最近の読書会では『労働の思想史 哲学者は働くことをどう考えてきたのか』を読み続けています。帯には「人類誕生からAI時代まで」と書かれており、時代を遡って労働について考え、今きているAI時代のことまで考える内容になっているのだと思います。でも今終盤に差し掛かっているのですが、AI時代についてはさすがに少し触れる程度かなという感じです。
この前読んだところでは、家事について触れられていました。家事の労働としての位置付けみたいな話です(P273〜)。
資本主義の社会においては、商品の生産に携わる労働だけが仕事として認められる側面があるのだといいます。たしかに、国の豊かさの基準に用いられるGDPは商品やサービスの付加価値の合計だと理解しているので、家事はそこに含まれないのだと思います。また、そうした数字的な豊かさに合算されていないというだけではなく、商品生産的な労働に比べて家事は価値があまり認められていなかったという社会的な風潮もあるということなのだと思います。
そのような背景もあり、家事に対しても賃金が支払われるべきだとする運動が起きたこともあったそうです。家事は商品生産的な賃金労働を影ながら支えているという意味で「シャドウワーク」と呼ばれたこともあったそうですが、この呼び方にも批判があったそうです。なぜライト(光)ではなくシャドウ(影)なのかと。家事に賃金を求める運動というのは、お金を得ることによる安心や自由を求めてということもあるのかもしれませんが、影とされるような不当な価値の貶めに対するものでもあったのではないかと思います。
このような賃金を求める運動というのは理解できるなと思いつつ、でも果たして家事を賃金労働にするのはどうなのだろうかと思いました。これは賃金を求める運動の背景とかその本質とは離れて、あくまでも改めて考えてみるという立場で思ったことです。
なんとなく家事に賃金が支払われる光景を想像してみると、家が会社になるのではないかという不安を覚えました。料理や洗濯や掃除に対して賃金が支払われる。それはそれぞれの労働を評価することにつながるのだと思います。それらに対して賃金を払うとき、いくら払うのかという基準は商品生産的な労働との比較がされるような気がしますし、「いや今月は3回料理さぼったから減給ね」なんていう会話が家でされていたらちょっと居づらいなと思いました。
僕は集団活動を機能体と共同体に分けて捉えることがあります。機能体は、会社やプロスポーツチームなどを例とする、目標があり、それに対して合理的に活動する集団です。それに対して共同体は、地域やサークルなどを例とする、目標はなく・あるいは強くは共有されず、ただそこに居て一緒に過ごす集団です。厳密にはもっと深い定義があるのだと思いますが、今のところこのような整理をしています。
僕のなかで機能体だから許容されることなのではないかと思うのが、人の評価です。会社では、採用のときに人材要件が示され、入社してからも評価が付けられます。これは当たり前のように思えてしまいますが、人が人を評価できるのかという議論を持ち出した途端に、いやそんなことはない・おかしいとなるかもしれません。
しかし機能体でそれが許容されるのは、目標を達成するという前提の上にある集団だからなのだと理解しています。この会社は〇〇という目標を達成するために存在しているという前提があり、その前提に人は加わることになります。目標があれば達成のためのプロセスが決まり、そのプロセスのさらに細分化された各箇所で必要な人材というのも明らかになります。機能体はそれをもとに人を募集し採用し評価していく、働く人はその機能体に加わっている。目標達成のためにある機能体という枠組みの中においては、人が人を評価することに合理性は認められます。
もう少し別の話をすると、サッカーの日本代表などにおいて、絶対的にうまい人が必ずしも代表やスタメンに選ばれるわけではないのも同じ論理なのではないかと思います。日本代表としての長期目標や監督の戦略があり、それをもとに評価され選ばれる。だから必ずしも力のある人が選ばれるわけではないのだと思います。機能体が目標達成のための集団であるとするならば、それに適した人を選ぶ・評価するということには合理性があります。同時に、その評価基準は各機能体ごとに委ねられ、それぞれに異なるということにも合理性があります。
しかしながらもう少し厳密に付け加えると、機能体で行えることは人の評価ではなく、人の能力や結果の評価に留まるというところは見落としてはいけないことだと思います。あくまでも機能体の目標のためにその人の力を借りるということなので、その仕事に対する評価に留まり、その人自身や人格に対する評価までは許されていないということです。その人自身や人格の評価をした時点で、機能体に許容されていることから逸脱するのではないかと思います。
このような機能体的な活動は、地域での活動や友達との普段の関係性のなかではあまりみられないことです。友達の関係に目標みたいなものが入り込むと関係がこじれるのは、共同体のなかにおいて機能体的な論理は異質すぎるからなのかもしれません。そのときは慎重に持ち込む必要があるように思います。
話を戻すと、家事に賃金を求めるようになれば、家事を行う場である家が機能体のようになってしまうのではないかと思ってしまいました。賃金を出す過程で評価が必要になり機能体的になっていく。それはなんとなく嫌だなと。会社でも学校でも、評価にさらされている。そこから帰る家は、機能体の要素がなるべくない休めるところであってほしいななんて思いました。
それは家事の価値を低めるような風潮のままでいいということではなく、賃金労働という機能体の土俵に上げない方がいいのではないかと思ったということでもあります。価値の基準や軸はひとつではなく、それについて考えていくことは大変だけど大事なことなのだろうと思いました。線引きをして持ち込まないということを意識しなければいけないように思いました。
(よしだ)