2021.10.02

毛糸の紐帯。 ー色々とつながりと #3

違う人同士のつながりは、伝わりすぎるピンと張ったものではなく、もうすこしゆるいものであるように思えました。そしてつながりの媒質は、利他がそのひとつなのではないかと思いました。ピアノ線ではない。

(文量:新書の約14ページ分、約7000字)

 違うことを受け入れてそれを心からおもしろがるためには、違っていても人と人とのつながりは保たれるということを分かっておく必要があるのではないかと思っています。孤立したいと思うことはあまりないでしょう。仮に考えや価値観が違う相手とは関係性が薄くなっていくなどということがあれば、どうしたくなるでしょうか。違う考えに直面したとき、相手の考えをねじ曲げて自分に合わさせようとしたり、反対に無理に相手に合わせたりしてしまうかもしれません。自分とは違う他者を尊重し、自分をもしっかりと尊重するためには、違っていてもつながりは保たれることを分かっておく必要があるのではないかと思っています。では、違う人同士のつながりを保ってくれるその力とは一体どのようなものなのでしょうか。

 前回は、アドラー心理学をもとに書かれた『嫌われる勇気』[1]を参考にしながら考えてみました。『嫌われる勇気』では、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」[1,kindle1752]ということを基準として、「課題の分離」を行います。課題の分離とは、他者から何らかの進言を受けた場合に、それは本当に自分の課題なのか、それとも実は進言をしてきた他者の課題なのかを、見定めていく姿勢です。
 課題の分離は、一見すると「私は私、あなたはあなた」といった具合に、関係性自体も分離させてしまうのではないかと思ってしまいます。しかし、アドラー心理学では課題の分離をすることで、他者との適切な距離がとれて逆によく見えるようになり、他者を尊重することにつながっていくと考えます。同時に他者への関心をもち、他者への貢献を行っていくことで関係は決して希薄になるわけでなく、孤立するわけでもないと考えます。
 自分とは違う他者に出合ったときに関心が湧くのはイメージすることができます。自分とは違う考えや習慣はどのような背景でもつに至ったのだろうなどと、いろいろと聞いてみたくなるような気がします。しかし、他者への貢献の意欲はそこまで自然に湧くようなイメージはもつことができませんでした。違う他者に相対したときに、貢献の心が働くから考えが異なってもつながりは保たれるから大丈夫、と思うことができるかというと、直感的にはそうは思えなかったということです。
 そこで今回は、他者への貢献をすこし言い換えた「利他」について理解を深めてみたいと思っています。利他は違う人同士をつなげる力になりうるのか、それは人間に自然と生じる心なのか、それとも何らかの前提や条件のもとに生まれる心なのか、そんなことを分かっていきたいと思っています。今回は『「利他」とは何か』[2]を参考にしました。この本は、東京工業大学の研究拠点・未来の人類研究センターにおいて「利他プロジェクト」に参加する5名の研究者によってつくられたものです。その中でも今回のテーマに合う、美学を専門とする伊藤亜紗氏による章を主に参考にしました。


利己的な利他

 本当の利他など存在するのだろうかと考えたことはないでしょうか。相手のためにと思ってやっていることはどこかで、「いつか困ったときは助けてね」と思っていたり、せめて感謝くらいはされるだろうと期待していたりするかもしれません。これでは、利他的な行為の裏に自分への見返りを期待しているという点で利己的であると受け取れます。私の親しい友人が憎まれ口の一環で「誰かのためといっても、それは結局自分のためでしょ」と言っていましたが、私もこの考えには共感します。ただ、本当に相手のためになるならば動機はどうであれ、やってよかった行為であると思います。また、利己的なところに親近感を感じたりもしますし。

