすぎると私を見失いそうになるのだけど、周りは拠り所でもある。1986年岩手県盛岡市生まれ。

 

 

 

目次

  • はじめに
  • 第一章 便利を追求するその前に
    • 便利と不便の定義
    • 便利によって達成できなくなる裏タスク
    • 便利の追求が益を阻害する理由
  • 第二章 不便方向にある益の広がり
    • あえての不便による益
    • 不便益の存在
    • 不便による益の種類
  • 第三章 不便であることの本当の価値
    • 余地が生む全体効率や自然さ
    • 人が介在することで生まれる主体性
    • 労力をかけることで得られる主観的益
  • 第四章 不便を選択する自由
    • 不便益の発想法
    • 不便がどんどん解消されていくその先に

 

〈参考文献の表示について〉
 本文中で参考文献は、[文献番号,参考箇所]という表し方をしています。文献番号に対応する文献は最後に記載しています。参考箇所は、「P」の場合はページ数、「k」の場合は電子書籍・Kindleのロケーションナンバーになります。

 

第一章 便利を追求するその前に

便利なことはいいことのはずです。しかし、「はじめに」の例え話では、必ずしも便利の追求が益の最大化につながるわけでもなさそうなことが示唆されました。本章では、便利だけの追求がなぜ益の阻害につながってしまう場合があるのか、その背景や理由について考えてみたいと思います。

便利と不便の定義

ここではまず、便利と不便の意味を整理しておきたいと思います。このブックレットでは、川上先生が不便益について考えるときに用いている「労力」がかかるかどうかを基準とします[1,P2]。すなわち、便利とは「タスク達成に必要な労力が省けること」であり、不便とは「便利ではないこと」です。また、労力とは物理的労力と心理的労力に分けられると考えます。物理的労力とは「手間がかかる。時間消費を伴うことが多いが、その限りではない。」であり、心理的労力とは「認知リソースの消費(注意・記憶・思考など)を含め、特定のスキルが必要とされる。」です。少し細かい整理になってしまいましたが、本書を読み進めていただくにあたっては「労力がかからない=便利」、「労力がかかる=不便」と読み替えていただいて問題ありません。

便利によって達成できなくなる裏タスク

私たちの行動には通常何らかのタスクが伴います。たとえば、買い物に行くのは生活用品を入手するというタスクのためであり、車を運転するのは目的地へ移動するというタスクのためであり、料理をするのはご飯を作るというタスクのためです。

しかし、私たちは意識的にも無意識的にも、表向きのタスク(本来の目的)に加えて、裏タスクのようなものを付随させています。買い物に行くのは、近所の人たちでたびたび開催される井戸端会議へ参加したり、外の空気に当たって気分転換をしたりするためでもあるかもしれません。車を運転するのは、一人になる時間を確保したり、相席に人が乗っていれば運転技術を披露したりするためでもあるかもしれません。料理をするのも、料理の腕が上達することに喜びを感じたり、作った料理のことで家族と会話をしたりするためでもあるかもしれません。

行動の目的を聞かれたら、おそらく最初に挙げたような表向きのタスクについて答えます。しかし、よくよく振り返ってみると、表タスクの裏には様々なタスクが付随しており、それらのタスクが消化されることで、私たちは多様な益を受けていることが分かります。そして、裏タスクから受けている益は、決して小さなものでも意味のないものでもないはずです。

 

通常、便利を追求する時には、表タスクに関する労力を減らすことを目指すと考えられます。生活用品を入手する労力を減らすために買い物に行かずにECサイトを利用したり、目的地に移動する労力を減らすためにそもそも物理的に移動すること自体をやめたり、ご飯を作る労力を減らすために料理をせずにデリバリーサービスを利用したり、表タスクの目的と照らし合わせながら便利を追求するはずです。しかしながら、ここに例示したような便利の追求の仕方では、裏タスクが達成できなくなってしまいます。井戸端会議に参加することも、一人の時間を確保することも、料理の上達に喜びを感じることもできなくなってしまうのです。

便利の追求が良くないと言いたいわけでは決してありません。日々やらなければいけないことがたくさんあるなかで、労力を減らすための便利の追求は必要です。しかしながら、必ずしも意識的ではない裏タスクが知らず知らずのうちに達成できなくなっては、なんらかの未充足を感じたり弊害が生じたりするのではないでしょうか。ですので、生活の中のタスクに便利なものを取り入れようとするときには、その周りにどんな裏タスクがあって、どんな益を受けていたのかを少しゆっくりと振り返ってみるのもいいのかもしれません。タスクのすべてにおいて不便な手段をとることは困難でも、いくつかは不便なまま残していくということも大切なのではないでしょうか。

