参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。7月22日(金)は11名、23日(土)は9名、24日(日)は10名の参加でした(主催者含む)。
土曜日の「質問「 」について考える時間。」の質問は、
十五分間動かずにいられますか
(田中未知著『質問』(文藝春秋))
でした。座禅の話からはじまり、あれは動いていないようで動いているとか、ふと動きがまったく止まることがあるとかいう話になったりしました。
7月22日:読みたい本を気ままに読む読書会
yuさん『暗号と象徴』
ナボコフ全短編の中の一つです。登場人物は不治の精神錯乱の息子と年老いた両親。
一体幾つなのかなどの説明は一切なく、不吉なことの連続で物事が淡々と進んでいきます。誕生日プレゼントを療養所に持参するのですが・・・。表現がどうしてこんな表現を思いつくのかっていうくらい言葉の組み合わせがすごいなと思います。
他の方の紹介本の連想で別の方が紹介から連想した本の紹介をしてくださったのが面白かったです。音楽療法の話から、三島由紀夫「音楽」など。
7月23日:読みたい本を気ままに読む読書会
原タカシさん『記号論への招待』(池上嘉彦)
<記号論を論じることはできるのか>、このような問題意識で、『記号論への招待』(池上嘉彦)をピックアップしました。『ソシュール 一般言語学講義』 の入門書としても最適とも聞いていました。
①「Iことばの再発見 ―言語から記号へー」(pp.1~34)を読んだ範囲では、「記号論を論じることはできるが、それが自家撞着ではないのか」という感想をもちました。
人間は「記号を使う動物」(pp.9~10)。その人間が、人間が記号を使う有様(ありよう)について、記号(=言葉)で以て論じる、そのようなイメージをもったからです。
②話しは飛びますが、人間である文化人類学者が「人間とは何か」を探求することにも似ている、と言えます。仮に、地球外生物が地球にやってきて、人間を観察し、インタビューを行って、人間を論じるのであれば、その人間論は、文化人類学者の論稿よりも<客観性>を担保しているのではないか。例えば、日本の文化とは異なる文化圏の文化人類学者(ルース・ベネディクト)の日本人論(『菊と刀』)が優れているように。
③往々にして、<自分のことは自分が一番よく知っている>という思いに駆られることがありますが、それは知的な驕りと反省しています。
小澤さん『メタ倫理学』
本書は、本のタイトルにも書いてある通り、メタ倫理学を取り扱っている。倫理学のメタということでそもそも倫理とは何かという観点から様々な倫理学の考え方を整理している。
倫理学の考え方を大きく二分すると道徳的な事実や性質があるかないかで分かれる。あると考える人は道徳実在論になるし、ないとかんがえると人は道徳非実在論に分かれる。
道徳論のあるなしの中でもいろいろな考え方が本書に記載されているが、非常に長くなるので割愛する。この中でいうと一番自分の考えに近いのは解釈的虚構主義だった。
読書会で今回読んだところは、「準実在論」である。準実在論は道徳的な性質や事実がもつ地位は、純粋な実在ではなく、準実在であると主張する。
準実在論とは、実在する場合と同じ機能を果たしているのであれば、それはほとんど実在しているといっても構わないのではないか、という考え方をしていて、背景としては、投影説という考え方がある。これはヒュームに原型が帰されるもので、価値は世界の側に本当に実在するわけではなく、私たちの価値観の投影によって世界にあるように見えているのだとする考え方からきている。
非常にうまく説明しているように感じるが、本書の中でも2点、指摘されている。
1点目だけ紹介するが、投影されたものはやはり実在とまったく同じ機能を果たすとは言えないのではないか。つまり、正直なところ投影されたものというある種の虚構をそこまで真剣に思えないはずであるという指摘だ。
読書会で感想を話しているときには、上の説明がうまくできなかったが、話をしているなかでメタバースの話が別のところで出てきて、メタバースのたとえが一番しっくりくるなと感じた。つまり、今自分はメタバースの中にいて、非常に精巧な美しい桜を見ているし、感動している。ただ、確かに美しいのだけれども、これがメタバースに過ぎないということも分かっている。果たして、この状態でどこまでメタバースで見た映像に真実さを感じることができるのだろうか、ここでいう準実在論も同じ構造になっている、ということだ。
まだ中盤ではあるが、今後も読み進めたいきたい。
よしだ『プルーストとイカ』メアリアン・ウルフ著/小松淳子訳
ソクラテスは自分で書物を残してはいません。僕は最初、そういうことに無頓着だったり単に興味がないからなのかなと思っていましたが、この本によるとソクラテスは書き言葉を話し言葉より下にみていたからのようです。
