読書に限った話ではありませんが、新たな知や考えに触れた時に、自分の中で大切にしていた根本が覆されるようなことがあります。特にリベルでは、「そもそも」という視点から考えることが多いため、そのような場面に直面することは決して少ないとは言えません。
根本が覆されることは、目的の見直しにつながるなどの点で良いとも言えますが、歩みが止まることにもつながりかねません。なぜ歩みが止めるかというと、極端に言うと例えば、北に向かうのが正解だと思って進んでいたのに、南が正解だと言われれば、当然歩みが止まってしまいます。そのまま北に歩み続けても、望んでいたところにはたどりつくことができないということになるからです。
歩みとは、私たちの毎日に照らし合わせると、生活そのものであると言えます。会社での仕事、家での仕事、子育て、そのほか人との関わり合いから衣食住を整える事全般まで指します。それは、生きることそのものと言ってもいいでしょう。そのような生活が止まってしまうことは、良いこととは明らかに言えません。
そこで、根本を覆されるような知や考えに出合ってしまった時、どのように向き合うべきなのか、乏しい経験や知識ではありますが、考えてみたいと思います。
まず、根本を覆される知や考えとは、例えばどのようなものを言うのでしょうか。一つ浮かぶのは、ミヒャエル・エンデの『モモ』に表されている、効率的な時間の使い方に対する問いかけです。『モモ』では、ゆったりした生活から、効率的に時間を管理することで富を手に入れていく人々の生活や社会全体の変化が描かれています。しかしその一方で、時間を管理して時間を手に入れていくようでいて、実は友人や家族との会話や人への気遣いといったものに使える時間が奪われていく様が描かれています。まさに、現代のなんだか忙しい社会を表しているようで、胸に刺さるような場面もあるのではないかと思います。時間を切り詰めるような生活をしている人にとっては、根本を問い直されているような気持ちにさせられるかもしれません。
しかしながら、では『モモ』に描かれているような、近代への移行前の時間生活に戻すべきかと言うと必ずしもそうではないと思います。なぜなら、私たちの社会は、既に近代に変わっているからです。自分だけゆったりした生活に変えようと思っても、自分に課せられた仕事がどんどん溜まっていくだけで、生活が滞ってしまいます。逆にストレスが大きくかかることになるでしょう。
根本を問うような知や考えは、抽象化されたものが多く、そこまで現実的な答えを示してくれているわけではないことが多いと思われます。一方で、私たちは現実を生きる生活者です。もちろん、「そもそも」を問う哲学者や研究者も、生活者です。しかし彼ら彼女らは、抱える問いに関しては、やはり抽象度が高い境地で探求をしていることが多いのではないでしょうか。なんらかの理論を導き出すということは、個別具体で生じる事をどうしても削ぎ落とさざるを得ないからです。そこに現実的生活を営む私たちと、抽象的に構築された知や考え、理論の間にギャップが生じています。
ですので、根本を覆されるような知や考えに出合ってしまった時どう向き合うのかという点については、「それは問いかけに過ぎない」というような距離感で接するのがいいのではないかと考えます。抽象度の高い論理によって創出された問いかけだということです。具体の毎日を生きる私たちにとって、必ずしも100%合致する正解となるものではないと考える方が妥当なのではないかということです。一番大切なことは、日々の生活を元気に営むことであり、偶然出合ってしまった知や考えに惑わされすぎる必要はないと考えます。
とはいえ、貴重な問いかけであるという点も忘れてはいけないと思います。もし仮に、そのような問いかけに心を動かされたのであれば、それに対してどこかで違和感を感じていたということなのかもしれません。信じていたことを見つめ直すことは、そう簡単なことではありません。一気に真正面から受け入れるのは難しいですが、徐々に時間をかけて、問いかけに対して自分なりに答えていくことも必要であると考えます。その結果として、自分の中に実は抱えていたのかもしれない違和感を払拭しながらも、問いかけに迎合するだけではない、自分なりの新たな道筋が見えてくる可能性があるからです。
結果的に、その問いかけが暗に示す選択を、自分はとらないという選択もアリだと思います。その場合でも、問いかけについて考えた意味はあると考えます。なぜなら、別の選択をしている人に対して寛容になれるからです。例えば、自分は効率を重視した生活を選択したけど、別の様式の生活もいいものではあるという寛容さです。あるいは、自分にとっても今の生活が全てではなく、別の選択や道筋があるのだという発見にもつながります。生きることに、余裕のようなものが生まれるのではないかと考えています。
自由な時代とは、自分で考えて選択をすることができるということであり、自分によりフィットする生活や生き方のようなものを選択できるということであると考えます。しかし、自分で考えて選択するとは、自分なりの枠組みのようなものを同時に定めていくことであるとも思われます。それは土台をつくっていくような過程であり、「そもそも」という深い位置から考える時間が大切になってくるのだと思います。また、変化の速い時代には、常識や前提を疑う「そもそも」という位置から考えることは必要であると思われます。前提が変わる、あるいは前提を変えられる時代には、「そもそも」という問いかけは大事なものであるはずです。
しかし、日々の生活を惑わしすぎるのは違うと考えます。あくまでも、いい毎日、そしていい毎日からつくられるいい人生になることが大切です。生活第一という価値観で、根本を見つめるような知や考え、問いかけに向き合い、おもしろがりながらそれぞれの答えを見出していければと考えています。
(吉田)
(カバー画像出典元)