 本当の利他は存在するのかを考える上でのさまざまな切り口を、『「利他」とは何か』では紹介してくれていたように思います。その一つは「合理的利他主義」の紹介でした。
 経済学者のジャック・アタリは「利他主義とは、合理的な利己主義にほかならない」[2,P21]と考えているのだといいます。たとえば、先進国による新興国への支援にしても、将来経済発展した際のお返しを期待してのことだったりもするでしょう。人や国家などの利他的な行為の背景には、利己的な動機が隠れているというのです。このような「自分にとっての利益」を行為の動機にするような利他を、合理的利他と呼ぶようです。

 では、利他は結局は利己であると言い切ってしまってもいいのでしょうか。利己であるということは、矢印が内を向いているような気がして、他者との良い関係を築けるイメージがあまり湧きません。
 利他には合理的利他以外にもさまざまな分類があるようですが、つながりや関係性を考える上での、ひとつの分岐点が著されていました。それは利他的な行為の結果を相手に求めるか否かであるという点です。
 「これは相手のためになるだろう」という思い”だけではなく、“結果への期待”も込めて行為を施したとき、相手はどうするでしょうか。たとえば、草むしりが日課の太郎さんに対して近所の人が、「これは便利だぞ」と嬉々とした表情で除草剤をくれたとします。太郎さんは、除草剤を使わざるをえません。しかし太郎さんは、自分の手で庭を整えている実感を得られる草むしりが好きだったかもしれないのです。でもあんなに積極的に除草剤を渡されては、悪い気がして使わざるをないのです。
 先に紹介した合理的利他も、自分にとっての利益を動機にしている時点で、行為の結果を当然期待するでしょう。そして除草剤をくれた近所の人はそこまで明確な利益を動機にしていないにしても、相手が自分の行為を受け取らざるをえなくなるという点で利己性を帯びていると考えられるのです。伊藤亜紗氏は、利他の大原則は「自分の行為の結果はコントロールできない」[2,P51]ことにあるのではないかといいます。他者のことを考え「こうすれば他者の利になるのではないか」という思いはあっても、それは思いにとどめるように努めた方がよく、相手に結果を期待してしまっては利己性を帯びてしまうということです。

結果を期待することと色々であることの相性

 結果を期待するような利己性を帯びた利他は、違いがあることを前提に営む人間関係とは相性が悪いと言えるかもしれません。なぜなら、期待する結果は、自分の考えや価値観にもとづいている可能性が高いからです。さきほど例としてあげた、除草剤を太郎さんにあげた近所の人は、草むしりはやりたくないことだから効率化をはかるべきものだ、という考えにもとづいていたと考えられます。しかし実際には太郎さんは、草むしりを好んで行っていました。結果を期待するということの背景には、相手は自分と同じ価値観をもっているという前提が、本人が意識していないところで横たわっている可能性があるのです。
 伊藤亜紗氏はさらに、次のように言います[2,P46]。

特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思っています。

結果を期待して利他的な行為を施すと、善意があるほどに受けた側はそれを不採用にすることが難しくなります。それは、たとえそのような意図はなくても他者をコントロールすることにつながると考えられるのです。他者を尊重したいと思うとき、他者をおもんばかることはしても、その後の他者の行為に期待をかけすぎてはいけないと考えられるのです。
 『嫌われる勇気』では課題の分離をしながらも解決の援助をすることを「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」と表現しています[1,kindle2557]。考えや価値観がいろいろであることを尊重するということは、他者を助けようとすることはできても、選択は他者に委ねるしかないということです。自分なら絶対に水を呑む状況でも、他者は呑まない場合があることを念頭に置いておく必要があるようなのです。

利他が生まれるとき

 自分とは違う他者の、その違う考えや価値観とともに関係を保たせてくれるであろう利他は、利己性を帯びていないことがひとつのポイントになってきそうです。自分が相手に対して行った行為の結果を期待する気持ちが強すぎると、相手にもそれが伝わって選択の自由を阻害してしまうことにもなりかねません。また、行為の結果に期待を抱くということは、相手にとって良いことが自分には分かっている、という前提があるように思えます。違う他者とのつながりには、他者のことを思いやり助けとなるような行為はしても、選択の結果にまでは期待をかけすぎない利己性の小さな利他が相性が良いのではないかと思われます。