ソクラテスはアテナイの街で知識人からそこらへんを歩く一般人にまで、対話を仕掛けていったとされています。何かを問い回答を得てはまた問う、それをひたすら繰り返すことで思考は吟味されていく。ソクラテスはそのような対話による思考の吟味に意味を見出していたのだと思います。
それに対して本などの書記されたものは、何かを問うても当然応答はありません。また、文字で書かれていると何やら正しいように感じて鵜呑みにしてしまう、そんなことも気にしていたようです。ソクラテスの価値観に反することが書くこと・読むことには要素として多く含まれていたということなのだと思います。
しかし僕のなかでは書くことと話すことは違うという感覚があります。書くことによってあいまいな考えであったことに気づいたり、自分でも予想していなかった方向に思考が進んだりします。文字を使うことの意味は何なのか、それを楽しみに読み進めていきたいと思います。
7月24日:読みたい本を気ままに読む読書会
西野さん『ナボコフ全短編』(作品社)から「暗号と象徴」
別の方が紹介した小説ですが、感想を聞いているうちにどうしても読みたくなり、読みました。最初から最後まで言葉の一筋一筋にすぶぬれになるかのように浸ってしまいました。人生とは間違いの集積、つまらないけれどもどうしようもない間違いの集積であることが、宿命なのかもしれません。繰り返しかかってくるただの間違い電話がそうであるように。《…人生とはまさしく喜びをひとつずつ失っていくのを甘受するのに他ならないからで、彼女の場合それは喜びですらない――ましになる可能性にすぎないのである》 たとえば『コンビニ人間』のような小説は、コンビニ的な文学に親しむコンビニ的な日本の私にとてもふさわしいのですが、たまには、その対極にあるようなナボコフの小説を読むのも欠かせないことだと、つくづく思いました。
yuさん『ナボコフ全短編』
金曜日と同じ、暗号と象徴を読みました。
息子の病、不治の精神疾患とは何か。
3回鳴った電話はなんだったのか。
夫婦は幻想を見ていたのか。
元気なリスはなんの象徴なのか。
なぞが深まりました。
原有輝さん『読書のちから』
著者の若松英輔さんは、キリスト教の影響を非常に強く受けた批評家です。キリスト教は言葉を重視するようです。今はコロナ禍で特に、会話もままならなくて、読書や人に魂の糧になるような言葉を求めるが、なかなかそうした言葉を紡ぐのも見つけるのも難しいのかな、と思いました。
ひょっとしたら日々の楽しみの一部は、命や魂を燃やすような気の利いた言葉を、お互いにかけあうことかな、と思いました。
けいこさん『キラキラ共和国』
代書屋(手紙を代筆する仕事)を生業としている鳩子が主人公の「ツバキ文具店」の続編です。「ツバキ文具店」は、奥さんを事故で早くに亡くして、カフェを営みながら小さなお嬢さんと暮らすミツローさんと鳩子が結婚するところで終わるのですが、「キラキラ共和国」は鳩子、ミツローさん、お嬢さんを中心に、代書屋に持ち込まれる仕事やミツローさんの高知の実家への訪問などといったエピソードが展開されていきます。小川糸さんの小説はだいたいそうなのですが、出てくる人物がみんなやさしくて、他者を思いやる気持ちをもっていて、読んでいると心があたたかくなります。読書会のあとで孤独の話が出てきて、わたしも子どもの頃からどうしても拭えない孤独感があるので(もっとも、子どもの頃ははっきり自覚していたわけではありませんでしたが)、こういう理想の人間関係が描かれた小説をある意味ファンタジーのように受け止めていて、現実では手に入らない憧れとして読んでいるところがあるかもしれないと思いました。
よしだ『ヒトの目、驚異の進化』マーク・チャンギージー著/柴田裕之訳
今日は色覚のところを読んで、ヒトが色を区別できるのは肌の色を見分けるためなのではないかという仮説が示されていました。一般的には果物や若葉を見つける、つまり食料を獲得するために色覚が発達したという見方が強いようですが、それに対する違う意見です。肌の色は、体調が悪ければ白くなったり怒れば赤くなったりと感情や健康状態に左右されます。そのような肌の色への敏感さは集団生活の維持に役立ったように想像されます。人間はやっぱり社会をつくることで生きてきたんだなと思ったりしました。
読書会の後の雑談の時間では、日本人の孤独、みたいな話になり興味深かったです。文化背景や社会のあり方によって孤独の質も違うように思えてきて、新しい関心ごととなりました。
過去の読書感想はこちらに載せています。
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(吉田)