先日の読書会で太宰治の『人間失格』の紹介があって読んでみたくなりました。なんとなく、人間のしょうもない姿を描いているのかなという感じがして、でもそれを読んでみたくもなり、これはなんなのだろうと思いました。収まりが悪く、希望とは逆を行きそうな話でもあり、なぜそんなものに惹かれるのだろうかということです。
少し話が飛ぶかもしれませんが似たようなこととして、背徳系の食べ物に惹かれることがあるなと思いました。背脂、コーラ、ポテトLサイズ。過剰な油と砂糖や塩。食べてもしょうもない、と思われるもの。だけれども街中やスーパーなんかを歩いていて、健康的だと頭では理解できる文字群と、考えるまでもなく不健康だと分かる文字群が並んだとき、こころが踊るのは間違いなく後者です。なぜ不健康な方を求めるのか。それは結局不健康なものがおいしいからというだけではなく、不健康なことをしているという背徳感そのものを求めているようにも感じてしまいます。それは、なぜなのでしょうか。
ひとつには、ご褒美とは背徳感とセットで条件が満たされるということなのかもしれません。頑張ったんだからちょっとくらい悪いことしてもいいでしょという合理性です。頑張った分の埋め合わせに悪いことをして辻褄を合わせるということです。人間は不公平を嫌います。頑張っている自分は不公平だ、だから悪いことさせろーという公平性を求めるのが不健康活動です。悪いことをすることで公平という安定に向かいます。
ふたつには、日々に傾斜をつけるために背徳感に溺れる、というのもあるかもしれません。なんとなく平らな毎日ではマンネリというか退屈してしまう。そこに落ち込むタイミングを作ることで、やばいやばいと思って頑張ろうと思うというのもあるかもしれません。
なんだか「背徳に市民権を」みたいな話になりました。そんなことを求める心理状況は病んでいると、どこかの誰かには言われるかもしれません。でもいつもいい感じではいられません。背徳感によって自らを癒し、ときには逆に背徳感によって安定を崩し日々を生きていくということなのかもしれません。人間失格を読みたくなった話からはズレたような気がしますが、きれいなだけでは生きていけないのではないかというまとめにしておきたいと思います。
(よしだ)