おはようございます。
動画全盛の時代に本なんて、という風潮も全体的にはあるのだと感じています。たしかに動物が見ているのは文字よりも動画に近い世界ですから、動画の方が人間にとっても自然なコンテンツなのではないかと思ったりはします。
文字とは、今のような大容量の記録媒体や動的な記録を残す技術自体がなかった時に発明されたものであると考えられます。ですので、記録媒体も記録技術も発達した現代においては、もはや文字は用済みになりつつあるという見方もできるのかもしれません。
でも、どうにも本の方が後に残るというか、頭に刻まれる感覚があります。
それはなぜかと考えているのですが、今のところ私の中でそれっぽいものは、動画や画像に比べて情報量が少ないからではないか、ということです。例えば、「太陽」というものが表された時に、画像であれば見た瞬間に朝日なのか夕陽なのか、アフリカの草原で見る太陽なのか都会のビル群で見る太陽なのかが分かるのではないかと思います。
動画であればさらに光の具合から、さんさんと輝く様子に元気をもらったり、はかないゆらぎにせつなさを感じたりするのかもしれません。ただ、文字であれば一気にそこまでの感情の想起はされにくいのではないかと思います。
突きつけられた文字という少ない情報量から、自分の体験や知識を駆使して、これはどういうことなのかと想像するのだと思います。つまり、自分が主体となって思ったり考えたりするということです。その主体性が、言い換えると労力をかけざるをえない状況が、刻まれやすさを生み出しているのではないかということです。
いや、でも家で観る映画と映画館で観る映画でも残り方が違うぞとも思ったりします。それだけに集中する映画館で観る映画の方が、やっぱり心に刻まれます。後に残るかどうかは、集中の具合や労力の掛け方によるのかもしれません。そして本は、他のことと並行して読むことは難しいから、後に残る印象を持ちやすいのかもしれません。
しかしそれでも、主体がコンテンツ側にあるのか自分側にあるのかは、そのコンテンツが持つ情報量に左右されるのではないかと考えます。情報量の少ない本の方が主体を自分に置けるのではないかということです。
特に結論のある話ではありませんが、たしかに、動画コンテンツが豊富に発信も受信もできる時代においては、本が動画に置き換えられる側面はあるのだと思います。
しかし、特徴が異なるこれらのコンテンツは棲み分けがされるだけで、どちらが優れているという話でもないのではないかと考えたりもします。動画には動画の、本には本の、役割や使われどころがあるはずです。
今、不便益に関するブックレットを作成しています。不便益とは、不便だからこそ得られる効用のことです。
本は、読むのに労力がかかり決して楽ではないので、まさに不便です。しかし、だからこそ主体を自分に置くことができ、頭に汗をかくことで刻まれやすいのではないかと思っています。
本は、不便益です。そして、比較的便利が行き渡った現代においては、不便による益が脚光を浴びることもあるのではないかと考えていたりします。
今週もおつかれさまでした。
脅かすものが登場した時、脅かされたものは自分を見つめ直すきっかけになるということなのかもしれません。私は実はそれほど本好きというわけではありませんが、主体性を持てるとか、汗をかいてすっきりするとかいうことは割と好きです。あまり背伸びせず、文字から思ったり考えたりするということに向き合っていきたいと、勝手に、改めて思いました。
■今週・来週の読書会の予定です。
・https://peatix.com/group/7196488/events
(吉田)