 

尚、本節で使った「表タスク」「裏タスク」は、北陸先端科学技術大学院大学教授の西本一志氏が不便益の説明のために提案したダイアグラムで使った「注目タスク」「周辺タスク」というタスクの分類にインスピレーションを受けています[1,P145]。また、便利の追求によりトレードオフで阻害される益があるという考え方は、防衛大学校講師の白川智弘氏のものを参考にさせていただきました[1,P189]。

便利の追求が益を阻害する理由

「便利かどうか」という価値基準は、世間一般においてとても強い力を持っています。より労力がかからない便利なモノやコトを追求することは、あたりまえのことだと考えられています。反対に、あえて不便なものを求めたり、不便さを追求したりすることは、普通はしません。しかしながら、不便であるとは、何らかの労力をかけているということであるため、便利に比べて達成できるタスクの量や質は高いのではないかと考えてみるのも一つのあり方ではないでしょうか。より便利を目指すという便利視点だけではなく、不便を残しておくあるいはあえて不便を加えるという不便視点も持っておくことで、便利の追求だけでは得られなかった益が得られる可能性があるのではないかということです。タスクの不便さの裏には様々な益が隠れている可能性があります。表タスクの便利さだけを追求すると、不便さに伴う裏タスクが必然的に達成できなくなり、全体として受けられる益を低減させてしまう可能性があるのです。

 

ここまでは不便の裏側に実は隠れているような付随的な益を例示してきました。しかし、不便だからこそ得られる効用である不便益は、付随的なものばかりではありません。わざわざ不便を組み込んで益を得られるようにしているプロダクトやサービスもあるのです。次章では、もっと意図的で個性的な不便益を紹介しながら、不便益の多様性や可能性について考えていきたいと思います。

第二章 不便方向にある益の広がり

第一章では、不便を残しておくことによって裏タスクが自然とこなされていき、多様な益を受けられることが確認できました。しかしその不便益は、表タスクのついでに受けられる従属的・付随的なものというイメージも持てなくはありません。不便益とは、本当は便利を追求したい表タスクを不便なままこなすことで、おまけ的に受けられる益なのではないかという見方です。

しかしながら、川上先生が不便益の事例としてあげるプロダクトやサービスのなかには、あえて不便を付け加えることによって、独自の益を生み出しているものがあります。つまり、不便だからこそ得られる不便益は、決して脇役のような存在ではないと考えられるのです。本章では、あえての不便益に触れながら、不便益の益の種類や、私たちの生活における存在感について考えていきたいと思います。

あえての不便による益

プロダクトやサービスあるいは生活のなかにあえて不便を取り入れていると聞くと、単なる“もの好き”なのではないかという印象を受けなくもありません。しかし、あえての不便によって、大きな存在感や意味を持つ益を生み出すこともできるのです。

 

デイサービスセンターでは、バリアフリーが徹底されているのが一般的な印象です。しかし「夢のみずうみ村」の施設では、段差・坂・階段などのちょっとしたバリアがあえて配置されていると言います[2,k518]。バリアフリーの方が、利用者は段差に注意を働かせたり乗り越えるために力を使ったりする必要がないので便利です。しかしその便利さは、本来備わっている身体能力や認知能力を使わないで済ませてしまえるということも意味します。使わなければ、それらの能力は鈍ってしまう可能性があります。そこで夢のみずうみ村では、段差・坂・階段などあえての不便を組み込むことで、生活をしているだけで能力の低下を軽減させることができるようにしているのです。また食事も、いわゆる上げ膳据え膳あげぜんすえぜん方式ではなく、バイキング形式をとることで、自分でメニューを考えて、自分で皿にとることができます。これも、利用者にとっては労力がかかる不便な行為ですが、貴重なリハビリの機会になっています。

あえての不便は、能力低下を防ぐリハビリ「機能」を提供しているだけではありません。夢のみずうみ村・代表の藤原茂氏のある日のブログには、「人間本来は、自分の意思のまま、気の向くままで過ごすことが最も幸せなのである」「自己選択自己決定方式と名付けた夢のみずうみ方式」と書かれていました。たしかに、施設内のバリアや自分で選ぶバイキング形式は、自分の意思で選択する生活をイメージさせてくれます。それによって利用者は、生活の不便を一つ一つ乗り越えることで自己肯定感を感じられたり、自分で選んだ自分だけの食事というような主体性やオリジナリティを感じられたりすることができるのです。このような個人個人が自分の内に抱く気持ちの抑揚も、不便益の一種であると考えられます。

 

