先日は「「競争」について考える時間。」の2回目を開きました。1回目を受けて私のなかでもいろいろと考えて「競争には敵がいるのだろうか」という疑問が湧いたのでそこから話を始めました。私の場合は競争とは誰かと競う・誰かと争うという感じで、相手がいることが前提だと思い込んでいました。しかしよくよく考えると相手がいない競争ばかり思い起こされたのです。
2回目で出た話を私なりにまとめてみようと思っていたらなんとなく「問い」みたいな形式でまとめられそうです。ですので、ここから問いを示すようなかたちでまとめていきたいと思います。
問い1:競争に向かわせる心理的状態は何なのか?
競争に明確な敵はいないのだけれど競争はしているという感覚は他の参加者の方にも納得される部分があったように思います。それはつまり、競争しているという感覚が先に生じるということです。ただその一方で、複数の個体が存在しなければ競争という感覚も生まれないだろうという話も出てそれもその通りだろうなと思いました。仮に〈私〉がたった一人だけで存在していたら競争という感覚は生じないだろうということです。集団のなかに生きているから競争という観念が生まれる、だけれどその時に明確な相手や敵を意識しているかというとそれは微妙かもしれないということです。
競争というのは明確な相手を意識して生じている事象というよりも、心理的な感覚なのかもしれない。では、その競争に駆り立てる心理は何なのか?という疑問が生じます。
一つには、置いていかれるかもしれないという不安なのではないかという話が出ました。たしかに、例えば私があんぱん屋さんをやっていたとします。1個150円であんぱんを作って売っています。味は普通においしくて、食うには困らないくらいは売れています。では、地道にこれを変えずに続けていけばいいかというとそうでもないのでしょう。誰かがあんぱんにホイップクリームを合わせた脳天を突くようなあんぱんを生み出すかもしれません。あるいは、経済が後転して150円でも高いと思われるようになるかもしれません。そうしたら大手の大量仕入・大量生産のところには価格で対抗できそうにありません。常に他を意識して、時代やマーケットに置いていかれないように手を打っていく必要があります。それは時代に取り残されないようにという競争的な感覚に直結するものであるように思います。同時に現実的に生きながらえていくためには必要な心理的作用であるようにも思います。
二つには、上に行きたいという欲求が競争の感覚を生じさせるという話も出ました。たしかに上に行くということは自分より上にいる人、あるいは同じく上を目指す人との競争になります。この場合はその人たちを敵あるいはライバルとして意識することになるのでしょうが、もし上に行きたいという欲求が先に生じるのであれば敵よりも競争の感覚が先に生じるということになります。
競争に向かわせる心理的状態や作用は何なのか?、いくつかのヒントは出ましたが、このような問いが一つ生まれたものでした。
問い2:競争に向かわせる社会的状況は何なのか?
問い1は個人の心理に目を向けたものです。一方で、社会環境がそうさせる側面もあるだろうという話も出ました。
たとえば大工さんと漁師さんが隣同士に住んでいてもお互いに競い合うことはないだろうということから話は始まります。お互いに別々の仕事をしていて仕事として出来上がるものも違うのだから比べようもありません。ただ、そこに画一的な価値観が持ち込まれたら状況は変わるかもしれません。分かりやすいのは収入の多い・少ないで、どちらが稼いでいるかみたいな基準が持ち込まれたら競争になるのではないかということです。
これは個人同士が勝手にその価値基準を意識している・勝手に持ち込んでいると言うこともできるかもしれませんが、メディアや教育を通してそういった風にさらされていたら次第にそのようなマインドになっていくだろうとも思います。テストの点や偏差値や大学ランキングという基準、人気企業ランキングや収入という基準があればそれに目を向けざるを得ないのかもしれません。もちろん、そんな社会が決めた基準などは参考程度に自分の価値観にもとづいて選択をすればいいのかもしれませんが、そのためには自分の価値観があることが前提になります。しかし、先に挙げたような社会的な基準にこころを向けている間は自分なりの、それぞれの人にとっての多様な価値観というのは育たないのではないかと思ったりもします。そして社会の基準が画一的であるほど多くの人がそれに参加することになり競争は苛烈になるのでしょう。画一的な価値観のもとに生きているということがより一層の競争を促すのかもしれません。
もう一つは個人主義的な社会環境も競争への促しをするのかもしれません。自己責任を前提として突きつけられると、先に挙げたような「置いていかれないようにしないと」という不安が生じるように思います。僕は、集団のなかにいると人は自然と安心するというのがあるように思っています。それが時には怠けるみたいなことにもつながるのかもしれませんが、こころの健康にはプラスであるように思います。反対に、具体的な集団に属しているかどうかは別にして「人は一人である」みたいな感覚をもっていると、それに応じた行為をすることになります。その心理状態が競争の感覚と近いものなのかもしれません。
問い1と問い2は連環している問題のように思います。社会環境が個人心理に影響を与えるのでしょうし、個人の心理特性が社会の空気や仕組みを作り出すことにもつながるのでしょう。だから分けて考えられないことなのかもしれませんが、2つくらいに分けて考えることで自然と思考が揺さぶられて視野を狭めずに考えられるように思います。
問い3:競争=人類なのか?
