2020.09.12

今週もおつかれさまでした。

人間の本質は変わらない、というような話に直面すると何だか安心感も抱いてしまいます。成長はしたいのだけれど変わりたくはない、という矛盾を抱えているということでしょうか。モノが溢れていなかった時代についてほんの少しだけ考えてみました。

 おはようございます。

 衣食住に困らない現代を生きていると、「モノが溢れた時代にはうんぬん」と言いたくなります。機能性だけではなくデザイン性も求められるようになるとか、必需品よりも嗜好品を求めるようになるとか、例えばそんなことです。

 しかし、時代をさかのぼって人間の行動を見ていると、モノが溢れて“いなくても”うんぬん、なのではないかと思ったりします。

 たとえば、今から約二万年前の旧石器時代には、過剰なほど薄く左右対称な石ヤリが作られていたり。おそらくもくもくと慎重に剥離させていたことでしょう。

 縄文時代には、火焔土器に代表されるような複雑な装飾が土器に施されていたり。土器は煮炊きや貯蔵に使われていましたから、縁があんなにうねうねしていては便利ではなかったはずです。

 また、明治時代には地方から出稼ぎに出てきた人たちを中心に、趣味と称して掛け軸などの文化的なモノが消費されました。廃藩置県によって藩という所属を失い都市部に流入した人たちが、自分が何者であるかを表す手段として趣味としてのモノを消費し飾っていたようなのです。
 ちなみにこの時の趣味消費のブームの火付け役は、三越だったと言われています。

 現代と比べると衣食住に余裕がなかったと思われる過去の時代においても、私たちはモノに機能性以外を求め、贅沢品を積極的に作ったり消費したりしていたようです。そういう遊び心とか、美しいものを求めてやまない感覚とか、周りの人と一緒でありたいと思う欲求とか、ずっと変わらずに持ち続けているのだなと思います。
 だからなんだという話ではありませんが、モノが溢れていても・いなくても人間はそうそう変わらないのだなと思いました。

 今週もおつかれさまでした。時計がなかったあの時代は、石ヤリ作りをしていて気づいたら日が暮れていたことでしょう。

(吉田)

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