2022.10.03

読書会の読書感想(9/28-10/2)

 参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。28日(水)は6名、30日(金)は7名、1日(土)は6名、2日(日)は11名の参加でした(主催者含む)。
 土曜日の「質問「   」について考える時間。」の質問は、

たばこの煙はどこへ行ってしまうのでしょうか

田中未知著『質問』(文藝春秋)

でした。

9月28日:読みたい本を気ままに読む読書会

おおにしさん『統一教会と私』仲正昌樹
著者と私の大学生時代がほぼ重なるので、当時の原理研についての記述がリアルに感じた。
私も原理研の人たちと何度も接触し、彼らのホームにも訪れたこともある。
著者が書いているように、当時の統一教会は組織的にマインドコントロールを行うようなカルト教団ではなく、原理研も統一原理を学ぶ学生グループだったという話には納得できるところがある。

私も統一原理は少し興味を持ったが、著者のように入信しなかったのはなぜか考えてみた。
著者は広島から上京して東大に入学後、大学での自分の目標を見失い、周りの学生が皆優秀そうに見え自信も喪失していた
そんな時に自分の悩みをじっくり聞いてくれた先輩に誘われて原理研に入ったそうだ。
対して、自宅生だった私は地元の友人と大学生活を満喫する毎日で、著者のように悩みを抱えて先輩に相談するという状況ではなかったという点が大きな違いだろう。
他には当時の私は仏教、神道、オカルトなど宗教に幅広く興味があったので、一つの宗教団体に入信する気がなかったこともあると思う。(オウム真理教にも興味があったのは事実)

宗教団体の勧誘に耳を傾ける人の多くは、何か悩みを抱えている人であろう。
宗教団体をすべて否定するつもりはないが、中には統一教会のようなカルト教団が存在するという事実には注意すべきだ。

読書会の中で障がい者マイノリティの話題がでたとき、最近夢中になった韓国ドラマのことを思い出しました。
それはNetflixで配信されている『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』。
自閉症スペクトラム障害をもつ主人公ウ・ヨンウが周りの人たちの暖かい協力のもとで弁護士として成長していく物語です。
他にもハンディキャップを持ったマイノリティが登場し、感動とともにいろいろ考えさせられました。
本でありませんがお勧めのドラマです。

匿名希望さん『信仰』村田紗耶香
 久しぶりに参加できました。皆で司会をシェアしていくやり方とても新鮮でいいなと感じました。参加者さんのうちの一人が紹介してくれた村田さん出演のラジオを聴き、この本を書いた経緯も語っており面白かったです。友達が宗教に入信するのを止めようとする村田さん自身のその手口が、入信させている側のそれと何が違うんだろう、自分の信じているものを正しいとして相手を救おうとするそのやり口は十分卑怯なんじゃないか。そう感じたことが「信仰」を書くきっかけになった旨話していました。私たちは生きてきた経験で認知が出来上がって、その認知でものを見ているから、完全にニュートラルな人はいないんだよなと再認識しました。私は自分の癖のある認知を少しでも広いものにしていきたいと最近切に感じます。自分と対極の人生経験をしてきた人(←その認識も私の経験からの認知に過ぎないけど)からもいろいろなものをもらって頭も心も柔らかくしていきたいです。ここはそんな場所のひとつです。これからもよろしくお願いします。

よしださん『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム著/日高六郎訳
 自由と不安や孤独の狭間でどう生きていくのかという話として読んでいます。ある意味では一つの答えが出たということが書かれているのかもしれません。

