参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。13日(水/午前)は3名、17日(日/午前)は4名の参加でした(主催者含む)。
11月13日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会
よしださん『現象学入門』竹田青嗣
〈私〉は何かを判断するときに何らかの確信をもとに判断しているのだと思います。例えば、①殴られると痛い②痛いのは嫌だ③嫌なことはやってはいけない④だから殴ることはやってはいけない、というような思考のもと④の判断をしたりしています。思考といっても、これはもはや常識として捉えられていて意識的に思考することもないはずですが、根拠を尋ねられると①〜④のように説明することができます。そしてその時、①〜③は確信です。人によって違うとか、もしかするとみたいな可能性の話とかそういう次元のものではなく、確信です。その確信は、自分だけでなく誰もが確信として共有しているものであり、異論の余地がないものとして捉えています。つまり、主観ではなく客観であるということです。
しかし、それぞれに反論をすることはできます。①の反論:殴られても痛くない、②の反論:痛いのは嫌ではない、③の反論:嫌なことをやってはいけないわけではない、などということです。①なんかは、格闘漫画でたまに出てきますよね。痛いというのは脳がそう認識しているからでその認識を書き換えれば痛いものが痛くなくなるのだ!なんていう血管が浮き出たキャラも出てきます。あるいは、②の反論も単なる強がりではなく、本当にそう思っている人もいるかもしれません。痛いというものではなくても、ハードなトレーニングをすることで自己を保てるみたいな人もいると思います。僕もスポーツをやっていたときは、そんな心持ちであったような…。
つまり、誰もがそう確信している客観的真実だと思っていることがあって、それをもとに生きているわけですが、それはやっぱり主観性を拭えないということです。いくらでも反論できますし、①〜③の反論を実践する人がいないことを証明することは困難です。だけれども、〈私〉はその主観的客観を確信としてもって生きています。では、なぜそれを確信としてもっていられるのか、確信とはどのようにして生まれるものなのか、そんなことが現象学のテーマなのだと思います、たぶん。客観なんてない、と言って結論とするのではなく、なぜ客観というものをもてるのか、主観のなかに生きている個々の人間がなぜ確信として何かを共有し連帯できるのか、みたいなことへの答えなのかもしれません。迷走しながら読んでいるのでまだわかりませんが…。
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