参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。12日(水)は5名、14日(金)は10名、15日(土)は4名、16日(日)は8名の参加でした(主催者含む)。
土曜日の「質問「 」について考える時間。」の質問は、
片目のジャックはもう一つの見えないほうの目で何を見ているのでしょうか
(田中未知著『質問』(文藝春秋))
でした。
10月12日:読みたい本を気ままに読む読書会
おおにしさん『病と障害と、傍らにあった本』
病気や障害をかかえた人たちの読書にまつわるエッセー集。
全12編あるうち、今日は頭木弘樹さんのエッセーを読んだ。
頭木さんは20歳のとき潰瘍性大腸炎に罹って13年間の闘病生活を送っている。
腹痛と下痢が続き将来が見えず苦悩の日々のなか、彼を救ったのが本であった。
最初は中学時代に読んだカフカの『変身』。読書感想文を書くために選んだ薄い文庫本を再読してみると、「まるでドキュメンタリーだった」そうだ。
カフカは難病で苦しむ人の気持ちが分かるのだと、カフカの作品を次々に読んで文学の世界にはまりこんだ頭木さんは、次にカフカの好きだった作家ドストエフスキーに挑戦。
なんと『カラマーゾフの兄弟』がすらすら読めたそうだ。
登場人物がみな何かを悩んでいて、作品に”悩みの交響楽”を感じたとのこと。
その後同じ病室の患者さんにもドストエフスキーが感染して、一時は6人全員がドストエフスキーを読んでいて看護師をびっくりさせたそうだ。
病気に苦しみ悩む人たちがドストエフスキーに熱中できたという事実はとても興味深い。
頭木さんは難病で将来の物語が描けなくなった苦悩を、文学作品をたくさん読み、別の物語に書き換えていくことで克服した。現在、頭木さんは「文学紹介者」という肩書で、著作活動をしている。
頭木さんと比べたら五体満足で幸福な人生であった私だが、それでも人生につまづきそうになった時、本に救われた経験がある。今回彼のエッセーを読んで、本で人を救うことができるのだという確信を持つことができた。今後の私の読書推進活動に役立ていきたいと思う。
よしだ『コミュニティ』ジグムント・バウマン著/奥井智之訳
今日は自由とかコミュニティとかの流れで「安心と信頼」のことが浮かんだのでその話を紹介させていただき、そのあとも少しそのことについて考えていました。僕のなかの安心と信頼とは、山岸俊男氏の『安心社会から信頼社会へ』[1]に依るものです。今回読んだ本ではありませんが、少しだけ紹介します[1,kindle350]。
信頼は、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手の(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性のゆえに、相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと考えることです。これに対して安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在していないと感じることを意味します。
安心の方が具体例を示しやすいのですが、安心とは例えば契約の関係です。商談などでたとえうまく話が進んでいたとしても、契約を結ぶことで「あ〜安心した」となります。契約とは法律によって縛られたものであり破れば相応の罰が与えられます。そのような罰はみな受けたくないだろうという前提のもと、あるいは相手が裏切っても損失の補填があるという計算がたつという前提のもと、安心します。言い換えると、契約によって不確実性は小さくなります。
それに対して信頼は不確実性を作為的に排除するようなことはしません。契約などを結ぶことなく相手は約束を守ってくれるだろうと信じることや、恩を仇で返されることはないだろうと考えて利他的な行為をすることをいいます。
自分にとっての不確実性とは相手にとっての自由度であると言え、逆に相手にとっての不確実性とは自分にとっての自由度であると言えるように思います。契約で縛っては仮に何かを思い立ってもその範囲を越えることができません。だから自由とは安心ではなく信頼と親和性が高いのではないかと思ったりします。
しかしながら、不確実性が高すぎて不安で仕方ないなら、その不安に常にさいなまれることになるので自由とは言えません。その場合は安心の方が自由に近くなったりするのではないかと思います。…自由とは難しい。でも、安心とは互いに縛り合うことを意味するように思えてなりません。僕の読んで本のテーマ「コミュニティ」に関連していうと、安心で成り立つ社会とは例えば「ヤクザ社会」が挙げられると山岸氏は言います。「お前、裏切ったらわかってんだろうな」という前提が不確実性を減らし安心を与えるということです。ここまで乱暴な物言いではなくても、安心を基盤とするコミュニティや人間関係というのはあると思います。それは不自由だと思います。
相手を信頼するとか相手から信頼されるというのは時間がかかることだと思います。安心と信頼とを対比させて話すと分離したことに思えてきますが、例えば仕事などにおいては安心と信頼は同居した状態で進むことも多いと思います。時間がなかったり面倒くさいと思ったりして安心だけで済まそうとすると、逆に話がもつれることもあります。話がややこしくなってきましたが、信頼とは時間がかかるし楽ではないのだけれど、信頼をベースにおいておいた方がなんとなくいい気がしています。
匿名希望さん『全ての悩みは筋トレと食事で治る』
