2022.07.01

読書会の読書感想(6/29-7/10)

 参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。6月29日(水)は7名、7月9日(土)は10名、10日(日)は8名の参加でした(主催者含む)。
 土曜日の「質問「   」について考える時間。」の質問は、

想像しないことも歴史のうちですか

田中未知著『質問』(文藝春秋)

でした。歴史に想像を伴わせないことは難しいということに気づきました。

6月29日:読みたい本を気ままに読む読書会

つやまさん『散文散歩』大貫妙子
 ミュージシャンの大貫妙子さんのエッセイです。捉えどころのなさと芯の強さが同居しているような不思議な魅力のある文体で、彼女が作る曲のイメージとも重なります。今回は読んだのは、アフリカのサバンナの真ん中、風の音と心臓の音しか聞こえないような場所に一人で泊まったときのことを書いた『星の話』。気絶するほど沢山の美しい星を眺めて眠りについたあと、深夜恐怖にうなされて目を覚ます。その時に感じたのは、声も思いも誰にも届かないという想像を越えた孤独。宇宙の無限や永遠がもたらす根元的な恐怖。思い出すと、胸の中で鉛のようなものが動く感じがするという。こういう話を読んだ後では、曲を聴いたときにも少し違って聴こえるような気がします。

ようこうさん『表象と批評 映画 アニメーション マンガ』
 
詩を読むのは脳力ではなくて、体力が要するという点はとりわけ印象的です。詩を読むというのは凡庸な日常との戦いだと感じる。今後は詩集をもっと読みたいと思います。

よしだ『プルーストとイカ』メアリアン・ウルフ著/小松淳子訳
 今回は人間が文字を扱い始めた頃、その時の文字について、みたいなところを読みました。およそ紀元前3000〜2000年頃のことです。
 鳥や家などをかたどった象形文字や、YやVみたいな形をした楔形文字、あるいは縄の結び目の位置を変えて表現した文字など、さまざまありました。文字とは記号でありルールなのだと思います。でもそういう無機質なもので日常に起きるさまざまな出来事や自然界にあるさまざまなものを表現しようとするのです。ただその一方で文字が複雑すぎると扱える人が限られてしまう。複雑なものを表せるのだけどなるべくシンプルに。文字とはとても長い開発の上に今の姿があるのだと思い知らされました。
 ところで、鳥や家といった漢字は象形文字的で、その形がそのものを表現しています。他方で、英語などは象形文字的ではないと思います。言語によって、どのようにしてそのものを想起させるか、覚えやすく読みやすくするのかの工夫が違うのだと思います。どの言語を使うかによって脳の構造が変わっていきそうだなと思ったりもしました。

7月9日:読みたい本を気ままに読む読書会

ばたこさん『ヤンキーと地元』
知らない外国語の文法書を手に入れ、「彼らが言ってたアレは、ああそういうことだったのか!」といろいろ腑に落ちる感じで読み進める。そうしながら、「彼ら」を他者として対岸に突き放すような立ち位置に、自分の傲慢さ、居心地の悪さを覚える。

「社会からドロップアウトした人たち」という先入観を持っていたことに気づかされる。むしろ彼らは地域社会、地域経済の主要な担い手である。うっかり彼ら(全員ではないが例えば違法な暴走行為、暴力、それらによる逮捕勾留や受刑の経験を持つ人)を疎外して想定する「シャカイ」とは一体何なのか。それは私自身にとって住みやすい場所なんだろうか。

私自身は「地元」のいわゆるマイルドヤンキーなコミュニティに全く馴染めずに地元を離れて暮らしている。好きか嫌いかでいえば、この本で分析されるようなコミュニティの構造は、正直あまり好きではない。かといって、彼らを疎外する「シャカイ」にも、私の居場所はないんだと思う。

基本的にはクスリと笑わされる場面がたくさんある面白い本である。でも随所に後味の悪さや、自分の小ささやつまらなさに直面させられる居心地の悪さを覚える。それらも否認せず、読み進めたい。

