参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。25日(月)は4名、27日(水)は6名、30日(土)は11名、1日(日)は8名、3日(火)は10名の参加でした(主催者含む)。
日曜日の「質問「 」について考える時間。」の質問は、
今日までいくつの矢印に出会いましたか
(田中未知著『質問』(文藝春秋))
でした。
4月25日:読みたい本を気ままに読む読書会
Soi Tomsonさん『宗教と道徳』 梅原 猛 著
哲学者であった梅原 猛のエッセイ集
2000年前後の著者の身のまわりで起きた事、時事的な出来事など幅広いテーマで綴られている。2000年当時のプロ野球、セリーグの監督であった長嶋茂雄を性善説の人、野村克也を性悪説の持ち主と言い放つ。性甚だ善な長嶋監督は相手を騙すという狡猾というの精神が欠如しており監督として適任ではないという。
また横山ノック前大阪府知事の強制わいせつ事件裁判に触れながら、人間の恨みは歴史的に伝承されると説く。(上方人の徳川に対する長年の恨みがノック氏の当選へと導いたらしい)
またある日は新作狂言「ムツゴロウ」の執筆について…etc
感想:学生時代に彼の書物を読み違う惑星に住む人だという印象を得たが、(自分の未熟さと不勉強が原因)今回のエッセイで随分近くに感じられた。ほかの作品も今では読破できるか再チャレンジしてみたいと思う。
読書会全体の感想:一人の人間に生じる心理的葛藤を臨床心理士が”馬とジョッキー”にたとえつつクライアントにとってより良い解決に導く話に大変感動しました。面倒だったり負担だと感じ、視野が狭くなってしまった状態で相談することなしに逃げてしまうことをしがちな人間が、ほかの方法もあるんだと補助線を使いながら新たな解決策を模索する経験はそのクライアントにとってのその後の人生に大きく影響したのではないでしょうか。
右に左にさまよいながら生きる中で、Updateできる場である読書会。いつもありがとうございます。またよろしくお願いいたします。
おおにしさん『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』
本書は臨床心理士東畑開人さんが書いた”読むセラピー”本です。
人生の中で迷子になってしまう時期、それを”夜の航海”とユングは呼びました。
そんな時は、舟の行き先をしっかり示してくれる処方箋が必要です。
自己啓発本や人生論などは処方箋になりますが、どうしても自分へのアドバイスが見つからない場合に役に立つのは”心の補助線”です。
悩んでいる心の混沌とした状態を整理するために、心に補助線を引くのです。
最初に登場するのは、転職するかしないかで悩むクライアントのタツヤさんです。
ある日のカウンセリングでタツヤさんは、「もうこれ以上悩む時間はもったいないので、会社を辞めて独立することしました」と突然言いました。
東畑さんは急なタツヤさんの変化に驚き、ここでタツヤさんの心に補助線を引いて、馬とジョッキーを登場させました。会社を辞めて独立しようとする暴走馬と、振り落とされないと手綱を握るジョッキーが今のタツヤさんの心の状態だと告げます。
そして、馬の声を聴くようにアドバイスします。実はタツヤさんの馬は傷ついていたために暴走していたのでした。この後タツヤさんは会社を辞めずに、独立の準備を進めることになったそうです。
こんな感じで、心の補助線をつかったセラピーの実例がいくつか登場します。
現在の私は夜の航海にでるほどの状況ではありませんが、今後人生の迷子になりそうになったときヒントを与えてくれる本だと思います。
周りで悩みを抱えている人がいたらせひ紹介したい本です。
よしだ『はてしない物語(下)』ミヒャエル・エンデ著/上田真而子・佐藤真理子訳
現実世界でいまいち学校になじめていなかった主人公が、ファンタジーの世界に飛び込む物語です。ファンタジーの世界で主人公は自分が望むものをなんでも叶えることができるお守りを得て、力をもっていきます。
お守りを手にしてファンタジーの世界を冒険することは、きっと主人公にとってリアルに匹敵する経験となっています。しかし一方で現実に帰ることを避けてしまいます。そして力を奮ってファンタジーの世界の帝王になることを目指します。それは力をもった全ての人が目指す道であるとされ、それを目指した帝王は決まってこころを廃していくのだと描かれていました。帝王となった者は過去の記憶を失い、それゆえに未来へ向かうことができないということのようです。エンデの描写は相変わらず刺激強めです。。