ゴミを拾って辺りをきれいにするというタスクを担っているロボットなのに、そのタスクの達成を他者に委ねてしまうという不便さを備えているロボットがあります。豊橋技術科学大学で「弱いロボット」の研究をする岡田美智男氏が開発したゴミ箱ロボットです[1,P115]。

ゴミ箱ロボットは、ゴミ箱そのものに車輪のような移動機能がついたシンプルなデザインになっています。映画・スターウォーズに出てくるR2-D2のようなイメージでしょうか。ゴミ箱ロボットは、ヨタヨタと進みながら、時折その上体を傾けるような動作をします。その様子を見た周りの子どもたちは、「このロボットはゴミを探しているのではないか」と考え、ゴミを辺りから探してきてくれるのだと言います。そして、ゴミ箱ロボットのゴミ箱にゴミを入れてくれるのです。

ゴミを拾って辺りをきれいにするというタスクをゴミ箱ロボットは担っているはずなのですが、ロボット自身はゴミを拾うことができません。周りの人からすると不便です。しかし、それでも周りの人は、ロボットの動きを見てゴミを拾ってくれ、結果的に辺りはきれいになっていきます。そして、拾ってあげるという行為が伴うからこそ、「いいことをした」「人の役に立った」という感覚を持つことができるのだと言います。また子どもたちにとっては遊びのような体験にもなるようです。ゴミ箱ロボットの色によって燃えるゴミ用なのか資源ゴミ用なのかを自分たちで設定し、分別を始めるそうなのです。

ゴミ箱ロボットとは性格が異なる高機能ロボットが仮にあったらどうでしょうか。ゴミとそうでないものを完璧に区別でき、漏らすことなく拾うことができるロボットがあれば、とても便利です。しかしこのようなロボットでは、周りの人が介在する必要がないため、拾ってあげて「役に立った」という感覚を持てることも、遊びに発展することもないでしょう。

さらに、益はゴミ箱ロボットが働く周りの人だけが受けられるわけではありません。開発者・提供者側も益を受けられると言います。ゴミを拾うという行為は一見単純にも思われますが、ロボットに実装するには、非常に高度な技術が必要とされると言います。辺り一面に広がる環境の中から不特定のゴミを見つけ出すには、高度なセンシング技術と、「これは本当にゴミなのか」というあいまいさが伴う判断が必要とされます。また、ゴミをつまみあげるだけでも、火星などで鉱物を採取するのと同様の技術を必要とされると言います。しかし、周りの人に拾ってもらう弱いゴミ箱ロボットであれば、このような技術は必要とされません。結果的に、部品点数も減り、メンテナンスも容易になり、コストを下げることができます。

このように便利方向から一転して不便方向に舵を切ってデザインを考えることで、不便益を生み出すだけではなく、他の様々な課題が解決されることもあるのです。

 

夢のみずうみ村やゴミ箱ロボットのように、深い洞察や考察によって設計された不便益以外にも、私たちは普段からあえての不便を選択することがあると思います。

たとえば、電子書籍ではなくあえて紙の本を手にとることはないでしょうか。電子書籍の方が、思い立ったら書籍のECサイトですぐに購入し読み始めることができ、持ち運ぶ必要もないので便利です。しかしながら、あくまでも私の場合はですが、紙の本一ページ一ページをめくって読む行為が、身体にみ入る感覚を生み出しているように感じます。少し観念的な話になってしまいますが、自分にとってのバイブルになりそうな本は紙で買う傾向にあります。

新幹線を使わずに、あえて鈍行どんこう列車で旅先に向かったことがある人もいるはずです。新幹線は速くて直行なので便利なのですが、あまりに速すぎてゆっくりと景色を眺めることは困難です。それに対して鈍行は、外の景色を楽しむこともできますし、乗り換えの駅で周りを散策することもできます。偶然、おいしいお店や珍しい土産物を見つけることにつながるかもしれません。

鈍行列車のような体験を、あえて組み込んでいるリゾート運営会社があります。星野リゾートです。星野リゾートは、旅館やホテルなどの建物に到着するまでの道をあえて長くとっていると聞いたことがあります。実際に私が泊まったことがあるところでは迎えのバスが来てくれたのですが、宿泊施設にたどりつくまでの道は舗装されていない凸凹でこぼこ道でした。動物がその道に現れるので時折バスを停める必要があるのですが、運転手さんが動物のことを紹介してくれ、それ自体が旅の思い出になります。目的地までの少し長い道を進みながら、別の世界に来たのだということを感じ入ることができるのです。

不便益の存在

一般的に「不便」とはネガティブな性質として捉えられます。しかし、ここまで紹介してきた事例を見ていると、不便だからこその益は確かにあるのだと思わされます。便利はそれ自体が益であり追求すべきこととなりますが、その反対側にも益は存在したのです。これらのことは以下の図のように表すことができます。

