今『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』というのを少しずつ読んでいます。量子力学は大学の頃に突然登場しました。高校までの物理は球(質点)の落下などを扱うもので、眼に見える・体験として感じられる現象を扱っていました。あれは個人的に得意で好きだったのですが、量子力学の登場によって物理が遠いものに…。
読み進めているとやっぱり分からないことばかりが出てきます。有名な「シュレディンガーの猫」という思考実験の話では、やっぱり、箱の中には眠っている猫と起きている猫は同時に存在していると書いている。起きているのか寝ているのか見えないということではなく、同時に存在しているのです。
いろいろな量子の不思議が書かれていますが、それを読んでいる量子が分からない私は既に知っていることと結びつけて考えています。これは白色光の分光と似たような話なのか、などとかろうじて理解しているものと結びつけます。
この思考の仕方は少し前に読んでいた『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したのか』で出てきた記号接地問題と似ているなと思いました。記号接地問題とは、例えば子供が言語を習得していくときに、それの意味をどうやって理解していくのかという問題です。言葉の意味は感覚と接地してはじめて理解することができるという前提があるようですが、例えば「元気」などはその言葉だけでは感覚との接地が難しいのではないかと思います。しかし生活のなかで、身体的に活力があるときに「今日は元気だね」と言われたり反対に「今日は元気がないね」などと言われたりすれば「元気」の意味理解が進んでいきます。だから、身体のある人間は感覚と結びつけて言葉の意味理解をできるのだけれども、AIにそれは難しいのではないかという話もされてきたのだそうです。
言語は、あるところで感覚や具体から離れて抽象の世界に飛躍していきます。例えば『言語の本質』を適当に開いたところには「慣習を守る力と、新たな形式と意味を創造して慣習から逸脱しようとする力の間の戦いである」(P258)などと書かれています。これは、言語を習得し始めたばかりの子供には到底理解できないでしょう。しかし、この文章を構成する一つ一つの言葉の意味や前後の文脈を理解していることで意味を理解することができます。この感覚からは飛躍している文章・言葉群は、しかしどこかでは感覚と設置しているのではないかとも『言語の本質』の中では書かれていました。つまり、螺旋階段のようなものをグルグル回っているうちにものすごい高いところまで来ているのだけど、そこは感覚的に理解できている地面と確かに接地しているのではないかということです。
話を戻しますと、量子力学というのは今私がもっている感覚から大きく飛躍しています。だから文章は読めても意味は理解し難いものとなっています。なのですが、よくよく考えると「白色光の中にはさまざまな波長の光が含まれているんだよ」というのも感覚からは飛躍した問題です。光は光で1つだし、白色光の色は白でありそれ以外の何者でもありません。しかしそこで「ほらプリズムで分光すればいろんな色の光が見えるでしょ」と示されれば、理解はできないけどそういうものだと思わざるを得なくなります。もちろん、最初は納得などできません。そんなわけはない、という批判がこころを巡ります。しかし何度もその現象を反芻したり、「確かに光が1つでしかないみたいなのは根拠もない思い込みだったなぁ」などと思いながら少しずつ理解していきます。
量子力学も、今ある私の感覚や経験・知識を駆使して私と接地させられる時が来るのだろうかと思いました。そうして接地した時にはきっと今とは違う物事の捉え方ができる。そんな観点から話をする人はきっと変な人だと思われるのだけど、それはそれでおもしろそう。そんなことを求めて今この本を読んでいるのだろうなと思いました。
(よしだ)
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