実はこの問いが一番興味があったりします。
今回の会では最初の方に、生物は生存競争を生き抜いて今があるのだから基本OSのなかに「競争」というものが組み込まれているのではないかみたいな話が出ました。たしかにそのような側面もあるのかもしれません。
ここで気になることは「本当にそうか」ということと「では改めて、生きていく上で競争とはどのような意味があるのか」ということです。
「本当にそうか」という点については、本当にそうな気もしますが、ニッチの獲得をどう捉えるかという問題があるように思います。人類というよりも生物というところまで話を広げると、生物というのはニッチの獲得をして生きていると考えられているようです。以前『弱者の戦略』という本で読んだのですが、例えば池の中を覗いた時にいくつかの種類のゾウリムシがいたとします。しかし、それらのゾウリムシは共存していると単純にみるのが適切というわけではなく、深いところに棲むゾウリムシと浅いところに棲むゾウリムシがいるというように実は棲み分けをしているようなのです。だから、一つの池という単位においては共存しているように見えるのですが、実は明確な棲み分けがされているということです。この棲み分けをどう考えるのかということです。
ニッチに棲み分けされるまでは確かに競争なのかもしれませんが、棲み分けがされて各環境への適応を強めたら競争はなくなっているのかもしれません。池はニッチの集合なのであって、それを一つの世界として棲み分けによる共存をしているとみることもできるのかもしれません。ただ、いずれかのゾウリムシが自分の領土を広げようと、浅い方・深い方に進出しようとしていたらやはり競争です。あるいは、ゾウリムシが望まなくとも環境の変化によって自分の生息域が何かに侵されれば他の生息域を求める必要があります。そういうせめぎ合いは生きていくために起きているように思いますし、やっぱり競争は常なのでしょうか。
もう一つ「生きていく上で競争とはどのような意味があるのか」という疑問は言い換えると、競争という観念が個人や社会から消えたときに生きていけるのかという問いでもあります。ヒトに競争の観念がなければ早々に人類は絶滅していたということであればやっぱり競争はした方がいいのでしょうし、社会の競争から個人として避けられたとしてもやっぱり後々生きていくことが大変になるようであれば競争はした方がいいということになります。社会にとって個人にとって競争は必要なのか/どう必要なのかというのは、生きていく上で私の最も興味のある問いです。
問い0:そもそもの競争の定義
何かを考えるとき、扱う言葉の定義を厳密にしないと話が散らかります。だから定義することが必要になってくるのですが、最初から定義をしようとしてもなかなか難しいものです。だから、調べ物をしながら何を知りたかったのか自分で気づいていくように、定義も最初から定めずに徐々に定まっていけばいいのではないかと勝手に思っています。ここでいう競争とは何なのか、それは後半に見えてくるものなのかもしれません。
さて、浮かんだ問いを整理してみましたが、これらに答えを出そうと最初から意気込むとモチベーションが下がりそうです。ですので、まずはメモ程度に控えておいて、次回は「競争」をキーワードにした読書会を開きたいと思います。前回の会では「次回も話す会で」と言ったので前言撤回になりますがよろしくお願いします。
(よしだ)
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