 

図1は、便利―不便を横軸に、益―害を縦軸にとることで表される4つの分類です。おそらく通常は、労力が省けることによる益である右上の便利益と、労力がかかることによる害である左下の不便害の2つに注目しているのではないでしょうか。しかし、これらの2つに注目するだけでは、左上に存在する不便益にも、便利すぎるがゆえに実は生じている右下の便利害にも気づきにくくなってしまうかもしれません。便利害とはこれまた聞き慣れない言葉ですが、タスクを便利にしすぎることで益が失われることを意味します。たとえば、冒頭の「はじめに」で、おじさんが除草剤によって草とりを便利にしすぎてしまったがために、てる子さんは近所の人との会話・朝の運動・採り終えた後の爽快感などのいくつかの益を失ってしまいました。少し強めの表現ではありますが、便利を追求しすぎると害になることもあるということは頭の片隅に入れておいた方がいいのだと考えられます。そして、様々な事例に見てきたように、益は便利方向だけではなく、不便方向にも広がっているのです。

不便による益の種類

不便だからこそ得られる益の種類は多様な広がりがあると考えられます。川上先生は、様々な不便益の事例から、不便による益の種類をいくつかに分類しています[1,P2]。これまで紹介してきた不便益の整理として、また到底紹介しれきれない不便益に思考を巡らせる足がかりとして、不便益の種類を紹介したいと思います。

川上先生は、不便益を「客観的益」と「主観的益」に分けて整理しています。客観的益とは、システムがゆるしている不便さによる益のことであり、機能による益であるとも言えるものです。機能による益なので、誰が使っても同じように益を受けられる可能性が高いものです。たとえば、夢のみずうみ村の施設内にある段差・坂・階段というバリアは、誰でも「スキル低下防止」や「主体性を持てる」という客観的益を受けることができます。しかし、段差・坂・階段というバリアは、人によっては面倒に感じるだけかもしれません。つまり、スキル低下防止や主体性を持てるという不便による益を誰もが得られたとしても、それを益と感じるかどうかは個人に依存すると言えるのです。もし、個人が益と感じれば、嬉しさなどの感情が湧き上がることになり、それ自体が益となるといえます。このような個人が益とみなす場合に得られる益を、主観的益と呼びます。段差・坂・階段というバリアを乗り越えれば、「自己肯定感」や「嬉しさ」という主観的益も得られると考えられます。しかし、バリアを乗り越えた本人がただ面倒だと感じていれば、それらの主観的益は得られずに終わってしまうかもしれません。

ここまで簡単にではありますが紹介してきたように、客観的益と主観的益は、いくつかの種類に分類されます。以下にそれぞれの益の種類と例を載せさせていただきます。

 

さて、特に図2の客観的益を眺めていると、ある疑念が湧いてきました。それは、それぞれの不便益は、本当に不便さを伴って提供されなければいけないのかということです。図2・図3に挙げられた益は、不便さの裏側に隠れた益を抽出した分析結果であるとも捉えられます。たしかに、不便をやみくもに便利にしてしまっては、裏タスクによって得られていたこれら不便益を享受できなくなるかもしれません。しかし、不便の裏側にある益を認識できたのであれば、それら一つ一つの益をなるべく労力をかけずに享受できる方法を考えて取り入れるというのも一つのあり方なのではないかということです。たとえば、対象系を理解するためには、自分で組み立てなければいけないパソコン(今ではほとんどなくなりましたが)がなくても、パソコン組み立て学習キットがあれば理解は進みそうです。

不便だからこその益とは本当に必要とされるものなのでしょうか。これまで不便益として紹介してきたものも、実はもっと便利な方法で享受できる益なのではないでしょうか。次章では、このような疑念を切り口に、不便だからこその益とは何なのか、あるとしたら便利では替え難いどのような価値を内在するものなのかということについて考えていきたいと思います。言い換えると、不便益の本質的な価値は何なのかというようなことです。

第三章 不便であることの本当の価値

第一章・第二章と、様々な不便益を紹介してきました。しかし、それらの益の輪郭を鮮明にしていったときに、一つの疑念が湧いてきました。その疑念とは、本当に不便だからこその益である必要があるのか、得たい益に対してもっと直接的に便利な方法を講じることもできるのではないか、ということです。本章では、不便であることの意味を考えながら、不便の本当の価値について考えていきたいと思います。

