先日の読書会で、「能動的」について少し話が及びました。話を聞いて考えてみると、能動的とは、一般的に思われているよりも、能動的では“ない”状態を指しているのかもしれないと思いました。
能動的・受動的といった言葉はよく使いますが、意味としては概ね、自分が起点になって行為することが能動的で、他者や周囲が起点となって行為することは受動的、というような使われ方をしているのではないでしょうか。
しかし、エーリッヒ・フロムの『生きるということ』では、「「ある」ことは、能動的であること」というような書かれ方がしていたようです。この本では、「もつ」ことと「ある」ことを比較した論考がなされているようで、その派生で出てきたのだと思われます。
「ある」とは、能動的か受動的かと聞かれたら、どちらかというと受動的であると思われるのではないでしょうか。自分起点で何かをするわけではなくただそこにあるだけ、というイメージで、なんだか受動的です。しかし、「ある」とは能動と関係が深いというのです。
このような提言をうけて、「でも、たしかにそうかもしれない」と思い当たるようなところもあります。日頃の能動的になろうとしている時を思い出すと、なにかによって自分を無理矢理かき立てている様子が浮かぶからです。その「なにか」とは、自分自身でもっている観念であったり、誰かに言われた何かを思い出した時の衝動であったりするように思います。見方によっては、その「なにか」に追い立てられていることになるので、受動的であるとも言えるのでしょう。
能動とは、一体どういうことを言うのでしょうか。
「ある」と関係が深いとするならば、あるがままの状態で、内から自然と湧き起こるままに行為することが能動的であるように思われます。しかし、全くの空から何かが湧き起こるということも考えにくいと思います。ですので、外的な刺激や情報を得て自分というフィルターを通した上で、自然と動き出すことが能動的ということでしょうか。能動と受動の境目はなかなかに複雑なものかもしれません。
最近では、マインドフルネスが「あるがままを受け入れる」などと言われますが、それとも関係が深いものと思われます。能動的であるためには、必ずしも常に活発であり続ける必要もなく、あるいは活発さを意識しすぎることで受動的になってしまうこともあるように思われます。また周囲が能動的であることを求める時には、促しはそこそこにしておいて、あとは環境を整えて待つという程度が適切なのかなと思ったりしました。
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(吉田)