いつからかそれが楽しくなくなり、でも続けていたことがありました。なぜ続けていたのかというと、自分の見られ方が、その活動の結果と結びついていると感じていたからなのかもしれません。はっきりとは意識しないまでも、その活動をしているのが自分という存在であり、アイデンティティーであったのです。だから頑張って続けることができていたとも言えるのですが、あまりよくないこともありました。それは、結果が良ければ自分の価値も上がり、結果が悪ければ自分の価値も下がると、どこかで感じてしまわざるをえなかったことです。
活動の結果と自分の価値とを結びつけてしまうと、活動することに対して不安を覚えるようになっていきます。なぜなら、結果がうまく出なければ自分の価値を低めてしまうと思っているからです。失敗を恐れるようにもなってしまい、活動に大胆さもなくなってしまいます。そうして徐々に成果も出にくくなり、楽しさも損なわれていってしまいます。
しかし、このような苦い経験を、決して暗いまま終わらせるつもりはありません。といいますか、ある心理学による整理から、経験を教訓として昇華(成仏?)させることができました。それは「自我関与ー課題関与」という、人の動機づけに関する整理です。
自我関与とは、自分に価値があると感じられるかどうかが、特定の結果に依存しているような心理状態のことを指します[1,P160]。活動の結果と自分の価値とが結びついる状態であり、先に挙げた話は自我関与の心理状態であったと言えます。結果を出すことがすなわち自分の価値を高めることにつながるので、それによって動機づけられているとも言えますが、同時に不安も生じさせてしまいます。
それに対して課題関与は、活動そのものに対する興味や価値によって動機づけられている心理状態です。活動の結果と自分の価値とは切り離されていると言えるので、自我関与のような不安は生じにくいと言えます。
それぞれを言い換えると、自我関与は、自我に焦点が当たっていると言えます。他者からの見られ方に自分の焦点が当たっており、それが自分の価値であると思っている状態です。それに対して課題関与は、自分の焦点が活動や課題そのものに当てられています。失敗への不安や一歩を踏み出すにあたっての不安は、課題関与の状態にある方が、結果が自分の価値を低めるとは考えていない分だけ小さく、活動に集中しやすいと言えます。
なんだかこうして考えてみると、自我とはなんぼのものなのか、ということを思ってしまいます。よくも邪魔してくれているな、という感覚です。しかし、自分という存在は大切です。自我関与は、自分を大切にしたいという気持ちや、自分の存在を認識したいという気持ちがそのまま現れたものであるとも考えられます。
しかしながら自我関与は、周りからの見られ方に自分の価値を押しとどめ、失敗への恐れから、知的好奇心のままに創造性を発揮するようなことも阻害してしまいます。そして、その活動への興味を失わせていき、継続も難しくしてしまいます。
そこで課題関与が力を発揮してくるのかもしれません。自我関与だけでは枯れてしまいそうになるところに、活動自体への意味や価値、純粋な楽しさを感じられることは潤いとなるはずです。個人的な感覚になりますが、自我関与を完全に取り去ることは難しいように思います。どうしても結果と自分の価値は結びつけてしまいそうです。ですので、自我関与が強すぎると感じた場合に、課題関与を強めることを意識していくのがいいのではないかと思いました。その活動を自分がやりたくてやっているのだと感じられる時間をとったり、意味を確認したりするのです。それは自分で決めるもの・主観で感じるものであり、他者に委ねてはいけないものであるとも言えるのかもしれません。活動自体におもしろさを感じられるとき、自分への評価はあまり気にしていないはずです。
活動において不安を覚えたとき、その不安の正体はもしかしたら自我関与によるものかもしれません。物理的・金銭的な損失ではなく他者からの見られ方の損失であれば(本当に損失するのかどうかは別にして)、一旦自我はおいといた方がいいのかもしれません。成果が出にくくなったりストレスを感じやすくなったりという問題もありますが、なにより、活動や課題に集中できないのは、もったいないと思えてしまいます。自我よ、どこかへ行ってくれ。
〈参考図書〉
1.エドワード・L・デシ著/リチャード・フラスト著/桜井茂男監訳『人を伸ばす力 ー自発と自律のすすめ』(新曜社)
(吉田)
(カバー画像出典元)