2021.02.06

選択を委ねること。

選択できることと自由に生きることは、セットであるように感じられます。しかしながら選択肢が多すぎたり、選択を全て自分で行わなければならなかったりすると、不自由さのようなものを逆に感じることはないでしょうか。「選択」について少し考えてみました。

(文量:新書の約11ページ分、約5500字)

 選択できる社会は良い社会かと聞かれたら、良い社会であると直感的には思います。住む場所や仕事や結婚に関すること、あるいはもっと身近な食べるものや着るもの、旅行先など、自由に選択できるほうが充実した人生を送れそうです。ただ一方で、「なんでも自由に」と言われると困ってしまうことがあります。多くの人が経験する例で言うと、就職活動などは困ってしまうことの一つの例ではないでしょうか。調べれば調べるほど業界や企業、職種などが出てきます。ひと昔前までは応募できる出身学部に制約があったり、学校の推薦がないと入れないところもあったようですが、近年ではそのような制約もなくなってきているはずです。このような選択の実際を思い返すと、選択の自由とは、手放しに喜んでいいものなのか疑問に思えてきます。今回は、選択について少しだけ考えてみたいと思います。


選択できるという認識を持てること

 「選択できることは人にとって良いことなのか?」という問いに対しては、「良いことだ」という答えが方向性としては正しいようです。『選択の科学』[1]の著者であるコロンビア大学ビジネススクール教授のシーナ・アイエンガーは、その著書の中で選択は生きることそのものに大きな影響を与えることを示しています。
 精神生物学者のカート・リクターらは、ラットをつかったある実験を行いました[1,P20]。リクターらは、内壁が滑りやすくよじ登ることができないビンにラットを入れました。そしてそのビンを水で満たし、ただ浮かんでいるだけの状態にならないように上から水を噴射しました。つまりラットを、溺れないように常に泳ぎ続けなければいけない状況においたのです。ラットの行動には個体差がありました。平均して60時間泳ぎ続けるラットもいれば、ほとんど時間をおかずに泳ぐのを諦めて溺れてしまったラットもいたのです。
 次に、条件を変えて実験を行いました。ラットを水入りのビンに入れた後で、取り出してゲージに戻すというプロセスを、何度か繰り返したのです。このプロセスによってラットは、自分で泳ぎ続けるなどの何らかの行為をとっていれば、助かる可能性があることを知ることになります。その後、先の実験と同じようにラットをビンに入れたまま、泳ぎ続けなければいけない状況にしました。すると、全てのラットが60時間を超えて泳ぎ続けたのです。
 このような結果の違いをアイエンガーは、「実際に状況をコントロールできるかどうかよりも、コントロールできるという認識の方が、はるかに大きな意味を持っていた」[1,P24]と記しています。他にもイヌなどをつかった実験も紹介されていますが、同様に自分で状況をコントロールできるという認識を持たされたイヌは苦痛を回避する行動をとりますが、そうではないイヌは諦めてしまう様子が示されています。アイエンガーは「選択」とは、「自分自身や、自分の置かれた環境を、自分で変える能力のことだ」と言います。選択をできるということは、生きる気力に影響を及ぼし、ひいては生きることそのものに影響してくることのようなのです。

 ラットやイヌの結果だけを知って人間にも適用できると解釈するのは、少し大雑把すぎる気もします。『選択の科学』には、人間で行った実験も紹介されていました。もちろん肉体的苦痛を伴うような実験ではありませんが、選択に対して深刻に受け止めざるを得なくなるような結果が示されていました。
 心理学者のエレン・ランガーとジュディス・ローディンは、高齢者介護施設で、入居者の自己決定権を操作する実験を行いました[1,P36]。片方のグループAの入居者には、鉢植えは配るが世話は看護師が行い、映画は観られるが曜日はあらかじめ決められており、またほかの階の入居者を訪ねたり、読書・ラジオ・テレビを楽しむことは許されていると説明しました。そしてもう片方のグループBの入居者には、鉢植えの世話は自分で世話をするように伝え、映画を観る曜日は木曜や金曜から選べて、ほかの入居者の訪問や読書・ラジオ・テレビの時間も好きなように過ごしていいと説明しました。グループAへのメッセージは、入居者のみなさんが幸せに過ごせるように看護師が努力してお世話をするというものであり、グループBへのメッセージは、みなさんの人生なのでどんな人生にするかはみなさん次第です、というものでした。
 3週間後の結果は、「選択権なし」のグループAでは入居者の70%以上に身体的な健康状態の悪化が見られ、それに対して「選択権あり」のグループBでは90%以上の入居者の健康状態が改善されました。このような結果を比較すると、グループAとBには大きな差があるように思えますが、実際に提供されていたものは鉢植え・映画・訪問・読書・ラジオ・テレビと同じでした。ただ鉢植えの世話や映画を観る曜日の選択、またはどんな過ごし方を奨励しているのかという伝え方にささいな違いがあるだけでした。それでも、健康に与える影響に顕著な違いが生じたのです。

