参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。14日(月)は2名、16日(水)は4名、19日(土)は9名、20日(日)は10名の参加でした(主催者含む)。
3月14日:読みたい本を気ままに読む読書会
よしだ『14歳からの哲学』池田晶子著
今日は「考える」の章を読みました。多分に解釈も交えて感想を書いてみます。
「思う」と「悩む」と「考える」の比較がされながら「考える」について書かれていたような気がします。たとえば「人生は素晴らしいか」という問いがあったとき、「素晴らしいと”思う”」と「素晴らしいと”考える”」では、背景にあるこころの行為が異なるように思います。”思う”は既に自分のなかにあるものを言葉として発することで、”考える”はその場で作り上げたものを言葉で発することなのではないかとイメージします。だからその場にいる誰かと一緒に問いに答えていこうとするならば、”思う”ではなく”考える”が必然的に選択されるはずです。”思う”では互いに思っていることをただぶつけ合うだけになってしまう。”考える”であれば、お互いに発見があって別の新しい答えが見つかるかもしれません。(いや、でも”思う”はまだ固まっていない思考で、”考える”はある程度固まった思考という違いのような気もします。まだまだ考えが足りないようです。)
”悩む”と”考える”の違いは、まだ分かっていません。でも考える力がある人が「悩むことと考えることは違う」と言っているのを何度か見かけたことがあります。著者の池田晶子さんもそうおっしゃっていました。悩むとは考えが行き詰まることを言うのでしょうか。この違いはもっと考えていくことが必要だと感じています。というか考えたい。なぜなら考えることがもっとできるようになれば悩むことも少なくなり、問題を見つけてもおもしろそうと思えることが増えるように思うからです。悩まずに考えるためには、問いの立て方が重要なのではないかと感じていますが、同時に知識の幅や深さも必要なのではないかとも感じています。なんだか、だから本を読んでいるような気がしてきました。
3月16日:読みたい本を気ままに読む読書会
よしだ『いつも「時間がない」あなたに』センディル・ムッライナタン、エルダー・シャフィール著/大田直子訳
「時間がない」と定期的に思ってしまう習慣(?)があるので読んでみることにしました。時間がないという焦りは、じっくり考えたり作ったりする活動を阻害し、生産性を下げるのではないかと感じています。でも、期限がないと延〜び〜て〜しまうし、適当でも何かを出すことで始まることもあるから難しい。。
さて、今回は序章を読みました。この本の副題は「欠乏の行動経済学」です。欠乏について書かれていました。
ある実験で被験者を飢餓状態にします。そして、1/30秒という短い時間だけ「TAKE」「RAKE」といった文字を表示させ答えてもらいます。結果は、満腹状態の人と飢餓状態の人とでは結果に違いは出ません。しかし表示する文字を「CAKE(ケーキ)」などという食べ物の文字にすると飢餓状態の人の方が正確に答えられたのです。食べ物に飢えているから、食べ物に関わるものに注意が働いていたためと考えられます。
飢餓状態の被験者は早くこの実験を終えたいと思っていたと言います。それは、お腹がすいて仕方がないからという理由だけではなく、心が全て食べ物に占拠されてしまうから。「CAKE」をより正確に答えられたように、心のなかは常に食べ物のことでいっぱいになってしまい、他のことを考えられなくなってしまっていたのです。
「時間がない」と思っているとき私は何に欠乏しているのか、考えながら読み進めたいと思っています。時間そのものではないような気がしています。
3月19日:読みたい本を気ままに読む読書会
つやまさん『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』東畑 開人
この20年ほどの間に私たちが生きる社会は大きな変化を遂げ、家族や会社などの共同体が解体されていく中で、私たちは自由になると同時に孤独にもなった。皆で安全な「大船」に相乗りして生きていくような時代は終わり、一人ひとりがリスクと責任を負って自分の「小舟」で航海せざるを得なくなった。それぞれが自分に合った生き方を模索していくことが求められる時代に、心の悩みを扱うカウンセリングの現場では、誰もに共通する解決策を与えてくれる「心の処方箋」だけではなく、複雑で個別的な問題の見通しを良くすることで解決への手がかりになるような「心の補助線」が求められる。本書では、(架空の)クライアントの物語を交えながら、現代社会をサバイバルする手助けとなる7つの「補助線」が紹介されている。
