(文量:新書の約13ページ分、約6500字)
テストや大会が定期的にあり、成績が出ればそれに応じたアドバイスをもらいながら、少しずつステップアップしていく。学年が変わったり、中学校・高校と進学したりすることで、気持ちを新たにする。今振り返ると子どもの頃のあの仕組みは、やる気を維持したり切り替えたりするのに、よく働いていたのだなと思うことがあります。
社会に出ると、もう少し自分で管理しなければいけなくなります。しかし逆に言うとそれは、自分に合ったやる気の出し方で生きられるということも同時に意味するのかもしれません。
やる気はモチベーションという呼び方に変えられて理論化されています。多くは、勉強や仕事においていかにモチベーションを高めるかという要望に向けられたもののようです。ほんとうは、人生という長い時間軸のモチベーションなんてものに迫ってみたいのですが、そこには少しずつ近づいていきたいと思います。
『モティベーションをまなぶ12の理論』[1]という本がありました。モチベーションに関わる研究者12人が、異なる12のモチベーション理論を紹介する本です。どうやら、やる気を出したり維持したりする方法は1つではないようです。長くうねりのある人生を歩んでいくのに役立ちそうに思えたので、モチベーションの生まれ方の多様さを簡単にではありますが紹介してみたいと思います。自分の過去や周りでうまくいっている方法は、その一部にすぎなかったのだときっと思えるはずです。
2つのモチベーション
モチベーションの生まれ方にはさまざまな理論がありますが、大きく2つを比較して議論されることがあります。それは、内発的動機づけと外発的動機づけです。
内発的動機づけとは、活動そのものが興味がある・おもしろい・好きであり、その活動に純粋に掻き立てられている状態を指します。内発的動機づけは、たとえば勉強なら勉強そのものを楽しんで行う状態を指すので、〜をもらえるから勉強をする、というような手段性は活動の動機に含まれません。あくまでも活動そのものが楽しくてしょうがいないから行う状態を指します。たとえば、ゲームや、趣味と言われるものは内発的動機づけに基づいて行っていることが多いと考えられます。
それに対して外発的動機づけは、その活動は手段としての側面が強く、動機づけられる要因は外的な力や別の目的にある状態を指します。報酬をもらえたり反対に罰を与えられるから頑張る状態や、目標や野心のためにその活動をしている状態を指します。典型的な例は受験勉強で、そのときの勉強は進学のための勉強であり、勉強そのものを楽しんでいる状態であることは多くはないはずです。
内発的動機も外発的動機も、人の活動を生み出す源泉であることには変わりありませんが、どちらかというと内発的動機の方が好ましいものとして扱われることが多いようです。研究の世界だけではなく最近では、好きなことを仕事にして生きていくことが良いことであるとして、メディアやSNSなどで言われていることを見かけます。たしかに、内発的動機を源泉にした方が、高いパフォーマンスが出やすく、精神的に健康であるという研究結果もでているようです。その理由としては、それ自体が好きでおもしろいから行う内発的動機にもとづく活動は、精神的負担が少ないため健康的でいられ、負担が少ないから活動が持続しやすく知識や経験が蓄積されていくことがひとつ挙げられると考えられます。また、他者の評価や自尊心などを動機づけの要因としないため、失敗を恐れず難しい問題にもチャレンジし成長していく可能性が高いことも理由として考えられます。
内発的動機はたしかに、精神的にも健康で、高いパフォーマンスも出やすいのかもしれません。しかし、大事な前提があります。それは、内発的動機づけは、自分がおもしろいと思わなければ発動しないシステムであるということです。偶然に任せる部分が大きくなり、人生の舵取りをすることが難しくなるように感じられます。自分がおもしろがれることが仮に社会にフィットしなかった場合、生活が苦しくなり、別の面で健康を害することにつながる恐れもあります。
では、もう一つの活動の源泉である外発的動機づけは、内発的動機づけに比べてそれほど悪いものなのでしょうか。内発的動機づけがすごくいいものに思えますが、外発的動機づけについて理解を深めると、決して悪いものではないことが分かってきます。
舵取りがしやすい外発的動機づけ
