参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。6日(水)は4名、7日(木)は4名、9日(土)は5名、10日(日)は9名の参加でした(主催者含む)。
土曜日の「質問「 」について考える時間。」の質問は、
言葉で人を殺せると思いますか
でした(田中未知著『質問』(文藝春秋))。
4月6日:読みたい本を気ままに読む読書会
JPさん『詩を書くってどんなこと』
今日はまた続きを読みました。
参加者の方から「詩が好きなのですか」と訊ねられて、すぐにイエスといえない自分がいたのでハッとしました。そもそも、どうして私はこの本を手に取ったんだっけ。。思い出せない。不意をつかれました。
本を読み進めながら、「詩」というものの正体が少しずつ明らかになるにつれて、私にとっての「詩」はこれまでとは違うものになっている。対象としてみれなくなっているというのが、今の感覚です。質問をしてくださった参加者の方にお礼を言いたいです。また続きを楽しみに読みたいと思います。
国語の参考書を読書として読んでいらっしゃる方がいて楽しそうだったので、私も学生時代の教科書を今読んでみたらどうだろう、と考えていました。詩も小説も読むべきときというのがあるのかもしれない。それは人によって色々で、いつになるかはその人の成熟にもよるだろうし、「出逢うべくして出逢う」みたいな魔法が起こったりするかもしれない。教科書を持たない年齢になって、ようやく教科書を開く年齢になるってこともある。
yuさん『現代文解釈の基礎』
2人の編者がいる国語参考書です。短文と例題。解答がついています。小説を読むときに最も大切な部分、主人公の輪郭について読みました。テスト問題もありました。
他の方との会話では「詩」についての話になりました。科学者で詩人がいて「言葉にはならない領域」と、「自然や宇宙の広大さ」と、「ちょっとしたこと」の大事さについて考えました。
よしだ『いつも「時間がない」あなたに』センディル・ムッライナタン、エルダー・シャフィール著/大田直子訳
天動説から地動説へと適切とされるモデルが変わった糸口は、それまで常識とされていた天動説に則るとある星の動きがわずかにズレてしまうところにあった、みたいな話を読んだことがあります。船乗りたちの長年の疑問をある人物がこんつめて考えた結果、地動説の方がうまく説明できることを発見したというのです。ほかにも、かの有名な科学者が「自分は先人たちが残した功績のわずかなほつれを直しているだけだ」と言っていたとかいないとか。
ほんの小さなズレやほつれに実は大発見が潜んでいる。でもそれに打ち込んでいる人がいたら、そんなところ気にしなくても…と思ってしまうかもしれません。効率とは何かと考えさせられました。
また同時に、過去の偉大な科学者は神を信じていたという本を読んで意外な印象をもっていたのですが、その謎も少し解けたような気がします。ほんの小さなズレやほつれを解消し、より完璧で美しい物事のあり様を発見したとき、これは神の存在がなければ説明できないほど完璧で美しいと思ったのではないかと思えてきました。世界をじっとよくみていくと、どんどん不思議に思えていくのかもしれません。
自分の読書とは関係ないですが、そんなことを思った読書会でした。
4月7日:読みたい本を気ままに読む読書会
よしだ『はてしない物語(下)』ミヒャエル・エンデ著/上田真而子・佐藤真理子訳
主人公はファンタジーの世界に飛び込んで、望むものをなんでも叶えられる力を手にしました。まずは容姿をシュッとしたものにし、次に運動神経の良さを身につけました。その次には試練を求め、それを乗り越える過程で勇気も手にします。
主人公は何かを手に入れたあと、手に入れる前の自分のことを忘れてしまいます。最初からその状態だったと思い込み、手に入れる前の自分がどうだったかを忘れてしまうのです。
変わっていくことのいいところは、その人自身が生き心地が良くなることとともに、変わる前と後の2つの経験をしていることにあるように思います。いろいろな人の気持ちがわかることは、なんとなく、平和に近づくひとつの方法のように思います。
自分が最初からその姿であった、力を持っていたと思うことにも何か問題があるように思います。それを自分の力で得たと思っていれば、分配しようとは思わないでしょう。助けるから助けてもらえる(その保証はないけどそう信じる)のであれば、成果の出どころをしっかりと認識しておくことは、長く生きていく上で重要なことのように思いました。
