2024.06.29

話が難しくならないように。 〜「難しい」について

話が難しくならないようにしようと言うと、話せるテーマや話題が制限されると感じられるかもしれません。そういうことではないのですが私も整理できていないので、引き続き考えていこうと思います。ここでいう「難しい」とは何を意味しているのかについてです。

 読書会などで話しているときに、話が難しくなってきたなと感じることがあります。私個人としては、それはなるべく避けたいことだなと思っています。なぜなら、「難しい」と感じることの裏には、「ついていけなくなった」という孤立や疎外が生まれているのではないかと思ってしまうからです。ちょっとおおげさではあるのですが、その場にはいるけど参加できている感じがしないということです。
 しかしながら、「難しい話はやめましょう」と言ってしまうと、たとえば量子力学の話ができなくなってしまうかもしれません。しかしそうではないと考えています。量子力学みたいな難しいことを話題に出してもいいのですが、それがただ「難しい話だった」として終わらない方がいいと思っているということです。
 結局のところ、私のなかでも「難しいとは何を指しているのか」うまく整理できていないということなので、考えていきたいと思います。今回は、まずは「難しいとは〜〜ではない」という否定の例を挙げながら「別にこういう話(量子力学など)をしてはいけないわけではない」という考えを示してみたいと思います。その上で、「難しい」が意味することに近づいていきたいと思います。

一般的に難しいとされることを話に出してはいけない、わけではない

 難しくならないようにというと、一般的に難しいとされることを話に出すのがNGのように思われるかもしれません。例としては量子力学がそうかもしれません。他にも、哲学的な問いである「自己とは」や、なんとなく難しいことを言っていそうな人(ヴィトゲンシュタインとか)を出すこともはばかられるかもしれません。
 しかし、これらがNGだと思っているわけではありません。量子力学とか私も全然分かりませんが、それを知ったときに何がみえてくるのだろうという興味があります。

自分でも得体の知れないことは話に出してはいけない、わけではない

 読書会では読書をしたすぐあとに感想を共有します。だから、まとまっているわけではありませんし、疑問が生じたとしても何が疑問なのか自分でも分かっていないままのことも当然にあります。だから、自分でも得体の知れないことを話してはいけないわけではありません。それをNGだとするなら、この読書会の形式自体が適切ではないということになります。
 自分でも得体の知れないことは話すことでだんだん輪郭が見えてくることがありますし、聞いている方も新しい興味が生まれることもあります。得体が知れないわけですから、それが何なのかみえてきたとき、それはすなわち新しい何かを手に入れることになります。

複雑=(ここでいう)難しい、ではない

 難しい話にならないようにすることは、必ずしも単純化することではないと思っています。話が通じている感じがしないからといって、単純化したり相手に無理に合わせたりするのは違うのではないかと思っているということです。複雑なものを変に単純にしようとすると、見落としを生む可能性があります。
 たとえば、努力すれば成功できる、そして努力とは意思の問題であるという、成功と努力と意思という3つを単純に結びつけたとします。しかし、努力ができるということは、その対象がある程度得意で成果が出ないと続かないかもしれませんし、周りがその努力自体を肯定的にみてくれなければ続かないかもしれません。たとえば、日本ではセパタクローをやるよりはサッカーをやる方が、周りの理解やサポートは受けられやすいのではないかと思います。つまり、自分がやりたいことがその社会でメジャーかどうかという環境も努力には影響してくるのではないかということです。自分が努力できていたとしても、それは絶妙なバランスの上に成り立っていることかもしれないということです。
 それを単純化してしまうと、努力ができない人を単純に意思が弱い人だとみてしまうことになりかねません。しかし努力というものは、さまざまな条件や環境に支えられているはずです。
 こういうことを考えるのは手間がかかるのですが、一つの物事にある背景や、それが働くシステム全体に目を向けようとすることは、大事なことだと思います。複雑なものはやっぱり複雑なんだと思います。

「難しい」とは(次回に持ち越しますが…)

 では結局「難しい」とはどういうことをいうのでしょうか。こうして、「〜〜ではない」を繰り返して周りを削っていけば、本丸である「難しい」の正体が浮き彫りになるかもしれません。しかしそれは大変すぎます。ここでは、少しショートカットをさせていただきます。
 今回「難しい話にならないように」と言い出してみたのは、それが読書会における課題であると感じたからです。コンサルの人などが書く課題解決の本には、課題とは「あるべき姿と現状とのギャップである」と書かれています。「難しい話になる」というのは課題です。今は課題について考えているのであり、「難しいとは何か」という哲学的な問いに向き合っているわけでありません。だから、「難しいとは何か」という抽象的な問いに真正面から向き合うのではなく、読書会における課題としての「難しいとは何か」という具体的で絞られた問いに思考を集中させたいと思います。
 「あるべき姿」と「現状」を明確にすれば自ずと課題が明確化していくことになります。「あるべき姿」−「現状」=「課題」というa−b=cの構図ですから、aとbが明らかになれば自ずとcが導き出されるはずだからです。
 「ある“べき”姿」というと少し固いので、「あり“たい”姿」に言い直しますが、ありたい姿は前回書きました。しかし何かが足りなかったのではないかと思い始めています。ですので、もう一度書き直したいと思います。
 今のところ、直感的には「難しい話になる」が意味するのは、ちょっと大げさなのですが孤立や疎外を生むということであり、それを問題視しているのではないかと思っています。それは、難しいと思っている聞き手がその場において孤立していくというだけではなく、話し手もそうなりうるのではないかと思っています。それは、単純に良くないよねということでもあるのですが、せっかくいろんな人が集まっているのだから、その場でしか生まれない興味関心や理解や視点があった方がいいのではないかという「ありたい姿」にも起因しています。ここらへんを次はまとめてみたいと思います。

(よしだ)

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