ここまで紹介してきた通り、内発的動機づけと外発的動機づけの違いは、目的か手段か、という区別をもって分けることができます。その活動自体が目的であるときは内発的に動機づけられている状態で、手段性をおびたものは外発的に動機づけられた状態であるという区別です。しかし、そんなにはっきりと2つに分けることが妥当な捉え方なのでしょうか。たとえば、親に言われたから勉強している状態と、どうしても行きたい大学があるから勉強している状態とでは、どちらも勉強が手段であるという意味では同じ外発的動機づけです。しかし、同じように捉えることには少し違和感があります。
そこで持ち込まれた尺度が、「自律性」です。自律性とは、自分を律すると書く通り、自分で考えて自分の活動をコントロールする程度のことです。さきほどの例では、親に言われたからというのは自律性が低く、どうしても行きたい大学があるからというのは自律性が高い動機であると言えます。このように、外発的動機づけに自律性という軸を取り込んだ理論を「有機的統合理論」といいます[1,P49]。
有機的統合理論では、自律性の程度によって、以下のように外発的動機づけの段階を分類します。勉強を例にした動機の例もカッコ内に紹介したいと思います[1,P58]。
①外的調整の段階(お母さんに言われるから / やらないと叱られるから)
②取り入れ的調整の段階(やらなければならないから / 恥をかきたくないから / 馬鹿にされたくないから)
③同一的調整の段階(自分にとって重要だから / 将来のために必要だから)
④統合的調整の段階(やりたいと思うから / 学ぶことが自分の価値観と一致しているから)
それぞれの段階の名称は少し分かりにくいですが、概して①から④に向けて自律性が高くなっていくことが分かります。それぞれの段階を言い換えると、外的調整は絶対的なルールに逆らってはいけないという恐れの回避に基づく動機、取り入れ的調整は他者との比較なども交えながら自分の存在を保つための動機、同一的調整は活動の価値を自分なりに認めようとする中で生じる動機、統合的調整は活動そのものが自分の価値や生きることに重なることで生じる動機であると言えます。お気づきのように、同一的調整と統合的調整は、その活動そのものに動機づけられている内発的動機づけに近い状態であると考えられます。実際に調査研究の際には、統合的調整と内発的動機づけを同じ段階とした「内的調整」という段階を用いて研究することも多いようです。しかし、目的か手段かという観点では、同一的調整における勉強の動機は将来のためであり、統合的調整では自分の価値観と一致しているためである、ということなので、勉強は手段性をおびており内発的な動機に基づくものではないということになります。
有機的統合理論によって、外発的動機と内発的動機の境界が小さくなっていくわけですが、この2つを分けて捉えることにどのような意味があるのでしょうか。それは、自律性という軸を用いて外発的動機づけの段階分けをすることで、徐々に自律性が高まり、自己目的化していくことが想像されることです。必ずしも好きであったり、それ自体がおもしろいと感じたりしていなくても、健康的で高いパフォーマンスが出せる内発的な動機づけの状態に近づくことができることが示唆されます。
『モティベーションをまなぶ12の理論』の中では、「人は有機的統合理論の4つの段階を踏んで自律性を高めていく」ということまでは明示されていませんでした。しかし人は、それ自体が自分の目的であると言えるような、自分にとって重要だから、やりたいと思うから、自分の価値観と一致しているから、という状態まで一気に到達できるのでしょうか。個人的な考えになってしまいますが、徐々に、そのような状態に向かっていくのではないかと考えています。はじめは嫌々ながらやっていたそれが、自分の存在感を示せるものとして大事なものとなっていき、それに対する経験を重ねることで社会的な意義までも見出せるようになるかもしれません。勉強やスポーツや仕事において、自分にとってどう重要であるのか、自分の価値観とどう一致するのかを最初から分かっていることは難しいように感じます。その活動に身を投じてみることで身に沁みていくように、徐々にその活動と自分自身とが統合されていくのではないかと考えています。
そして、このような段階を経るような外発的動機づけは、自分なりに考えたり整理したりする過程を経るという点で、自分で舵取りができる動機づけであると言えるのではないかと考えられます。好き・おもしろいという感覚に任せる内発的動機づけは、出たとこ勝負で、ある意味では自分でもコントロールしようがない動機であるように思えます。それに対して外発的動機づけは、”その活動自体が目的”とまでは強く内在化できないまでも、活動に自分なりに価値や意味を見出し、自分の気持ちや性質との齟齬が少ない状態に至ることができるのではないかと考えられます。
外発的では内発的に勝てないのか?
