2021.08.21

考えると書くのあいだ。 ー対話と思考 #3

 考えることはとてもあいまいな作業であるといえます。目の前にある熟れた果実を手に取るような具体を相手にしているわけではなく、週末にどんなおいしいものを食べようかと週末の自分の気分なんかも想像しながら考えるのです。将来の夢や、目標や目的なんてものはなおさらです。食べるという日常的に経験することならまだしも、いまだ経験したことがないことも想像しながらなんとか紡いでいるのです。

 話すことは、そんな目の前にないことを言葉をつかってすこしでも形にできるという意味で、考える助けになっているのかもしれません。自分で発した言葉を耳で聞き脳に留めることで、その上にさらに考えを重ねたり、自分で確認して自信を深めていくことにつながったりしているのではないかと考えられます。話しただけなのに考えが整理されたり何かしらの決心ができたりするのは、言葉がブロックのように積み上がることで、目の前にモノがあるような具体的な状態に近づくからなのではないかと考えます。
 書くことはさらに強力です。発話による言葉のように空気中に吐き出されては消えるのではなく、紙などの上に文字として残り目で確認することができるからです。話すことよりも書くことの方が、自分の考えをより強く認識することができるのではないかと考えられます。

 しかしながら、ドイツの哲学者・ショーペンハウアーは、こんなことを言っています[1,kindle370]。

 思想本来の息吹は、言葉になるぎりぎりの点までしか続かない。その時点で思想は石化し、あとは死んでしまう。だが太古の化石化した動植物と同じように、末永く保たれる。思想本来のつかのまの生命は、水晶が結晶化する一瞬にも比せられる。
 すなわち思索が言葉を見出すと、たちまち奥深いところにあった切実さと厳粛さが失われる。思索はなにか他のもののために存在しはじめると、私たちの中で生きることをやめてしまう。

考えていることはもっと大きくて深いことかもしれないのに、言葉にした瞬間に変に縮こまってしまう、ということを言っているのだと思います。しかも、一度言葉にすると、そこから成長させることや、もとの大きさ・深さを取り戻すことが難しくなるとも。つまり、言葉にすることによって思考の地盤や意志の拠り所になることはあるけれど、一方で本当に考えていたこととは似て非なるものを造り出してしまう恐れがあるということです。これはなんとなくわかる気がします。一度発した言葉や書いた言葉は消し去ることは難しいと感じます。記憶や紙の上に留まり、それが信頼に足る前提であるかのように当たり前に残り続けるのです。

 では、結晶化しない言葉ではどうなのでしょうか。あいまいで、すこし何を言っているかわからない言葉です。考えるということのあいまいさを考えると、結晶化していないあいまいな言葉を使う過程は、どうしても必要なように思います。そして、それは書くよりも話すという手段の方が合っているように思えます。なぜなら、書いて文字にすると、厳密さや正しさをどうしても求めたくなるからです。字面で追えるということでどうしても粗が見つかってしまいますし、記録に残るということで間違ったことを書けないという気持ちにもなります。それが緻密に考えることにもつながっていくのですが、この過程は比較的後半に適したものと言えるのかもしれません。もっとも、メモ書きのような雑多でよいものであれば別かもしれませんが。

 話すことも考えを形にする作業であるためショーペンハウアーが言うように思考の芽を摘み取ってしまう恐れもあります。しかし一方で、話すことで他者の考える力と合わせることができ、自分ひとりではたどりつけない場所に行くこともできます。話すことは、他者や自分に伝えるという役割だけではなく、他者と一緒に考える上でも重要な役割を果たすのです。
 フランスの哲学者・マルク・ソーテは、町のカフェで哲学の時間をもうけ、そこには町の人々が集まります。テーマも哲学対話も即興です。ソーテはどんなテーマが出てくるかわからない時間を楽しみ、生活感ある身近なテーマや対話がかわされることに喜んでいました[2]。
 フィンランドで精神疾患の治療法として確立されてきている「オープンダイアローグ」では、対話が薬物治療を上回る成果をあげているそうです[3]。専門家は問診したり治療法を説明するのではなく、患者さんとその家族の中に入って、対等なメンバーの一員として対話をします。たとえ、要領を得ないことや常識から外れたような話題が展開されても、その言葉をひとつひとつ、そのままに受け取っていくのです。
 話すことはあいまいさをはらんだまま他者に伝わっていき、思考に働きかけます。もちろん明確さを追求することもできますが、あいまいであることもできるのです。あいまいだからこそ、介入の余地をあたえ、他者に興味も抱かせるのかもしれません。発話によって放たれた見えない言葉に他者の言葉が重ねられて、どんどんと大きなものへと発達していきます。生み出されるものは、自分と他者とのあいだに浮かぶ思考のクラウドともいえるものでしょうか。書くことよりも可視的ではない、ゆるされたあいまいさが、話すことと考えることの親和性を生み出してくれているように感じました。


〈参考図書〉
1.ショーペンハウアー著/鈴木 芳子訳『読書について』(光文社古典新訳文庫)
2.マルク・ソーテ著/堀内ゆかり訳『ソクラテスのカフェ』(紀伊国屋書店)
3.斎藤環著/訳『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)


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(吉田)

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