 人間や動物にとって選択できるかどうか、あるいは選択できるという認識を持てるかどうかは、生存そのものに影響を及ぼす重要な問題のようなのです。
 しかし、選択できることが一様に良いことかというと、そうでもなさそうなのです。選択肢が多すぎることや、なんでも自分で選択できること・することは、必ずしも幸福にはつながらないようなのです。

選択による不満足や苦悩

 シーナ・アイエンガーが行った実験の中に、豊富な選択肢が必ずしも顧客の満足につながらないことを示した「ジャムの実験」があります[1,P226]。
 アメリカ・サンフランシスコに、食料品を豊富に取り揃え、調理器具もレストランも料理教室も併設されているスーパーがありました。そこに試食コーナーを設けて、ジャムの実験を行いました。実験は2つのパターンで時間を分けて行われました。パターンAでは、全28種のジャムのうち24種を試食できるようにしました。パターンBでは、Aよりもかなり少ない6種だけ用意しました。試食をした後に、1ドル割引でジャムを買える1週間限定のクーポンを配りました。試食コーナーのすぐ近くでジャムを売っていたので、試食をした客は気に入ったジャムがあればすぐに買うことができます。
 結果は、試食できるジャムが多かったパターンAの試食コーナーに立ち寄ったのは買い物客全体の60%でした。それに対して、6種類と少ないパターンBでは40%しか立ち寄らなかったのです。やはり豊富にジャムが並んでいる方が、客の関心を惹きやすいようです。
 しかしながら実験はここでは終わりません。試食後、実際にジャムを買った人も調べていました。するとその結果は、6種類のパターンBでは30%も買っていったにも関わらず、24種類のパターンAではわずか3%しか買わなかったのです。立ち寄る人と合算しても、パターンAの購入率は1.8%(60%×3%)であったのに対して、パターンBは12%(40%×30%)となり、種類が6と少ない方が6倍以上も購入確率が高くなったのです。
 試食後に客が向かうジャム売り場には、客を観察する研究助手が張り付いていました。観察によると、24種類用意したパターンAでは戸惑った様子でジャムを次々と手にとっては調べ、長い時には10分も迷った挙げ句、多くは手ぶらで去って行ったのだそうです。それに対して6種類しか用意しなかったパターンBでは、自分の好みのジャムを確信したかのように颯爽とジャムを手に取り、レジに向かったのだと言います。多すぎる選択肢は人を困惑させ、結局選択しないという選択をさせてしまうこともあるようです。