余地が生む全体効率や自然さ

不便であることが意味することの一つは、人が介在する余地があることなのではないかと考えられます。タスクの達成に労力がかかるのであれば、自分なりに工夫をしてみたり、他者の協力を仰いだりしなければいけません。あるいは、苦労している姿を見かねて、周囲の人が手を貸してくれるかもしれません。他方で、タスクの達成に労力がかからなくなるほど、そのような介在の余地は少なくなっていくと考えられます。一足飛びにタスクを達成できるのであれば、自分あるいは他者が介在する余地も必要性もないからです。

そしてそのような不便による介在の余地が、様々な裏タスクを巻き込んでいくと考えることができます。たとえば、てる子さんが草とりを始めれば、あちこちと身体を動かすので自然と運動になります。そして、時間がかかるので人目につく確率が上がり、大変そうだから助けなければという気持ちとちょっとした後ろめたさから、人が集まり出します。人が集まれば会話が生まれ、草とりが人との関わり合いの時間になります。さらには、労力をかけて達成されるタスクであるため、終わった後には達成感や爽快感が得られやすいと考えられます。

このような時間がかかる不便な草とりのプロセスが、散布機による除草剤の散布という便利な方法に置き換わったらどうなるでしょうか。てる子さんや手伝ってくれていた近所の人は、なくなった運動の機会を求めて朝の散歩を始めるかもしれません。しかし、散歩をしているだけでは人が集まることにはなりにくいため、公民館に行って人の輪に加わったり新たにつくり出そうとしたりするかもしれません。ただそれだけでは達成感や爽快感を感じられないので、趣味の手芸でつくったものを個人が出品できるECサイトで売ることを始めるかもしれません。つまり、草とりという一つのタスクで得られていた益が便利な方法に置き換わることで得られにくくなり、その失われた益を得るために新たなタスクを生み出さなければいけなくなる可能性があるということです。これでは少し忙しい毎日となってしまいそうです。

 

不便であることには、不便さを克服する過程で人が介在できる、その余地があるということが言えるのではないかと考えられます。そして人が介在していく過程で、裏タスクが生まれていくのではないかと考えられます。その結果、一つの活動に様々なタスクが含まれることになるので、全体として効率的に益を受けられることにつながる可能性があると考えられるのです。

また、不便の裏で生まれていくタスクや益は、とても「自然」であると感じられます。草とりでは、運動をしようと重い腰を上げる必要もなく、会話をしようと頑張って人の輪に加わる必要もなさそうでした。タスクや益のなかには、明示的に目的を伝えると不自然でギクシャクしてしまうものもあると考えます。たとえば、会話をする・人とつながるなどは、それを目的として明示しすぎると少し不自然に感じられることがあります。タスクのなかには、生活の一部として組み込まれていた方が自然で馴染みやすいものもあるのだと考えられます。今の不便のなかに、そのようなタスクや益が自然と組み込まれているのであれば、その不便さは残しておく方がいいのかもしれません。

人が介在することで生まれる主体性

そして、人が介在するということは、主体性が生まれるということを意味すると考えられます。タスク達成のために工夫する主体性、人を巻き込む主体性、あるいはタスクに取り組む人を助けてあげようとする主体性などです。

そもそも便利になるとは、元々かかっていた労力が軽減されることであり、その労力の差分は誰かあるいは何かによって代替されているのだと考えることができます。主体性の発揮には労力をかけることが必要とされるのではないかと考えられます。したがって、労力が軽減された分の主体性は、他の誰かや何かに移っていくのであり、自分からは失われていくと考えられるのではないでしょうか。つまり、労力がかかる不便なタスクの方が、主体性を感じられる可能性が高いということです。

主体性を益と感じるかどうかは、人によって・状況によって異なると考えられます。疲れているときなどは、主体性を持ちたいとはあまり思わないでしょう。しかしながら、自分なりの工夫を施したいとか、自分の意思で決めたいという気持ちは少なからず持っていると考えられ、不便であることがそのような主体性を発揮する機会をくれるとも考えられるのです。反対に、便利でありすぎることは主体性を発揮する機会を奪ってしまうとも言えるのかもしれません。

労力をかけることで得られる主観的益

不便とは、労力がかかることです。反対に便利とは、労力がかからないことです。益の中には労力をかけなければ得られないものもあるはずです。特に主観的益は、労力をかけることが伴わなければ得られにくいのではないでしょうか。