今回は「働くことと愛すること」という章を読んだ。フロイトは「大人」の条件を聞かれて、働くことと愛することができることであると答えたという。「働く」ことは他者に貢献できる何かを「する」こと、「愛する」ことは他者を信頼してただ一緒に「居る」ことだと言い換えることができる。「働く」と「愛する」が独立した営みとして存在し、バランスよく支え合う関係が人間には必要である。しかし経済性や合理性が重視され自己責任が求められる現代社会では、容易に「愛する」ことが「働く」ことに侵食されてしまうという。
例として、重度の不眠症を訴えるクライアントの話が紹介されている。彼女は誰もが好感を抱かずにはいられないような感じのよい女性で、職業面でもとても有能で外資系コンサル企業で順調にキャリアを築いていた。不眠さえ解消されればすべてが上手くいくはずだと訴える彼女だが、著者はその心の奥底に強い不安があり、それを抑え込むためにあらゆる不確定要素をコントロールしようと過剰な努力をしていることを見抜く。父親が極度の学歴主義者だったため、彼女は幼い頃から勉強で成果を出し続けなければ家庭に居場所がなくなるというプレッシャーに晒されながら育ち、処世術としてあらゆることに綿密な計画を立てて確実に遂行する習慣を身につけた。それは学業や仕事で成功を収めるのに役立ったが、他者との利害を越えた信頼関係を築くことを困難にし、遂には眠りという何かを「する」ことを放棄している状態を拒絶するまでに至らしめてしまった。これが彼女の不眠症の真相であった。
ここまで極端ではないけれど、楽しければいいはずの趣味をしながら「何の役に立つのか」という思いがよぎってしまったり、人間性が一番大事なはずのプライベートな人間関係や自己への評価に社会的な評価基準が入り込みそうになったりと、「する」と「いる」の境界線がぼやけている自分に気づくことがある。いつから、何がきっかけなのかわからないまま、知らず知らずそうなってしまうのが、現代社会に身を置くことの怖ろしさだと思う。ただサバイバルするだけではなく、人間らしくサバイバルするために、この本に書かれている「補助線」はとても頼りになるのではないかと思う。
小澤さん『奇書の世界史2』
「奇書の世界史2」は「奇書」といわれるものを解説している本です。
ここでいう奇書とは、有名な日本三大奇書のようなものではなく(ドグラ・マグラなど)、歴史的な観点から奇書となっていったものを紹介しています。
本日読んだところは「ノストラダムスの大予言」でした。
少し今までの奇書と毛色は違いましたが、予言をこじづけする際にいろいろ考えるんだなと感心します。解釈は個人的には荒唐無稽に感じますが、新型コロナウイルスも予言していたといった説明もあります。
ただ、こういった予言などが流行するのはおそらく現代でも共通していて、人が人である以上、どうしても誰かのせいにしたり、すがったりする傾向があるなと感じました。(おそらくAIに類したオカルトとか)21世紀型の予言の書が出てきてもおかしくないなと感じます。
おおはらさん『それをお金で買いますか 市場主義の限界』
この本に興味を持ったのは、「売買されるべきものと、非市場的価値によって律せられるべきものを区別するには、どうすればいいか」(書籍より引用)ということを考えたいと思ったからです。臓器売買、生命保険、命名権など多くの事例が紹介され、金銭で売買されることと、それによって失われる可能性があるものについての提示がされています。それぞれの事例についての感じ方は人それぞれだと思いますが、「これは特に道徳的倫理が問われる要素はないのでは?」と思うものもあります。著者の考察を読み進めるうちに、新たな見方で事柄に向き合うことになりました。
売買されるべきものと、そうでないものを区別することは非常に難しいことで、またそれが本当に必要なのかどうかは、議論の分かれるところだと思います。私自身も答えは見つかりません。私としては、自分なりの価値基準というのを持ちながら生活していきたいということを考えています。
3月20日:読書のもやもやを話して考える時間
今回のテーマは、「考えることと悩むことは何が違うのか?」でした。
おおにしさん
対話しながら自分の認識がどんどん書き換わった感じがします。
最初私は、悩みというのは選択することのしんどさ、選択した結果が自分の責任として降りかかる辛さのようなイメージで話を始めましたが、考えることとの対比、動物と人との比較、悩む・考えるの語源についての考察などいろいろな意見が活発に交わされるなかで、悩むことと・考えることについてのわたしの認識が大きく揺らいでしまいました。
会が終了した今も、とてももやもやした状態が続いていますが、このように言葉に出来ずにもやもやした状態が「悩む」ということに繋がっているような気がします。