***

ル・コルビュジエ、ハンナ・アーレント、中上健次、オープンダイアローグと、「ヤンキーと地元」読書の問題意識を携えて次に読みたいと思う本やテーマがつながっていくことが、面白いと思いました。読書会またぜひ参加したいと思います。

Takashiさん「ヤンキー社会のハンナ・アレント的解釈」(読んだ本は『人間の条件』です)
 今回は「ヤンキーと地元」という本を紹介された方がいて、私の読んだ「人間の条件」とつなげたら面白いなと思いながらお話を聞いていました。

 ハンナ・アレントは労働・仕事・活動の三側面のうち、活動こそが人間が人間たる所以であると言っています。活動とは、言論と行為を公的に明らかにすることであり、自らの人間性を暴露することだそうです。そして暴露された人間性を認めることが人間の尊厳を認めることにつながると言います。

 一方で、暴力で他人から食料や生活物資を搾取することもあります。しかし仮にその暴力が言論と行為を公的に明らかにしない状態で行われているとすれば、人間じゃなくても(動物でも)可能です。

 さて、ヤンキーといえば搾取のために暴力を行使する人達を連想しますが、それはヤンキー社会において本質ではありません。喧嘩は言語の一部分に過ぎません。彼等の強固な団結とヒエラルキーは個々人の「活動」による成果であり、少なくとも彼等の社会においては、活動の過程を通じて人間性の暴露と周囲の認知が十分に為されている結果だと思います。

 「活動」による集団形成は、ヤンキーだけでなく町内会や勤め先でも同じことだと思います。集団に加わる為にはとにかく臆せず隠れず、自らの人間性の暴露を恐れず、他人の暴露を受け止め、言葉と行動によって対話することが必要なのだと思いました。

 蛇足ですがもう一つ。ヤンキー社会と宗教は必ず派手な伝説を持っているというイメージがあります。この考察はまた別のところで。

よしだ『プルーストとイカ』メアリアン・ウルフ著/小松淳子訳
 今回は文字について書かれているところを読みました。

 世界には、文字よりも先に話し言葉がありました。文字とは話したことを記録するための記号として開発されたのだと思います(たぶん)。でも今は動画や音声を記録して保存していつでもどこでも聞くことができます。となると、文字はだんだんといらなくなるのではないか、ということも考えられます。いやそれよりも、記録するという大きな役目を他のものに代替されようとしているときだからこそ、文字の本質を考えることができるように思います。本とは関係なくそんなことを考えていました。

 いくつか思い浮かべていましたが、そのうちのひとつは、思考するときに使うワークスペースの量や質に文字は寄与しているのではないかということでした。

 人の話を聴くときや自分の頭の中で考えるとき、言葉を置きながら想像したり考えたりします。その言葉を置くところをワークスペース(作業机)というのだと思います。しかし話や思考がどんどんと重なっていくと、どこかでワークスペースに置ききれなくなります。そのときに文字をつかってまとめたり、その文字同士を矢印でつなげたりする。自分がもっているワークスペースだけでは足りなくなったとき文字を紙などに書き出すことでそれが拡張されます。

 ただ、文字はこのような図的な思考に使われるだけではありません。文章的な思考にも役立ちます。つまり、文章的な思考は話し言葉でも文字でもできますが、話すことと書くことは違うのではないかということです。いつも感じることですが、文章を文字で書こうとすると論理のほつれや考えのあいまいさに気づきます。これは文字がもつなんらかの力なのか、モノとして自分の外に現すことで冷静に客観視できるからなのか、なんなのかはわかりません。でも話すときとは違う。話すときも文章的な思考はしていますが、そのまま流れていくので、気づくことが少ないような気がしています。なので、少なくとも私にとっては文字を使って書き出すことは思考の精度を上げてくれることを意味します。ただし、識字や書記が苦手なディスレクシアの人が研究や芸術などにおいて偉大な成果を上げているので、私とは全く異なる特性をもった人も一方ではいるのだと思います。疑問は深まるばかりです。