著者のミヒャエル・エンデは随所にメッセージを込めているような作家だと思っているので、いろいろと詮索しながら読んでいます。
4月9日:テーマのある読書会「会うこと」
yukikoさん『ほどよく距離を置きなさい』
1か月ぶりの読書会でした。
やっぱり話をすると自分の頭が整理されて、対話って大事だなあと再確認した次第です。
紛争の渦中にいると大事なものが見えなくなり、俯瞰でものを見ると見えなかったものが見えてくるらしいです。
話す=離すという考えは、問題の解決にはならないかもしれないけれど、一度、問題を手放すことで先に進んで行けるという視点は今後の人生の指針になるかもと思いました。
つやまさん『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』磯野 真穂
帯の「自分らしさはあなたを救うか?正しさは病を治せるか?生の手ざわりを求めて」という言葉に惹かれて手に取ってみました。現代社会で一般的な通念となった個人主義やリスク管理が徹底されることによって、私たちは他者や世界の「手ざわり」を感じることが難しくなってしまっているのではないか、というようなことがテーマのようです。
人間にとっての「現実」は、実際に自分が体験していることだけではなく、個人を超えた文脈からも影響を受けて形作られます。また、「経験」には、自分や身近な人の実際の体験に基づく「近い経験」と、専門家の知識などが体系化された「遠い経験」の二つに分けられます。予防医学が発達した現代ではメディアなどを通して様々な「遠い経験」が共有されるため、病気になるリスクを現実の苦しみとして感じやすくなります。また、リスクの感じ方はどのような文脈を選ぶかによって変動するため、情報や選択肢が多い現代では不安定になりがちです。結果として、現代人はリスク回避に多くの労力を割くのが当たり前になってきています。例として、食べ物に含まれる食品添加物の情報に敏感になるあまり、もはや味そのもので食事の美味しさを判断できなくなってしまった人の話などが紹介されていました。
環境をコントロールしたいという欲求によって人類は進歩してきたのだと思いますが、それによって生きている実感が希薄化してしまうのは皮肉だなと思います。著者はどんな対処法を提案しているのか楽しみに読み進めたいと思います。
4月10日:読みたい本を気ままに読む読書会
よしだ『はてしない物語(下)』ミヒャエル・エンデ著/上田真而子・佐藤真理子訳
現実世界からファンタジーの世界に飛び込んだ主人公は、容姿や運動神経など望むものはなんでも手に入れられる力を手にしました。でもそれは、あるお守りを持っているからで自分の力によるものではありません(ところで自分の力とは何か、という疑問はありますが…)。その力の正体を知っている主人公の友達は、主人公が遂げたことをすこし訝しがるようにみています。その友達に一番認めてほしいと思っている主人公は、現実世界で自分が最も得意としていた物語をつくる力を発揮していきます。
このあと、主人公はファンタジーの世界から現実世界へと戻るはずですが、現実世界では望んで手に入れた容姿も運動神経も元に戻ってしまいます。主人公は容姿や運動神経が元から今のままだと思っており、現実世界での自分の姿を忘れてしまっています。現実世界に戻った主人公は自分の姿をみてどう思うのか、というのが今の読書の関心ごとです。
本当の自分の姿を知ってがっかりするというのもあるかもしれませんが、ファンタジーの世界で得た経験をもとに自信を培っていくという方向もあるのかなと思っています。ファンタジーの世界と現実世界で、主人公の精神的な部分はおそらく変わっていません。であれば、現実世界でイケていなかった自分(そういう設定です)は、認識の問題でありある種の幻想と言えるのではないか、そんな風に考えていくのではないかと勝手に想像しています。特に子どもの頃はちょっとした出来事で立場が大きく変わることもあったような気がしますし。現実と幻想のどっちが現実なのだろうと、そんな変なことを考えてしまう本です。
過去の読書感想はこちらに載せています。
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(吉田)