先日の「人の欲」をテーマにおいた読書会では、利己や利他の話が多めに出たので、出た話題とそこから考えたことを少しだけ紹介したいと思います。
少し極端な言い方をすれば、利他は善で利己は悪、という捉えられ方が一般的なような気がします。他人のためにする行為は善いことで、自分のことばかり考えているような行為はあまり褒められたものではないということです。そのような前提があるため、利他的に見られたい・利己的に見られなくないという気持ちを抱きやすいような気がします。
しかしながら、本当の利他であろうとすることは、そう簡単なことではないようです。
『「利他」とは何か』という本を読んでいる人がいました。美学を専門とする伊藤亜紗氏や哲学を専門とする國分功一郎氏など、東京工業大学の「利他プロジェクト」に参加する5名によってつくられた本です。その中で利他とは、意思が介在しないところで生まれるオートマティックな行為、とされているようでした。それとは反対の、意思が介在する行為となってしまうと、たとえ他者に向けられた行為だとしても、利他とは言い切れないということのようです。なぜなら利他的な意思の裏には、相手に対して、見返りや「こうなってほしい」という結果を求めている可能性があるからだそうです。(読書感想はこちらに載せています)
このような利他の定義の話を聞いた時に、以前読んでいた精神科医の泉谷閑示氏の『「普通がいい」という病』という本で紹介されていた「5本のバナナ」の話を思い出しました。その話とは、このようなものです。
あなたは今、貧困街にいます。手元には5本のバナナがありますが、3本で満腹になるとします。貧困街を歩いていると、貧しい人に出会いました。あなたは本当は食べたい3本のバナナを我慢して2本だけ食べ、残りの3本のバナナを貧しい人に渡しました。しかしその人はバナナが気に入らなかったらしく、「こんなものいらない」と捨ててしまいます。あなたはどう感じるでしょうか?
人によって違うのかもしれませんが、おそらく、「なんだよ、せっかくあげたのに」と相手を憎むような感情が湧くのではないでしょうか。
しかし、ここで、もしあげたバナナが2本だったらどうでしょうか?自分で満足できるだけの3本のバナナを食べて、その残りだけをあげるのです。これであれば自分は満足しているので、あげた相手がバナナを気に入らなくても、あまり腹を立てるようなこともないのかもしれません。
このような話を踏まえると、利他的な行為とは、ある程度自分が満たされた状態のときに行うことができるように思えました。自分が満足していれば、相手に結果や見返りを期待しないような利他的な行為が、自然とできるのかもしれません。泉谷氏はさらに、満足できるバナナの本数は、こころの修養を通して減らすことができるとも示唆していました。つまり、3本のバナナで満足できれば2本のバナナをあげることができますが、1本のバナナで十分になればさらに多い4本ものバナナをあげることができるということです。つまり、自分の欲を減らすことができれば、相手にあげられるものも増えるということです。
こころの修養によって自分の欲の容量を減らしていくのは大変そうですが、他方で、自分が満たされているかどうかというのは、時と場合によって異なるように思えます。ですので、利他的な行為とは、持ち回りでできればいいのではないかなどとも思いました。なんだかうまくいっていないときは正直他人のことを考える余裕がないので、自分のことを優先して、余裕があるときに周囲に目を向けてみるという感じです。利他とは素晴らしい行為とは思いますが、利他であることを善しとしすぎて利他的であることに縛られてしまうと、利己的な利他になってしまうという歪みが生まれてしまうのではないかと思いました。
〈参考図書〉
・伊藤亜紗編著/中島岳志,若松英輔,國分功一郎,磯崎憲一郎著『「利他」とは何か』(集英社新書)
・泉谷閑示著『「普通がいい」という病』(講談社現代新書)
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(吉田)