先日はテーマを「競争」においた読書会を開きました。私は『二つの「競争」 競争観をめぐる現代経済思想』を読みました。この本は経済学を専門とする著者が書いているので、経済学が主線となるのですが、では実際のところ・個人にとってはどうか、みたいな視点でも考えられています。
この本を読んでいると経済学とはマクロな視点からの考慮なのだなということが分かります。たとえば、経済学のある考え方では競争とは勝者を決めることではなく、以下のような意味合いがあるものだと紹介されていました(P26)。
「市場は競争を通じて、資源をもっとも有効に活用できる技術と手法を手繰りだすのであって、それを、企業のインセンティヴを維持しながら、どうやって社会全体の共有物に変えていくかを考えるのが、経済学の課題だと考えられているのです。」
これが意味するところは、経済をビジネスと言い換えてもいいのだと思いますが、ビジネスにおける競争とは、 「なんとしてもあの会社に勝つんだ」ということではなく、自社がポジションをおく市場においてより消費者に選んでもらうため・より利益を上げるための行為なのであって、その行為は結果的に新しい技術や効率的なサプライチェーンやマネジメントなどの手法を生むということです。そして、そうやって生み出された手法は他社に認知されることになり、他社がそれを模倣することで社会の共有物となっていくということを言っています。競争は効率や富を生み出す重要な手段なので、競争を阻害することとなる独占は避けるように社会は働きかけます。独占禁止法はその典型例だと言えるのだと思います。
経済学の視点がマクロだと思ったのは、この先の展開です。まず競争とは、血みどろの争いみたいなものにつながるものではない、あくまでもより良い手法を手繰りだすための手段である、というところまでは分かる気もします。しかしその論理の流れで、競争の結果倒産する企業が出てきても、そこで働く従業員はその非効率な企業から解放され効率的な企業に移ることができるから良いだろうと考えられるようです。経済学のような厳密な論理の場でなくメディアなどでも、倒産が増えることは淘汰が進むことだから悪いことではないというコメントもよく見かけます。
これがマクロだと感じるのは、個人はさまざまな心情があってその企業に勤めていたり仕事をしていたりするはずだと思うからです。たしかに効率が悪いと感じていても、その慣れた場所と人間関係のなかで仕事をするというのは、こころの安定や余裕へとつながっているはずです。ビジネスの場に身を置いているからといって、より高い効率や価値提供を誰もが常に志向しているわけではないでしょう。
だからといって、経済学のいう競争が弊害を生む悪者であるということでもないと思います。それこそ地球資源はより効率的に使われなければいけない状況になっていますし、無駄な仕事は人を辟易とさせるのも事実だと思います。だけれども効率一辺倒の考えだけで論理を進められると個人の心情が置き去りにされるように思う、だからマクロだなと感じました。
そのマクロな価値観で社会が動いているとき、それぞれの個人の価値観と折り合いが悪くなることもあるのかもしれません。だからマクロが悪いのではなく、そのマクロな価値観が妥当である理由もきっとあるはずです。だとしたら、マクロな価値観と個人の幸せとは分けて考えた方がいいのではないかと思いました。社会のいう価値観はそれはそれとして、〈私〉なりの価値観は別にあってもいいのではないかということです。社会と〈私〉、社会のなかに生きる〈私〉なのだけれど、大きすぎる社会なのだからそれはそれとしてみておいた方がいいように思いました。
(よしだ)
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