主人公はすんでのところで帝王になることができずに済み、こころを廃した元帝王たちを目の当たりにしてその道を引き返します。でもその道中でさまざまな問いにぶつかっていきます。まだその道中の途中のところですがきっと、自分が本当に望むものは何なのか、自分は何者なのかといった問いです。
お守りをつかって望みを叶えるごとに記憶を失っていくという設定になっているのですが、それはどういうことなのでしょうか。あまりにも外的で非連続的な変化があると自分でもついていけなくなり、望みが叶った今に記憶が一気に塗り替えられるということでしょうか。それとも苦々しかった過去を忘れ去りたいという無意識的な欲求を描いているのでしょうか。そうした自分を伴わない人生では、自分で未来に向かうことができなくなっていってしまうということなのかもしれません。自分の人生には自分でしっかりと向き合いなさいとエンデは言っているのでしょうか。いろんな問いが生まれ思考が巡る本だと思いました。
4月27日:読みたい本を気ままに読む読書会
yuさん『赤い魚の夫婦』
「菌類」を読みました。メキシコの女性作家の短編です。音楽家の主人公の日常、いや体に菌が!菌を通しての人間の考察や心の動きの表現が事細かに書かれていました。
他の方がよまれていた本で「文学は糠漬けのようなものだ」が印象に残りました。
4月30日:読みたい本を気ままに読む読書会
yuさん『三人姉妹』
チェーホフの戯曲です。物語は変化なく人々が長々と話をしています。
人々は好き勝手なことを饒舌に話しているがなんだか噛み合っていないみたいです。
ワー二ャ伯父さんでも出てきましたが、「今でこそあなた方は少数かもしれないが、やがてそれが人々に良い影響を与え、200年度、300年後には素晴らしい世界が訪れるでしょう」とあり急に先の時代の人々に思いを馳せる所があり、これは何を意味しているのだろうかと思いました。
今永さん『もういちどベートーベン』
色んな方のお話を聞けて楽しかったです。
Takashiさん『語りえぬものを語る』野矢茂樹著 講談社学術文庫
今日は「以下同様」について書かれた章を読んだ。いくら具体例を挙げても「以下同様」を厳密に決めることは難しいらしく、人によって多少の誤解(ずれ)が生じる。大事なのはその誤解を認め合い、誤解を修正するために話し合うことだそうだ。
でも実際は、自分は正義で相手が悪の方が気持ち良いし、話し合うのは疲れるし、忙しくて時間ないし、早く誰か決めろよなって思う。多分そう思うのは良くないことだろうけれど。
よしだ『はてしない物語(下)』ミヒャエル・エンデ著/上田真而子・佐藤真理子訳
今日で最後まで読み終わりました。さまざまなシーンが出てきてまだ全然解釈することができないのですが、きっとそれぞれに想像や思考を膨らませられるような気がします。僕はこの本を哲学書を読むような感覚で読んでいました。
訳者あとがきのところに書かれていたのですが、東京で開催された基調講演でエンデは「無目的の遊び、これが現代に最も欠けているもの。」と言っていたのだそうです。
エンデの他の作品『モモ』では「時間」をテーマにしていました。時計で区切られたようなきっちりとした時間、たとえば期日や計画といったものは無目的な遊びと相性が良くないように思います。時間を気にしていては遊びに没入できない、遊びは無計画に広がっていくのに時間で強制的に打ち切られる。そう考えてみると今の大人的な世界と子ども的な世界は合わさることが少し難しいのだろうなとも思ったりしました。
『はてしない物語』は少年がファンタジーのなかに入り込み冒険をしていく物語ですが、”あっち”の世界で経験したことが現実の世界に持ち帰られています。これは私たちの世界でも起きていることのように思いました。旅行の体験が元の世界の見つめ直しになったり、本を読みながら思索したことを現実で試してみようと思えたり。現実を生きることと現実を離れることととは少し不思議な感じですが密接に関わり合っているような気がします。無目的な遊びがとても大切なことのように思えてきました。
5月1日:テーマのある読書会「会うこと」
yuさん『緑の天幕』
リュドミラ・ウリツカヤのはロシアで最も活躍する人気作家らしいです。読むのは初めてです。709pで辞書みたいに分厚いなと思いました。ソヴィエトからロシアへ。この国で人々は何を愛し、どう生きたのかが描かれているそうで、6人の男女の生まれた時から老年に至るまでが描かれています。今大学生くらいのところを読んでいます。不穏な空気が立ち込めてきました。
よしだ『手の倫理』伊藤亜紗著
触れることは会わないとできないのでテーマ「会うこと」の読書会では触れることをキーワードに読書をしていました。といっても相手に物理的に触れるって相当な仲の人でないとできないのですが。
