(文量:新書の約10ページ分、約5000字)
日曜日に「いいライフスタイルについて考える」読書会の三回目を行いました。毎回参加者の入れ替わりがあり、少しずつ話題も変わっていきます。今回は読書の流れから、住む場所や移住に関することに話題が及びました。振り返ってみると、住む場所にどのようなことを求めたいのかには、私たちの価値観やものの見方の変化も影響するのではないかとも思えてきました。読書会を振り返りながら、そのことについて少し考えてみたいと思います。
住む“場所”に求めることを考えたことはあるでしょうか。例えば2LDKで駅近などの条件がありますが、これは住む“家”に求める条件であると思います。今回の読書会で出た住む場所とは、家からどのような景色が見えるのか、どのような人が住んでいて接することができるのか、といったような観点でした。つまり高台に住むのか、谷地に住むのか、山の麓に住むのか、川沿いや海の近くに住むのかなどといった観点です。また、移住の話も出たのですが、移住場所の決め手には、人が合うかどうかも大きく影響すると言います。家を探す時は就職などの必要性に駆られている場合が多いため、どうしても最寄駅と間取りなどが優先され、あまり大きな目線で場所を選ぶということが難しい場合が一般的なように思います。ですので、このような観点は新鮮でした。
読書会ではおおむね、住む場所には自然を求めたい、という考えが多かったように思います。都会よりも地方に魅力を感じるということです。しかし一方で、情報や人が密集していて何かに追い立てられるような都会の疾走感も捨てがたいという意見もありました(私の意見ですが…)。とはいえ、少し前までは都会に住むこと一辺倒という価値観でしたが、そこに変化が出始めているのも確かです。このような変化は、年齢を重ねるほどに表れるものではないかと思っています。
では、住む場所に対する考えや感覚に変化が生じるのはなぜなのでしょうか。一つには、ごく最近であればコロナ禍によってオンライン中心の生活になり、都会にいる意味が薄れてきたというのはあると思います。いかにインターネットが発達したとはいえ、少し前までは人に会う時はテレビ電話ではなく直接が礼儀とされており、また直接対面することで生の情報を熱っぽさと共に受け取れました。しかし今では、なるべくならオンラインで会うという風に変わってきているため、人や情報に出合うという点では都会にいる意味は薄れてきています。
ただもう一点、そのような社会環境の変化とは別に、内面の変化も住む場所へ求めることに影響を与えるのではないかと思いました。そう思ったのは、参加者の方の読書感想のシェアの中で、「人は超越的なものに接することを求める」というような内容があったことです。その本の中では、空一杯の星や抜けるような青空のことを超越的なものとして表現されているようでした(こちらに読書感想をもらっています)。
この、超越的なものという表現にはとてもしっくりきました。自然などの都会から離れた場所に求めることが、その表現の中に納められているような気がしたのです。超越的なものとは様々な解釈がされると思いますが、分からないもの・複雑なものというような解釈を自分の中でしてみました。自然には、都会のビルや街中に見られるような直線や真円、規則正しさのようなものは存在しません。また、明るさや暑さ・寒さのようなものも、コントロールすることができません。自然は、人間にはコントロールできない超越的なものであり、分からないもの・複雑なものであると言えるのではないでしょうか。
分からないもの・複雑なものに接していたいと思うのは、年齢や人生の経験を重ねるほどに、人や社会に対してそのような認識を持ち始めるかではないかと思えました。学校に通っていた子どもの頃は、ある程度は定められたルールの中での生活や進学などであったため、先を見通しやすかったのではないかと思います。受験においても、偏差値という基準や確立された勉強方法がありました。しかし社会に出ると、いろんな人がいて、いろんなことが起きて、自分で考えて決めていかなければいけない場面も増えて、思った通りにはいかないなと思うことも少なからず出てくるのだと思います。そのような、ものの見方に対する変化が、触れていたい・接していたいと思う対象への変化にもつながるのではないかと思ったりするのです。分からないもの・複雑なものに対する理解や親近感が、自然のようなものに近づけさせているのかもしれません。あるいは、そこから何かを感じ取って、分からないもの・複雑なものへ対峙するときのヒントのようなものを得たいと思っているのかもしれませんし、共感を得たいと思っているのかもしれません。いずれにしても、内面的な考えや価値観の変化が、自分が身を置く、住む場所の選択基準になっているのではないかということです。このような価値観やものの見方、内面の変化は、住む場所だけではなく、身に着ける衣服などにも影響を与えるように思います。
もう少し考えに広がりを持たせるとするならば、人類の文化的な遺産にも、人の心的変化の影響が見られると言います。進化・認知科学を用いた考古学的研究を行っている松木武彦氏の著書『美の考古学 ー古代人に何を魅せられてきたか』[1]には、人の感情や思考の変化が、人が織りなす生活環境や創り出す造形物に影響を与えてきたことが紹介されています。
