(文量:新書の約13ページ分、約6500字)
「雪は、大気中の水蒸気が結晶化したものです」なんて、そんな風に滔々と説明されても、それは私がおもう雪ではありません。思い出されるのは、家から学校まで雪だるまを転がしながら登校しようと試みて無謀なほど大きくなると分かって断念した小学生のとき。初雪を見て、今年もスキーシーズンが来たという、楽しみでありながら身が引き締まる思いもした高校生や大学生のとき。あるいは、寒い(そして眠い)ナイター練習で、容赦なく体に降り積もる雪にただ身を任せ、いっそ雪だるまになってしまおうかと思ったこともありました。それらすべてが雪に対して抱く私の感覚です。雪を見たときに、いつも瞬間的にこれらの記憶が意識の中に降ってくるわけではありません。それでも、高揚感と緊張感が入り混じったような、決して整ってはいない立体的ななにかが心に生じているように思います。
物事に対して抱く、客観的な説明では納得ができない質感のある感覚のようなものを、脳科学では「クオリア」と呼ぶのだといいます。物事に対して抱く感覚は、ひとりひとりに特別なもののようです。そしてそれは、〈私〉をかたち作るものであり、同時に〈私〉を動かす発火装置のようなものであるとも感じました。今回は茂木健一郎氏の『意識とはなにか』などに学ばせていただきました。
感覚とともにある世界
世界にある物事を、どのように表すことができるでしょうか。冒頭では雪を、「大気中の水蒸気が結晶化したもの」と言い表してみました。これは誰もが否定することのない説明なのだと思います。しかし一方で、“あなたが納得するもの”ではないのかもしれません。そんな無機質で平坦なものではなく、もっと豊かでうねりのあるものであると感じられたかもしれません。ただ、私が自分の体験とともに語ってみた雪に対する感覚も、あなたが抱くものとはまた少し違ったはずです。人によっては、ため息まじりの重々しい感覚かもしれませんし、底抜けに楽しい感覚を抱くかもしれません。南の島に住む人であれば、触れたことのないミステリアスなものという感覚かもしれません。
世界の物事や現象は、共通の定義や理論で表すことができるようになってきました。神秘的な現象とされた地震や雷の発生原理も、ただただ憧れていた空の飛び方も、人の知が結集されることで共通理解としてまとめられ、蓄積されてきています。そして、その多くを私たちは知ることができます。しかし、それはあくまでも共通理解であり、客観的な世界観です。私たちにはそれぞれに抱く感覚があり、主観的な世界観をもっていると考えられるのです。
「クオリア」というものがあるのだといいます。その意味するところは、「私たちが心の中で感じるさまざまな質感」[1,kindle181]なのだそうです。クオリアが生成される対象は、個人にとって思い出深いものだけでも、地震や雷といった大きな現象だけでもなく、日々接しているあらゆるものです。敵意と感謝が入り混じる目覚ましのアラーム音、携帯しているとなんだか安心するスマートフォン、目に入るだけで警戒心を抱かせる赤い光など、生活の中で聞いている・触れている・見ているものにクオリアは生成されます。
クオリアは、〈私〉の中に生まれます。心はすなわち脳内現象であると言っていいのかは疑問ですが、たとえば目にしたものであれば、大脳皮質の視覚野というところに、それに関するさまざまなクオリアが神経活動によって生み出されます[1,kindle282]。そしてさらに、前頭葉を中心とする〈私〉の主観性を支える神経活動との間にマッチングがとられてはじめて、クオリアを感じることができるのだそうです。つまり脳は、外界の信号をただ処理しているのではなく、人それぞれに固有のクオリアを生み出し私たちに感じさせているのです。
個人的な解釈としては、クオリアは、私たちが普段「感覚」と呼んでいるものに近いのではないかと思いました。うまく言葉で言い表すことができないことが多いけれど、たしかに〈私〉の中に生じているあの感覚です。誰かと共有しようと思って話してみても、「そうそうそんな感じ」と言い合うにとどまり、厳密に共有できたと言うことは困難なあの感覚です。それは、「雪は大気中の水蒸気が結晶化したもの」という客観的なものではない、とても主観性を帯びたものです。
感覚は変化していきます。雪に抱く感覚は、雪に関わる活動をしていれば切実さが伴いますが、そこから離れてしまえば遠いものになっていきます。他にも、イヌに抱く感覚は、赤ちゃんの頃にはじめて「ワンワン」と認識したときから、変わってきていることでしょう。ペットとして飼ったことがあれば、家族に近い感覚をイヌに対して抱くかもしれません。それは自分が飼っているイヌに対してだけではなく、道端ですれちがう初めて見るイヌや、テレビの画面越しに見るイヌに対しても愛情に近い感覚を抱くはずです。生成されるクオリアは人生の文脈に応じて変化し、抱く感覚は変わっていくのです。