極端な例えですが、あなたはある理由で筋肉隆々りゅうりゅうの肉体が必要になったとします。その肉体を手に入れるための方法が二つあります。一つ目は頑張って筋トレをすることです。そして二つ目は、なんと最近合法的な筋肉増強剤が発明されたので、それを使うことです。筋肉増強剤を使えば筋トレをする労力も時間も省けるため便利です。筋トレでも筋肉増強剤でも、必要としていた筋肉隆々の身体は手に入れられます。しかし筋肉増強剤では、自分で頑張って筋肉をつけたという自己肯定感も、達成した嬉しさも、もっと頑張ってみようかなというモチベーションも抱くことは難しそうです。労力をかけなければ得られない、あるいは労力をかけるほどに得られる益は確かにあり、とりわけ主観的益がそうなのではないかと考えられるのです。ちなみに、合法的な筋肉増強剤は話を進めるためのウソですので。

 

さて、本章では不便がもたらす価値について考えてきましたが、念のため申し上げておきますと、不便が最高ということではありません。私も自分で書いていると、「不便が良い」という頭になってしまいそうになりますが、便利を選ぶべき時は数多くあります。たとえば、仕事や家事が忙しくて、ゆっくり休む時間や自分の時間がとれない状況の時、タスクの一つ一つを便利なものに置き換えていくことはとても大切です。また会社での仕事のように、個人が主観的益を感じられるかどうかよりも、コストを抑えて利益を出すことが優先されるべき時もあります。

しかし、そのようななかにおいても、便利方向だけではなく不便方向も見ることで、全体でみたら効率がいいライフスタイルやシステムを築くことができるかもしれません。また、主体性や主観的益は、ストレスの軽減や創造性の発揮などにつながり、悩みの解消や成果の向上につながるかもしれません。便利だけではなく不便も、課題の解決や生活の充実に寄与するのだと考えられるのです。

第四章 不便を選択する自由

不便の方向には、どのような世界が見えたでしょうか。普段、不便は正すべきものとして、そちら方向をあまりポジティブな眼差しでは見ていないはずです。しかし、「不便益」という概念を聞いたとき、なにか響くものはなかったでしょうか。もしあったのであれば、便利が無条件に良いとされるようなことに、違和感を抱いていたのかもしれません。

不便であることの裏には、様々な益が潜んでいました。タスクの達成に労力がかかることで、人が集まって会話の機会が生まれたり、達成感や爽快感を味わえたり、心身の健康につながったり。不便なプロダクトやサービスがあることで、補完的に動いてあげたくなったり、あれこれ工夫や遊び心を交えてみたくなったり。不便であるがために、人が介在する余地が生まれ、不便の周りにタスクや益が生まれていきます。また、労力をかけることは必然的に、主体性や、自己肯定感や嬉しさなどの主観的益を伴わせました。このような生活にとけこむ不便は、無理なく自然に人の活動を促し、益を提供するのです。不便とは、生活やプロダクトのデザインコンセプトのひとつになり得るのです。

不便益の発想法

不便益を取り入れるときには、今ある不便を「残す」というだけではなく、積極的に「加える」という考え方も持っておいた方がいいのかもしれません。以下に、川上先生が示す不便益を生み出す発想法のイメージ図を示します。

 

図4右下の「問題解決型」は、一番イメージを持ちやすい発想法ではないかと考えられます。便利になったがゆえに失われた益を分析して、不便を取り入れることで解決を図るという方法です。たとえば身近なところでは、在宅ワークで移動しなくてよくなった反面、あまりにも身体を動かす機会が少なくなりました。そこで、ちょっとコンビニに行った時にでも、帰りはマンションのエレベーターではなく階段で部屋に戻るという不便を取り入れよう、というようなことです。ほかにもたとえば、地図アプリによって旅先で目的地まで迷わずたどりつけるようになりましたが、偶然の出会いが少なくなったという便利害も生じていることでしょう。そこで立命館大学の泉朋子氏や仲谷義雄氏らによって、移動経路上のランドマークのみを提示するナビゲーションが提案されています[1,P130]。このナビゲーションはなかなか不便で、通常20分でたどりつける道のりに、1時間半以上を要したという実験結果があるそうです。しかしながら実験参加者からは、「普段より周囲を注意して観察しながら観光できた」「観光が探検になった」というポジティブな感想が得られたと言います。

右上の「価値発掘型」は、特に問題を感じていない便利なものを、あえて不便にすることで何らかの益が得られないかと考える発想法です。川上先生は、何の問題もなく使えている「ものさし」をあえて不便にしました。目盛りに2・3・5・7・11・13・17しか並んでいない「素数ものさし」を発明したのです。このものさしで例えば4cmのものを測る時にはどうすればいいのでしょうか。それは、7−3=4という計算をした上で3の端にものを合わせて初めて、4cmと測ることになるのです。このように、あえて不便を組み込むことで引き算のスキル低下を防ぐことができ、また様々な長さを測るなかで「もしかしてすべての自然数は素数の差なのではないか」と頭をよぎるまでになるのだと言います[1,P17]。そしてなにより、話のネタにもなります。素数ものさしは京都大学の購買で売られています。便利なECサイトのAmazonでも売っていますが、定価の何倍もの値段です。人の弱み(京大に行かないと買えないという不便)につけ込んだ商売は不便益的にはNGだと、川上先生は思っているそうです。