 中世の専制的な社会から自由になった人々は、経済活動などを自由に行えるようになりました。しかしその結果、上流層・中流層・下流層といった層に分かれる格差が生まれました。そのなかの中流層に焦点が当てられています。
 下流層は格差に対して不満を露わにします。しかし中流層は、比較的うまくやろうという意識が働いていたようで、表面的には穏健な振る舞いをしていたようです。僕の想像では、上流層に対しては不満はあるけれどもある程度は世話になってるというか取引関係にあるということがあったり、平穏を崩したくないから事を起こさないという意識が働くのが中流層なのかなと思いました。本の中では保守的と書かれていました。
 決して裕福というわけでもなく、個人で生きていくことになったが故の不安や孤独感をもち、上流層に対する嫉妬や羨望もある中流層はどうしたのか。それは外部に敵意を向けるというよりも、内部にその負のエネルギーを向け、自己卑下をし、そして努力をしたということのようです。
 なぜそうなるのか最初は理解できなかったのですが何度か読み返すうちに次第にわかってきたような気がします。向けどころがわからない負のエネルギーをどこに向けるのかという問いは救済を受けるのはどういう者かという問いへと変換されて、その結論へ向けて紡がれていきます。すなわち、次のような教えが人々のこころに受け入れられていきます[P109]。

「自己の無力さと人間性の罪悪性を徹底的に承認し、かれの全生涯をその罪業の償いと考え、極度の自己卑下とたえまない努力によって、その疑いと不安とを克服することができると教えた。」

このような教えを受け入れていたので中流層の人々は、上流層に対しては嫌悪感を持ちながらも救済を受けるに値しない者たちであるという見方をしていたようです。他方で自分に対しては、自己卑下の精神を根底にもち努力にあたりました。努力できる人物であるということ自体が救済を受けられる人間であるという信条をもっていたということのようです。だから必死に努力し、それは「われわれの産業組織の発達にとっては、蒸気や電気に劣らず重要なものであった」[P102]と本の中では書かれています。
 これは、産業のエネルギー源にするために誰かがそのような思想感情を植え付けたということでは必ずしもなく、自由によって孤独や不安をもった人々のこころにこのような思想感情がはまったということなのだと理解しています。努力によって孤独感を拭えるのであればそれは一つのあり方なのかもしれませんが、それは欠乏に基づく欲求であると言え、心理学的には(生理学的にも?)心身の健康にとって良くないことであると考えられています。
 自由を求めるならば同時に生じる孤独や不安の問題に向き合う必要があるのだと思います。そしてそれは個の強さを追求するだけでは克服できないように感じます。なぜなら、個ではどんなに己を強く持ち守りを固めても世界の不確実性には対抗できないと感じるからです。また、最近『孤独の科学』という本を読んでいて感じるのは、ヒトは独りであると感じると不安で居ても立ってもいられなくなるようにできているということです。自由を目指すということは、個を尊重しながらも独りで生きるわけではないという一見矛盾する問題を解くことであるのだと思い始めました。

9月30日:読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『腸がすべて』
 食べ物には消化のスピードが3つあって、食べ合わせにより良くも悪くもなることが書いてありました。普段何気無く食べているものを少し意識するだけで腸も綺麗になり健康になるなら気になるところだけ、読んでみようかと思いました。

 対話では従順について、知らないうちに従順になっていてそれを疑問にも思わないようになっているのだなと考えました。何かおかしいのではと考える・感づくということ。自分の置かれている状況を客観視するのはなかなか難しそうだなと考えました。

