先日の読書会では、本の話から逸それて逸れて逸れていきました。
印象に残っている逸れた先のポイントとしては、「この方が良い」と常識として思っていることがあるけど、それはどの程度人や世代を越えた普遍性があるのだろうかという疑問です。
例えば「主体性をもって生きられていた方が充実感があって良い」と思っていたとします。Amazonにレコメンドされるがままに買うのはAmazonに買い物を支配されているのと同じだから、それは良くないことだなどということです。しかし人によっては、自分にとってのオススメがレコメンドされているだけだから楽で良いではないか、と思うかもしれません。買い物に対して仰々しいかもしれませんが、実は自分の行為が他によって誘導されていると知った時、それは主体性を奪われているのだからダメだと思う人と、別に楽だから良いと思う人とがいるということです。
ほかにも読書会ではAIを絡めた話もされました。仮にAIがアウトプットを考えてくれて自分がそれを横流しするだけで仕事が回ったとしても、そこに自分は介在していないから結局充実感も得られないのではないかという話です。仕事に限らず、少し前に大学のレポートをAIに代筆させることが問題になりましたが、仮にそうしたとしても自分で理解して自分で考えられるようにならないから、力が身につかないだけでなく楽しいと思えることが減るのではないかとも考えられます。少し言い換えると、多少なりとも苦労をして何かを身につけてその身につけた何かで社会との関わりを持てることが良い人生だしその方が楽しいはずだ、みたいな価値観です。
しかし、これも人によって世代によって違うかもしれません。そういう教育を受けたり、そうせざるをえなくてそうしてきたからそれを肯定的に見たりしているだけかもしれないからです。主体的に生きることや自分で考えることが良いと教えられてきたり、そうせざるをえない環境で生きてきて結果悪くない今があればそれが良いことだと思うかもしれません。
ただ、そうではない生き方もあるし、そうではない生き方もできるかもしれません。そんなことを思ったとき、たとえば自分の子供や後輩などに対してどのように接することが適切なのか。自分が正しいと思っていることを身近な他者が行っていないとき、あるいは自分がダメだと思っていることを行っているとき、自分が正しいと思う方向へ修正しようとします。でも、それは一つの正解かもしれないけど、また別の正解もあるのかもしれない。そんなことが脳裏をよぎると、さまざまな判断や行為が揺らぎます。
だからそんなこと考え始めない方がいいのだけれど、自分とは異なる他者と生きていくということはその揺らぎがほぼ確実に伴うということを意味するのかもしれません。そして、その揺らぎが落ち着いたとき、もしかしたら自分のなかの普遍性が一回り大きくなっているということなのかもしれません。
普遍性については、一つは学問の力を頼るのがいいように思います。例えば社会心理学などで、異なる国や民族でも公平性を求めるこころは共通している、しかしこういう点で異なるみたいな研究結果が示されたりします。人間の普遍性や違いの程度の理解が進みます。あるいは社会に関しても、何でも良いわけではなく明らかに避けたい結末があるみたいなことは、歴史などでも示されます。つまり、ベストな状態というのは結論付けにくいのかもしれませんが、絶対避けたい結末とそこに至る過程みたいなことは、ある程度の普遍性をもって知ることができるのかもしれません。
ただそこまで厳密な普遍性を求めなくても、二者間の問題であれば対話ができれば済むのかもしれません。もしかしたらいつか第三者が現れて全然違う視点が持ち込まれるかもしれませんが、その第三者が現れるまでの二人の世界では、そこで展開された対話にもとづいて関係性がうまくいけばいいような気もします。
しかしそれでも相手の話を聞こうと思うには、つまり対話が成立するには、相手の理があるのかもしれないと思っていることが必要なのだと思います。外面的には話を聞いているようでも「自分の方が正しいけど、とりあえず聞いてやるか」と思っていては、相手に見透かされてしまい対話はできないのだと思います。小さいけど具体的な世界の普遍性を対話によって求めるとき、今の自分の認識が絶対的・普遍的ではないという前提をもっていることが必要なのだと思います。そしてその前提は、いろいろと学ぶことで身に付くようにも思います。学べば学ぶほど分からないことが出てきてもやもやする。そのもやもやというのは、自分の普遍性や絶対性みたいなものが揺らいでいる状態であり、爽快ではないけど他に対して開かれた状態であるとも言えるのかもしれません。
(よしだ)
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