先回参加者さんのひとりが走り込みをしている話しを聞き、私も、と始め2週間。フィジカルだけでなくメンタルも少し軽くなり。
読書会では個人的に「自由」って⁇をあらためて考えるきっかけをもらいました。答えがないからおもしろいですね。
はすみさん『一汁一菜でよいという提案』(土井善晴)
まず、お料理を作るのがたいへんと感じている人に読んでほしいと書かれている。「食事がすべてのはじまり、生きることと料理することはセット」。自分自身の暮らしに自信を持つために、一汁一菜(ごはんと味噌汁、漬物)をはじめてみよう、という提案。
島国であり、四季のある日本では独自の食文化が育まれてきた。それが味噌や漬物などの発酵食品。人間の手ではなんともできないもの。というところから、八百万の神、日本人の美意識、民藝など、文化論に。奥が深い。
食について、もっと大切に考えたいと思った。
雑談で地産地消の話も出たが、読み進めるとそのあたりの話もしっかり書かれていた。
食の安全から国際経済、コミュニティ、自由、安全と信頼… 話がいろいろなところに繋がっていって、とても楽しかった。
10月14日:読みたい本を気ままに読む読書会
yuさん『JR上野駅公園口』
1933年天皇と同じ日に生まれた男が主人公。
出稼ぎのために東京駅に降り立つ人々。公園で中学生に襲われる人々。
感情移入はできにくいけど、高度成長期に起こったことや東日本大震災や津波。実際に起こったことも織り交ぜられている。天皇の行幸のたびに「山狩り」と呼ばれる特別清掃が行われることはあまり知られていないという。今日読んだところは、裕福な人がどんなふうに転落したかというところでした。そういえば何かの賞を取ってたようなで調べたら「全米図書賞」でした。知らない賞が色々あるものだなと思います。
3人でシェアをしましたが、ショーペンハウアーと若松英輔さんの本で哲学的な話で意思について、読書について、幸福について話しました。自分の意思だと思っているものは実はそうではないかもしれない。あれこれ「暇と退屈の倫理学」に書いてあったような。あれはショーペンハウアーの言ったことだったのかななどど想像しました。
10月16日:読みたい本を気ままに読む読書会
よしださん『孤独の科学』ジョン・T・カシオポ,ウィリアム・パトリック著/柴田裕之訳
仮に10人の集団で一生を過ごすような環境に生きているとき、僕はズルはしないと思います。100人くらいでもしないでしょう。しかしそれが10000人の集団になったらどうでしょうか。10000人であれば、なかには知らない人もいますから、そういう人たちの中で「まぁいいか」と僕はズルをしてしまうかもしれません。ズルをしてそれがバレたとしても10000人全員にそれが伝わるわけではないだろうとも思うかもしれません。あるいは10人の集団が1000あるような環境でも、ズルをしてバレても他の集団に移ればいいだけなのでズルをしてしまうかもしれません。絶対にズルをしないという信条を持っていたとしても魔が差すということもあります。魔が差しそうなときに抑止となる感情が大きな集団では働きにくいように思います。
こういうことを想像して思うことは、個人の意志や信条や人間性だけで、その人が善意ある行動をするのか悪意ある行動をするのかが決まるわけではないということです。善意ある行動をし続けていても周りの人がどんどんとどこかに行ってしまって全くお返しがないと悟ってしまったときに、その行動を続けられるでしょうか。ズルをしてバレても、そこから逃げてしまえば問題にならないのではないかと思ったら、気持ちも揺らぐのではないでしょうか。そして、そんな誘惑のなかでズルをしてしまえばたとえバレなくても本人は後ろめたい気持ちになるし、それを正当化するようにこころが歪んでいくかもしれません。だから僕は人の善意だけを信じるというのは少し違うと思ってまして、人が嫌な気持ちをせずに生きていくためにはある程度のシステムやルールは必要なのではないかと考えます。
10人とか100人の集団の社会はいわゆる昔ながらの社会です。10000人とか10人×1000の集団の社会は今の社会です。以前ある進化心理学の先生が言っていたのは「裏切られないという前提で生きている人たちが、実際には裏切りが発生しやすい環境に生きているから過度に傷つく」ということでした。人を信じられなくなったとき、孤独を感じるように思います。今日読んだところには、ある投資ゲームを実験として行ったときに、罰則なしのグループと罰則ありのグループでどちらが最終的に利益をあげるのかというものが紹介されていました。前者はズルをしやすく後者はズルをしにくいということです。結果は、後者の罰則あり・ズルをしにくいグループの方が大きな利益をあげました。
経済的な利益がすなわち豊かさではないと思いますが、後者のグループはズルをする人が罰則によって少なくなることで利益を上げていきます。それは金銭面とは別に、嫌な気持ちをする人が少なくなることを意味しますしその社会が破綻しないことも意味します。少人数の中におけるヒトと大人数の中におけるヒトとではおそらく行動の質が違います。そういうことを分かっておいてある程度は割り切っていくということも、健康的に生きていくためには必要なように思います。でも割り切り過ぎてしまうのもそれはそれで違う気がするというかつまらない気もするのですよね。。そういう葛藤のなかで生きていくというのは現代人に与えられた課題なのかもしれません。
過去の読書感想はこちらに載せています。
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