先日の読書会のフリートークの時間では、不意に学校の部活動の話になりました。どんな部活をやっていたかという話ではなく、部活が学校の手を離れる方向で進むという話です。少し前に話題になったような気がしますが、学校の先生が忙しすぎるので先生が担っていた部活動をクラブチームや地域に移管していこうというような方向だったと思います。
たしかに今思えば、朝から夕方まで授業をして、その授業の準備もあるし学校生活で起こる問題の解決や進路指導などもあるから先生は大変な仕事量です。
読書会で話をしていると、では部活を学校から離せられればそれで解決かというとそうでもないことがなんとなくわかってきました。お金を払って参加するような形式にしてしまえば、参加できない子供も出てくるでしょう。そうなるとスポーツや芸術などの活動をする機会に格差が生じてしまいます。「スポーツをできるかどうかにも格差が出てくるの?」という話が出たりしました。
少額であれば格差は生まれにくいように思いますが、たぶん、部活並みの活動を維持するには結構なコストがかかるようにも思います。
たとえば、僕は小学校の頃に市のスキースポーツ少年団に入っていましたが、半分以上はボランティアで行われていたのではないかと思っています。お金は払うのですが、そんなに大きな金額ではない割に12月から3月まで土日はほぼ毎週スキー場です。基本的には土日だけだから平日は仕事をしながらコーチ業はできるのですが、お金をもらっているからという気持ちではたぶんできないことだと思います。もらっているお金を時給に換算などしたら、大変です。
中学校に入るともう少し上のチームに行きました。小学校6年生で少し成績が出たことをきっかけに、僕のなかのイメージでエリートが集まるチームに入ったのです。田舎者が都会に飛び込んだみたいな感覚です。そのとき、かかる費用に驚いたことを覚えていますが、それでもたぶん割に合っていない。多額のお金をもらう分、土日以外も練習や合宿があったりするので、いわゆるサラリーマン的な仕事はできないのではないかと思います。農業などは冬は閑散期なので相性がいいかもしれませんが、正社員として働きながらというのは難しいように思います。
そうやって振り返っていると、お金ではないものに支えられている活動というのは多くあるように思いました。部活も、スポーツや芸術などの教育のためだけにあるのではなく、なくなってしまえば親は働きにくくなりますし、部活があることで非行行動も減るみたいな背景もあるようです。ありあまるエネルギーは街のなかで発散するのではなく部活のなかで発散した方が平和である、ということなのかもしれません。たしかにそう言われると納得してしまいます。そういった安全保障(?)の話だけではなく、スポーツや芸術に身体や心を注ぐことはその時の充実感という意味でも、大人になってからの趣味や気晴らしの基礎という意味でも大事なことだと思います。
お金に換算すると割に合わないものがあるということは、その考え方では終わっていくものが多くあるということなのかもしれません。そしてその終わってしまうかもしれないことのなかには、なくてはならないものもあるのだと思います。だとすれば、お金を基準から外して考えていった方がいいことがあるということなのでしょう。お金は便利だし生活を支える大事なものだけど、それ自体は価値ではないのだろうと思いました。
(よしだ)