10月1日:読みたい本を気ままに読む読書会

てらもっちさん『食農倫理学の長い旅: 〈食べる〉のどこに倫理はあるのか』ポール・B・トンプソン 他1名
自分の読んだ本について
食べる。という基本的な動作。欲。
自分は肉食に対し潜在的な罪を感じてきたと思う。それは肉食が生命を殺しているという人としての感覚。死は悲しみ、苦しみの対象であり、善ではなく悪である。という人間としての倫理の反映であることに今更ながら、気づいた。
この本には飢餓、肉食、貧困、飽食、遺伝子操作食品などのさまざまな問題に焦点を当てる。筆者は社会に現れる複雑な食の問題に対し単純な答えを出さない。多数の角度からの見解を見せて、自分自身の立場も複雑かつ中位の立場を描き出す。
 少しシンプルな回答が無いことに苛立ちを感じる。多分であるが、食というのは生きることに直結するシンプルな事柄であるため、その本質から迫るような答えが出しにくいのであろう。
 人間は肉を食べ、腸内ではフローラの腸内細菌が、吸収した食物の残渣物をたべて生きている。
 同様に生態系の中では、食べる。生きる死ぬの循環があり、そして生態系は生きている。
 肉食は、その中にある。
 鯨を食べることも、イルカを食べることも。草食も。昆虫食も。
 人の価値観の中で考えていては、答えが出せない時代になっているのだろう。
 卵を採取する鶏は、飢餓環境になると羽毛が生え変わることにより、寿命が延びるそうである。これは自然界では冬季に起こるサイクルではあるが、養鶏業界では残酷であるとして人工的な飢餓環境は作っていないそうだ。残酷でも飢餓をつくって寿命を延ばした方がいいのか、一生、卵を産ませ短命で屠殺するのがいいのか。
 実際の食にまつわる倫理課題というのは、生死というデジタルな問いではなく、中間的なところにある。

他の方の本について
鴨長明 方丈記 水木しげる
通信の数学的理論

日本の哲学について自然と人間を合として見る文化が特徴であることが話題になった。禅、空。

マンガ 鋼の錬金術師に出てくる 一は全、全は一なり。という言葉が引っかかった。ヘラクレイトスだったか。西洋科学、哲学の境界を作り、分けて考える考え方は、技術の発展を産んだが、複雑系やAI、行動経済学あたりから、物事をそのままに捉える見方に戻りつつある気もする。
 昔、自分と世界との境界を考え、爪切りで切られる爪は、いつまで自分なのか、水を飲んだ時、その水はいつから自分なのか、腸内細菌は自分の一部なのか考えた。答えはまだないが、考えただけることで自分という像はややはっきりしてる。
 多分、自分が話す言葉は自分なのだろう。

地震や火災、そして戦災さえも、無常の中に取り込み、日本は流れてきて、そして流れていくのだろう。

なんちゃって。

yuさん『方丈記』
 水木しげる著 マンガ古典文学で読みました。鴨長明の方丈の庵に水木さんが訪ねるところから始まります。800年も昔の天変地異や政治の乱れの話なのに何処か今に通じるなと思いました。がんばっても自然に逆らえない無常の話です。現代語訳もそのうちに読もうと思いました。

 「通信の数学的理論 」を読んでいる方がいて今のIT社会はこの作者の考えから始まった?昔の本なのに今も読み継がれるというのがいいと思いました。

10月2日:読みたい本を気ままに読む読書会

yuさん『省察』
 山田弘明訳で読みました。省察は第7まであり今日は第2を読みました。魂とは。物体とは。蜜蝋が例に出されるけど、「蜜蝋」って養蜂家でもないかぎり馴染みのあるものでないと重いけどその時代は例に出されるほどメジャーだったのかな?などど論旨とは関係ないように思えることを考えながら読みました。

 他の方はショーペンハウエルの解説書や子供哲学、私もよく動画を見ている樺沢先生の本など読んであり親しみが湧きました。子供哲学で当たり前の常識を疑うっていうのがデカルトにも通じるようなと思ったりしました。

亀岡葵子さん『フィンランド語は猫の言葉』
 私も普段読まない本が知れてよかったです。

うさじさん『岡潔 日本のこころ』
本日は、生と死に関する学びを深められたと思います。

「人が生まれ、生きて死んでいく中でどのような過程をたどるのか?」

それぞれの段階で、読書会を踏まえて学んだことをまとめてみました。

【生まれる】物事の順番が分かる→自他との境界線が明確になる→全体から個を認識する(自分とは何か?が分かってくる)→自然数1が分かる

【生きる】色んな価値観に触れる→学んだり比べたりする中で「自分とは何か?」「理想とは何か?」について悩む→他者とのつながりの中で、「自分を理解していく」「社会の中で自分の居場所を見つける」