勝ち負けの問題ではないのかもしれませんが、発揮できるパフォーマンスという点で内発的動機づけと外発的動機づけとでは、どちらに優位性があるのでしょうか。結論からいうと、大きな違いはないのではないかと考えられます。
根拠の一つ目は、先に示した通り、外発的動機づけも自律性の高まりとともに、動機が自己に統合されていき内発性をおびていくことが挙げられます。学習活動におけるパフォーマンスに関する研究調査では、外的調整 / 取り入れ的調整 / 同一的調整 / 内的調整(統合的調整+内発的動機づけ)の各段階のうち、内発的動機に近い同一的調整が将来の学業成績に最も影響を及ぼすという結果が出ているようです[1,P62]。内的調整が最も影響を及ぼしそうなものですが、この研究調査では”将来の”学業成績を対象としたため、このような結果になったのではないかという見解が記されていました。内発的動機づけは、“今ここ”でパフォーマンスを発揮することにより強く寄与するのかもしれません。
根拠の二つ目は、元マラソン選手の有森裕子氏と高橋尚子氏の比較からみえてきます。バルセロナ五輪で銀メダル、アトランタ五輪で銅メダルを獲得した有森裕子氏に関して、このようなエピソードがあるようです[1,P109]。
私は走ることはもともと好きではありませんでした。生きるための手段でしかなかった。しかし不器用な私にはそれしかない。だからどうしてもこだわってしまうんです。
走ることは「手段」であったと自身で言っているように、有森氏は、走ることの目的性が決して高くない外発的動機づけによって、2大会連続のメダル獲得に至ったことが想像されます。それに対してシドニー五輪で金メダルを獲得した高橋尚子氏は、「走ることが楽しい、好き」であるとインタビューなどで言っていたことを覚えています。同じような地点に至るまでの動機づけは、人それぞれであると言えるのかもしれません。
人によって違う、やる気の出方
モチベーション理論に触れていると、やる気というのは、燃料を投下してスイッチを入れれば出るようなものではなく、個別に向き合いながらじっくりと育てていくようなものであると思えてきます。同じ場所で同じことをやっていても、それをおもしろいと感じる人と感じない人がいます。おもしろくないにも関わらず取り組まなければならないのであれば、外発的動機づけに活動のきっかけを求める必要があるのかもしれません。
ほかにも、やる気の複雑さを感じさせるものとして、結果期待と効力期待の両方が揃っていることで、より活動的になれるという理論もあります[1,P256]。結果期待とは、自分の行動や努力が成果につながるということに対する信用度です。これだけの努力をすればこれだけの結果につながるということが見えているほど、動機づけられるということです。しかし、結果期待だけでは実際に活動に至るには不十分で、効力期待も必要であるとされています。効力期待とは、その行動や努力を自分は遂行することができるのか、という自分自身に対する信用度です。かんたんに言い換えると、自信があるかないかです。効力期待の向上には、自分の行動によって得たポジティブな結果が最も影響を与えるといいます。大きな結果期待を抱いてもそれが遠すぎると感じて自信が持てないとき、できそうと思えることからやってみることは、いつか自信をもつために必要な自分の活動なのかもしれません。
人によっての違い、という点で、もう一つだけで紹介させてください。それは楽観主義者と悲観主義者とで、パフォーマンスを出すためにもつべき心構えが違うということです[1,P237]。楽観主義者とは、自分の将来には良い結果が起こるだろうと期待する傾向の強い人のことをいいます。このような期待が強いからといってただ良い結果を待つわけではなく、良い結果になると分かっているからこそ、困難を乗り越え、猛烈な努力もできるのだといいます。また、高いモチベーションにつながるだけではなく、そのポジティブさは精神的な健康をももたらすのだといいます。それに対して悲観主義者は、悪い結果を想起する傾向の強い人です。楽観主義者に比べると分が悪そうですが、悲観主義者は逆に物事を悪い方に考えることで努力することができるようです。試験に入念に備えても、1点差で不合格になるかもしれないと思って最後の追い込みをかけたり、鉛筆が折れるのではないかと考えて予備を十分に用意したりするのです。
そして、ここで注意しなければいけないのは、悲観主義者は、悲観主義であるからこそ成果を出すことができるということです。仮に楽観主義者から「ポジティブにいこうぜ、きっとうまくいく」と励まされて意識的に楽観に転じてみても、悲観主義者のパフォーマンスが上がることはなく下がってしまうのだといいます。おそらく悲観主義者は、悲観に暮れながら努力をすることで自信を深めていき、良い成果を出すのではないかと考えられます。また反対に、楽観主義者に危機意識を抱かせても、同じようにパフォーマンスは下がります。その人にはその人にあった心の持ちようや努力の仕方があるのです。
あの時うまくいっていた方法や、あの人がうまくいっている方法が、もし今の自分に合わないのであれば、ときには理論に触れてみるのもいいかもしれません。さまざまなタイプの人を対象に、状況を限定した「こういう条件で実験をしたらこういう結果だった」という決して極論を持ち出さない理論は、回りくどくもありますが、自分の経験だけでは見えてこない客観性という視点をくれます。自分で考えて自分なりの方法を見出していく上で、ヒントを与えてくれるのではないかと思います。
〈参考図書〉
1.鹿毛雅治編『モティベーションをまなぶ12の理論』(金剛出版)
(吉田)
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