左上の「創発型」は、もっとも熟練が必要とされる発想法だと言います[1,P18]。問題を分析して解決策を講じる問題解決型や、便利さを認めながらもあえて不便を加える価値発掘型のような言語化・体系化が伴う方法に比べて、ひらめき重視でアイディアをどんどん出していく方法です。不便益の事例を頭に叩き込み、そのエッセンスを言語化せずに自分のなかに置き、一人で腕組みしたり複数人でブレストしたりしながら発想していくのだと言います。

 

「こうなったら便利なのに」とはよく考えることだと思います。これからは、「こういう不便があったらどうなんだろう」と、あえて不便方向を向いて考えてもみてはいかがでしょうか。思いがけず、抱えていた問題の解消につながったり、新たな体験を生み出せたりするかもしれません。

本節「不便益の発想法」の最後に参考としまして、川上先生が運営する「不便益システム研究所」に掲載されている「益の得やすい不便」を以下に紹介させていただきます。不便益の発想のヒントにお使いいただければと思います。

不便がどんどん解消されていくその先に

少し飛躍的な話をさせてください。不便益について考えてきたときに、私の頭のなかに浮かんだことです。

元来、人間が生きるとは不便の連続であったのではないでしょうか。肉を獲得するにも、動きのすばしこい小動物や体が大きくて獰猛な肉食獣を相手に、仲間と協力し合って狩りを行いようやく獲得していたのだと考えられます。今のように、スーパーに行けば肉を買える便利さとは異なります。家を建てるにしても、自分たちの手で木材や草や小枝などを集めてきて、決して堅牢とは言えないものを建てていました。巨大な重機も、材料を加工してくれる製材所や工場も、様々な提案をしてくれるハウスメーカーもありませんでした。また、移動手段は主に徒歩でした。大きな荷物は持ち運べず、必然的に使える器や道具にも制約がかかっていたことでしょう。自動車はもちろんありませんし、馬もそうそう手に入れられるものではありませんでした。

しかし、そのような不便な生活ななかにおいても、いや不便な生活であったからこそ、協力し合うことで仲間意識を感じられたり、工夫をこらすことで創造力を発揮し達成感やちょっとした優越感などを感じられたりしていたのではないでしょうか。少し極端なことを言うと、私たちの心の充足や生きていることの実感は、不便とセットであるという側面もあるのではないかと考えます。

今、社会は画期的に便利になってきています。これから先も私たちは、残る不便をどんどん解消して、便利にしていくことでしょう。しかし、不便がなくなった時に、私たちにはどんな生活が待っているのでしょうか。なんだか少し退屈そうで、生きている実感も得られにくかったりするのではないかと思います。だからあえて不便を残しましょう、不便を加えていきましょうというのも少しおかしな感覚を覚えますが、そういう時代に突入しつつあるのかもしれません。社会全体が便利になっていくなかで、あえて便利を選択せず自分に合った不便を選択する、そんな時代です。不便を選ぶ自由を自分のなかに持つためにも、不便だからこそ得られる益があるという視点は大切であると考えられるのです。

 

リベル:全ての不便がなくなるのはもう少し先のことだとしても、「人と会う」という不便さというかちょっとした億劫さの解消はリモート化によって実現しつつある。ただ、人と会わなくなるとやっぱりそれはそれで物足りなさを感じる。精神科医の斎藤環氏は、人と会うことの効用をブログの中でいくつか挙げており、そのなかの一つに「臨場性は「欲望」である」と記している。つまり、人に会うこと・臨場することで、欲望が掻き立てられるというのだ。納得感があると感じた。人と会うことを、やはり人は求めるのだと思う。しかし、人と会うきっかけをどう作るのかは案外難しいのかもしれない。ごく親しい人なら「飲みに行こう」の一言で済むが、ちょっとした知り合いや、新たに知り合いを作るとなると、なかなかに難しい。人とつながることを目的にしようとすると案外ギクシャクするのだと気づく。そんなときに「不便」を生活などに織り込むということが解決の糸口になってくれたりするのだろう。

 

最後に、川上先生にこんな問いを投げかけてみました。

「現在進行形で便利になり続けている現代において、不便益という視点で物事を考えることには、どのような意義があるのでしょうか。」

 