さまざまな定義や理論で説明できる客観的な世界は、あるべくしてある、ひとりの人間からしてみれば普遍的で不変的なものであると感じられます。しかし、感覚を通してみる世界は、他の人とは異なる、〈私〉が感じている個別的な世界です。そしてそれは変わっていきます。ひとつの物事や現象に対しても、人生の連なりの中で少しずつ見え方が変わっていくのだと考えられるのです。茂木氏は、「私たちを取り囲む世界は、そして世界に向かい合う私たちの認識の要素は、最初からそこに存在する要素を組み合わせたものではなく、刻一刻生成されるものである」といいます[1,kindle2179]。私たちは、客観的な世界に身を置きながら同時に、主観的な「〈私〉の世界」も生成しているのです。
掴みにいくこともできる
クオリアは自分の中で生成されるものでありながら、その生成過程を自分で意識したりコントロールしたりすることはできません。だからいって、客観的世界に身を置きながら、クオリアが生成されることを受動的に待つしかない、というわけでもないようです。意識することの方が難しい当たり前にありすぎる物事や現象に対して、自分で“がしっ”と掴むようにして、それに対する感覚を養うことができるようなのです。たとえば、「時間」などは、その最たる例なのかもしれません。
時間とは、どういうものなのでしょうか。客観的に言えば、地球の自転周期を1日・24時間とした上で、1時間を60分、1分を60秒として表したものといった感じでしょう。言い換えると、1日を86,400(=24×60×60)で割ったものを最小単位としそれを足していくもの、などとも言えるのかもしれません。いずれにしても時間は、たんたんと均等に無機質に過ぎ去っていくものであり、普遍的で不変的なものです。ひとりの人間の力でどうこうできるものでもなく、それに対して不満や疑問をもつこと自体が的外れな感じがします。
しかしたとえば、IKEAの家具を、プラモデルみたいと言いながら試行錯誤して組み立てた時間と、説明書とにらめっこしながらとにかく最短で組み立てた時間は、おなじ時間であったと言えるのでしょうか。たとえば、学校の生徒会を、実現したいことがあって務めた1年間と、正直内申点がほしくて務めた1年間は、おなじ時間であったと言えるのでしょうか。時間とは、一様に過ぎていく固定的なものでありながら、もう一方では自分の中での感じ方が異なるものでもあります。積み上げて残っていくような時間なのか、カウントしながら消えていくような時間なのか、なにやらそんな違いがあるようです。もう少し踏み込んで言うならば、前者は心を充足させてくれる時間であり、後者は心をすり減してしまう時間であるようにも思えます。
こうして普段そこにあることがあたり前な「時間」を取り上げてみると、実は奥ゆきがあるものであることが分かります。そして、一度時間を掴みとって深めておくと、時間に対して抱く感覚も自然と奥ゆきがあるものに変容していくように思います。たしかに、今そのものを楽しむ心を充足させる時間だけを過ごすのは難しく、明日のために心をすり減らす時間をとることは避けられないのかもしれません。しかしそうしたすり減らす時間ひとつひとつが明日につながっているのだというクオリアが、「時間」を掴んで捉え直すことで、生成されるようになるのではないかと考えられるのです。
宮崎駿氏は、勉強をすることで、作品作りの素となる感覚を得ていっているようです。「もののけ姫」までの作品を、エッセイや対談、作品の企画書などを通して振り返っている『出発点 ー1979〜1996』で、飛行機を飛ばすイメージを膨らませるために、こんなことをしてはどうかと記していました[2,P51]。
飛行機の歴史の本をひもとけば、そこにイゴル・シコルスキーという人物の名が出てくる。シコルスキーという男は、一九一三年に世界で初めて四発複葉機をつくり、ロシアの空を飛んだ人物だ(のちにアメリカへ渡り、単回式のヘリコプターを発明=一九四一年)。このシコルスキーが四発機に乗ってロシアの空を飛んだとき、機上で食事をし、さらにエンジンの故障のさいは、翼についている支柱につかまって操縦席から立ち上がる。風圧を受けながらエンジンの調子をみるーーこの姿こそ男が空を飛ぶ姿だろう。
この文が載せられている節のタイトルは「いまのうちに“真の勉強”を!」というものでした。アニメ製作の世界に入ってしまうと作品作りに追われて、自分のイメージを創る時間がなかなかとれない、だからなるべく勉強をしておいた方がいいというのです。逆にいうと、宮崎氏の言うような勉強をすることで、自分が体験をしたことがないことでも感覚として持つことができることが示唆されます。イゴル・シコルスキーのような勇ましい飛行体験をすることはできなくても、そのイメージを自分の中に取り込むことで、飛行機を飛ばすことに対するクオリアがまた少し変容するのだと考えられるのです。そしてその感覚をもとに、人が飛行機を飛ばすシーンを具現化していくことができるのだと考えられます。
主体性は持った方が良い、と一般的に言われているように思います。その理由はもしかしたら、クオリアを、物事に対して抱く自分の感覚を、自分で変えていけるからであると言えるのかもしれません。生活の中の何かしらの違和感が大きくなったとき、発想や思考の乏しさに辟易としたとき、主体性をもって向き合うことで生成されるクオリアが変容し、〈私〉がみる世界のあり様がまた少し変わるのかもしれません。
