2021.02.13

価値の矛先。

最近は縄文文化に関するブックレットを作り始めていますが、そこから平等に関する疑問が湧きました。少しだけ掘り下げて考えてみました。平等って、複雑です。

 最近は、縄文文化を題材にブックレットを作り始めています。所有や自然支配が始まったと考えられる弥生文化に比べて、縄文は自然と一体であり、所有という概念もおそらくなくて、明示的な階級差もなかったと考えられています。現代とは違う世界観で生きていたのが縄文文化であり、そこになぜか自由さを感じたため、何に自由さを感じたのか、それはどのように生み出されているのかを考えてみたいと思っています。
 しかし、そのような縄文文化において、受け入れ難いと思われる文化的な慣習があります。それは、「結果の平等」を強いられていたのではないか、という点です。縄文的な文化を受け継いできたのではないかと考えられているアイヌの伝説には、次のようなものがあるそうです[1,kindle2715]。

ある若い夫婦が、松前へ交易に出かけて財をなし、昔から建ててはいけないと禁じられていた大きな家を建てます。しかしこの禁を犯したため、集落の人びとは疱瘡によって死に絶えたというのです。

 疱瘡ほうそうとは天然痘のことです。科学的に考えて、大きな家を建てたから天然痘にかかってしまうとは考えられません。したがって、この伝説はあくまでも伝説であり、共同体の秩序を維持するための規範として伝えられてきたものなのではないかと考えられます。この伝説には補足があり、年配で人格者の首長が大きな家を建てることは問題なかったのだと言います。大きな家を建てるのが“若者”だとマズイということです。
 この伝説は、少なくとも所有するモノに関しては、「結果の平等」を求められていたことを示唆していると考えられます。結果の平等とは、例えば50m走で、足の速い人もそうでもない人も、ゴールテープを横一列で並んで切ることが求められるということです。それに対して「機会の平等」というものもあります。これは、50m走のスタートラインを切る機会はみなに与えられていますが、ゴールする順位は能力や意欲によって変わってくるということです。先に示した伝説は、仮に機会を生かして成果をあげても一人だけ大きな家を建てることは許されないという、結果の平等を思わせるものでした。
 もっともこの伝説は、単に若者を抑圧するのではなく、若者を嫉妬から守ることや、嫉妬による集団の瓦解を防ぎ結果的に若者を守ることにつながっていたのではないかとも考えられます。しかしながら、せっかく機会を生かして財をなしたのに、それを自分の生活や人生に反映できないことに納得はできるでしょうか。またそのような規範が定められた社会で、果たして活力ある毎日を送れるのでしょうか。

 このように平等と、自由や生きる活力のようなものを天秤にかけた時に、もう一つ頭に浮かんだことがありました。それは、機会の平等がもたらす格差の問題でした。機会が平等であるとは、その機会を生かせる能力をもって生まれた者が、どうしても台頭するという結果になります。そうして格差が生まれていけば社会はギスギスしていき、時には暴動や崩壊につながると考えられます。さきほどは、結果の平等に感じる非納得感や不自由さについて疑問を呈してみました。しかしその一方で、機会の平等がはたして良いものなのかに関しても疑問です。
 そんなことを考えながらネットサーフィンをしていると、あるサイトの記事の中にこんな考えを見つけました。永井俊哉氏が運営するサイトの投稿記事『自由と平等は対立するのか』の、まとめにあたる部分の内容です。

自由か平等かという理念の対立は、かつての自由主義と社会主義とのイデオロギー的対立の政治哲学的基盤となっていた。すべての国民が同じ人民服を着て同じ毛語録を読む画一的平等社会もすべての人が受験戦争や出世競争に奔走する画一的競争社会も、画一的製品を大量生産する工業社会のパラダイムの内部にとどまっている。工業社会から情報社会へと移行する今、こうした工業社会のパラダイムそのものを乗り越えなくてはいけない。