【死ぬる】死に直面し、戸惑い、否定したりしながら→徐々に受容していく。
   医療で身体的苦痛を取り除くための服薬だけでは限界→
  「生きているうちにやり遂げたいこと」「人とのつながり」「宗教的・文化的な死の認識」などを含めて向き合うことで、死の受容までの過程がより穏やかになるのではないか。

色んな方が読まれた本とのつながりを考えるのも面白いなと感じました。

本日もありがとうございました。

tetsuさん『高架線』滝口悠生 著
滝口悠生さんの作品は初めて読みます。9月30日の読書会で参加者の方が読まれていた同著者の『楽器』という短編小説のお話がとても印象深く、その情景的な世界観を味わってみたいと思ったのがきっかけです。その作品が収録された本を図書館で取り寄せてもらっている間、著者初の長編小説である『高架線』を読み進めることにしました。

お聞きしていた通り、登場する人物の会話が「かぎかっこ」で閉じられていない文体が特徴的だと感じました。今のところ、物語の進行とともに語りの主体となる人物が移り変わっていくかたちの一人称小説なのですが、場面の描写や内的独白とは明確に区別されることなく登場人物のセリフが差し込まれます。すこし混乱しそうになるのですが、慣れるとこの手法の方が自然なのではないかと思えてきました。また、一人称で物語が進行する流れとは別に、その物語を話して聞かせている相手への語りに不意に変化するところも新鮮でした。

手法ばかりの感想になってしまいましたが、物語そのものもとても面白いです。うまく表現できないのがもどかしいのですが、この魅力はなんだろう…と反芻しながらゆっくりと楽しみたいと思います。

あと、フィンランドの話題から派生して、アキ・カウリスマキ監督の映画作品が有名というお話があり興味がそそられました。じっくりと自分の読書を楽しみつつ、世界を広げるきかっけに出会えることがこの読書会の魅力だとあらためて感じました。

よしださん『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム著/日高六郎訳
 
今日読んだところでは「量的な自由」と「質的な自由」というワードが印象的でした。
 量的な自由とは、個人を取り巻く束縛をどんどんと取り除いていくことをいいます。日本の方がイメージがつきやすいので日本を例にすると、江戸時代から明治維新を経て近現代に至るまでは量的な自由がどんどんと実現されてきたのではないかと思います。生まれながらの身分制度が解かれ、藩を出てはいけないという生きる場所の制約が解かれ、性別による参政権の違いが解かれ、、戦時中は束縛に逆戻りしたのだと思いますが、戦後は再び束縛が解かれる方向へ進んできているのだと思います。
 しかしそのような束縛を解くことは同時に、自分が何者なのか、どこに所属し誰と連帯しているのかが分からなくなるということも意味します。ほかにも、自分の生き方を自分で決めなければならないという個人課題も生まれました。これは孤独に結びついていきます。社会的な束縛を受けている時はそれが解かれることをひたすらに望む。そして実際にそれを解いていく。こうして得られるものを量的な自由とフロムは表現しているのだと思います。しかしそれは孤独を生み、孤独から逃れるためにその原因となっている自由から逃走する。
 だからといってフロムは自由であることを否定的に見ているわけではないのだと思います。量的な自由の追求では本当の意味での自由にはなれない。質的な自由を求めることが必要となってくる。では質的な自由とは何なのか。今日はそんなところで終わりました。
 僕のなかでは質的な自由とは、マズローをはじめとする心理学者がいう自己実現に近いものをイメージしています。ちなみにマズローのいう自己実現とは、自己中心というよりも自己にとっての課題や仕事(広い意味合いの仕事)中心な生き方であり、ピラミッドの上を目指すとか成功をおさめるとかそういう意味合いでもないと理解しています。フロムがどのような自由を善として考えているのか楽しみです。


 過去の読書感想はこちらに載せています。

読書会参加者に投稿いただいた読書の感想です(2022年10月-)。

 

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