7月10日:読みたい本を気ままに読む読書会

けいこさん『うつ病九段』
 わたし自身、常に睡眠障害があり気分が落ち込むことも多く、うつ病に近い状態かもしれないと思うこともあるのですが、この本を読んで入院が必要なほどのうつ病というのは次元がまったくちがうということをあらためて認識させられました。うつ病は回復の見極めが難しいそうですが、先崎さんは棋士であるため、将棋が出来るようになることが目安になったという話が印象に残りました。ちょうど入院中は藤井総太さんが活躍し始めて将棋がブームになった時期で、しかしそれをまったく知らず、あとから聞いて驚いたそうです。感想のシェアの時間に、うつ病の対処法として投薬のほかに最近はオープン・ダイアローグも有効というエビデンスが出てきているという話があり、病の原因が複雑に絡み合っているので何が効くのかというのも状況や人によってかなり変わってくるのだろうと思いました。脳の病なのかこころの病なのか、そもそも脳とこころはちがうのか、いろいろと考えさせられます。

西野さん『黄金虫変奏曲』
 私が読んだのは上記の本ですが、別の方が紹介した「対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得」に興味をひかれました。オープンダイアローグについては今回の感想の時間にも別個に話題になりました。読んでみようと思います。(私は一方的に話す傾向があるので、自戒のためにも)

yuさん『パッセンジャー』
 作者はアメリカの女性作家。パッセンジャーはすべてが伏線の翻訳ミステリー小説らしい。階段から落ちた夫の死体を見て、自分がやってないのに逃亡、なんで疑われることをわざわざ?
 二段組のレイアウトは『監獄の誕生』ぶり。翻訳は読みやすいし次どうなるのか気になります。

よしだ『デカルトの誤り』アントニオ・R・ダマシオ著/田中三彦訳
 今日もいろいろな話が出ましたが、どこまで要素還元していいのかというその難しさに私自身は関心が落ち着きました。鉛筆の芯もダイヤモンドも、ものすごく精度のいい顕微鏡で見ると炭素:Cです。でも顕微鏡から目を離してそれそのものを見ると、色も硬さも美しさも何もかもが違います。

 私はよく脳の本も読みますが、気になるのは、「この行為をするとき脳のこの部分が活性化」するという指摘がされることです。それにもとづいて、行為と脳の箇所が紐づけられて語られることがあるように感じるのですが、それで脳がその行為を生み出しているとは言えないのではないかと思います。脳は確かに身体のあらゆる情報が集まる場所だとは思っているので、なにかしらの行為に応じて活性化はするでしょう。しかしだからといって脳が基点であるとは言えないはずです。脳に多くの原因を求めることに僕はまだ懐疑的です。

 『デカルトの誤り』は思考や判断といった理性的なこころ(あえてのこころ)の働きに感情や身体がどう関与しているのかということが書かれていると思って読んでいます。今日読んで印象的だったのは「間断なく更新されていくわれわれの身体の構造と状態をじかに見渡せる窓をとおしてわれわれが見るもの、それが私の考える感情の本質である」[P25]という著者の考えです。なかなか難しい言い回しなのですが、今の私の理解では感覚器や内臓などを含めた身体全体の信号が感情として表現されるということだと思います。そしてその感情が思考や意思決定などに寄与します。

 感情が身体の反応や表現なのだとしたら、身体は周りの環境に影響を受けているはずなので、思考や判断も環境とともにつくられているはずです。信号の流れが、環境→身体(感情)→脳だとすると、脳で行われていると考えているものは、環境や身体とともに行われていると考えた方が妥当なように今のところは思っています。


過去の読書感想はこちらに載せています。

読書会参加者に投稿いただいた読書の感想です(2024年10月-)。

 

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