参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。12月7日(火)は5名、8日(水)は6名、11日(土)は4名、12日(日)は3名の参加でした(主催者含む)。日曜日は人数もすくなく、9時半の「質問「 」について考える時間。」から11時半の読書会の終わりまで、ずっと雑談をしていました。
12月7日:読みたい本を気ままに読む読書会
シンカイダイキさん『下級国民A』
赤松小説の原点が知れる随筆。まだまだ、読めていないので続きを読みたいです。
原有輝さん『本屋、はじめました』
個人で本屋を立ち上げるには、物件の下見やらなにやら、かなりいろいろ準備する必要があるようです。カフェの併設をどうするか、取次をどうするか、本屋にどんな本を並べてどんな個性を出すか、POSレジを使うかどうか、釣銭や店舗の備品の準備など、山ほどやることはあるようです。
12月8日:読みたい本を気ままに読む読書会
Soi Tomsonさん『わたしを離さないで』著:カズオ イシグロ
本書の舞台:イギリスのとある町
前半はナレーターおよび主人公である介護人キャシーHが、生まれ育った施設 ”ヘールシャム”での回想から始まる。ヘールシャムは寄宿舎のような場所に思えるが、文章の中に様々な奇妙な出来事、キーワードがちりばめられており物語は徐々に真実を明かしてゆく。
【感想】
本日は第5、6章を読む。ここでは思春期初期のキャシーと友人ルースとの出来事や心の細かい動きを丁寧に拾い上げ言葉にしている。この時期特有の、本人にもなぜそうしてしまうのかわからない些細なうそや、子供たちの独特な行動の描写に引き込まれ共感し、自分も物語の中に入っているような錯覚を感じる。
この本はSF小説のカテゴリーとして取り上げられることもあるが、自分はもっと広い人文学的な要素のほうが強い作品ではないかと思っている。
原有輝さん『ゲンロン戦記』
東浩紀さんは、せっかく成功していたのに、もったいない気もしますが、反骨精神がふんだんにある方なので、文化人としてメインストリームで活躍することには、抵抗があったようです。せっかく成功しても、自分軸に合わない成功だと、居心地悪くなるようで、東さんは既存の枠にはまるには優秀過ぎ、せっかくの成功を投げ捨ててしまったようです。
論点はずれますが、少し個人的なことをいうと、あまりに身に余る光栄を受けると、逃げ出す人はいるようです。僕もそのタイプです。
匿名希望さん(途中から参加)
用事から戻った時間が遅く遠慮しようと思いましたが、図々しく参加させてもらいました。不条理を文化によりどうとらえるか、とか、フィルターをかけずに著書に向き合うとか。絶対の答えのないことをみんなでシェアし合う時間は自分の考えが深まる貴重な時間です。
いつもありがとうございます。
12月10日:読みたい本を気ままに読む読書会
小澤さん『知ってるつもり 無知の科学』
【概要】
人間は知ってる「つもり」になりがちである。本書は人間のほれぼれするような知性とがっかりするような無知をあわせもっているのか、そんな人間がなぜ多くのことを成し遂げられたのかについて書いている。
本書の中で「説明深度の錯覚」という考えが出てくる。以下のような実験をする。
1.あなたはファスナーをどれだけ理解しているか七段階で評価してください
2.ファスナーはどのような仕組みで動くのか、できるだけ詳細に説明してください
3.もう一度、あなたはファスナーの仕組みをどれだけ理解しているか、七段階評価で答えてください。
こういう実験をすると3.の段階では多少控えめな評価になる。どうして人間は知っていると勘違いしてしまうのだろうかと思ってしまうが、実はそんなに悪いことでもないようだ。人間は記憶力強化や高速計算ではなく、「行動」することに最適化して進化してきたためだ。
それに対する例としてフネスの超記憶力の話がある。
フネスは超記憶力を持っている。過去のことをすべて覚えていていつ何をしていたかもすぐに思い出せる。なんて便利なんだと思いがちだが、フネスは抽象的な能力においては少し怪しいところがある。数分前に見た犬が同一なのかどうか怪しく感じてしまう。
一見すると人間の知ってる「つもり」というものは非合理に感じるが、実は合理性があるものであることが分かる。
【感想】
知識の錯覚は私たちに新たな領域に足を踏み入れる自信になる。冒険家などがその例で一見知識の錯覚により無謀に思えるが、そういったことが人類を発展させていくこともある。
一見すると無駄や不足に感じるが、長期的には実は大切といったことが世の中にはあると改めて感じた。
yuさん『象の旅』
16世紀ポルトガルからオーストリアに象が贈られることになり、象の輸送手段は徒歩という史実を元に書かれたお話です。象使いは象についてインドからきてまた旅で大変だなと思いました。王様は思いつきでものを言うけど周りの人はどれほど振り回されるかには思い至らないだろうなあ。まだ初めなのでどんな旅になるのだろうと思いました。
他の方はホモルーデンスを読まれていて遊びのことの話になり仕事も遊び??という話になり考えさせられました。生きるのに必ずしも必須でない活動を遊びというならその範囲は広いなと思いました。
よしだ『ホモ・ルーデンス』
人間は自然と遊んでしまう。それを遊びと意識せず遊んでしまう。今は、遊びか仕事か、とか、遊びは真面目ではないもの、とか、そういう区分があるから”遊び”を意識してしまうが、元来はそうではなかったようだ。
元来備わっているものだから人間にとって不可欠なものに違いない、というのはショートカットしすぎだろうが、遊びがないと調子が崩れるような気がする。すくなくとも、今の文化的・文明的な社会は、遊びの心がなければ実在していないという気はする(ホイジンガもたぶんそう言っている)。どうにも遊んでしまって、それがエラい壮大なものにまで発展して、実社会におとしこんでしまう、それが人間ということなのだろうか。
過去の読書感想はこちらに載せています。
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(吉田)