川上先生:不便益を意識できると選択の幅が広がるのではないかと考えています。たとえば新しいシステムを導入するときなどに、効率性以外の判断軸を持てるようになるのではないでしょうか。あるいは、これまでも何となく違和感はあったけど些細なこととして意識していなかったことに、より意識的になれることもあるかもしれません。

こんな話がありました。宿の予約を受け付ける予約サイトがあると思いますが、宿の運営事業者からすると、導入した方が予約受付のコストが低くなります。しかし、ある宿の人は、導入しようとした時に「いや待てよ」と思いとどまったと言うのです。その人はこんなことを考えたと言います。

たしかにサイトを導入することでコストは減らせるけれども、減らせるコストはたかだかこれだけでしかない。これまでは電話で受け付けることで、お客さんのことをよく覚えることにつながっていた。たとえば受付時にミスをしてしまえば、そのお客さんのことを特に覚えていて、おもてなしがより丁寧になり、お客さんも逆に好印象を持ってくれることにもつながったりしていた。

それが予約サイトになれば、そういったやりとりがなくなり、お客さんをゲストとしてではなく、単にお金を払ってくれる人とだけ見ることにつながってしまうかもしれない。お客さん側もネットの予約だと気軽にキャンセルをしてしまうかもしれない。予約サイトの導入で効率的になりコストも下がるが、その分失うものも大きいのではないか。

このように、不便の中に益があるのではないかという視点を持っていると、今まで表に出ていなかった益に気づくことにつながると考えられます。その上で、便利によって得られる益と比べて、どちらが大きな益なのかを比べて判断することができるようになるのではないでしょうか。

 

「もう一つ教えてください。先生は元々AIの研究をされていたそうですが、便利を追求するイメージが強いAIから、不便益へテーマを変えられたのにはどのような背景があったのでしょうか。」

 

川上先生:きっかけは学生時代からの師匠でした。私が大学と大学院で学んでいた時、第二次AIブームが到来していました。私も「人様のお役に立つことが工学の使命」と思い、欲しいものを自動的に設計してくれるコンピュータを作れないかと考えていました。そうして10年近く研究を続けたあと師匠のもとに戻ると、師匠は「これからは不便益やでぇ」と言い出したのです。20世紀の末のことです。師匠のもとでまたAIの研究ができると思っていたので、意外な発言でした。

最初はあまり気にもとめずに自分の研究を続けていたのですが、研究室の真ん中の大きなテーブルでコーヒーを飲みながら話す師匠の不便益の事例を聞いていると、これはエンジニアリングとして研究テーマにできるかもしれないと思い始めたのです。

おそらくですが師匠は、全て機械化・自動化することに、危機感であったり、面白くなさのようなものを感じたりしていたのではないかと思います。私の場合は、高度経済成長期に子ども時代を過ごした世代として、感じていた違和感が思い起こされたのかもしれません。モノを修理するよりも新しく買った方が安いということがあたりまえとなりましたが、これではモノを作る人間として、手間をかける喜びがなくなってしまいます。また、本来であれば修理する方がしっくりくるものになっていって良いはずなのに、新しく買った方が安いし経済も回ると言うのです。

師匠の新しい研究室で標榜されたのは、共生システム論でした。共生というと、異種の生物が一緒に生きていくという生態学的な意味が一般的だと思います。しかし、機械系の研究室ですから、人が作るアーティファクトと人との間の関係を考えるという意味の共生がテーマでした。工学の分野でAIの研究をしていると、「共生」というよりも「代替」という関係が先に見えてきたのだと思います。自動化によって、人がやることがどんどん機械に代替されていくということです。昔は、道具は人間の能力の拡張でした。しかし、その関係が拡張から代替に次第に移っていって、このままでいいのかという考えが生まれたのだと思います。次の関係を考えるために「共生」という言葉が当てられ、「不便益」が一つのキーワードとして浮かんだのではないかと思います。

 

 

(2020年10月10日掲載)

 

 

〈参考文献〉

  1. 川上浩司編著/平岡敏洋・小北麻記子・半田久志・谷口忠大・塩瀬隆之・岡田美智男・泉朋子・仲谷善雄・西本一志・須藤秀紹・白川智弘共著『不便益 ―手間をかけるシステムのデザイン』(近代科学社、2017年)
  2. 川上浩司著『ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているなら、不便をとり入れてみてはどうですか? ―不便益という発想(しごとのわ)』(ミシマ社&インプレス、2017年)

 

〈関連するコンテンツ〉

 

 

 

 

 

思えばずいぶん便利になったもんだ。さて、今度は反対側を向いて、不便でも加えてみようかね。 #リベル

このページをシェアする