参加者に任意でいただいた読書感想を掲載します。24日(水/午前)は2名、27日(土/午前)は3名、28日(日/午前)は3名、28日(日/夜)は5名でした(主催者含む)。
土曜日の「質問「 」について考える時間。」の質問はこちらでした。
地底王国について考えることはありますか
田中未知著『質問』(文藝春秋)
7月24日(水/午前):読みたい本を気ままに読む読書会
よしださん『自由論』ミル著/斉藤悦則訳
まだ序盤ですが、この本はミルが社会の様々な物事の、自由に関係することについて論じていくもののように思っています。
例えば、民主主義社会では物事を多数決で決めることがあり、その決め方を疑うことはあまりありません。しかし、多数決で決まっても少数の反対の者はいます。これをミルは「多数派の専制」だと言っています(P19)。専制とは、独断で思う通りに行うことを言い、独裁者による政治を専制政治などと言ったりします。つまり、少数派にとっては、独裁者が多数派になり変わっただけで、独断で行われている専制政治であることに変わりはないということです。
たぶんミルはこの先もこんな調子で、疑いなく正しいと思われている、これが自由な社会のあり方や決まり事なのだと思われていることを、一つ一つ取り上げて再考していきます。
読書会では、他の方の本の話のなかでアメリカの建国の話にもなりました。人は生まれながらに平等であると宣言した。しかし、そのとき奴隷はいたしその後も差別は残り続けた。その最中にいると気づかないかもしれないけど、おかしいことはある。だから誰もが疑わないことに疑いの目を持つことは当然にされた方がいいことなのだろうと思いました。
7月27日(土/午前):読みたい本を気ままに読む読書会
よしださん『自由論』ミル著/斉藤悦則訳
まだ第一章の「はじめに」ですが、いきなり主題の結論めいたことが書かれていました。それは、個人や集団が他の人間の行動に干渉することが正当化されるのはどういうときなのか、という問いに対するものです。その問いに対する応えは「ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる」(P30)と書かれていました。その一方で、その人のためになると思って干渉することは正当化されないということも同時に書かれています。つまり、例えば誰かが他の人に石を投げようとしていたらそれを止めるのは正当化されるけど、社会人はゴルフが出来た方が絶対にいいからと半ば無理やり打ちっぱなしに連れて行くみたいなことは正当化されないということです。あくまでもミルの厳格な議論のなかにおいてということですが。
しかしながら、そのあとに目を疑うような指摘もあります。それは、その正当化の適用範囲についてです。この論理の適用範囲は、未成熟な民族や未開社会には適用されないというのです。「改革の精神にあふれた統治者は、その目的を達成する手段がそれ以外になさそうなら、どんな手段を用いてもよいのである」(P31)とまで書かれています。これは子供に対しては教育として介入して良いというのと並列で書かれているので、未熟な社会には教育的な意味で介入してあげた方がいいと受け取れます。
ミルはイギリス生まれで、『自由論』は1859年に出版されたそうです。ですので、ミルの自由論はその頃のヨーロッパ諸国やアメリカにしか適用されないということなのでしょう。その頃は日本もまだ江戸時代ですから、日本もおそらくミルの自由論の適用範囲には入らない。未開社会から成熟した良い国とするために権力を行使して干渉しても良い対象であったのだろうと思いました。いつの時代のどんな哲学者も偏見や見落としはあるのだろうと思いました。あとの時代になって言えることではありますが。
7月28日(日/夜):読みたい本を気ままに読む読書会
yuさん『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス
1967年にアルゼンチンの出版社から刊行され日本では1972年発売されたようです。今年度文庫化されました。今日読んだところはアウレリャノ・ブエンディア大佐の死による喪とメメの卒業が重なったところです。メメは一人前のクラビコード奏者になり演奏をしました。 メメがでてきたので多分今第5世代?のブエンディア家の様子かなあと思いながらを読んでいるところです。
他の方はシベリア抑留やアダルトチルドレンなど社会問題がテーマの本を読んでありました。映画をみるきっかけにもなった気がしました。
過去の読書感想はこちらに載せています。
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