 太字部分はこちらで追記しましたが、ここに、はっとさせられるものがありました。今生じている格差というのは、限定された結果しか目指していないから、必然的に優劣を生み出す差が生じてしまうのではないかということです。もっと言うと、受験・就職・出世などの特定の結果が社会的に目立ちすぎている時点で、機会の平等が十分に満たされていないのではないかとも考えられます。もちろん、ある種の機会の平等によってもたらされる、生活の困窮につながるような経済格差の増長は、何らかの方法で是正・保障されるべきものなのではないかと思います。しかし、もう少し精神的な部分で感じている格差は、もっと適切に機会の平等が機能すれば是正されるものなのではないかとも思いました。つまり、どういう仕事や生活スタイル、生き方に価値をおくかという基準(結果)の多様化であり、そういった方向に歩みを進めるための機会の多様化と平等化です。
 最近は、働き方も住む場所も機会や選択肢が多様になってきていますが、平等であるかというと疑問です。なぜなら、いかにインターネットに情報が流通しているとは言っても、踏み出すには、周りに同じような経験をしている人が既にいたり、肯定的に背中を押してくれる人がいたりすることが必要であると考えられるからです。また、情報が万人に平等に開かれていても、実際に目に入るか・アクセスするかはリアルに近い口コミの力が大きい、つまりどういう人とつながりがあるかに左右されると思われます。
 また、価値をおく結果を多様化させるということは、国家を初めとした誰かがトップダウンで決めることは難しくなるのではないかと考えられます。なぜなら、多様化を目指すとなった場合のスローガンはおそらく、「多様化を目指そう」というものになり、個人にとって具体的なものではなくなってしまうからです。あるいは、仮に何万通りもの価値基準や目的を多様に示されたとしても、それは個人にとっては空虚なものに感じられることでしょう。
 かつては、明治維新後の「殖産興業・富国強兵」や戦後の「もはや戦後ではない・所得倍増計画」などが国家のスローガンであるとともに、個人にとってのスローガンであったのではないかと思います。しかし多様性を尊重するということは、そのような国家と個人にとっての共通で具体的なスローガンは示せなくなることを意味するのではないかと考えられます。つまり、価値をおく結果の多様化を目指すとなると、精神的な部分での格差は生じにくくなるのかもしれませんが、その前提として個人が自分に合った価値観を養っていくことが求められるようになるのではないかということです。
 
 個人が目的や価値観を築いていくということと相似的な話として、福沢諭吉の『学問のススメ』[2]が思い出されます。『学問のススメ』では、江戸時代の士農工商の階級社会から、明治時代の四民平等の民主主義社会への移行期における、市民が持つべき姿勢が示されています。その内容を解釈を交えて紹介すると、四民平等・民主主義の社会が訪れても市民は相変わらずお上にお伺いを立てている。そうすると、お上が方針を示さなければいけなくなり、権力は再びお上に集中していく。そうなると、権力の集中による政治的な腐敗が生じる可能性があるが、それを監視して指摘するだけの知識が市民になければ腐敗を止めることはできないだろう。したがって、自分たちで身を立てるためにも、政治的な腐敗を防ぐためにも、市民は学問をする必要がある。社会が良くない方向に向かうのは、決してお上だけの問題ではない。市民も学びながら、自分たちの手で民主的で自由な社会を築いていかなければならない。
 主観的な解釈が入ってしまっていると思いますが、概ねこのような内容だと理解しています。本の中では、江戸から明治へ移り変わる社会の様子を交えて、お金の稼ぎ方のような現実的な部分にも触れながら、最終的には学問が必要だという結論に至っていました。福沢諭吉は、とても現実的な人だったのではないかと思ったことを覚えています。

 結果の平等は一斉に同じタイミングでゴールテープを切ることを強いられそうで、窮屈な感じがします。他方で機会の平等は、それぞれの能力や性格の違いが顕著に結果に表れるので、差は生じやすくなると考えられます。しかし、そこで生じる差も、価値基準が多様であれば、有意義な差として認識されることになるのかもしれません。
 今回考えたところで言えば、重要なことは価値基準の多様化であり、個人化であるように思われました。ただ、個人化とは言っても、必ずしも個人の内に一人で打ち立てる必要もなく、コミュニティや集団の中に見出されることもあるのではないかと思います。自分なりに居心地がいい・生き心地がいいと感じられるところが自分に合った価値観なのだろうと思いますが、それは誰かから示されるものではなく、自分でもそうそう分かるものでもないように思います。おそらく、旅をするようにいろいろなところを体験しながら、少しずつ見つかっていくものなのではないかと思ったりしました。そうして見つかった価値観の先に、個人にとっての自由さのようなものがあるような気がしました。


〈参考図書〉
1.瀬川拓郎著『縄文の思想』(講談社現代新書)
2.福沢諭吉著/斎藤孝翻訳『学問のすすめ 現代語訳』(ちくま新書)

(吉田)

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