昨日は読みたい本を気ままに読む読書会、今日は「いいライフスタイルについて考える」読書会でした。今日の話はあらためて共有したいと思っていますので、ここでは昨日の話を少しだけ。
昨日は少し壮大に「資本主義の次とは」というような話に及んだりしました。というのも私が『人新世の「資本論」』[1]という本を読んでいたからなのですが…。
人新世とは、完新世に続く地質年代のことで、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンによって名付けられたものだそうです。それが意味するところは、人間たちの活動の痕跡が地球の表面を覆い尽くしたことにあると言います[1]。本の内容は、産業革命以降の経済発展と共に人間が起こしてきた、地球環境の改変や気候変動に焦点が当てられています。個人として地球や自然を大切にしたいかどうかは別にして、戻ろうとしても以前の状態には戻れなくなる地点(ポイント・オブ・ノーリターン)はすぐそこまで迫っている。現時点でも100年に1度と言われるような異常気象は毎年起き、温暖になって永久凍土が融ければ、大量のメタンガスが放出され気候変動はさらに進む。水銀が流出したり炭疽菌のような細菌やウイルスが解き放たれるリスクもある。これらを防ぐための時間はあまり残されておらず、経済成長と地球環境の維持を両立させることは困難で、もっと言うと資本主義自体を変えていかなければならない。まだ3割ほどしか読めていませんが、そんなことが書かれている本です。
特に力点が置かれているのは、資本主義と地球環境の維持・保全の共存が困難であるという点だと認識しています。これまでの議論は、経済成長と環境保全をいかに両立させるかにあったと言います。しかし、この本では両立はもはや困難であるという考えが示されています。
経済成長を続けても地球環境の維持はできるという論理は、これまでいくつも展開されてきたと言います。たとえば、石油資源の枯渇問題については、世界的な経済発展が進めば石油の価格が高騰する、そうなれば必然的に自然エネルギーを活用するための開発が進み、徐々にそちらにシフトしていくという考えがあったそうです。しかし実際には、石油の需要が高まり価格高騰が期待されるほど石油採掘に資本が集まり採掘に躍起になり、それまでは採掘困難と思われていたところまで掘り進められるようになってしまいました。近年ではシェールガスの採掘にも成功し、地球資源の採掘がさらに進められそうです。また、自動車もガソリンから電気への転換がみえ始めていますが、電気自動車のバッテリーにはレアメタルが使われています。レアメタルを採集するためには、レアメタルが溶け込んだ(?)大量の地下水を汲み上げる必要があるようで、これも地球環境や現地住民に悪影響を及ぼす可能性があります。つまり、経済成長を続けていても経済合理的な作用によって地球環境の保全・維持の方向に進むという論理は、かつては正当性があるように語られていましたが、実際には誤りであったという結果が見え始めているということです。投資によって拡大や成長を続けていくことを宿命づけられた資本主義を社会の価値基準としていては、地球環境の維持は困難であることを認めなければいけない局面にきているということです。
このような問題提起はとても納得感のあるものであり、次の価値基準に移っていく必要はあるのだと思わされました。20年以上前から問題視されている気候変動は人為的なものであり、いよいよ経済成長よりも優先して取り組むべきものとする説得材料が揃いつつあるのかもしれません。また、衣食住が十分に行き届いた先進国においては、経済成長を追求することはモノを過剰に売ることを促し、結果過剰に買わざるを得ないことになります。そのような消費行動は、地球環境にとっても個人にとっても適切ではない局面にきているとも思います。
では次の価値基準や社会を動かすメカニズムとしては、どのようなものがあるのかは読書会でも話題にのぼることでした。まだそれが書かれているところまでは読み進められなかったのですが、社会主義は過去の失敗例を学んできているので、それではないイメージがあります。中央(政府)が生産も分配も管理するというのは、実際に失敗に終わっていますし、個人的にもあまり受け入れたいとは思えない主義・思想です。直感的に、純粋に欲を働かすことができず、なんだかおもしろくなさそうなイメージがあります。人が活力を感じられない社会は、持続可能性に乏しいのではないかと思います。
『人新世の「資本論」』の中では、もっと民主的で且つ非資本主義・脱成長的な方向へ、何かしらの提案がなされるようでした。これから読み進めていきたいと思いますが、民主的だけど脱成長的というのは、価値基準がより個人に求められるものであるように感じられます。経済成長という一つの可視化された指標が取り除かれた上で、幸せの基準は民意に委ねると言われているようだからです。これは大変そうだとは思いながらも、時代の節目に差し掛かっているのではないかと、正直少しだけ高揚感も覚えてしまいます。新しい時代がくるのかもしれません。
読書会の他の参加者の中には、おそらく科学革命と呼ばれる中世から近代への移行期を時代背景とした、科学対宗教を一つのテーマとして描かれた小説を読んでいる方がいました。科学によって様々な自然現象が解明されていき、人々が絶対視するものが変わっていった時代です。もしかしたら近いうちに、そのような時代の節目が訪れるのかもしれません。
また他の参加者の方は、時間感覚が時代や文化によって異なることが説明されている本を読んでいました。今の私たちにとっては、過去・現在・未来があることは当たり前ですが、このような直線的な時間感覚はごく近代的な一つの類型にすぎないと言います。例えば、ひと昔前であれば来世や前世を信じ、人は生まれ変わり生と死は循環するというような輪廻転生を信じる時間感覚もありました。またアフリカには、言語の中に明確な未来形が存在しない民族・文化もあり、時間感覚は決して一つではないようです。このような、普段意識することがないほどの絶対的な尺度である時間も様々であると知ると、経済成長や資本主義ではない基準も持つことが可能であることが分かります。
私たちはどこに向かうのか、そんなちょっと壮大な話題に及んだ読書会でした。『人新世の「資本論」』の主張の方向性であろう民主的なものが求められるのであれば、それは個人個人が考えたり感じたりしていくものであるように思います。そしていよいよ時代の節目が訪れているのかもしれない、という見方で世の中を見てみるのも有意義なのではないかと思えてきました。
〈参考図書〉
1.斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社新書)
〈読書会について〉
読書会の情報については、FacebookページやPeatixをご覧ください。申込みをせずに直接訪れていただいても結構です。ただ、たまに休むこともありますので、日程だけはご確認いただければと思います。
・Facebookページ
・Peatix
読書会の形式や最近の様子については、こちらに少し詳しく書いています。
(吉田)