インターネットによって、人と会う自由は広がりましたが、人と会わない自由は阻害されたように思います。
SNSなどによって熱意などがあれば、アプローチしてオンライン・オフラインで会うことができるようになりました。しかし反対に、いつでもどこでもコミュニケーションを受けられるということは、スマホやパソコンから身を剥がさない限り、人と会えてしまうことを意味します。
アプリやサイトを開かなければいいのですが、人とのつながりを重んじる私たち人間は、やっぱり開いてしまうのです。
インターネット以前は、人と会わない選択はもう少し自由にできていたのだと想像します。
会いたくなければ、人が集まっていそうな場所に行かなければいい。あるいは、いつもと帰り道を変えたり、行く時間帯を変えればいい。
このような人に会わない自由は、距離が離れていることで保障されていたとも言えると考えられます。わざわざその場所に行くというプロセスの中で、会わないという選択を実行することができていたからです。甘いものを食べたいと思った時に、冷蔵庫をあさってもなければ諦めがつくという「食べない自由」と同じ感じでしょうか。
『サードプレイス』の著者であるレイ・オルデンバーグは、人間は「社交性のパラドックス」を抱えていると言います。オルデンバーグは、社交性のパラドックスをこのように説明します[1,1866]。
ごく普通の人が定期的に多くの友人たちと交わるのは、必要なときや自分が望むときにいつでも彼らから自由になれる場合に限られるかもしれない。
もちろん、活発な友好関係をいくつも維持するには、友と交わる自由もなければならない。
つまり人間は、人と会いたい・交流したいという欲はあるが、もう一方で会いたくない時には会わなくて済むという自由が保障されていることも求めるということです。
サードプレイスとは、家でも職場でもない第三の場所という意味で、日本では赤提灯の居酒屋や銭湯を指すそうです。いつでも行けるけど、行きたくなければただ行かなければいいというサードプレイスが求められる理由の一つは、そこにあるとオルデンバーグは言います。
人と会う自由も大事だけど、人と会わない自由を守っておくことも同じくらい大切だということのようです。そうしなければ、人と会うのがだんだんと億劫になってしまうのかもしれません。
追伸.
とはいえ、スマホを身から剥がすのは難しいです。
以前、デジタルデトックスをしようと、スマホを家のテーブルに置いて近所のカフェにでかけたことがありました。カフェに入り、飲み物を注文し、イスに腰掛けました。
すると驚くべきことに、目の前のテーブルに自分のスマホが置いてあったのです。最初は同伴者の嫌がらせかと疑ってしまうほどの奇怪な現象でした。習慣は恐ろしい、という話です…。
〈参考〉
1.レイ・オルデンバーグ著『サードプレイス ーコミュニティの核になる「とびきり居心地良い場所」』(みすず書房,2013)
(吉田)
(カバー画像出典元)