問いを立て、自分の言葉で答えを見つけ出すプロセスが「考える」ということであり、言葉にできずに苦しでいる状態が「悩む」ことなのかもしれません。(暫定的な私の定義です)
池田晶子さんは哲学者としての自分の言葉をしっかりもっていた方ですので、「悩むのは考えが足りないから」と言いきれたのでしょう。一方でヴィトゲンシュタインが「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言ったように、世界のすべてを言葉で語れることは決してないと私は思います。
とても良いテーマだったのでいずれまた議論してみたいです。
としさん
いつもと違うパターンで、皆さんの意見が聞けて、とても興味深い会でした。
それぞれ考えていることが違い、近づくけどまた遠ざかるような、意見を例えると波にも似ていて、理解している間に次の話題に移っていました。メモしたのでもう少し考えて(悩んで)みます。
私が言葉で悩むときは、英語で理解するのですが、皆さんが集まると英語、ラテン語、ドイツ語、古語と、沢山の解釈が出てきて、これもまた人が集まる醍醐味だなと感じました。
私は、悩むってとても大切だと思ってたので、最後になるにつれ、悩みが悪いことのような流れになって少し残念に感じました。ですが、自分が思う反対の意見を聞くのが面白かったです。新しい主観を見つけました。でもきっと、やはり私はこれからも悩んでいくんだと思います。いつも有難うございます^^
Soi Tomsonさん
考えることと悩むことは何が違うのかについて思いを巡らしてみた。
様々な意見を聞き、知り、命題について深く考える良い機会だった。
しかし、悩む、考えるということのとらえ方は個人個人の主観的なとらえ方があるのだと感じた。
良い機会なので、語源について調べたところ
”悩む”は「ナユ/萎える」と「病む」の合成語という説があるらしい。身体に影響が及ぶくらい苦しい状態からきた言葉なのだろうか。読書会の中でWorryの語源も「窒息させる」からきたという意見があった。悩むという漢字からからみても「心」「凶+ひよめき」から成り立つ。
一方、”考える”は「かむがふ」からきており、「か(処/彼方)」と「むかふ(向かう/対ふ)」に分けられる。つまり「ことや先のことと向き合う」⇒「調べて/占って判断を下す(おおにしさんスゴイ!)」
という説があるそうです。
個人的には考えるの語源の方がポジティブで勇気ある行為だと感じ、悩むはどちらかというと心が深みにあるようなイメージを持った。
悩む、考えると同じ範疇にある言葉で”思う”、”想う”も浮かんできた。個人的には思い悩むという言葉もあるので悩む寄りなのかなあという印象を持った。
このようにアイデアをシェアしたり、時間をかけて思い・考えを巡らせることができるのも恵まれた環境にあるからであり、平和であるという状況に守られているからだと思います。
読書会の中でも言及されていましたが、このような限られた空間、グループの中で時事問題の話題に触れるだけでも何かのきっかけにつながるのではないでしょうか。
今回もありがとうございました。
よしだ
今回は私が出したもやもやを(自分で)採用させていただきました。
考える人・池田晶子さんが「考えると悩むは違う」「悩むのは考えが足りないから」とおっしゃっていたのを観たことがきっかけです。悩むことがなくなったらどんなにいいだろうと思って出させていただきました。しかしそんなに安易なものでもないように今回の時間では思いました。
答えが出ないような問題だから悩む、そういうときは悩み続けるしかない。悩んだ末に直観が生まれるのではないか。悩むことの打開策は考えることだけではなく行動することもあるのではないかという考えが示される一方で、行動を阻むことそのものが悩みであるという考えも示される。ほかにももっといろいろな”考え”が示されました。私はこの時間は悩んでいたのではなく考えていたと確かに言えるのではないかと思いました。
会の後の雑談の時間で、言葉にできないことに対して悩むのではないかという考えが示されました。語りえぬものはあるのだけれど、それを語り尽くしていると言えるのか、という格言(?)の紹介も。考えるとは言葉にしていくことそのものを言うのか、いや少なくとも言葉にしている間は悩んでいるのではなく考えていると言えるのではないかと今回思いました。しかし悩むことなしに考えることができるのか、悩む過程のない考えはやさしさに欠けるものになってしまうのではないかとも思います。悩むことと考えることは、それぞれに役割があるような気もしてきました。でもそこらへんはまだ分かりません。
過去の読書感想はこちらに載せています。
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