 では、自己の利益を行為の動機としない、結果に対する期待もかけすぎない利他とは、人間の本性として自然と抱きうるものなのでしょうか。
 『「利他」とは何か』を読んだり、他の本を思い返したりしてみると、実はこの問い自体がすこしズレたものなのではないかと思い始めました。利己性を帯びない利他行為を人は行うことができる、しかしそれは、自己の状態や社会環境によって変わってくるのではないかということです。
 利他行為自体は、うがった見方をしなければ、周りで見かけることがあるように思います。電車で年配者が乗ってきたときに席を立ち、その年配者が席に座るかどうかまでは特に気にしない人がいるとか。前を歩いている人が物を落としたらとっさに拾って渡してあげる人がいるとか。災害時に真っ先にボランティアに駆けつける人もそうなのかもしれません。自己の利益を考えたり結果への期待をかけたりせずに、ただ利他行為を行うことはあるように思います。しかし、いつでも、どんな状況でも、それができるわけではないのではないかということです。つまり、利他行為が生まれるかどうかは、「人間は利他的だ」とか「あの人は利他的だ」というような人間そのものや個人に焦点を当てる問題なのではなく、状態や状況に焦点が当てられるべき問題なのではないかということです。そう考えるもととなった考えを2つ紹介したいと思います。

 1つ目は、精神科医・泉谷閑示氏の著書『「普通がいい」という病』[3]において書かれていた、愛と欲望の境目についての考えです。「五本のバナナ」というお話とともに書かれていました[3,P151]。「五本のバナナ」を要約して紹介します。

 バナナが大好物の青年が、貧しい国を旅していたときに、五本のバナナをもっていました。いかにバナナ好きの青年といえども、三本も食べれば満足をします。つまり二本は残るのです。しかし青年は、貧しい国の人々をみて、自分が食べる分を二本で我慢して、三本のバナナを物乞いにあげました。でも物乞いは、バナナなんかいらないと地べたに投げ捨ててしまったのです。

 青年はどう思うでしょうか。自分が食べたいバナナを我慢してまであげたのに、捨てられたらたまったものではありません。少なくない怒りが沸いてくることでしょう。
 しかし、あげたバナナが二本であればどうだったでしょうか。自分が満足できる三本のバナナは食べられるので、残念に思うかもしれませんが、怒りまでは沸いてこないかもしれません。つまり、相手に結果を期待する欲望は、自分が満たされていれば沸いてこないのではないかということです。泉谷氏は、次のように言います[3,P153]。

ですから、「愛」のために私たちにできる第一歩は、逆説的ですが、まず自分をきちんと満たしてやることなのです。

ここでいう「愛」とは、利己性の帯びない利他にちかい意味合いのものなのではないかと解釈しています。
 ここからみえてくることは、利他が生まれるかどうかは、状態や状況に依るところがあるのではないかということです。満たされているかどうかは、生活のちょっとした影響を受けて変わるように感じます。また、バナナのような食料に限らず心身が満たされるかどうかも、大きな目でみると社会環境が影響するのではないかと考えられます。
 ただ、生活の変化や社会環境に影響されるからといって、利他的であれるかどうかに対して受け身であるしかないかというと、必ずしもそうではないように思います。自分が満たされた状態を保てるような環境を、整えることができるかもしれません。また泉谷氏は、人としての成熟とともに満たされるためのバナナの本数は減っていき、他者にあげられるバナナの数は増えていくといいます。人としての成熟がどう遂げられていくのか具体的には分かりませんが、個人の成長に依る部分もあるようです。
 言えそうなことは、心が満たされていないところに、周りがあるいは自分自身が「利他行為をしましょう」と持ちかけても、利己性を帯びない利他は生まれにくいのではないかということです。状態や状況が利他を生み出すという見方も、ひとつ重要なのではないかと考えられます。