四六時中そこにある「時間」のことを実は考えたことがなかったり、宮崎氏に「勉強しなさい」という指摘を受けたりすると、私はなんと無頓着なのだろうと思ったりもします。しかし茂木氏は、本当はむずかしい問題を気にも留めない「ふり」をできるのも人間である、と述べていました。気に留めていないだけで、毎日、目の前を様々な出来事や現象が通過していきます。他者からの問いかけにもスムーズに応対しなければなりません。そのたびにいちいち、「時間とは」「人が飛ぶとは」などと考えていては、生活がままならなくなるでしょう。多くの場合は気に留めない「ふり」をしながら過ごし、ときには気になって仕方がないそれを掴んで自分なりの感覚に落とし込んでいくというのが、人生を豊かにするためのひとつの方法なのかもしれません。
主観的世界と内的活力
ひとりひとりの経験や知識に呼応するように生成されるクオリアは、特別な感覚を〈私〉に抱かせてきたことでしょう。多くのときは奥ゆきのあるむずかしい問題を気に留めない「ふり」をしながら生活を営み、しかしどうしても軽く扱うことができない問題に関してはじっくりと向き合い、独特の捉え方ができるように養われてきたはずです。
主観的な世界を生成することができる脳は閉じたシステムであるように感じられますが、オープンな側面も大いにあるようです。たとえば、こんな実験の結果があります[3,kindle2272]。大学生に、丸を二つつなげただけのこんな絵「◯ー◯」を見せました。片方のグループには「ダンベル」というタイトルとともに見せ、もう片方のグループには「メガネ」というタイトルとともに見せました。そしてしばらくしてから、学生にさきほど見た絵を描いてもらいました。すると、ダンベルというタイトルと一緒に絵を見た学生は、丸と丸の間の棒が太くなり、棒と丸の間が継ぎ目なくつながったような、まさにダンベルのような絵を描いたのです。それに対して、メガネというタイトルと一緒に絵を見た学生は、メガネのフレームの耳にかける部分まで付け足した絵を描きました。このような実験は他の絵でも行われており、三日月ともアルファベットのCともとれる絵では、やはり同様に、三日月として示された方は絵が三日月に寄っていき、Cとして示された方は絵がCに寄っていく結果も確認されています。つまり人は、自分で見たままを記憶するわけではなく、外から明示的な言葉が示されればその影響を受けたかたちで記憶すると考えられるのです。
記憶の問題と感覚やクオリアの問題を一緒にしてしまっていいのかは分かりませんが、私たちの脳内世界は、特に言語の影響を強く受けるように思われます。その影響が悪いものであるとは思いませんが、強い明示的な言葉は、もしかしたら〈私〉の世界の文脈には合っていないものかもしれません。自分の中でじっくり向き合いたいことができたときや、大切にしたいものがあるときには、みなが正しいという客観的世界からは少し距離をとってみてもいいのではないかと思います。
誰からみても不正解ではない客観的世界と、もしかしたら誰とも真には分かり合えない主観的世界において、感覚的な話ですが、後者の世界に人の内的活力の源があるような気がしています。初雪を見て胸が高鳴ったり、犬を見て慈しみの気持ちが湧いてきたり、今日もベランダで元気に育つ緑に安らぎを感じたり。生成されるクオリアそのものが内的活力の源なのかもしれませんが、それが〈私〉とマッチングしていることも大きく関わっているように思われます。クオリアを感じることで〈私〉を意識することができ、それが自分に対する肯定感のようなものを抱かせるのかもしれません。あるいは、少なくない偏りのある主観的世界は、自分だけの特別感を感じることができたり、外への公開意欲を掻き立てたりもするのかもしれません。クオリア・感覚・主観的世界と、内的活力・動機付けとの関係性に関しては今回迫ることはできませんでしたが、大きな関心ごととして生成されました。
これまでの人生で五感で感じてきたことと〈私〉とが合わさって、主観的世界はつくられてきました。それはこれからも改築をくり返しながら、ときには解体とも言えるような大工事もやむをえず挟みながら、つくられていくのだと思います。客観的世界は、ひとりの人間からしたら宿命づけられたような大きな流れをもって進んでいくことでしょう。しかし〈私〉の感覚とともにある主観的世界は、もう少し〈私〉の影響を及ぼすことができそうです。自分がこの世界をどうみるのか、どう感じるのかは、大きな流れの中にあっても〈私〉が介在することができるところなのかもしれません。
〈参考図書〉
1.茂木健一郎著『意識とはなにか』(ちくま新書)
2.宮崎駿著『出発点 ー1979〜1996』(スタジオジブリ)
3.今井むつみ著『ことばと思考』(岩波新書)
(吉田)
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