例えば、縄文土器と言えば、縄の模様が側面に施されていたり、土器の縁にも波打ったような装飾が施されていたりするものがイメージされると思います。そのような装飾が施された土器が現代に存在していたら、普通は観賞用として、和室の床の間のようなところに置いておくのではないかと思います。しかし、縄文時代には、それを観賞用などではなく、実際の煮炊きに使っていたのです。つまり、日用品と芸術品というような分けはなく、渾然一体としていたのです。これが弥生時代になると、日用使いの土器には装飾が施されていないシンプルないわゆる弥生式土器となり、日用品と芸術品というような分けが生まれていきます。また用途ごとに形状が多様に分けられていったことも確認されています。どうやら弥生時代は縄文時代に比べて、「分ける」という考え方が一般的になっていたようなのです。このような違いは土器だけに見られるのではありません。集落においても、縄文時代には内側に墓を配置し外側に建物を同心円状に配置するかたちをとっていました。円とは、円周のどこにいても中心からは等距離であり、始まりも終わりもない(分からない)ため、分け隔てない様をイメージさせる形状です。それに対して弥生時代には、墓は儀礼場として別のところに配置し、また集落の周りを堀で囲む環濠集落も登場します。これは、縄文時代には見られなかった生と死を明確に分けるという概念や、自集団と他集団を分けるという概念が生まれていたことを示唆します。
このような物事を分けるという感情や思考の変化は、縄文から弥生へのある変革が影響していると考えられます。それは、狩猟採集から農耕への生業の変革です。狩猟採集から農耕へ変化したということは、人間が自然の一部であるという関係から、人間が自然を支配するという関係へ変化したことを意味します。狩猟採集では、ただそこに成っている木の実を採集したり、そこにいる動物を獲ったりすることに留まっていました。動植物を含めた自然は、そこにあるものを使う、そこにあるものに適応するという対象でしかなく、決して支配するような対象ではありませんでした。それが農耕が始まると、自然は支配する対象へと変化し、同時に「分ける」という考え方も必然的に伴っていきました。土木工事によって自然を改変し、人間が造り出した田畑という区域ができていきました。また田畑を造る土木工事は大規模で且つ精緻な作業が求められるため、人を集めて役割を分担し、段取りを決めて作業をするということがより必要とされるようになりました。さらに、田畑という資産ができれば当然守らなければいけなくなるので、自集団と他集団の意識が強くなり、味方と敵という分けも強められていったのではないかと考えられます。このような心的な変化が、土器や集落といった創作物や造形物にも表れていったのではないかと考えられるのです。日用品と芸術品は分けるという土器の作り方にも表れ、墓の配置や集落の造り方にも表れました。全体的に、意味や意図を明確化したり事象の因果関係を考えたりする思考様式へと変化していく中で、人間が身を置く生活環境へもその影響が表れていったのではないかと考えられるのです。言い方を変えれば、合理性を求めるような心的な変化が起き、環境にも反映されていたと言えるのかもしれません。
このような変化は、社会環境の変化が人の心に変化をもたらし、心の変化が創作物や造形物に変化をもたらしたとまとめることができます。しかし松木氏は、さらに踏み込んで、創作物や造形物に「美」という視点からの分析を交えた上で、このようなことを言っています[1,kindle348]。
社会が一方的に美を作るのではない。社会と美とは、まるで身体と心のように相補的・双方向的に機能し合い、人類の歴史を前に動かしてきたのだ。
つまり、創作や造形に表れる「美」とは「社会の単なる副産物」ではなく、美が人の心に影響を与え社会を作り出していくという働きもしていたというのです。たとえばエジプトのピラミッドは、何もないところに階層社会ができて王が君臨しピラミッドの建築を命じたのではなく、ピラミッドのような階層や権威を想起させる建築物が現れたことが人の心に変化を生み出し、階層的な社会の形成に寄与したのではないかということです。つまり、社会の変化→人の心の変化→創作や造形(美)の変化という一方向ではなく、創作や造形(美)の変化→人の心の変化→社会の変化という方向にも働いているのではないかということです。人の心と生きる環境は、相互に影響しているのではないかと考えられるのです。
さて、このような知見を得てから、住む場所に求めることの話題に戻ってみると、仮に住む場所に求めることに変化があるのであれば、それは内面的な、価値観やものの見方に変化があり影響しているのではないかと考えられます。住だけではなく衣食にも同様の変化は表れるはずです。ですので、衣食住の選択の変化から自分の内的な変化を認識していったり、住の変化を衣食にも反映したりしてみると、自分に合った環境を整えていけるのかもしれません。
選択できる自由とは、ときに選択に迷って悩んでしまうという問題も生じさせますが、心的な変化に合わせて環境を変えられる自由であると捉えると、とてもいいものに思えます。フィットする生活を、年齢や状況に合わせて求め続けられるということです。「住む場所」について考えるとは、ライフスタイルだけではなく自分自身のことも知れるような、とても広がりと深みのあるテーマでした。
〈参考文献〉
1.松木武彦著『美の考古学 ー古代人に何を魅せられてきたか』(新潮選書)
〈読書会について〉
読書会の情報については、FacebookページやPeatixをご覧ください。申込みをせずに直接訪れていただいても結構です。ただ、たまに休むこともありますので、日程だけはご確認いただければと思います。
(吉田)