 2つ目は、他者を信じられるかどうかという、信頼に関するものです。これは『「利他」とは何か』で触れられていました[2,P48]。
 相手の利になることを考えるところまではいいのですが、先回りして自分が代わりにやってしまったり押し付けたりしてしまうことは、他者の力を信じていない裏返しなのではないかといいます。つまり信頼がないところに、自分の考えを押し付けない、選択を相手に委ねる利他は生まれにくいのではないかということです。
 信頼とはどういうものをいうのでしょうか。社会心理学を専門とする山岸俊男氏は、信頼と安心の違いという観点から説明しているようです[2,P49]。両者の違いとは、不確実性があっても持ちうる心なのか、ないから持ちうる心なのかというものです。すなわち、他者がどのような行動をとるか分からないけど自分にとってひどい行動はとらないだろうと考えることが信頼です。それに対して、そもそも相手が想定外の行動をとることはないだろうと感じることそのものが安心であるといいます。もう少し踏み込んで言うと、他者が想定外を起こさないと認識してはじめて安心は生じると考えられるのです。人工的に安心を生み出す手段としては、契約がそのひとつと言えるでしょう。
 信頼と安心とを比較して考えた場合、利他がある社会や、違う者同士が共存する社会は、信頼でつながってていることが前提となることが分かってきます。不確実性をそもそも受け入れない安心では、結果を期待しない利他や、考えや価値観の多様性を受け入れることはできないと考えられます。不確実性を受け入れられる信頼が、人と人とのあいだに必要とされると考えられるのです。
 信頼とは、二者の間に生じる個別的なものもあれば、社会全体に横たわるものもあると考えられます。社会学には「大抵の人は悪意のない存在であると考えるか」を問う一般的信頼という指標があります。この指標は、例えば同じ日本の中でも地域によって差が生まれるようです。したがって信頼は、人類社会に普遍的に存在するものというよりも、社会環境の影響を受けて、コミュニティごとに差が生まれるもののようなのです。利他や多様性と深く関係してきそうな信頼は、どのように育まれていくものなのか、深めてみたいテーマであると思いました。

ゆるい紐帯

 利他は、考えや価値観の違う人のあいだに、つながりをつくりだしてくれそうです。違うからといって互いに違う方を向くのではなく、関心をもち協力的な姿勢で接することで、孤立を感じることなく生きることができ、ときには活動をともにすることもあるでしょう。他者からの助けは、選択することもしないこともあるでしょうが、いずれの場合でも人のやさしさを感じられるはずです。違いを尊重し利他でつながる関係は、とてもゆるいけれども、ひとりではないことを確かに感じられるものなのかもしれません。
 利他は、人間に普遍的に備わっている心であるというよりは、個人の状態や状況、社会環境によって変容していくと考えられるものでした。
 不安定なときに無理に利他的であろうとしても、うまくその心がはたらいてくれないかもしれません。まずは自分の状態を整えたりして、いくらかのゆとりをもっておくことが必要であるように感じられました。これは自分の努力だけの問題ではなく、社会や属する集団などの外的な環境も影響してくると考えられます。
 信頼も利他性に大きく影響を与えると考えられるのでした。相手の考えや行動が自由であることを前提にしても信じることができるとする信頼は、色々をつなげてくれる利他には必要な素地となりそうです。それは二者間で成り立つ個人の問題である側面もありますが、社会的な地盤があるかどうかの影響もあると考えられます。信頼については、もうすこし理解を深めたいと思います。


〈参考図書〉
1.岸見一郎/古賀史健著『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)
2.伊藤亜紗編著/中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎著『「利他」とは何か」(集英社新書)
3.泉谷閑示著『「普通がいい」という病』(講談社現代新書)


〈「色々とつながりと」他のコンテンツ〉

(吉田)

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