 日常のささいな選択だけではなく、人生における大きな選択について、考えさせられる問題と調査事例が示されていました。
 早産で生まれて危篤状態の赤ちゃんにこのまま延命を続けても、喋ることも歩くことも意思疎通することもできないとした場合、その選択を誰がどのように行うのかという問題です[1,P264]。『選択の科学』の中では、医師と患者の関係や倫理観の歴史などと共に、異なるプロセスで選択を行った親のその後について記されていました。
 生命倫理学者のクリスティーナ・オルファリとエリーサ・ゴードンは、幼な子を亡くすという経験をしたアメリカとフランスの親たちを対象に面接調査を行いました[1,P277]。延命治療に際してアメリカでは、親が治療中止の決定を下さなければならないのに対して、フランスでは親がはっきりと異議を申し立てない限りは医師が決定を下すのが通例となっていると言います。つまり、選択の自由度という意味ではアメリカの方が高いということになります。しかしながら、選択ができる、自分で選択をするということが人の幸福に必ずしもつながらないということが、この調査から見えてきます。
 医師に決定を委ねたフランスでは、「こうするしかなかった」という確信を口にする親が多く、子どもとの短かったけれども貴重な思い出を語ったり、「運命」という言葉を口にする人もいたと言います。誰一人として自分や医師を責めるようなことを言う人はおらず、また決定を下す立場が自分だったなら、それはあまりにも辛いことだっただろうと口にしました。それに対して自分で決定を下したアメリカでは、「あの時ああしていたら」という後悔を口にする親が多く、医師や看護師に決断を急かされたと言う人もいたそうです。もちろん現代の医療現場では、患者の状況と、治療の方法やその生存可能性、また生存した場合に起こりうる障害などを丁寧に説明し、質問にもきちんと答えることが決まりになっています。それでも自分を責めながら誰かのせいにもしてしまいそうになるほどの後悔や混乱を、自己選択はもたらしてしまうことがあるのです。

選択を委ねる技術

 選択できることは良いことなのでしょうか。このような問いに対しては、ラットや高齢者介護施設、あるいは日常的な体験を振り返ってみても、「良いことだ」という回答になりそうです。しかし、その後に紹介した実験や調査事例で見てきたように、選択の自由度が高すぎることや、なんでも自己選択であることは幸福には必ずしもつながらなそうです。

 選択の幅が狭いと感じられる社会があります。江戸時代には生まれた時点で職業や身分が決められていましたし、その垣根を超えて結婚をすることも困難でした。家督は長男が継ぐものであり、また藩を出れば脱藩と言われました。他にも、日本では実感しにくいですが、宗教的な規律が厳しい地域もあり、それに生活や生き方を委ねているところもあります。それらは社会を維持するためのシステムであるとも言えるのでしょうが、個人にとっても生きる指針になるものであり、自由主義な社会に生きる人が思うほどには不自由ではない側面もあるのかもしれません。
 なんでも自分で選択できるとなると、より良い選択をしようと時には心を踊らせ、しかし時には腐心することになります。そして結果は選択した人の責任となり、「それはあなたがそういう選択をしたから」という過度な自己責任にもなりかねないように思われます。どこかで他責的である方がいいこともあるのではないでしょうか。ただ、他責の先を人に求めてはその人の責任になるので、何らかのシステムに委ねてしまうがいいのかもしれません。それは社会的・宗教的な規律であるかもしれませんし、先に紹介した延命治療の例ではフランスのような医師が決定するという判断プロセスなのかもしれません。医師が判断はしましたが、親が医師を責めるようなことはありませんでした。
 これから先は医療の発達によって何歳まで生きるかということも選択できるようになりそうです。現時点でも延命治療を継続するかどうかの選択はありますが、治せる病がより増えていき、不調になった臓器や四肢を交換できるようになった時に、生死に対してより選択的になることでしょう。生物にとって究極の、生死に対してまで選択できるようになるかもしれないのです。
 このような選択の自由が拡がりすぎた社会においては、選択を委ねるという考えが必要になってくるのかもしれません。明確なシステムにだけではなく場の状況や規律に委ねることや、感覚として「これは運命だ」と感じたら委ねてしまうようなことも必要なのかもしれません。選択に縛られすぎるよりは、その方が自由であると言えるのではないかと思ったりもしました。もちろん「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、できるだけの努力はしてから運命に委ねた方がいいのだとは思います。しかしどこかで、人智の及ばないことがあるという認識や、今の自分には荷が重すぎるというある種の選択肢を持っておき、なにかに委ねる時も必要になってくるのではないでしょうか。「選択」について考えた時に、これからは選択を委ねる技術のようなものも必要になってくるのではないかと思いました。選択に囚われすぎることなく、選択をどこかで委ねてしまうことも、自由な心持ちで生きるためには必要なのではないかと思いました。


〈参考図書〉
1.シーナ・アイエンガー著 / 櫻井祐子訳『選択の科学』(文藝春秋)

(吉田)

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