今日読んだところでは、著者の考えを述べていく前段として西洋哲学における触覚の位置づけが紹介されていました。あまり違和感がないことかもしれませんが、西洋哲学では触覚は下位の感覚として扱われていたそうです。上位は視覚と聴覚で、下位は触覚と嗅覚と味覚です。僕はいつも目だけに頼るのはどうかと思いつつ、「ものの見方を変えてみる」などと認識全般に関して「見る」という視覚的な言葉を伴わせてしまいます。かといって他に適した言葉も見つけられない。視覚とはなんとおおきな感覚なのだろうといつも感じています。
でも博物館などに行けば触れてはいけないものに反射的に触れたくなってしまいます。目で見るだけでは物足りない。実際に触れてみてその存在を確認したいのです。さすがに匂いを嗅いだり舐めたりはしないけど…。
目や耳は最初にものの存在を捉えるものなのかもしれません。でもどうしてもその後に手で触れたり、口に入れたり、鼻を近づけてみたくなる。そうやっていくつもの知覚を駆使して存在を確かに感じ、経験として自分のなかに蓄積しているように思いました。
5月3日:読みたい本を気ままに読む読書会
Soi Tomsonさん『宗教と道徳』梅原 猛 著
〈本の感想〉
哲学者、宗教学者、シナリオライターなど様々な顔を持つ著者のエッセイ集。
今回は埼玉県にある「ものつくり大学」設立をめぐって、様々な困難や著者の日本人の”ものづくり文化”に対する強い思いについて知ることができた。大学の名称に大和言葉を採用するというこだわりの理由も興味深かった。
〈読書会の感想〉
最近気になることの話題として、「教育と洗脳」が提案された。
自分はこれまで教育とは良いものから悪いものまでとしてのイメージを持っていたが、一方で洗脳という言葉には悪いイメージをのみを持っていることに気づいた。それも幼いころに洗脳のようなものを家族が体験したこと、また宗教に関わる社会事件などでも度々洗脳というキーワードが使われていたために”恐怖”というイメージを持つことになったと考える。
教育も洗脳もそれぞれの国家、集団において、長期間にわたる洗脳なのだとしたら、洗脳もある意味良い面、悪い面があるのではないか。
つまり教育、洗脳どちらも肯定的な側面をもち一方で危うさも含んでいる。
どのような主義、思想が有意義なのか否か、どのような世界でまたどのように生きたいのか。長い時間かけて洗脳された自分の脳にはもう手遅れなのかもしれないが、この読書会のような貴重な機会を通して自分を俯瞰して考える作業を続けられたらと思う。
物事を善悪でとらえるとしたら森羅万象はFair is foul, foul is fairということか。
今回もありがとうございました。
えりかさん『そして誰もいなくなった』
・何が正しいとか正しくないとか本当はその行動自体にはなくて、罪ってなんなんだろう、って考えてしまった。
・殺人とか命を奪うまではいかなくても、自分の態度や行動が誰かの心を傷つけたり、逆に傷つけられたりすることは無数にあって、それをいちいち立ち止まってうーん、って考えてると生活が立ち行かなくなるから見ないふりするようになって、どんどん感情の機微に鈍感になってくふしはあるなと思った。
よしだ『群衆心理』ギュスターヴ・ル・ボン著/桜井成夫訳
個人を尊重しながら生きるとはどういうことなのか、みたいなことを思い読み始めました。自分で考えることや個人で意思決定をすることなど、「個」としての存在感を強めることがなんとなく時代の流れかなと感じていますが、それは同時に不安を生み出しやすいと思います。外部からの強烈な思想が付け入る隙がその不安にあるのではないか、などと。
本当はハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読みたいと思ったのですが、5000円×3冊で手が出ず…。ひとまず手に入れやすい集団心理や社会心理などの本を読み進めたいと思っています。
集団を重んじすぎると個人としては窮屈だったり、気が付いたら決める人やしっかりと考える人がいなくなっていたりとさまざまな弊害があるのだと思います。その一方で「個」を求めすぎると不安が生じたり責任に対するストレスが強くなりすぎたりするように思います。また、「個」として生きるとは自分だけが良ければいいとか、自分の考えと周りの考えとの乖離に目を向けなくていいとか、そういうことでもないはずです。集団と個人とは、どちらをどのように重んじればいいのか、最近の関心ごとはそんなことです。僕はどちらかというと個を重んじるタイプなので、そちらの方向に思い違いを進めないためにもそんなことに関心があります。
過去の読書感想はこちらに載せています。
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